それまで、岩付太田氏は道灌の養子太田道永資家から始まるとされていて、資家は道真公・道灌公より岩槻城を継承したとされていました。
今でもそうなんじゃないかと思っています。
しかし、いつの間にか岩槻城を築城したのは、熊谷市成田の地名を名乗るとされている忍城主の「成田氏」で、道灌公は成田氏から岩槻城を奪ったということにもなっているようです。
ここのあたりが、正直よく理解できないのです。
「自耕斎詩軸并序」という詩文に、「岩付左衛門丞顕泰」という人の父「金吾法諱正等」が「築一城」(一城を築く)と書かれていて、この「顕泰」が同時代の「成田顕泰」の名前と同じだから。
というのが「成田氏築城説」の根拠です。
しかし、
岩付左衛門丞顕泰の「顕泰」とは、実名ではないのではないか?
という疑問を持っています。
そんな中、「梅花無尽蔵」(五山文学新集六巻)では、「資康」と太田資康が実名で出てきて、父は「太田二千石静勝道灌公」と実名ではないということが分かりました。(北区史資料編古代中世2より)
あら、どうしよう。と思いましたが、なにかそこに、この問題の複雑さを感じもしたのです。
だって、太田資康には何の「号」も無いのですか?官名も無いのですか?道灌の嫡子なのに?不思議な感じです。
それは、確か目下の人にするような、失礼なことだったと思うのですが…。息子だから、目下といえばそうですが。
それでも、何かを感じます。哀しさ、と言ったら言い過ぎかもしれませんが。お父さんの「春苑道灌静勝公」とされるきらびやかさと比べて「資康」という実名のみだということが。やはりアンバランスです。
太田資康は、「太田家譜略説」という本には、「法忍齋公」とされ、「源六郎左衛門日恵」とされています。「道源日恵」としている系図もあるようです(黒田基樹氏「江戸太田氏と岩付太田氏」)
なぜ、太田家と特に関係のない「日号」なのでしょう。また、なぜそれらは、詩文に盛り込まれなかったのでしょうか。
逆に、謙遜の印として「実名」を言うものなのでしょうか?(冷や汗)
この話は、続きます。