「信濃史料」には「武蔵岩槻正等、ソノ所居ノ齋ノ圖ヲ晝カシメ」「相模禪興寺名月院塔主英璵玉隠、ソノ子顕泰ノ請ニ應ジテ、ソノ詩晝軸ニ序ス」という記述があります。おそらく、専門家が「信頼できる史料」としているのは詩文そのものではなく、この部分なのだと思うのですが、どうでしょうか。
武蔵に「岩槻正等」という人がいて、その「所居ノ齋ノ圖ヲ晝書カシメ」た、と。この「所居ノ齋ノ圖ヲ晝カシメ」が詩文本文の「築一城」に当たる、ということなのではないでしょうか。
そういう理解であれば、「成田」とは一言も書かれていませんが、それまで言われていたように「太田道真・道灌築城」ではないととらえることができます。そして「その子顕泰」が同時代の「成田顕泰」なのですから、「成田氏築城」を連想してしまっても仕方がありません。
しかし、そうだとしても「岩槻」と書かれている点で、この記述は江戸時代以降に書かれたものであろうということも考えられます。
冷静に考えて「顕泰だから絶対に成田顕泰」と比定するということは、やはり軽率すぎたと言えないでしょうか。ネット上の指摘ですが、Wifujishin様もお書きになっているように、本文も含めてこの文章に「成田」とは一言も書かれていないのです。ましてや、それをもとに「成田正等という人物が存在し、その人が岩付城を築城」とまで言ってしまってよかったのでしょうか。
もちろん可能性について言うことは自由です。ただ、「可能性」について言っていただけのことが、まるで既成事実のようにとらえられるようになってきてはいないでしょうか。そこが心配なのです。
さいたま市岩槻区にある岩槻城。岩槻市時代、市役所前にあった太田道灌像はもうありません。
これでよかったのでしょうか。
「専門家」による比定は慎重にしてほしい。
これを誰もが願っています。