岩槻城築城の謎② | ゆうゆうねこの感想ブログ

ゆうゆうねこの感想ブログ

「会計ねこ子の感想ブログ」から
ゆうゆうねこの感想ブログとなりました。
内容は、本などの感想です~~

岩槻城を築城したのは誰か?

 

成田正等!

 

ブブー!

 

残念でした。答えは「大工さん」です!!

 

賢明な小学生なら、そう答えることでしょう。

 

※※※

 

(ふざけていてすみません、以下大幅に書き換えました)

 

なぜ成田氏が築城したのかと言えば、その証拠とされる「自耕斎詩軸并序」という詩文に「岩付左衛門丞顕泰公父金吾、法諱正等」とあり、「築一城」とあるからだというのです。この時代、自らを「顕泰」と名乗ったのは成田顕泰のみだから、というのがその理由です。

 

しかし、文芸作品である「詩文」に「忌み名」とされ、避けられている依頼者の「実名」を載せるでしょうか。

 

それが今の私の疑問です。

 

この詩文の載っている「信濃史料」を初めて紹介した論文「古河公方足利氏と禅宗寺院―旧利根川下流域を中心にー」(「葦の道」2P73)の中で、足利政氏の書状の中に「仍慈恩寺之事、高基方へ以下総一筆遣候」とあることを取り上げています。

 

そして、この「下総守」という人物が岩槻の慈恩寺に関与していた事、「下総守」は「当該時期において受領名下総守を名のる人物といえば、成田顕泰をおいてほかにはない」としています。

 

けれども、ここに、脚注18として、「関東禅林詩文等抄録」の中にある「自耕斎詩軸并序」が紹介されていますが、ここでも「可能性」の言及がされているだけです。この論文をもって岩槻城が成田氏の築城だとされたとすることには疑問が残ります。

 
いつも書いていることですが、このブログは自分の感想を忘備録として書いています。ときどき変なことも書いていますが、自分で気づき、なおしています。
 
まだまだ何かが隠されているのではないかと思えるこの岩槻城問題です。
 
空想先行の私ですが、又挑んでいこうと思っています。