漢文として有名な「出仕の表」も、「臣亮言」と始まっています。しかし、これは、臣下である諸葛孔明が帝の劉禅に上奏したものなのですから、自分のことをへりくだって「亮」としてもいいのだと思います。
けれども、この「梅花無尽蔵」は太田資康が書いたわけではありません。太田道灌に招かれ、江戸城に滞在していたという、作者万里集九にとって「資康」はどのように見えていたのでしょう。
失礼ながら、「資康」は、道灌公の生前にきちんと嫡男として認められていたのでしょうか。疑問を持ちます。
だってね、
「道灌之実子無之ニ付而図書助ト申而甥ニ候を取立」(」(道灌の実子これなくに付いて図書助と申して甥に候を取り立て)と道灌公は甥の「図書助」を後継者として取り立てたのです。
「図書助」が道灌公の甥で「後継者」であったことは、誰もが認めていることです。
また「図書助」が亡くなってからは「(円覚寺150世である)叔悦之兄 是も甥に候故、家督を被致与奪」(叔悦の兄、これも甥に候故、家督を与奪致され)と、別な甥に家督相続があったことが記録されています。
そして「院号道号戒名ヲハ叔悦和尚被付申候」(院号道号戒名をば叔悦和尚付けられ申し候)と、太田資家には弟であり円覚寺150世からいただいた「道号も戒名」もあるのです。「信濃守」という官名もあります。
それに比べると、失礼ながら「何もない」のは、どうしてなのだろうと思えるのです。
太田資康という嫡男がいるのなら、なぜ甥であるとされる太田資家を太田道灌の養嗣子としなければならないのか分かりません。
だから、この「太田資武状」を大事な箇所で引用しながら「にわかには信用しえない」ともうっかり書いてしまう(「江戸太田氏と岩付太田氏」)若き黒田氏の気持ちも何となく分かります。東京の北区史を編集されていたのはそのころでしょうか。
非業の死を遂げた太田道灌。予想もしない最後でした。その家督継承はスムーズだったのでしょうか。実子(庶子?)、養子それぞれに、「自分こそ後継者」という強い思いがあったのではないでしょうか。