今日ではもう、表題のことについてはユーチューブ動画等のお陰もあり、同感できる方も多いことだろうと思うが、このことが一般の人々にも普及し、これによって真の仏教が蘇ることが出来、国家社会、引いては人類の在り方に寄与するように成れば大変結構なことだと思うのだがどうであろう。
私も兼ねてより量子力学については関心があり、と言ってもその本を買って学ぶとかまでは行かず、ユーチューブ動画で学ぶくらいのことでしかないのだが、それでも、例えば、「量子もつれ」「重ね合わせ」「非局所性」「量子揺らぎ」「非確定性原理」等の基本原理をあらかた理解しただけでも、自分の心と見比べてみて、成るほどよく似ているものだなあーと感心させられていた。その「何でも無さぶり」(常識的感覚からしての突飛ぶり、放埓振り、ひっちゃかめっちゃかぶり)に。
仏教の目的は物理学としての探求では無く、あくまでも「人生苦から解放される道」としての救いの教えなのであるが、その根本は「自分の心をこの世の普遍的真実・真理・自然の法(因縁・縁起の理法によって成るこの世の一切の事象「何でも無さ」)と一体化させた智慧、あるいは信心を確立させる道であり、その道は無分別・無執着の中道(仏道)を歩む教えである」と言うことはこれまで繰り返して書いて来たことである。
仏教における人生苦から解放される道を歩む上での肝心要となるのは物・カネ・愛・健康等々では無く、あくまでも自分自身の「心」なのである。心こそが人生のすべてであると説かれ、この世の物・カネ等々の「何でも無さ」を正見・自覚した智慧・信心によって無分別・無執着の中道を歩めと教えているのは何故かと言えば、それはこの世・世界・人生における一切の事象(物・カネ・愛・地位・名誉等々や人間の命も心も)は、ただ不可思議な因縁によって成る無常・無我・空なる、分別仕様の無い、「何でも無い」としか言いようの無い」、つかみどころの無い(量子の様な)事象だから、と言うことにあったのである。
勿論、釈尊は「量子論」までは語っては居られない。釈尊の時代は機器も無く、そこまで明言することは不可能であったから。しかし、その真相はほぼ明確に説かれていたのである。とりわけ「空」は「量子そのもの」を語っているようである。
私たち、生き物人間としての常識的感覚としては古典物理学までは何とかわかると言っていいのかも知れない。しかし、空行く雲や虹、夢等が「何でも無い」ものだと言うことはわかっても、大きな岩石や山、鉄、大地、そして自分自身と言う「自我」の存在をまで「何でも無い」と観ることは容易ではないどころか、確実に存在すると信じていると言っていいであろう。最高裁もそれによって裁かれる。
例えば、人間世界の裁判では「何でも無い命が殺されたのだ。問題では無い。無罪!」とは成らず、何らかの刑罰を受けるであろう。それがもし完全犯罪と成れば刑罰は受けないで済むかもしれない。が、仏教ではいずれの場合も、一見、無罪として通るかもしれない。しかし、その加害者はその「因果の道理」によって必ず、自ずから何らかの罰(苦しみ)を受けることに成る。
つまり、人間世界の分別は裁判所の判断も含め、その心には肉眼等の五感で捉えられる「事象」しか見えていないからであろう。五感で感じられる事象限りの認識では、雲や虹や夢は確かに当てには成らない「何でも無いもの」として処理されるであろうが、しかし物・カネ・愛・家族等は実在する確かなものだと妄見しやすい。だからこそ命を懸けて他と争ったり戦争をしたりするのである。が、物・カネ・愛等々も雲や夢等と同じ「何でも無い」事象であることに変わりは無い。
だから、心(精神・意志)が健全に働けば、物・カネ・愛・命等々の不確かさに気づくことが出来ようし、少なくとも「この世・世界・人生とは一体何なのか」と言った疑問ぐらいは抱けよう。そしてその心がより素直で透明度が高く無限大の器量を具えた仏性の心であれば、仏教を学ばなくてもそれらの「何でも無さ」に気づくことはそれほど難しくは無いのかもしれない。それが、仏教での「無・空」は知らなくても、心の働く昔の人たちは「明日は明日の風が吹く」を智慧とすることは出来たのだと言うことであろう。
そして、そのような仏性の心であれば、量子力学での前記の様な「量子力学の原理」も、「そりゃそうだろうな」と即、了解できよう。
例えば、私も仏教を学んでこそのことではあるが、物・カネ・愛・命・家族・国家等々の「何でも無さ」はすぐわかったし、また目の前の山や川や月・星等と、銀河や膨張しつつあると言う宇宙の果てまで同時に(間を置かず)観ることも出来た。「光合成」を知れば、少なくとも太陽系宇宙は一つの世界だと言うことはすぐ分かり、食物連鎖からしても「みんなちがってみな同じ命だ」と言うことも同時にわかる。つまり、仏性の心では当然のことのように、量子の如き働きをしているのである。
私の心がそうだと断言はできないが、しかし自分の心が時間も空間も超えた世界を飛び回っている(迷っているのかも(笑))のは確かであり、人類世界とか、まして政治・経済・医療・防衛などのままごとの様なチエでは人間・国民・人類を迷妄・苦悩・地獄に突き落とすことは出来ても、そこから救うことなど出来るわけが無いと言うことは明白と成って、私は「常識人」を捨てて「仏教徒」に成ったのである。
そんな、人間としての肝心要の心を「机上の空論」と言い放って無視し、自分の無明・無知・愚痴な我執煩悩によって他との名利権の争いや戦争に明け暮れているような国家・人類の指導者では「生き物人間か餓鬼か」としか言いようがあるまい。
がしかし、肝心な「仏性の心が働かないとあっては…」と言うことで、私は仏・法の「何でも無いぞ。案ずるな。すべてよしの心で中道を歩め」との教えに救われたのである。
つまり私は、自然の法(仏法)によって成る「この世の一切の事象の何でも無さ」の故に、この世では「人間の無明・無知な我執煩悩のチエでの問題など一切、成り立ち様が無い」と言うことが明確に成って、私はこの世・世間の常識・人生に対して抱いていた諸々の疑問や矛盾から一気に解放されたのであった。
そして今日、そのことが人知としての物理学としての「量子力学」として裏付けられている感じがすると言うことである。
が、仏性の心さえ能く働けば、量子力学など無くても真の仏教徒は高僧方等々に見るように、仏法で救われていたのである。と言うことは、仏性の心が能く働かないものにおいては、如何に量子力学が一般化しても相変わらず、物・カネ・愛・地位・領土等々での争いが止むことは無いであろう。
つまり、量子コンピューターは完成しても、その使い方は相変わらず「生き物人間か餓鬼か」の古典物理学の延長としての常識的道具としてしか使えないのではあるまいか。
量子コンピュータが、仮に「戦争をして物・カネ・領土等を奪い取った方が勝ちだ、幸せの道だ」と言うような理屈は「OUT!」だと回答しても、人間のチエの範疇であるAIは「妥当だ」と回答するなら、民主主義の社会ではAIの回答を採用することであろう。そして裁判も。
とにかく、「あるがまま、成り行くままですべてよし」と言うこの世の普遍的真実・真理・自然の法(仏法)に則った心では不如意と言うことは生じようが無く、安穏とか至幸とかをも超えた「無空」「問題など無い」と言った無条件絶対の安穏振りなのであるが、このブログは、量子の世界もそんな心での生き方を暗示しているような気がすると言う記述である。
ま、いずれにしても「すべてよし」とせざるを得まいが、である。