「自分こそ太田道灌嫡流7代目である」と主張する岩付太田末裔の太田尹資は、やがて太田資家開基の川島養竹院に住み着きます。道灌の陣屋はここにあったのです。
どんなに帰りたくても主家に仕えていたため、梶原政景も資武も旧太田領に帰ることはできませんでした。資武はどれほど岩付(岩槻)城に行きたかったでしょうか。養竹院の資家に手を合わせたかったでしょうか。それともそんなことはなかったのでしょうか。
今年、太田資武の遺骨が発見されました。それは、土に埋葬されてはいなかったのです。
「いつかは岩槻に帰る」
資武はそう思ってはいなかったでしょうか。
享保16年、太田尹資が祖先の菩提寺である養竹院で息を引き取ってから15年後、新田十六騎の末裔、あの、郷士高山彦九郎が群馬に誕生します。
そして高山彦九郎もまた、旅に出るのです。前野良沢とか林子平とか上杉鷹山とか数知れぬ人たちに出会って、自分の思い(尊王思想)を語っていくのです。
この彦九郎の旅は、吉田松陰ら幕末の志士に大きな影響を与えますが、郷士太田尹資の旅も、その先駆けの一つと言ったら言い過ぎでしょうか。
そして江戸幕府はついに崩壊するのです。