端的に言えば、この世の普遍的真実・真理・自然の法を求めて、それに沿った真人間としての人生を生きるか、それとも「人間も生き物だから…」の、生存欲を頼りとして生きる常識的な「生き物人間か餓鬼か」の道で生きるかと言う、その心が人格・人生の大筋を決めるのであり、その心・人格の方針に沿って頭は使われると言うことである。
少し具体的に言えば、真人間の心では、大筋として余計な物(物・カネ・地位・家族・世間・政治・国家社会等々)を捨てて普遍的真実・真理・自然の法に依拠した、すっきりした人生を生きることと成り、そこで何にどう依拠し、何をどう捨てるかは心に沿って頭で考えることに成るが、「生き物人間か餓鬼か」としての常識的な生き方をする人々は、その心が「この世の普遍的真実・真理・自然の法なんて、そんなものは…」と言うことであるから、その心は必然的に生存欲である我執煩悩を頼りとする外は無く、問答無用で物・カネ・愛・地位・家族・世間・政治・国家社会等々と言った「何でも無い」空模様や虹の様な事象を頼りとし、それをどう確保・処理するかで頭を使うと言うことに成るのであろうが、空模様や虹をどうやって思い通りに実現させて幸せに成ろうと言うのであろうかと言うことである。が、それでどう成るかは世間・国家社会、人類世界の現実を見れば明白であろう。
釈尊は、そんな無明な心のまま、頭で考えることを「群盲象を論ず」の愚だと教えているのだ。
即ち、その心・精神がこの世をこの世たらしめているこの世の普遍的真実・真理・自然の法に向かう「真人間」としての心では、「すべてよし」は必然であり、従って無条件絶対の「安穏・快適・常楽の人生」が必然と成るが、その心・精神が無明・無知・愚痴な「人間も生き物だから…」の常識人(「生き物人間か餓鬼か」)では、野放図な本能的生存欲(我執煩悩)でのチエが主導権を握るため、仮に働きのいい頭を持っていたとしても、その生き方は流行のIT(スマホ等のネット情報)やAI等を得意げに活用しての、「何でも無い」空模様の様な物・カネ・愛欲・地位・名誉等々の虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な情報で他人・他国と比較・計算して競争し、戦い、戦争をすると言った迷妄・苦悩・地獄合戦が常道と成ること、人類世界をご覧の通りであり、人類はそんなことを数千年以上続けているのである。そして今も尚あちこちで。
五感からの情報を受け、それを「頭」で計算して暮らすだけと言う動物的在り方では無く、「(仏性の)真心・精神」で眼には見えない普遍的自然の法の真理を正見・自覚した信条・情操・思想・理念等々、人格の核と成る智慧・信心を育てることの大切さがここにあるのである。
つまり、今日的に言えば、そんな群盲の国家社会で「自由民主主義」をやったのでは、頭の回転がいい小賢しいだけの、無明・無知・愚痴な人間が国家社会の舵取りをすることに成るので、その政治は政治家等の小賢しい連中が「国民のため、人類世界のため」と称しつつ、その実は自分たちの名利権のための政策しかやらないし、やれず、心も頭もそこそこでしかない国民は単発的にスマホ等で愚痴ったりデモったりするだけのことで、政治家等にいい様にされるだけだと言うこともまた、「民は生かさず殺さず、寄らしむべし」の民主主義がまかり通っていると言うことである。
そんなことでは将来の人類世界はどうなるのだろうと言う気がしないでもないが、しかし心・精神に「自然の法」へ向かうと言う健全性が無ければ、いずこの国民も政治家も、即ち人類は「そうだそうだ、戦争をして相手をやっつけて幸せになるべきだ!」と狂奔する他は無く、それが「我々は国家社会・人類の幸せのために戦争をやるのだ。これがわれらの正義だ!狂うておるのはあいつらだ」と言う無明・無知・愚痴による狂乱・地獄が続くのであろう。人類滅亡の日まで。
だが、実情からすれば、それが「人・人間」と言う生き物の在り方だと観念する他はあるまい。「夏の虫」を嗤えない所以である。
私は中二の頃、人間とはそんなにもおかしく成れるものなのかと思っていたが、釈尊の教えを学んで「この世は何でも無いぞ。案ずるな。すべてよしだ」との教えに「納得!」となったのである。
そんな私が「日本の人口減は結構なことだ」と言うわけを理解してくださる方が、何人かは居るのではあるまいか。
それに今しばらくは世界の人口はまだ増えると見ているようだが、いずれは減少へ向かいそうだとか。大いに結構なことだと思う。
心・精神の健全な方は、男女が愛し合っても出産はしないと言う平和的な手段で「生き物人間か餓鬼か」の人類ははびこらないようにすべきであろうと思うのだが。
ま、それは期待できないとしても、しかし、類の滅亡は絶対である。何故か。それは、人間が生まれたら問答無用で、しかも「老少不定」で必ず死ぬように、人類が誕生したから滅亡するのである。それが普遍的自然の法(仏法)なのだ。
そのことを心得たつもりの私は、どうせのことならそれは早い方がいいのではと、又乱暴な思いが生じるのだが、そうも行かないので「すべてよし」と。
現今のことに眼を転じれば、人類の圧倒的多数が「生き物人間か餓鬼か」であるため、人類世界はいずこも同じではあるが、特に大都市や繁華街はガラクタ的繁栄で賑やかであり、一見、楽しげではあるが、その実は文字通り煩悩の渦巻く「火宅」の世界なのだ。が、我執煩悩で生きる「生き物人間か餓鬼か」の心では、その煩悩世界がたまらなく魅力的なのであろう。
他方、ごく稀な、「真人間」で在りたいと思う心の者は、そのような喧騒・雑踏・迷妄・苦悩・地獄の世界を避け、ひっそりとした山寺のような静寂な環境を好み、宇宙世界のすべてを友として過ごすので、必然的に無条件絶対の安穏・快適・常楽の暮しと成る。そんな人は足るを知っているから、頭を使うことも少なく、ITやAIはおろか電卓さえ無用であろう。その代わり善悪・損得・生死を超えた慈悲の心が生じることに成る。
と言っても、真人間としての真心で暮らす道は必ずしも山奥である必要は無い。大都市の中でも何ら問題なく、閑静な暮らしは出来る。その心はこの世の普遍的真実・真理・自然の法に通じた「この世・人生等何でも無い。みんなちがってみんないい。すべてよし」の心であろう。
私は東京で孤独死するつもりで郵政本省へ転勤したのであったが、因縁のめぐりあわせで郷里に帰ってそれをやることと成った。
つまり、この世の普遍的真実・真理・自然の法である仏法に生きようとする者の心は、仏道を歩んでいるうちに、必然的に太陽の様な「心の器量(智慧・信心)」が育って、地球を超えた(生死を超えた)生き方が身に着いてしまうのである。
太陽の下(地球上)では、有も無も、成も否も、善も悪も、損も得も、敵も味方も、戦争も平和も、勝も負けも、幸も不幸も、生も死も、コンクリートミキサーの中の生コンの様なものであり、分別の仕様は無い。なのに、そこで諸々の事象の有無・成否・善悪・損得・賢愚・勝負等々の分別をして戦い、戦争をするのである。難儀なことだとは言えまいか。だが、これがこの世の普遍的真実・真理・自然の法に無関心な大方の常識人の心と頭での生き方である。
「真人間の道」と「生き物人間か餓鬼かの常識道」の間で心が揺れている人は少なくないのではあるまいかと思われるが、そのような方は、「頭」は少し脇に置いておいて、「心」に眼をかけて育ててみてはどうだろうかと思うのだがどうであろう。