日経が4万円を超えGOLDも上昇しているね。
そして円安も続いている。
この状態が長引くと考えているプロの投資家はいない。
結局経済クラッシュを直接呼び込むのは思考が停止している層といったとこだろうか。
もう何が起こってるのかお分かりだと思うが、既にゴーサインを出せる状況になっている。
もしわたしに作戦の発動権限があるのなら明日にでも作戦を開始するだろう。
しかし量子は慈悲深い。
突然職を失い路頭に迷う人をなるべく出さないようにしているのだろう。
肝心な理由はまだ他にあるのだがHWの計画に水を差してはならないので「それは日本だけでなく海外も含めた事だよ」とだけ言っておく。
まあこれからの数か月間は面白い展開になる。
ほんとなら去年の今頃には起こっていたのになぁ・・ などと嘆いてもいても仕方がないね。
Xデーまで一日一日と近づいて来ているわけだから「目線を未来へ」が正しいと思う。
ところで皆さんは田辺朔朗という人物をご存じだろうか?
田辺朔朗 1861年~1944
彼は琵琶湖疎水を作ったエンジニアである。
(琵琶湖疎水とは琵琶湖から京都に人工的に引いた川)
京都は昔から水が潤沢ではないので産業の発展には不向きだったことを知る人は少ないのではないだろうか。
時の様々な将軍も琵琶湖疎水を計画したが技術と資金不足により断念せざるを得なかった。
田辺朔朗は江戸の武家の生まれであるが、田辺家は明治新政府により土地と家屋を没収され極貧の生活をしていた。
父親は早くに病死、武家の妻だった母は元奉公人の元で下働きをしながら女手一つで家族の生活を支え朔朗の学費を稼いだ。
当時の京都は幕末の争乱と首都移転のため人口は激減し街は廃れていた。
そこで当時の京都府知事であった北垣国道は京都復興のためには産業の発展が急務だと考えていた。
農業、電力、物流、産業、の発展には潤沢な水が必須である。
そこで琵琶湖疎水計画が再び持ち上がったのわけだが、なかなか良い方法が見つからず思案していたところ田辺朔朗の論文が北垣の目に留まり面会を強く望み朔朗がこれに応じた。
100年後の人々の生活を熱い志で語る朔朗に北垣は感銘を受け意気投合し二人はタッグを組み琵琶湖疎水計画が始まった。
そして5年後、さまざまなトラブルを乗り越えながら琵琶湖疎水計画は関係者全員の熱意と朔朗の工学知識によって見事完成した。
現在のような京都があるのは彼らの功績と言っても間違いではないだろう。
”100年後のために行動する”
このワードはなんだか胸が熱くなる。
ネイティブアメリカンや南海のサモアで暮らす部族にはこのような言葉がある。
「大いなる大地は子孫からの借り物である」と。
山の斜面一面を太陽光パネルで覆ってしまったら未来にどのような影響をもたらすだろうか。
SDGSを挨拶代わりに謳っている阿呆企業に聞いたらどのように答えるのだろう。
小泉純一郎はじめ日本会議メンバーの利権のためですなんて言えないだろうな。
もうすぐ奪われた200年を取り返す時がやって来るだろう。
それがゆっくり訪れるのか稲光のように急激に訪れるのかは分からない。
それを選択するのは人類の集合意識だからである。
個人的には稲光を望むが100年後の日本を想いながら静観する。
最後までお読み下さりありがとうございました。