あるいは、それは元は「フランス語には不可能と言う言葉は無い」と言うことだったとか。いずれにしてもそれは、当時のフランス軍の勢いの良さを物語るに過ぎない言葉だったのであろう。そしてその後、そのフランス軍とナポレオンはどうなったのか。

 私は釈尊の教えを受けてのことであり、ナポレオンの趣意とは次元が異なるが、そんなナポレオンの言葉に対して、「この世は何でも無い」(この世では何かが成り立つと言うことは断じて無い)と断言したい。

 何故なら、何かが成り立つ(可能)と言うことは、それは崩れると言うことに他成らないからである。

 

 この物の見方の違いの背景には、一般的には東洋と西洋の思想・哲学の根本的な違いがあると言うことでもあろう。

 東洋のそれは只自然の真理によるのに対して、西洋のそれは人間の欲望・願望によって編み出されたチエだと言うことである。勿論、少し踏み込めば簡単には断じられないことに成ってややこしくなるがである。

 ただ、ナポレオンの言葉はいかにもフランス人の言葉らしいと言うか、西洋人らしい言葉だと言う感じがする。そのお国柄と言うか、群雄割拠の大陸においては避けられなかった必然的な伝統文化と言うこともあり、かつ、それは人間の我執煩悩そのものでもあるから、善悪は別としてそのような文化を改廃するのは不可能に近いほど難しいことかもしれない。それがいわゆる「欧米の精神文化の基本」だと言うことはその現実からも否定できまい。

 日本も1590年に秀吉による全国統一が成って後、島国としての利を生かしての江戸時代以降、幕府の鎖国政策によってこそ仏教・儒教・古典神道・武士道等による精神文化が重んじられて日本国らしさが醸成されていったのであるが、全国統一の成る前は島国ではありながら、仏教・儒教等の理解も不十分でもあり、むしろこれらが「厭離穢土欣求浄土」等の旗に見られるように、戦意を盛り上げるための群雄割拠の内乱に誤用されたことさえあり、とても今日言われるような日本らしい精神文化はまだまだ成り立ってはいなかったのである。

 そして全国統一が成り、300年近くの徳川幕府の統治によって聖徳太子の仏教や自然神道、儒教、武士道等が人間としての道として重んじられて学ばれ、研究されて平和な国家社会の建設維持に生かされ、我執煩悩による非違・犯罪は当然厳しく規制されつつもそんな中で如何にも人間らしい庶民文化も広がって、徒な救い難い対外的な戦争は避けられ、国民は幕府によって守られていたのである。

 そして開国を余儀なくされて軍国主義を経て、戦後の「自由民主主義国家」と成って80年を経過して今日と言うことであるが、さてここで、日本国民はこれからどんな国家社会であろうとするのであろうか。

 「自由民主主義」であるから、それは当然のこととして国民各自の意志・思想が重んじられるはずである。勿論、公序良俗に反しない限りのおいては言うまでも無いが。

 私はこのことが重んじられ、厳守される限りにおいては、それは好ましい国家社会の在り方だと思っている。

 だが、「自由民主主義」の不都合さと言うか、恐ろしさと言うか、それは国民の多数意見だと言うことであれば憲法も人権もひっくりかえせるし、何時でも「生き物人間か餓鬼の国」と成れると言うことである。

 現に、先進国のすべて、とりわけ有力な国々はみなすべてその「生き物人間か餓鬼かの国」と言わねばなるまいことはご覧の通りである。

 そして由々しきは、あろうことかあるまいことか、世界に誇れる唯一の平和憲法と言われる「日本国憲法(第九条)」に手が加えられそうだと言うことである。

 それが成り立てば、まさに日本人もご多分に漏れず「生き物人間か餓鬼か」の民族なのだと言うことの証と成ろう。

 それは聖徳太子によって設定された仏教の精神に基づく「日本国の在り方」を日本国民の精神とすることが出来ず、それを一時の「付焼刃」で終わらせるとするならば、例えば日本国民は日本の誇りである「日本刀」を、自ら「なまくら刀」にしてしまおうとしているのだと言ったらいいであろうか。

 仏教は、「生き物人間か餓鬼か」と言った無明・無知なチエ・根性で物・カネ・軍事力と言うような「なまくら刀」か「諸刃の剣」かと言った武器で相手を叩いて自分たちも同様に傷つくと言う愚劣極まりない餓鬼根性での煩悩合戦では無く、「無空」なる「何でも無い」一切の事象を捨て超えて普遍的真実・真理・自然の法と共に在ろうとする無条件絶対の安穏と平和を「智慧・信心の真剣」でわが迷いの心(我執煩悩)を断ち切る(無効化する)道の教えなのである。

 勿論、「人間も生き物だから…」という発想しか出来ない無縁は「生き物人間か餓鬼か」の道を行く他はあるまい。それもこの世の普遍的真実・真理・自然の法による道であることに変わりは無い。ただそれは、迷妄・苦悩・地獄道としての道と成ることは避けようが無いのだが、それが面白くてたまらず?、未だにミサイルや関税や原油等々を武器にして争い戦っているのが大国のすがたであること、ごらんの通り。それは「生き物人間か餓鬼か」と呼ぶ他はあるまい。

 ナポレオンもその一人(餓鬼大将)だったと言うことに成ろうか。そして今日ではトランプか? 高市早苗はジャンヌダルクか、それとも…? いずれにしても「何でも無い」ことに変わりは無い。

 

 だが、そんな「生き物人間か餓鬼か」の人類・国家社会とは付き合っていられないと思う有縁の者には、二千五百年も前に釈尊によって「真人間」としての道・仏道が用意されているのでその道を行けばいいと言うこと、ただこれだけのことである。

 誰も自分の根性・性分によって生きる他はあるまいし、またそうしているのである。「この世には問題など無い」とはこのことでもある。

 仏道を行くには余計な物・カネ・愛・家族・子孫・国家社会など無くていい。命も恵まれただけでよく、「平均寿命」や「人生百年時代」などに惑わされないで済む。

 私はその道を「何でも無いこの世・世界・人生はあるがまま、成り行くままですべてよし」と領解して人生の大半を過ごして来た。

 その思いを「『何でも無い』の唄」(2019,10,12)として簡潔に表現し、ブログに上げてあるので、心ある方は読んでみて頂ければと思う。 

 

 アメリカのトランプ大統領がイランを攻撃したと言う。

 もう驚きはしないが、アメリカと言う国はよくよくの餓鬼国だなと言う気がする。と言っても、明治維新以降の日本もそうでは無いとは言えないけれど。

 ただ、そのような事をして、一体、誰が、どれだけの人々が喜び、幸せに成るのであろうか、ホントに!と思う。 アメリカの国民だってそれを褒める人は多くはあるまいに。

 勿論、トランプ大統領にはそれなりの理由があっのことではあろうが、その真相は分かり様が無いので軽々にトランプ大統領を批判することは出来まい。しかしほゞ、はっきりしていることはある。

 それはトランプ大統領が自分の名利権のための政治に執念を燃やしていると言うことである。それは「アメリカ第一主義」に如実に表れている。即ち欧米人の得意とする「自我中心的我執煩悩主義」である。

 大統領と言う名誉職を続けたい、歴史に残る大統領として名を残したいと言う一心であろう。私と違って、財布と相談しながら買い物をするようなことはないはずだからである。(笑)

 つまり、アメリカ国民向けの、見栄えのある政治をパフォーマンスとしてやっているだけと言うことは明白であろう。勿論、どこの国の政治家も全くのそれではあろうが。

 そして大事な点は、国土・軍事力・経済力で世界の覇権を狙える超大国に成れば必然的にその政治的指導者は「餓鬼化する」と言うことである。それが我執煩悩の「貪欲」の特質である。

 ただ、トランプ大統領は何事につけてもそうだが、例えば関税の掛け方等と見てみ分かるように、極めて「無明偏狭・軽薄短小」で、独善的、一方的で思慮に欠けると言う印象を受ける。それほど喫緊のことでもないのに他国の指導者を殺害すなど、これは第三次世界大戦と成って当然と言った事案であり、他人・他国のことを思いやる心があれば到底、是認されることではあるまい。

 そんな大統領を選ぶところは実にアメリカらしいともいえるが、今日でもまだアメリカと言う国はホントにそんなトランプを褒め称えるようなお国柄なのであろうか。そして、それでドルの覇権、トランプへの権威・威信を保てるのであろうか。

 そんなトランプがノーベル平和賞を望んでいると言うのもトランプらしい。まさか「俺は敬虔なクリスチャンだぞ!」とか? それがキリスト教圏での一般的常識的な感覚なのかもしれないが。

 いずれにしてもトランプと言う人は、よくよくの名利権好きな「我執煩悩一筋」の人物のようで、私にはひっちゃかめっちゃかなボンボンのような感がするのだが。

 それに、核の保有が戦争の抑止に成るのであれば、どこの国も核を用意するのが一番いいに決まっている。「俺は正義と平和のために武力を行使するが他の政治家は信用成らない」と言うのがトランプ大統領の自我中心的我執煩悩振りであろう。

 だが、「生き物人間か餓鬼か」の人類世界での「核抑止論」はアメリカの「銃社会」の実態を見れば明白であろう。

 ただ、そんな無明・無知・愚痴ぶりは、彼あるいはアメリカ人のみならず、程度の差はあれ人類世界のすがたであることは否定仕様が無い。

 何らかの人生苦や問題を抱えている者は大なり小なり、みなそうなのである。戦争も一人の指導者、あるいは一国でやれるものでは無いからである。必ず遠近・大小の利害・好悪の伏線が絡み合ってのことであり、つまるところトランプ大統領に限らず、人類世界は全くの「無明・無知・愚痴な生物人間か餓鬼か」のすがただと言うことである。

 みんなみんな触覚を持たないゴキブリのような無明・無知・愚痴な存在で右往左往し、あっちへ行っては突き当たり、こっちへ行っては溝に落ちって具合なのである。

 勿論、私も無明・無知・愚痴であることに変わりは無いが、ただ私は、釈尊によってこの世・世界・人生と言うものの「何でも無さ」(老少不定の死)に気づかせていただいたので、(比較的にではあろうが)何事も「何でも無い。すべてよし」で済ませることが出来、他と争うと言うことは無く、これまで安穏・快適に過ごせて来たと言っていいであろう。

 

 そんなことから夢想が生じた。

 もし、「美しい日本」「親切で、礼儀正しく、秩序ある日本」「本物の技術を作り出せる有能な日本人」と言うような誇りが日本人にあるのなら(それは何かの団体による教宣活動なのかもしれないが)、今こそ、その力を世界人類のために発揮し、世界に貢献してはどうであろうか、そしてそれこそが日本の生きる本当の道なのではあるまいかと言う妄想が。

 即ち、国の存亡をかけて日本国憲法第九条を堅持し、アメリカとも中国とも、どこの国とも、日本人としての精神を貫いた是々非々の外交・交易を実践すると言うことである。

 それは勿論、この世・世界・人生の「何でも無さ」を正見・自覚の上で、「それでどこかの国から攻撃を受けて潰されたとしてもやむを得まい」と言う覚悟、精神であってのことである。

 日本が、アメリカやロシア中国のように、広大な大地や資源がまるで自分たちの手柄でもあるかのような感覚で「生き物人間か餓鬼国か」の在り方をして虚勢を張り、諸外国を翻弄させる「餓鬼の大国」に成っても、日本国の先祖は悲しみはしても喜んだり褒めたりはしてくれまい。

 勿論、それは「生き物人間か餓鬼か」が現実の人類世界では夢想・妄見であることは承知している。だが、だからこそ私は、その常識的人間から見ての夢想・妄見である「普遍的真実・真理・自然の道を行く仏教徒」に成るより他は無かったのである。

 がしかし、仏教徒と言うもの、自分が救われるとその喜びのあまりの大きさに圧倒されてそれを自分独りでは受けとめきれず、必然的にその喜びを他の人々にも一緒に受け止めて欲しくなってしまうのである。それがいわゆる「慈悲の心」と言われるものなのでもあろう。

 その対象は当然なこととして迷妄・苦悩・地獄に喘いでいる人々・人類なのであるが、私の心においてその真っ先と成るのは言うまでも無く、あまりにも残酷で愚か過ぎる戦争の忌避・防止を念願している人々であった。

 個人的争いや犯罪、あるいは貧・老・病・死等の苦悩は、これは個々人の因縁によるものであり、それへの対処の仕方は「その心ある方」と言うことより他は無いが、しかし戦争は、その国の政治体制の如何を問わず、多くの場合「国の指導者」の人格・見識・器量によってどうにでも成ることが多く、かつそのような人は国民の生死を担う立場の人であり、それなりの人物であってしかるべきだからである。

 個々人の心・人格を変えるのは困難であるが、一国の指導者を取り換えるのは、特に民主政治ではそれほど難しくはあるまい。現に、幸か不幸か、日本は戦後、怪我の功名として素晴らしい平和憲法を制定することが出来、曲がりなりにもこれまでそれを実践してきた。それによって戦後、「平和ボケ」と言われる「昭和の楽園」が実現したのである。そして戦争を懐かしがる?いわゆる無明・無知な「ガキ(餓鬼)」が国家を支えるように成ってご覧の通りであるが…。

 ただ、そのように思う時、戦争の無い人類世界への元興しを誰がやるか、それをやれる国があるかと成ると、「生き物人間か餓鬼かの人類世界では無く、真人間としての人類世界に向かおうでは無いか」と言う声を上げ、自国からそれを実践できる国があるとするならば、やはりそれは日本より他には無いのではあるまいかと言う気がするのである。

 それは、G7の中にもG20の中にもそんな気心の在りそうな国は見当たらないし、弱小国の中にはその声を上げることの出来る国はあっても力不足で他の国は耳を貸すまいし。だとすれば、唯一の原爆被爆国であり、そして一旦は「一億総玉砕」をも覚悟した経験のある日本こそはその胆力もあり適任ではあるまいか、と。

 そして何より、世界の中で最も「真人間らしき文化を築き育んできた歴史を持ち、経済力もそこそこにはあり、世界の国々から比較的好ましい国として見られている日本しかないのではあるまいか、と言った妄想が沸き起こって来たのである。

    そんな本物の政治家としての立候補者が一人でも居たら私も選挙に行く気になるかもしれないけれどとも。

 日本が、また縄文時代からやり直す覚悟で世界人類のために一肌脱いではどうであろうか、きっと面白い仕事・人生に成るだろうと思うのだが。

 高市首相の政治思想は私にはまだよくわからないが、しかし、仕事ぶりに覇気があることは好ましく思える。それが「生き物人間か餓鬼か」への道での覇気では無く、真人間としての覇気を発揮できると素晴らしいと思うのだがどうであろう。安倍元首相に追随するようなことではそれはとても無理であろうが。

 日本を大事に思う高市首相がもし聖徳太子の思想・見識に同調することができるならば、推古天皇が聖徳太子を摂政につけたように、真人間としての日本と人類世界を築くための足掛かりとして有能なブレインを採用して世界史に残る政治をやるのは面白いのではあるまいかと思うがそれは無理であろうか。

 しかし、もし高市首相がそんな演説をしたら即、支持率が20㌫に成るようなのがこんにちの日本なのかもしれない。「いや、戻るべきは明治維新だ!」とか。

 ただ、数として「寺・僧侶・信者数が多い」と言うだけの形骸化した今日の「日本仏教」であるが、しかしここまで人類世界が荒んでくると、「こんな生き方、在り方が人間としての本当の生き方なのであろうか」と言う素朴な、しかし人間としての根元的な疑念を抱く若者が日本にも、そして外国にもポツポツと生じて来るのではあるまいかと思うのだがどうであろう。

 そう思う時、もし日本に、「よし!」と思う若い真の仏教徒が一人でも生じたら、その方には是非、当選するまで政治家として立候補してみて欲しいと思うのだが。そのような若者には、真面な仏教教団は徹底して支援すべきであろう。

 そうである。比叡山や高野山等に籠っての修行暮らしが釈尊以来の仏教徒としての伝統的なすがたなのではあるが、それを敢えて変革して民衆の中で……と。

 いやいや、これは妄想もいいとこと言うことに成ろうか。仮に数人の真の仏教徒が国会議員と成れたとしても、その声が政治に反映されることは「生き物人間か餓鬼か」の現在の日本では不可能であろう。 で、妄想はこの辺で止めておこう。

 

 ただこのように見て来ると、人類はやはり、無明・無知・愚痴な「生き物人間か餓鬼か」の存在として自滅して行くのが一番幸せな「救われ方」なのかもしれない。

 ロシア、ウクライナ、アメリカ、イスラエル、イラン、ナイゼリア、中国、北朝鮮等々の指導者の、「俺たちは強いのだ。負けてたまるか! 道は一つだ、 争い、戦い、殺し合って幸せに成るのだ!」と言う彼らの生き方は、ホントに人間なのであろうかと疑いたくなってしまい、遠慮せずに「生き物人間か餓鬼だ」と言いたくなるが、それが現実なのである。そして国は入れ替っても、時代は代わっても永遠に覇権争いは続く。

 私はこの世をどう生きたらいいのかもわからない無知・無明・愚痴な人間であったからでもあるが、他と争い戦って生きる道など思いもよらなかった。それは世に言う「意気地なし」だったと言うことなのでもあろうが、そのために、「生き物人間か餓鬼か」と言った世間の迷妄・苦悩・地獄道を捨て超えてこれまで世間の脇道を細々と、しかし明朗な心で歩んで来れたのである。

 それはつまり、「無分別・無執着の智慧・信心」によって、生死を捨て超えた「無心」の心こそは「真人間としての道なのだ」と言う大事なことを釈尊から学べたお陰で、私の人生は無条件絶対の安穏・快適・常楽な人生と成ったのである。

 古今東西を通じての人類世界の常識としての道が、ご覧のような「幸せを求めて地獄道を生きること」だとすれば、次なる「第三次世界核大戦」は人類の幸せの求め方としては絶好の機会なのだと言えよう。それもなるべく早い方がいい。

 即ち、「人類の救われ方は、人類の滅亡の他は無い」と言うことである。個々の人間が有無を言わさず必ず死ぬのも人生苦をいたずらに長く味合わせないようにと言うこの世の普遍的自然の法の計らいなのかもしれないが、今日の世界的指導者たちの在り方はもしかしたらその道に励んでいるのかもしれない。人間の寿命がもし千年に成ったら、誰もうんざりするのではあるまいか。

 そうである。世界核戦争は不幸なことでは無く、人類が救われる最も手っ取り早い道なのかも知れないと言うことである。であれば、それは成るべく早い方がいいのではあるまいか。それが早ければ、それだけ「生き物人間か餓鬼か」と言った暴君たちの名利権闘争に巻き込まれて迷妄・苦悩・地獄を強いられる善良な一般国民・人類の要らざる人生苦も少なくて済む。これは全くの妄想だとばかりは言えないような気がするのだが。

 何故なら、人間がいくら長生きしたいと思っても必ず絶対に、迷妄・苦悩・地獄を味わいつつ100年前後で死んでしまうのであり、それは、その子も・孫も・ひ孫も、即ち人類があと何千年続いたとしても、その人類はみな悉く今と同じかそれ以上の迷妄・苦悩・地獄を生きることに成るだけであろうことは明白だと言っていいであろう。人類の少なくとも60㌫前後が健全な仏教徒に成れば話は別だが、それはまず絶対に不可能であろうから。

 日本の人口減に伴う諸問題が論じられているが、絶対普遍の真理による個々の人間の「老少不定の死」を正見・自覚出来る眼の見える者(無明では無い者)においては、諸々の戦争や疫病、あるいはAIやロボット社会による「人間性の喪失社会」は人間の「老・病・死」と同じ普遍的真理による必然の「人類の滅亡への道」と見て、心ある者はそのような「生き物人間か餓鬼か」の世界はなるべく早くポイと捨て超えて安穏に生きるべきであろう。

 

 要は、庶民であれ大統領であれ首相であれ、世間向けの立派な賢い生き方や政治をやろうと思えば、そりゃ虚仮・虚妄・嘘・欺瞞なひっちゃかめっちゃかの人生や国家社会あるいは人類世界より他にはなり様が無いと言うことである。まして無明・無知・愚痴なる庶民を主権者とする自由民主主義の政治では、主権者たる国民は常に小賢しい政治家等の餌食にされるだけであることは絶対・必然なのだ。

 自分の不幸感、心の迷い、不満、苦悩、怒り、地獄等は、絶対のこととして自分自身の心のすがた(自分の心によって作り出されたもの)であることは、これはどうにもこうにも否定の仕様が無い。つまり、この世の事象(あいつやこいつの言動等)の「何でも無さ」を知らない無知・無明・愚痴から生じているのである。

 「あいつ(あの政党は、今の政治は、あの国は等々)は、おかしい!」と言った思いを抱いている人は、もし、自分の心のどこかにほんの少しでも真心があるならば、その心を働かせて、おかしいのは、無知・無明・愚痴なのはあいつでも、こいつでも無く、自分自身の心の方だと言うことをじっくり見つめてみてはどうだろうかと思うのだが、でも「それが出来れば苦労はしないよ」と言うことでもあろう。

 でもその他には人間が救われると言う道理は絶対に成り立たないのである。そのことを説き教えられているのが外でもない、釈尊の教え・仏教なのである。

 然るに、政治家とは、そのひとかけらの真心も無いからこそ、「我こそは」の自我中心的我執煩悩で政治家に成ったのだと言うのが真相なのである。

 だから「票を買い集めるためには金がかかるのだ」と歳費を盛り上げ、その上こそこそとネコババを…。

 日本の政治家はトランプ大統領ほど乱暴では無いかもしれないが、そんなトランプ大統領にへこへこしているようでは…の感がするが、心ある方はそんな政治・世間はスルーするのがいいですよ、と言うこといつもの通り。

 みんなみんな無明・無知・愚痴のために、空行く雲のような「何でも無い」事象を追い求めて争い、戦い、殺し合って自分(たち)だけは幸せに成ろうと言う、とんでもないことを権利としてやっていると言う救い難いすがたが人類世界の実情である。

 

 世間・世界が次々とブログの好材料を提供してくれるため、それにかこつけてまた繰り言を書いた。

 要はやはり、この世の何がどうであれ、「真人間として生き、存在したいものだと言う心ある有縁の者は仏法を能く聞き学んで、この世・世界・人生と言うものの『何でも無さ』を正見・自覚した智慧・信心の心で、あるがまま、成り行くままですべてよしと捨て超え、無分別・無執着の中道を犀の角のように独り歩め」との釈尊の教えこそは、虚仮成る人生・世間から解放される(救われる)「唯一無二」の真実・真理・自然の法の教えだと言うことである。

 

 

 それはあまりにも当然のことだと言わねばなるまいか。人間のチエによる作品はいくら素晴らしく見えても、所詮は「作り物」(加工品)に過ぎないからである。

 日本の「美しき天然」と言う歌(武島羽衣作詞、田中穂積作曲)に歌い込まれた「天然の美」は誰でも頷けることであろう。私はユーチューブ動画で音楽を聴くことが多いが、その音楽の背景に用いられた、ドローンによる画像に見る自然の美しさ、素晴らしさはこの上ない、そして宇宙の画像は神秘そのものがある。

 そんな宇宙世界のほんの本の片隅の地球で人間はどのような在り方をしているのかを思うと、それは精々良く言っても「何でも無い」と言う言葉より他はあるまい。

 元々、「無常・無我・空」と言う「何でも無い」事象であるものを、その上加工したのではいよいよ得体の知れないものと成ってしまう。正直に言えば「悲哀」であろう。

 「愛」と言い、「情け・親切」と言い、「成功」と言い、「繁栄」と言い、「偉大さ」と言い、人間のチエで作られたものはみな悉く「虚仮・虚妄・嘘・欺瞞」そのものなのであり、只のガラクタと成るばかりか、人間を惑わせ、人生苦を生むだけである。

 

 そのことは近年の政治、産業、経済、金融、食品、医療、教育、そしてITやロボット、AIと言った科学技術の分野において特に痛感させられることであり、軍事・武器に関しては論外である。

 例えば、便利のいい食品や仕事の仕方、暮らし方等、便利が良く楽しくなったはずなのだが、その分、医療費がかかる、教育代がかかる、社会での暮らし方は鬱陶しくなる等々の上、最も大きな問題(障害・弊害)は、そこでは「人生の価値」そのものが大幅に低下している(「真人間性」が失われている)と言うことであろう。

 そこでは「こんな人生を生きて何になる」って感じであり、「もう死んだ方がましかな」と思う真面目な人が増えて当然だとも言えよう。

 私がそう思うのは、仏教徒としてこれまで過ごして来たからでもあろうが、それはこれまで、有史以来の人類文化の築き方が、真人間としてのものでは無く、全くの「生き物人間か餓鬼か」としてのチエであったと思われるからである。

 縄文時代は一万年と長く続いたが、その時代、人々は比較的平和で豊かな暮らしをしていたようだと言われる。

 と言うと、「そりゃそうだろう。その頃は文明も開けていなくて素朴な暮らしをしていたのだから、それなりに安穏だったのだろうが、それは只、未開で野蛮だったと言うだけのことだ。今日の文明の開けた進化した暮らしとは比較できないよ」と言うであろうか。

 が、変わり者の私には、同じ生き物人間としてなら今の時代よりも縄文時代の方がはるかに「真人間」らしい暮らしが出来ていたのだろうなと言う気がしてならない。

 私も、今日の人類世界が個々人の関係はともかくとして、国家間において戦争・テロと言った類のものが生じない健全な状態であれば、それは他の生き物たちと同じで、人類の在り方もまあまあこんなものかを思えるかもしれない。

 だが、人類のたどった歴史はそうでは無く、むしろ縄文時代からすれば時代が下るにつれて退化して来たと言え、「生き物人間」を超えて全くの「餓鬼の根性」だと言わねばなるまい。それがまた、現代文明の最先端を担う先進国とか大国だとか言われる国々が全くのそれだとあっては、一層に人類の文明の質の悪さを如実に示していると言わねばなるまい。こんなことなら、封建社会だったとは言え、不十分ながらでも仏教・神道・儒教・武士道等を重んじ「真人間の道」を重んじて来た江戸幕府の在り方の方がうんとましな国家社会だったと言えよう。だから潤いのある江戸文化も栄えたのである。「今日の諸文化の味気無さったらありゃしない!」と言った感じを抱いている人は少なくあるまい。昔の「紙芝居」や「幻灯」は観る者に多くのことを想像させたり創造させたりで意義が多かったように思う。近年、読書(特に長文の)が敬遠されているようだが、これも「真人間としての能力」を著しく殺ぐ大きな要因と成っていよう。それでも視聴覚での感覚的刺激は受けても、決して脳力や智慧を育てることは無いからである。

 

 古代では、日本とインドとでは歴史的事情が全く異なり、今から二千五百年前、日本の有史以前の縄文時代の終わり頃、インドでは他民族が入り込んでインダス都市文明がかなり進んでいたようで、精神文化もかなり進んでいて、それだけに国家社会も乱れ、インドもすでに迷妄・苦悩・地獄の世界と成っており、色々な求道者・修行者等がいたようである。

 そんな中、特別な才覚に恵まれていたゴータマ・シッダールタと言う人物が難行・苦行の修行をし、やがて「この世の普遍的真実・真理・自然の法」を覚って仏陀・釈尊と成られ、人類で初めて、現実的かつ合理的な自然の法に拠る、一切の人生苦から解放される道を解き明かし、それを有縁の者に対して説き教えられたと言うのが仏教だったのである。

 だが、それから二千五百年も経過しているにもかかわらず、その教えに信順出来る者は極々稀で、数の内には入らない程の数だと言うのが実情である。インドやスリランカ、中国、日本では仏教は大変栄えた時代もあったようであるが、今日ではそのいずれの国も仏教は文化的名残としてしか体をなしていないことにもそれが現れている。

 ただ、釈尊は当初からそのことはお見通しで、説法をためらわれていたとも言われ、その事に因んでか、仏法に救われることに難しさは「盲亀浮木」や「雨夜の星の数」としても語り伝えられている。つまり、その心ある者は、よくよく心して求道精進すべしと言うことである。

 今日のように、SNS等による動物的感覚の眼耳鼻舌身意に受ける「軽薄短小・無明偏狭」な情報が氾濫している時代では一層に、真人間で在ろうとする者にとって仏道は狭い道であり、孤独を感じるかもしれないが、だからこそ「生き物人間か餓鬼か」の世間で、「マウントを取る」とか、「アクセスがどうだ」とかの「付和雷同」で右往左往することなく、真人間で在りたいと言う持ち前の「自主・独立・自尊」の真心を大事に育てて欲しいのである。

 であるから私も、「人間であれば誰でも仏教で救われるべきだ」などとは言わず、「その心ある有縁の人は」と表現しているのである。 

 「人間も生き物だから…」という発想しか出来ない「生き物人間か餓鬼か」と言った人間・人類には、「この世の普遍的真実・真理・自然の法」としての仏教(仏法・仏道)は伝わりにくいと言うか、無縁が当然だと言うことである。

 つまり、「みんなちがって みんないい」と言うことである。善悪・上下では無い。

一切の事象はみなみな「自然の法」に拠って成る同等の「何でも無い」事象なのである。真人間も生き物人間も餓鬼も、みな等しく生死して行く。そこに問題などあろうはずが無い。無明・無知・愚痴な人間の心による自我中心的虚妄分別(我執煩悩)の他には。

 

 人間・人類は決して断じて進歩発展などしているわけでは無い。善くても悪くてもその持っている芽(素質)が成長するだけである。ナスがカボチャに成ることは無いようにである。

 これまでも凡そ人類は、ただ無明・無知・愚痴な「生き物人間か餓鬼か」の我執煩悩のチエでいたずらな迷妄・苦悩・地獄道を掘り起こして来ただけであり、それが今も成長している(墓穴を掘っている)と言うことであろう。人類が気ごころを合わせて人類一家族的な方向へと向かおうとする芽・兆しが見えないばかりか、近年はむしろ逆へ向かう動きが強く成っているようである。

 こう見て来ると、国家社会や人類世界に絶望して自害(自殺)する人はむしろ賢明な人のようにさえ思えてくる。

 私にはそんなチエも能力も無いために、86歳近くなった今、腰痛や視力の衰え、そして昨年7月には「突発性脳虚血発作(脳梗塞)」成るものを体験したが一週間の入院で済み、今もこうして「生死を超えて(生きるのではなく)存在して居る」のは、決して悪くないどころか、「煩悩の何でも無さ」を自覚して以来、むしろそれを楽しめている。これはいわゆる「極楽」だと言っていいのかもしれない。

 勿論、それは仏の住む、いわゆる「浄土」では無く、「只、苦が無く、楽しい」と言う程の意味ではあり、「浄土へ往きたくてたまらない」と言うことでは無い。

 転居したこともあり、もう世間との触れ合いは殆ど無いけれど、毎日のように大空の大自然の下で往復約5キロの堤防道路での求道・カメラ散歩を楽しんだり、野菜や花を育てて友として楽しんだりと言う、人間との関わりの少ない「言うこと無し」の快適な独り暮らしの人生を楽しめることは実にありがたいことである。

 

 このブログの表題は、端的に言えば、「一切の人生苦から解放される道」として釈尊が説き教えられた普遍的真実・真理・自然の法(仏法・仏道)そのものの教え(真の仏教)は、まさに、「生き物人間か餓鬼か」と言った無明・無知・愚痴な人々の手のかかり様の無い(汚されようの無い)世界なのだと言うことであり、その道に生きるより他には迷妄・苦悩・地獄から解放されることは無いと言うことである。

 因んで言えば、人類世界にはその「生き物人間か餓鬼か」と言った多数の人々の手の届きやすい怪しげな宗教も多く(仏教を名乗るものの中にも)、それが結果的に人類世界が迷妄・苦悩・地獄から抜け出すことの足を引っ張っているとも言えるのだが、しかし、その前に、元来、凡その人間もまた「衆生」なのであると言うことに起因しているのであり、「人間もまた他の生き物と同様、何でも無い。すべてよし」の事象としての存在なのだと言うことである。

 この世・世界・人生は見た通り、善悪、賢愚等々、一切の分別を超えた「何でも無い」普遍的真実・真理・自然の法の世界であると言うこと、これが人間の手のかからない純真・本物のすがたであると言うことである。

 聖徳太子の言葉である「世間虚仮・唯仏是真」は、そのことを端的に指摘した言葉だと言えよう。

 ただ、いくら縄文時代の暮しの方がましだったと言ってもそこへ戻ることは不可能である。

 だからこそ、何時の時代にどんな環境の下に生まれ暮らすことに成ったとしても、常に人間として真面で安穏な人生(生死)を過ごせる道を説き教えられたのが仏教(仏法・仏道)だと言うことである。

 それを私の領解で言えば「この世・世界・人生など何でも無い。あるがまま、成り行くままですべてよし」と言うことである。それは量子のような在り方だと言えようか。「因縁・縁起のまま、自由気ままに」と言うことである。

 そのような、この世の普遍的真実・真理・自然の法(仏法)とその道(仏道)に生きるときは、問題や苦悩など生じようが無いのはあまりにも必然だと言えよう。

 これに勝る人間・人生・人類の道としての進歩はあり得ないであろうにと思うのだが…。心ある有縁の人は、是非、真人間としての仏道に向かってみて欲しいと思う。