非業の死を遂げた太田道灌。その家督継承はスムーズだったのでしょうか。実子(庶子?)、養子それぞれに、「自分こそ後継者」という強い思いがあったのではないでしょうか。
道灌の後継を「太田資家」とみる、この「太田資武状」はもとはといえば「江戸太田氏」側からの依頼で提出したものです。
しかし、本当なら「江戸太田」には、「資武」以上の「口伝」が無ければおかしいのです。
◇なぜ「太田資武」から話を聞く必要があったのでしょう。◇
「江戸太田」の記録はこの資武の証言を基にして作成されているのです。「資家」が太田道灌の後継者でないなら、その子孫である太田資武から話を聞く必要はありません。
太田道真から太田道灌への継承を疑う人はいないし、太田資頼から太田資正兄、太田資正への継承を疑う人もいません。混乱しているのは、太田道灌の次世代だけです。なぜなのでしょう。
山之内上杉の家宰の地位をめぐって「長尾景春の乱」がおこったように、道灌公の死後「家宰の地位の継承」「家の後継」それぞれの立場での主張・争いがあったということはないでしょうか。
これは、今でもよくあることです。急に亡くなったお父さんの事業の後継を誰がするのか、と。それぞれに言い分があることでしょう。
あるおばさんが言っていました。
「門構えの大きい家ほど、悩みも深い」と。
その通りだと思うのです。
大体、そうはいっても、円覚寺150世として確実に実在し、絶対に道灌公の家族である淑悦禅師にしても系図には「道灌弟」と書いてあったり「道灌甥」と書いてあったりします。真実を確定することは容易ではないのです。
ここでも、「比定は慎重に」と言っておきたいと思います。
しかし、かつては、「河越太田」なんて聞いたこともなく、実は「岩付太田」こそが太田道灌直系であるということが心ある埼玉県民の常識でした。
もちろん、資武の父、太田資正もまたそう思っていたであろうことは言うまでもありません。
その事実が、現代の「太田領」に生きるわたしに力を与えてくれます。