端的に言えば、真人間であろうとする者には現状のような「生き物人間か餓鬼か」と言った人類世界を、「誰もの命と人生が大事にされている人類世界は素晴らしい世界だ」とは思えないであろうと言うことである。

 現状のような「飲んで食って、愛し合って、歌って踊って、名利を求めて虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な政治や企業や投資や戦争と言ったゲームに明け暮れていられて、人生は面白くて楽しいじゃないか。これでこそ人生だ」と言ったような人類世界は、確かに、人類の殆どを占める常識的人たちには面白い世界なのかもしれない。しかしそれはやはり、無明・無知・愚痴な生存欲である「我執煩悩」一本鎗で生きる「生き物人間か餓鬼かの道」と言う他は無く、それを「真人間の道」と言うわけにはいかないのではあるまいか。

 

 日本時間で今朝、アメリカのトランプ前大統領が銃撃を受けたと言う。

 が、もう驚かない。安倍元首相の時もそうであったが、昔から政治家等の要職にある者が殺害されるのは常であり、「またか」、「さもありなん」の感である。99パーセント(もしかしたら99、99パーセントか?)が「生き物人間か餓鬼か」の世界ではそれが当然であろう。

 物・カネを奪い合い、戦争をやりまくり、殺し合う人間世界のどこがどのように素晴らしいのか、そんな人間の命がどのように尊いのか、私にはわからない。

 だから私は、この世・世界・人生の本質を仏・釈尊の教えに求めたのである。どこを見回しても、他に真面なことを教えてくれているところは無かった。

 すると釈尊は「この世・世界・人間・命・人生など何でも無いぞ。このことを仏法によって正見・自覚し、無分別・無執着の智慧の心を育てて中道を歩み、安穏・快適・寂静の存在と成れ」と説き教えられていた。

 生き物である人間が生きるには物・カネは必要である。だが今どき托鉢をして暮らすと言うわけにもいくまいから、平和的な物・カネの売買は必然なことであろう。だが暴力的な行為や殺し合いはやれないのが真人間なのではあるまいかと言うこと、これだけである。

 つまり、私に納得がいかないのは、国家・国民を挙げての殺し合いの戦争がどうしてやれるのだろうか。それを率先してやろうとするような指導者がどうして選ばれるのだろうかと言うことであるが、それが人の世の常なのである。「殺されても殺しはしない真人間であろう」とする者は国家社会を丸ごと捨て超える他は無いわけがここにある。

 だが、それでも私は「真人間」が良くて「生き物人間か餓鬼か」が悪い存在だと言うつもりは更に無い。普遍的真実・真理・自然の法の下においては当然のことながら「みんなちがってみんないい」と言う他は無いからである。ただ、性分・趣味の異なる生き物は心において住み分けるべきであると言うこと、これが釈尊の教えであると私は理解している。人間がアフリカの動物立ちと一緒に暮らすことはないではないかと言うことは何度か書いた。

 

 近年、量子力学と言うことがよく語られている。これは要するに、「仮想現実」とか「不確定性原理」ということで説かれているように、物質世界の最小極限の素粒子は粒子と波の性質を兼ね備えており、「量子もつれ」や「干渉」等と言った働きをしていて、数式として仮定することはできても、その世界は人間の認識能力を超えた世界であり、それをもって人間世界の常識的分別としたり、それによって何かを絶対視したりすることは出来ないと言うことの様である。

 私には量子力学の数式などさっぱりわからないが、その「何とも語りようの無さ」が量子の世界における「不可思議な因縁・縁起(此縁性)だ」、「生き物人間のチエで納得のいく世界では無い」と言うことなら、それはそうだろうなと理解できる。

 それは例えば、人間の心における「以心伝心」、「魚心あれば水心」、「霊感」、「インスピレーション」、「テレパシー」等々の、脳や心の働きの不可思議さにも通じるところがあるのかもしれない。とにかく、人間にとってこの世は只「不可思議」だ(分別し難いものであり、「何でも無い」もの)と言うことであろう。

 アインシュタインは、「相対性理論と量子力学を統一した統一理論の完成が必要だ」と語っているようであるが、それはまだまだの様である。

 だが、仮にその統一理論が完成したとしても、それによって人類世界の無明・無知・愚痴による迷妄・苦悩・地獄が解消されるわけでは無い。むしろ量子コンピューターによってどのような迷妄・苦悩・地獄が掘り起こされるかわからないと言った可能性の方が大きかろう。

 生き物人間のチエによる度の過ぎた知的煩悩による事象限りの科学的開発は人類の発展では無く、むしろ真人間としての人間性の破壊に向かうだけだと言う現実に気づくべきなのではあるまいかと思うのであるが、科学者は口を開けば「ノーベル賞を…」と言ったようなことしか心には無いようで、まさに「生き物人間学者」なのである。ただ、アインシュタインの人生をざっと知れば、只全くの物理科学者では無く、真人間性をも兼ね備えた望ましい科学者のように思えて親しみを感じる。

 

 やはり、心ある人はと言う他は無いが、そんなこの世・世界・人生をいくらかでもうんざり気分を少なくし、心から楽しいものにしようと思うならば、それはやはり、この世・世界・人生の「何でも無さ」を正見・自覚し、生死の世界(政治・メディア・経済・科学等「生き物人間か餓鬼か」のおぞましい憎悪・戦争の世界)とは距離を置いて「何でも無い。すべてよし」の智慧の心で、太陽や月・星・空・雲・風・山・川・草木・虫たちと語り合って暮らすのがいいように思う。

 大統領や総理大臣に成ったり、あるいは高位の勲章をもらったり、ノーベル賞をもらったりと言う仕事や榮譽は、一体、何のための仕事、何の功績なのであろうか。それがよく言われる「世のため、人のための仕事だ」と言うのは正気なのであろうか。その辺は私にはわからないが、まさか世間の人々に褒め称えられ、歴史に名を残すためになどと言うような虚しいことではあるまいと思いたいが…。

 

 政治とは、「民生活動」である。即ち、「生き物人間か餓鬼か」としての生存欲を発揮して生きる世界なのである。真人間としての生き方を探求する思想・哲学・宗教、あるいは教育の分野では無い。であれば、我執煩悩によって「俺が」「私が」と言った自我主張や、「あいつが」「こいつが」と言った憎悪によって「幸せを求めて迷妄・苦悩・地獄づくり出す」ことの他にはなり様があるまい。

 だから釈尊は「生き物人間か餓鬼か」の世界はひとまず置いといて(政治を放棄し)、真人間であろうとするものを救う道を求めて普遍的真実・真理・自然の法に向かわれたのである。

 ただ釈尊の説かれた法と道は「虚仮成る世間を捨てて法に生きる道」であるから、このことがわかる仏性の心での求道心が働かないことには始まりようが無いのであるが。

 「歴史に学べ」「歴史が教えてくれている」とよく言われる。が、これも仏性の心で学んで初めて意味があるのであり、我執煩悩の心で歴史を学んだのでは「迷妄・苦悩・地獄道」にしか成らないことはウクライナ等々の戦争に見る通りである。そしてまた、歴史が立証するのは間違いなく「この世の何でも無さ」であり、「人類の生き物人間か餓鬼かと言ったすがた」である。

 古代からのことを語れば切りが無いが、只今の日本が米中の間に在って右往左往、迷妄苦悩しているのは、間違いなく明治政府の我執煩悩外交と軍国主義に原因があったと言わねばなるまい。そしてアジア太平洋戦争に敗れ、やがて米ソ対立を経ての米中が対立する中での田中角栄元首相の外交に仕掛けられたロッキードの罠、そして安倍元首相の外交姿勢を怨んでの暗殺であったろうと推測されているようである。トランプを狙撃した犯人は射殺されたと言うから、背後を探るのは難しいかもしれないが、個々の事象は問題では無い。

 

 これだけ日常的にこの世・世界・人生の「おぞましさ」「何でも無さ」を見せつけられ、教えられれば、「一体この世・世界・人間って何なんだ!」と言う大きな疑問が沸き起こるのは抑えられないのではあるまいかと思うし、そして仏法を学んでみようと言う若い人が幾らか増えているのではあるまいかと思うがどうであろう。

 お寺に行って…ではなくてもいい。今ではその気さえあればスマホでも十分学べよう。

 仏教は、決して断じて死後のことを問題にした教えでは無い。仏教は、わけの分からないこの世・世界・人間・人生がどのようにわけがわからないのかを究めて簡明にわかり易く解き明かして下さっている、現実的、合理的救いの教えなのである。

 だから、例えば兵士や民間人ばかりでなく、首相や大統領が暗殺されるのも決して珍しいことでは無いと言う目の前の現実を見て、「あゝ、人間とか人生とか政治とか国家とか、一体何なんだ!?」と言う疑問が生じるのを抑えられないであろう真人間においては、(各宗祖の独特の仏道の歩み方の教えではなく)、この世・世界・人間・人生と言うものの何たるかを説いて下さっている、仏である釈尊の法の教えを聞けば、「この世・世界・人生など何でも無いぞ、案ずるな。このことを正見・自覚した無分別・無執着の智慧を用意して中道を歩み安穏・快適に過ごせ」と言う教えはわからざるを得ないのである。

 ほんの少しでもこの世・世界・人生と言うものに対して疑問や矛盾を感じたら、それに対しては、虚仮・虚妄・嘘・欺瞞なサムネイルや広告等の「世間虚仮」につられて惑わされることなく、この世の普遍的真実・真理・自然の法によって真正面から応えてくれている仏・釈尊の教えそのものをまずしっかり学んで欲しいと言うこと、いつもの通りである。

 

 

 

 それは、真人間としてこの世の普遍的真実・真理・自然の法の道を求めつつ生きようとする真心(ここでは仏性の心での求道心)が働かず、大方の人間の生き方である世間の常識道を生きているとどうなるかと言うことでもある。

 常識道とはご覧の通り、生き物としての人間の野放図な生存欲(欲望・感情)で生きる絶対多数の道であるからそれによって生きる道は目先的には安心感はあろうが、如何せん、それは普遍的真実・真理・自然の法に違背した生き方であるために、戦争状態に至れば言うまでも無いが、戦後のこれまでの日本のように仮に平和な環境で長生きが出来たとしても、個々の人生においては「無明・我執煩悩の独り舞台」を演じることと成り、戦時下と変わりのない迷妄・苦悩・地獄の人生苦は避けようが無いと言うこと、人間世界をご覧の通りである。

 それが、

〇 生きるために生きる(決して適うことでは無いものを生存欲に尻を叩かれて)

〇 貪るために貪る(自分で使いこなせないことを承知で貯め込むために貯め込む)

〇 妄見するために妄見する(この世・世界・人生の「何でも無さ」がわからず) 

〇 苦悩するために苦悩する(無明・無知な我執煩悩(欲望・感情)に翻弄されて)

〇 慢心するために慢心する

〇 貶すために貶す

〇 怒るために怒る

〇 怨むために怨む

〇 憎むために憎む

〇 争い戦うために争い戦い、殺すために殺す(餓鬼道の典型)

〇 死ぬために死ぬ(本当は死にたくないのに自分の我執煩悩に蹂躙されて)

〇 みんながやっているから自分もやる(イワシのチエ)

〇 世間の常識を信奉する(自分自身の真心・人生と言うものは無く、とにかく世間体を保つために世間常識に関心を持ち、あるいは政権を維持したり売り上げを増やしたりすために群盲の庶民・国民の意向に沿った毛バリを使って釣り上げる等々、要するに自分の我執煩悩に翻弄されているだけの人生)と言うことである。

 

  これを読んで、「そんなバカなことを誰がやるか!」と思われる方がいるかもしれない。

 が、仏性での求道心が全く働かず「普遍的真実・真理・自然の法なんてそんなものは…」とか「仏法なんて…」と言う普通の常識人?においては、生き物としての人間の野放図な生存欲(欲望・感情の我執煩悩)で自我中心的虚妄分別をしつつ生きる他は無いため、自分でもそれを楽しんでいるのか迷妄・苦悩しているのもわからないまま、無明・無知な生存欲に突き動かされて上記のような「我執煩悩の独り舞台の人生を自作自演している」と言うことである。

 つまり、「普遍的真実・真理・自然の法なんてそんなものは…」と言う無明な心では自分の無明・無知に気づくことも無いため、当然の常識として、あるいは「基本的人権だ!」「自由民主主義だ!」と言う思いで、自分でも気づかぬうちに上記のような暮らしを当然のこととしているのである。

 明日、来年の自分の人生は無いかもしれないのだから、それに備えた生き方をして行こうと言う真実・真理・自然の法を自覚したまともな生き方をしている人はごく稀であろう。「そんな気持ちで生きていたのでは生きた心地がしないではないか、バカバカしい。やはり自分の意欲に満ちた、生き生きとした人生が素晴らしいに決まっている」と言うことであろう。

 だから日々、ごく当たり前の出来事が生じているだけなのに、「どうしてこんなことが(に、を…」と言うことが日常と成るのである。それがご覧の通りの、「無明・無知な我執煩悩の独り舞台の人生」と言うことである。

 確かに、この世の普遍的真実・真理・自然の法そのものは事象ではないからわかり難くはある。が、常識的な人間でも一切の事象の上にその働き(因縁・縁起)を見ることは出来るし、また見ても居るのである。だから上記のようなこともかなりは加減されてはいるのだが、ここで「わかっちゃいるけど…」の我執煩悩が真理の法に生きることを許さないのである。

  ここに、真人間としてのまともな道を生きるには、我執煩悩を能く抑えることの出来る仏性の心での健全な求道心の働きが不可欠と成るのである。

 「自分の明日の命もわからないものを、他人を憎んだり怨んだり殺し合ったりして幸せに成ろうなど、やってられない」と、この世の普遍的真実・真理・自然の法に心を沿わせた簡明・単純な生き方をしてはじめて余計なことはしないで済み、人生は安穏・快適・常楽の真の幸せと成るのである。そうするとそれが予期せぬ安穏長寿につながるのかもしれない。そんな気がする。

 が、すべては各人の因縁による心次第であり、「明日の命はわからないからこそ、生きている今を思いのままに戦って生きて行きたいのだ」と言う「生き物人間か餓鬼か」と言った人が圧倒的に多いと言うことのようである。為政者・支配者個人はそれでいいかも知れないが、只今で言えば、ロシア・ウクライナの国民はどうなのであろうか。「餓鬼大将」を支配者に据えた国民はたまったものでは無い。ろころが、これが民主政治とやらでも同じなのである。「人類と言う生き物は救いようが無い」と言うわけがここにある。

 人間には理性がありそんな愚かしいことをやるはずは無いと思いたいかもしれないが、人間の理性は多くの場合我執煩悩の手助けをするだけで殆ど意味は無い。それは「ついかッとなって…」と言うようなことばかりでは無く、例えば、太平洋戦争の開戦や、日本国憲法第九条を変えて戦争のやれる国に成るべきだと言うようなことさえ「理性」としての分別だとされると言うことである。(ウクライナ・台湾・尖閣…も)。

 あるいは、そのような常識信仰の人は、「常識的な人間なら、この世・世界・人生など何でも無い。あるがまま、成り行くままですべてよしだなど、そんな不真面目で無責任な生き方は出来ないはずだ」とか、あるいは「慈悲の心とか、思いやりだとか言うけれど、この世は食うか食われるかであり、そんなことを言ってては自分が生きて行けないじゃないか」言いたいかもしれないが、ではそう言う常識人の真面目で責任のある生き方とは一体何なのか、あるいは自分を守るのは自分だと言うその暮らし方がどうなのかと言えば、上記のような迷妄・苦悩・地獄作りのための人生と成っているのだと言うことではあるまいか。世界の実情をご覧の通りであろう。

 

 要するに常識人とは、「普遍的真理に沿った無条件絶対の安穏・快適・常楽な(真人間としての)人生など面白くない。やはり自分は喜怒哀楽や毀誉褒貶の世間常識的な生き方の方が好きだ」と言う「生き物人間か餓鬼かの心」で、欲望と感情のままに迷妄・苦悩・地獄道を行く絶対多数の人々と言うことであって、それは決して「正常だ」と言う意味では無く、むしろ「無明・無知・愚痴」を意味しているのである。

 たまたま、相手を思いやったような言動をしたとしても、その多くは「お世辞」か「情けは人の為ならず」の欺瞞であろう。

 総じていえば、そこにあるのは自我中心的な幸せを求めつつ無明・無知・愚痴な心で迷妄・苦悩・地獄の人生を只虚しく過ごすと言った世間常識の生き物人間のすがたであり、そこには「一体、この世・世界・人生(命・心等)とは何なのか」と言った真人間として生きる道は求められることは無いし、またそのような教育も為されてはいないか、むしろ禁止されていると言った状態であり、そうであれば仏どころか真人間にさえなり様が無く、そこではただ野放図な生存欲で物・カネ・愛・地位・名誉等々を争い求めて生きる「生き物人間か餓鬼か」の生存競争の道を世間常識から学ぶだけと言うことに成って当然と言うこと、ご覧の通りである。


 つまり、大雑把に言えば、「生き物人間か餓鬼か」と言った我執煩悩に忠実な「世間の常識」を見習った生き方をするか、それともそのような常識的な生き方について行けず、「真人間」であろうと「この世の普遍的真実・真理・自然の法」を聞き学びつつ求道の人生を歩むかと言うことの違いだと言えよう。

 それは善・悪では無く、不可思議な因縁による趣味の違いだと言っておこう。「味気ない仏道より喜怒哀楽や毀誉褒貶の世間の方が人生らしくて面白いじゃないか」と言うことでもあろうか。「これが自分だ。自分はこれでいい」と言う自覚で生きていればいずれでもいいと言う他はあるまい。

 近・現代における「生存権」や「自由民主主義」等の我執煩悩思想は人間世界の迷妄・苦悩・地獄の火に油を注ぐことにも成っていると言うことは何度か書いたが、これらの西欧思想は封建領主からは解放されても、自らの「我執煩悩の奴隷」から解放される道には成り得ないことに気づかねばなるまい。

 人類世界における最大の悲惨・愚悪はやはり戦争であろうが、人類史における戦争で「あの戦争だけは人類にとってやって良かった正義の戦争であった」と言えるものがたった一つでもあるであろうかと言うことである。否であろう。

 見ればわかる通り、そして日々体験している通り、「今日は今日、明日は明日の風が吹く」と言う他は無い「何でも無い」この世・世界・人生であることを正見・自覚していれば戦争など絶対、絶対のこととして考えられないはずであるが…、人間とは実に愚かしく哀しい生き物なのだと言うことをつくづく知らされるのである。そんな人類においてITやAIに一体、何の意味があるのであろうか。そこに普遍的真実・真理・自然の法に目覚めた智慧が伴わない限り、それは真の人間性を破壊する科学者・政治家等、生き物人間の知的煩悩による危なっかしい悪戯ごとでしかあるまい。

 

 その、見ればわかるこの世・世界・人生の「何でも無さ」を仏法(因縁・縁起、無常、無我、空、中道、涅槃)によって正見・自覚し、その無分別・無執着の智慧の心で迷妄の生死から解放され、無条件絶対の安穏・快適な暮らしをすべしと言う、実に明白・簡明な普遍的真実・真理・自然の法の教えが、仏・釈尊の教え・仏教なのである。この他に仏教などありはしない。

 ところが、この簡明な釈尊の教えを日本の各宗派の教えでは、何とも難しく、ややこしく、信じ難い教えとして説かれているため、私のような愚鈍にはとても難しくて「もう結構です」と言いたくなってしまうのだが。

 ただ、その辺の所は奈良・平安・鎌倉・室町時代にはまだ釈尊の教えを最もよく伝えていると言われる阿含経は伝えられてはいなかったようで、日本の宗祖の方々は中国からの大乗仏教にしか触れることが出来なかったようなので何とも言いようが無い。

 ただ今、浄土真宗本願寺派では「新しい領解文」のことがいささか問題と成っているようであるが、これも大乗思想によって「方便」として説かれた浄土教の虚仮・難解さの表れの一端だと言えよう。

 親鸞聖人の教えは大乗仏教限りの「七高僧の教え」であり、釈尊の本則的な教えとは全く別の教えなのだが、これには今述べた歴史的仏教伝来の成り行き上のことと、それに関連して、親鸞聖人が若い頃の20年間、堂僧としての修行において何をどう学ばれたのがよくわからないこと、そしてもう一つ、はっきり言えそうなことは親鸞聖人の仏性の心の純真さによるものであろう。

 これらの因縁によって成った親鸞聖人の独特の「他力の信心」なのであり、これらを経験することの不可能な浄土真宗の門徒に「親鸞聖人の信心をそのまま受けよ」と言うのは、これは無理難題と言うものである。親鸞聖人の思いは釈尊が説法をためらわれた心境に似たようなものでは無かったろうか。

 であるから、親鸞聖人においては、ただ人生苦に喘ぐ同朋・庶民に弥陀の本願・慈悲による救いを一人でも多くの人に伝えることが出来るならばとの思いからの布教だったのであり、弟子だの宗派の建立だのと言う思いは無かったようである。

 勿論、親鸞聖人はご自身の九歳からの求道心により、結果としては「他力の信心」のお悟りを門弟に平易に説き教えてはおられるのだが、例えば阿弥陀仏の本願の頼もしさを「摂取不捨」と説き、これを「逃げるものをおわえとって救うと言うことだ」と言われるように力強く説き語っておられるのであるが、それでも文字通りの無明・無知な、仏性による求道心の働くことのない煩悩具足の凡夫に信心を芽生えさせることは容易ではなかったのであり、つまるところ親鸞聖人も「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」とするより他は無かったのである。そしてこれが今日の浄土真宗の僧侶を含めた大方の門徒衆のすがたである。

 つまるところ仏教とは、釈尊の説かれたこの世の普遍的真実・真理・自然の法によって成る「何でも無い」この世のことは、このこと正見・自覚出来る仏性の心での「あるがまま、成り行くままですべてよし」の「無分別・無執着」の智慧、あるいは信心よる他は無いと言うことなのである。

 私には、当然のことながら真の大乗仏教と言うなら、善人・悪人、自力・他力、難行・易行等々の難解な方便虚仮なる分別とは関係なく、絶対普遍の真実・真理・自然の法あるいは仏に真心を向けることの出来る有縁の者(仏性の心での求道者)がその「仏・法」の教えを学びつつこの世の現実・事実としての『何でも無さ』を正見・自覚し、その智慧、あるいは信心によってその法・仏に信順・帰命することがすべてであり、このことをとわかり易く説かれた釈尊の「本則仏教」こそは大乗だと言え、方便として色々と細かく説かれた「難解な大乗仏教」は、「乗り物」としては大きいのかもしれないが、大きな無明煩悩を抱えている私を始めとした大方の凡夫には、その桟橋が狭く、迷路が多くてなかなかに本願船に乗り込めないと言うのが実情なのである。

「親鸞会」と言う浄土真宗の会派の方々の主張も、「新しい領解文」の問題と同様、本願寺派との間で何らかのしころがあるかのようである。弥陀の願船への桟橋のどこかに我執煩悩が引っ掛かっているのではあるまいかのような気がする。

 私は「弥陀の願船」を、釈尊の慈悲で説かれた「法」と同一視して理解しているので、問題の生じようが無い。これなら感性的仏性の心で仏教に接している方々にも容易に乗り込めるのではあるまいか。またこれより他には、ただ「無条件に信じ込む」他は無い方便虚仮として説かれた浄土教の阿弥陀仏の救いの「難信の法」の弊害を緩和・解消する方法は無いように思える。

 浄土真宗の教えで救われた方々の例はよく、妙好人と言うことで語られることが多いが、そのような方はみな優れた感性としての仏性の心の方々のようであり、親鸞聖人の細々とした緻密な分別教義を理解した信心で救われたのでは無いように思われるのだが。

 

 即ち、大乗仏教はインドの大乗仏教時代の多くの仏?たちによって説かれたものであり、それがどの程度釈尊の教えを深く理解されて大乗経典を説かれたのか、いささか疑念が残るのである。第一「大乗」と言う発想からして煩悩なのではあるまいかと言う気さえするのだが。

 仏教においては仏性による求道心が健全に働くことの不可欠性は否定の仕様が無いように私には思えるのであるが、これを軽視したかのような大乗思想は、これは「船山に登る」の類と成ろう。だから大乗仏教は必然的に多種多様と成り、日本の各宗派は更に多数の分派に分かれているのである。

 それはそうであろう。その各宗派の宗祖方の説かれた教えもそれぞれの宗祖の独特の個性によって説かれた個性的仏道と成っているのであり、その思想に感じ入り信じ込まねば救われないと言うのでは、これはとても、誰もが納得して歩めるような大乗では無いと言うことから分派が進むのである。

 にもかかわらず、日本での宗派仏教がこれまで続いて来たのは、葬式や先祖供養の法事等のための「寺・僧侶」と言う、仏教では無い庶民行事としての宗派仏教だったからに他ならない。少しきつい言い方をすれば、仏教における宗派間の対立・批判、あるいは教義上の惑い・もつれ等々は、それ自体が我執煩悩による虚仮仏教、あるいは虚仮仏教徒だと言うことの証だと言えなくもない。さて、そんな仏教、今後どう成って行くのであろうか。

 私にはやはり「今日は今日、明日は明日の風吹く」と言う他はあるまい。産業・経済・政治・文化・戦争・平和等々ばかりでなく、仏教をも含めた目の前のこの世の現実・事実としてのこの世・世界・人生の「何たるか」(その「何でも無さ」)を、普遍的真実・真理・自然の法として解き明かされている釈尊の簡明な教えが性に合っていると言うことであった。

 

 いずれにしても、スマホやNSN、あるいはテレビ、ユーチューブ動画等に見られる人間世界のすがたはほゞみな上記に列挙したようなすがただと言えよう。

 そんな情報や人生に趣味が合う方は勿論それを楽しめばいいのであるが、趣味が合わない方や、こんなことをやってていつか死んで…と言うことに疑念を抱ける方には、釈尊の説かれた仏法・仏道なら趣味が合うのではあるまいかと思われお勧めしたいと言うこと、いつものことである。

 「生き物人間か餓鬼か」では無く、「真人間」としてこの世の普遍的真実・真理・自然の法に生きるのが仏教徒なのだと言えようが、ご覧の通り真の仏教徒は極めて少ない。そのため仏道を生きるのには周りの抵抗もあり、かなり勇気のいることかもしれない。しかし、その心(仏性による求道心)さえあれば、これほどたやすく、安穏・快適で楽しい道は無い。何故なら仏道は禁欲の道では無く、「無分別・無執着」の道である仏道(中道)は、やってみようと思うことは何でもやれる、実に自由で楽しい道だからである。

 これもまた孔子の教えから言えば、「七十にして心の欲する所に従へども、矩を超えず」だからである。勿論、七十歳に限ったことでは無い。五十歳でも九十歳でもいい。その領域に至ると、「あゝ、これが真の人生を言うものだな。人間に生まれ、そして仏縁に恵まれてよかった。死など問題では無い。有難いことである」と思える、安らかな晩年を過ごせることであろう。「眠るがごとく…」とはそれではあるまいか。

  素晴らしいと言えば素晴らしく、愚劣と言えばこの上ない愚劣な、要するにどうにでも取れる「何でも無い」この世・世界・人生である。

 今生での「世間向けの人生」や、「あの世」とやらの「何でも無さ」を仏法に照らして正見・自覚すべきであろう。「法に照らして只今の自分の心を整えよ」と言うこと、これが仏・釈尊の救いの教えのすべてなのである。

 

 自分の明日の命は元よりだが、これからの人類世界の転変ぶりはこれまでとは異なり、5年、10年先さえどうなるか見当がつかないと言った状態であり、「この世は何でも無い。あるがまま、成り行くままですべてよし」の正見・自覚が一層に強く望まれる世界・人生と成るのは間違いあるまい。つまりそれは「真如一実」の世界に心を据えると言うことである。

 私は自分自身は今生で仏に成れる自信など無いので、仏の道を探りながら生きつつもそれは「真人間としての道」と心得ているのだが、当然のことながら、仏法・仏道は本来、仏に成るための道なのであって、生き物としての人間の幸せを求めて生きる道では無い。この点は他の宗教とは全く異なるのである。

 そういう意味でも、上記に列挙したような「生き物人間か餓鬼か」と言ったような虚しい限りの人間としての常識道を解脱することこそが仏に通ずる真人間としての道だと言うことである。

 「この世・世間を見ればわかる」程に簡潔・明白な釈尊の教えこそは大乗だと言うことを理解すべきであろう。宗派の違いや宗派内の細かな分別騒動などに惑わされているようでは、それは全くの小乗の証であり、煩悩の材料とは成っても「解脱」の助けとなることはあるまい。

 何をやってもやらなくてもいいのである。ただそのこと(この世の・世界・人生・命)の「何でも無さ」を正見・自覚した智慧、あるいは信心の心さえ用意できて「中道」を歩むことが肝要なのである。

 勿論、その智慧・信心は、生涯をかけた仏道を歩むことによって自分の心に静かに育ち、用意できるものであり、カネにも名誉にも成らないため、人間の我執煩悩絡みの文化勲章やノーベル賞と言った虚仮・世俗なこととは異なり、その道を行く人は居ないの等しいけれど。

 

 人口減や年金の不安、あるいはITやAI世界や核戦争に大地震等々、この世の「何でも無さ」は、見た通り明々白々なのである。「あるがまま、成り行くままですべてよし」の他はあるまい。政治だの経済だの民主主義だのは、生き物人間か餓鬼かのチエによる只の我執煩悩による迷妄に過ぎないことを見抜かねばなるまい。

 心ある方には、「迷妄・苦悩・地獄を生きるために迷妄・苦悩・地獄を生きる」ような世界・人生からは早めに手を引くか足を洗うかされることをお勧めしたいと思うこと、いつもの通りである。

 時代はすっかりネット世界と成り、誰もがスマホを通じで混とんの中に置かれてしまっているようである。であれば、真人間で在りたいと思う人はいよいよますますこの世の普遍的真実・真理・自然の法を求めて「犀の角のようにただ独り(真っ当な道)を歩む」必要に迫られてきたと言えよう。

 ITだ、AIだと言うこれど、これら文明の利器により科学者も含めて人はみな人間性や人生とは何かと言うことがつかみにくくなって来たのではあるまいか。

 つまり、蜘蛛の巣(WWW)に掛からないように、「これが自分だ!自分とはこれだ。これが自分の生きる道だ」と言える自分の思想・哲学・宗教を、時間をかけて歴史や先哲の教えから学びながら自分の心で人生を切り拓きつつ構築しなければ成らなくなったと言うことである。これを怠り、ネットでの世間常識を頼りにして生きていたのではご覧の通り、乱雑なユーチューブ動画やネット上の広告や詐欺メール等の虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な情報に翻弄されることは避けようがあるまいからである。 

 思想・哲学・宗教をそれら世俗世間の事象と同列に語るのは抵抗を感じるかもしれないが、「生き物人間か餓鬼か」の世界では旧統一教会やオウム真理教等々、宗教を語りながらほぼ犯罪的ビジネスを目的とした集団や結社もめずらしくないのが実情だからである。昔のことではあるが、「〇〇学会」や「〇〇の科学」等々には可なりの信者がいて、しかもそれがかなり若い信者だと言うことに驚いたことがあった。

 翻って、昔からの伝統的仏教の世界でも、迷い道に陥りかねないことに変わりは無い。「ただ念仏だ」「ただ信心だ」「只坐禅だ」と教えてくださっている法然上人や親鸞聖人、道元禅師等の方々の教えも、別の宗派からは地獄の道だと説かれるようなこともある。地獄には落ちなくても、念仏や信心、あるいは坐禅の道も釈尊の教えをしっかり学んだ上でなければ正しく理解することはできず、只の常識的な「世間虚仮」の仏教徒でしかないのは事実である。

 前にも触れたことであるが、浄土真宗での「領解文」の問題も、釈尊の説かれた真の仏法をキチッと領解していず、七高僧等々の解釈仏教の教えを受けて構築された複雑難解な親鸞聖人(蓮如上人)の教えに執着していることによる問題であろう。私も世俗的組織としては浄土真宗に属する仏教徒であるが、新旧のどちらの御文章でもいいように思う。どういうことか。

 私は浄土真宗の教えがよくわからずに釈尊の仏法を学んではじめて仏教がわかったと言うことは既に書いたが、その領解は「法によって成るこの世は何でも無いぞ。案ずるな。このことを正見・自覚した無分別・無執着の智慧の心を用意し、中道を行け」と言うことである。この釈尊の教えからして浄土真宗の教えについては「親鸞聖人と言う方は諸因縁により釈尊の教えを領解文のように領解されたのだな」と受けとめているだけである。勿論、他の宗派の教えも、更には菩薩も、真人間も、生き物人間も餓鬼も「それでいい」と言うのは同じであり、そのようにこの世の普遍的真実・真理・自然の法を領解した時には、世の世には問題や苦悩など生じようが無い。これが釈尊の説かれた救いの教えだと言うのが私の仏法の領解である。

 そうでは無く、「わが宗派の教えはこれだ。こうでは無いものは異宗であり、排除せねばならぬ」と、一言一句を争うようでは宗教戦争と同類と成り、仏法の精神からすれば本末顛倒であろう。浄土真宗の本山は信心を我執煩悩で捉えているのではあるまいか。元々は、蓮如上人の御文章を誰かが勝手に書き改めようとしたことに起因しているのだと言えようが。「みんなちがって、みんないい」の法の中での聞法求道と言う基本姿勢が崩れたらそれは仏教では無いと言わねばなるまい。 

 真人間として求道し、真の仏教徒として生きたいと言うのであれば、やはり釈尊の説かれたように、この世の普遍的真実・真理・自然の法によってこの世・世界・人生と言うものの何たるか(その何でも無さ)に目覚め、各自が自分自身の道を確立しなければ成るまい。「みんなちがって、みんないい」から外れたら浄土真宗は成り立たなかったはずである。

 即ち、真の宗教としての仏教はやはり、釈尊の教えを「なるほど、分った。これが真人間としての本当の道だ。この道ならいつ死んでも悔いの無い人生を歩める。この道を自分の道としよう」と言うところまで求道すべきだと言うことである。それが「朝に道を聞かば優美に死すとも可なり」(孔子)であろう。その「朝」は十年、二十年以上かかるかもしれないけれどである。

 仏法は二千五百年前に釈尊によって説かれてから、長い時間をかけ幾つかのの国を超え、無数の人々によって語り、学び、解釈を繰り返された中で私たちは聞き学んでいるのであり、そのどれが本当の仏教なのか、そして自分が学ぶべきはどの道かと言うことを思い定める必要があるため、結局は自分の仏道は自分で構築する他は無いのであり、仏法・仏道は当然のこととして生涯学習の道なのである。

 それが「物が」「金が」「あいつが」「病気が」「食品が」「企業が」「政治が」「経済が」等々と言った愚痴りの生き方をしてしまいかねない「生き物人間か餓鬼か」の自分自身の「人間革命をする」と言うことである。

 私たち根っからの我執煩悩の身がそれをやってどうなるかなど分かったものでは無いが、それでも、否、その故に、この世をこの世たらしめているこの世の普遍的真実・真理・自然の法に向かって求道せずにはいられない心が働くのである。そう言う者が仏教徒に成ればいいのである。

 

 それは、例えば只今のロシア・ウクライナ、イスラエル・ハマス等、あるいはそれに何らかの関係で加担する諸国に見るような「生き物人間か餓鬼か」と言う他は無い無明・無知・愚痴な常識人の世界から解脱すると言うことである。

 自由民主主義とか、社会共産主義とか、西とか東とかの世間の常識(イデオロギー)で生きるのは生き物人間としてのチエで在り、この世の普遍的真実・真理・自然の法を知らず求めず無関心な無明・無知な存在として迷妄・苦悩・地獄道を生きる他は無いと言うのが現実の人間世界である。これは善悪、賢愚・損得では無い。これは世界人類の歴史で見る通りであり、そして21世紀の今日でも同じこの世の普遍的真実・真理・自然の法のすがたなのである。

 そして、だから、不可思議な因縁によってはそうはありたくないと思い求道心が働き、真人間で在りたいと思う者も稀には生じると言うことである。問題は、「あいつが」「こいつが」では無く、「自分はどういう道を生きたいのか」と言うこと、ただこれだけの問題である。犬猫でもそれくらいの心は働いているのではあるまいかのような気がするのだが。戦争を当然の常識としているかのような人間は犬猫にも及ばない「餓鬼」としか言いようが無い所以である。善悪では無いけれど。

 

 いずれにせよ、そんな「生き物人間か餓鬼か」の世界におけるわが心に革命を起こすとは、それは「この世は『何でも無い』。あるがまま、成り行くままですべてよし」と言う、目の前の現実・事実としての普遍的真実・真理・自然の法に目覚めて、生死を超えた仏道を生きると言うことである。簡単に言えば、「常識的人生を卒業する」と言うことである。

 真に自分自身を生かす真の自由民主主義は、この世の普遍的真実・真理・自然の法の下における「みんなちがって みんないい。すべてよしだ。われはこの道を行く」の中道によってこそ実現するのである。

 この世の普遍的真実・真理・自然の法と共に生きて死んで行く心さえ用意できれば、その道は極道でも、世間道でも、そして仏道でもいいであろう。仏教徒の道も、高倉健さんの唄う「俺が選んだ道」と同じである。

 世間で言う多数決の原理での自由民主主義のルールは、少数意見の者を多数意見で縛ると言うものであるが、元来「何でも無い」事象は、そこで何がどう取り決められても、結果として「あいつが」「こいつが」のゴタゴタした、只煩わしく悩ましいだけの迷妄・苦悩・地獄が絶えることが無いのは法・因縁としての普遍的真理であることはご覧の通りである。「生き物人間か餓鬼か」の無明・無知な常識人の自由民主主義は即「自我中心的わがまま主義」であることは明白であろう。

 真の自由民主主義の実現はこの世の普遍的真実・真理・自然の法には全く無関心な無明・無知・愚痴な「生き物人間か餓鬼か」の世間常識を捨て超えた(それから解放された)個々人によってしか実現しないのである。それが仏・釈尊による人生苦からの救いの教えである。

 

 その前の根本として、この世は不可思議な普遍的真実・真理・自然の法によって成っているのであるが、人間にはこの世は何のためにあるのか、そして人類、あるいは自分は何のために誕生したのか等々のことはとてもわかりようが無いことだからと言うことに成ろうが、それは常識的に考えてみても、「自我・自分」と言った自覚も無いまま人間として生まれさせられて来て、この世・世界・人間(自分)・人生とは何かも分からないまま、有無を言わさず、只生き物の一種としての人間として生存欲(欲望・感情の我執煩悩)のままに今日とも明日とも知れない儚い命・人生を「人生は生存競争だ、戦いだ」と自らに言い聞かせられながら「生き物人間か餓鬼か」の迷妄の日々に明け暮れ、しかもまた死後のことなどさっぱりわかりようの無いまま人生を閉ざされてしまうと言うことである。

 これでは誰もが「生き物人間が餓鬼か」と言った本能的生存欲(我執煩悩)のままに、迷妄・苦悩・地獄の「あるがまま、成り行くままに生きて死んでゆく」他は無いであろう。

 

 それでは、その真っ暗闇の中での野放図な生存欲(我執煩悩)での生存闘争とあっては真の敵も味方もわからないままの生存闘争と成り、そりゃアフリカの動物たち以下の「生き物人間か餓鬼か」と言った生き方と成って当然と言うことである。

 人間はそんな何もわからない無明・無知のまま成長し、只「生き物人間か餓鬼か」のチエで雲か霞か煙か霧かと言った物・カネ・愛・地位・名誉・家族・子孫・領土・国家等々の「何でも無い」事象を、どれが、何が有か無か、成可否か、善か悪か、損か得か、敵か味方か、勝か負けかと言った虚妄分別をして利益を上げよう、名声を得ようと言うのが人間世界で行われている産業・経済・金融、政治、学問・教育、医療等々の国家社会の基本的な営みだと言えようが、そんな無明・群盲の人間社会がまともに運営されるわけは無いであろう。

 だが、イワシの群れのような群盲は、自分たちがどこへ向かっているのかもわからないまま、只まわりの流れについて行くチエしか働かないために、「信号を、見分けるチエは無いけれど、みんなで渡れば怖くない」と言うことなのであろう。

 そこでは自由民主主義か、独裁政治家など関係ない。人生苦(人類苦)の真の敵は、自分自身の際限のない貪欲な我執煩悩の心であると言うことがわからないのが無明・無知・愚痴な「生き物人間か餓鬼か」と言った存在であると言うことである。

 平たく言えば、そのようなわかりようの無い、分別の仕様も無いこの世・世界・人生をそのまま素直に「今日は今日、明日は明日の風が吹く」と正見・自覚せよと言うのが仏の教えだと言うことだと何度も書いてきた。そして、その教えに素直にうなずけない分だけ人生苦が生じることになる。こんなわかり易い話は無いのではあるまいか。

 不可思議な因縁により、たまたま私はそのような「生き物人間か餓鬼か」と言った世間に深い疑問を感じて別の道を求めていたところ、「自分の求めていたものはこれだ!」と言える仏・釈尊の教えに出遭えたと言うことである。

 

 そこで、そんな道を求める心のある方には、是非、釈尊が説かれた簡明な、この世の普遍的真実・真理・自然の法の教えを聞き学んでいただきたいと思うのであるが、そこでまず、最初に注意しなければならないのは、釈尊の説かれる「真実・真理・自然の法」と、世間で言われている「真実・真理・自然」は全く異なると言うことである。この点は仏教徒としての根本条件である仏性の心が関わることであり、避けて通れない最初の難関だと言えよう。

 即ち、釈尊の説かれるそれはあくまでも人間の意志(欲望・願望・理知)の決して通用することのない、事象のはるか向こうの方で働いている只不可思議な絶対的「普遍的真実・真理・自然の法」であるため、その法の教えには生き物としての人間のチエの心では及ばず、「普遍的真理とか仏法とか、そんなものは…」と一蹴してしまい、そこで頼りとされている「真実・真理」とは殆どの場合、生き物人間としての関心事である物・カネ・愛・地位・名誉等々に関連した事象限りの、空模様のような、風のような、木々の枝葉のような、そして人の心や言葉・行為のような「何でも無い事象としての現実・事実」が自分の欲望・願望・理知に照らしてどうかと言うことでその「是非・真否」を分別(妄見)してしまうと言う、痛ましいほどに哀れな迷妄・妄見のすがたなのである。このことは国会審議で日々展開されている愚聞愚答でおなじみのことである。

 それがどうして痛ましいほどに哀れなことかと言えば、例えば、空模様を見て、ある者は「今日の天気は晴れだ」と言い、他の者は「否、これだけ雲が出ていれば曇りだろう」と言うと言った具合である。が、そんな議論をしている間に空模様はどんどん変わってしまうし、あるいは、ある者が「今日は晴天でいい天気だ」と言えば、ある者は「いい天気どころじゃないぞ。雨が降らないで野菜が枯れてしまっているに!」と言った具合である。

 大臣が答弁で「私にはそのような記憶はありません」と言ったその心と言葉は何時でも訂正されたり撤回されたりする。全くの嘘であることもしばしば再々である。そのような答弁の心や言葉は事象としての事実ではあっても、全く真実ではない。大臣の心も言葉もあぶくのようなものなのである。

 では、そこでの真実・真理・自然とは何かといえば、それは人間の心や言動を含めたこの世の一切の事象は只「無常・無我・空」(何でも無い)と言うことである。

 人間と言う生き物が名利を求めて政治家に成り、大臣と言う職を得てそれを維持しようと思えば嘘の答弁をするのは大臣として、あるいは政治家としての大事な仕事、手腕だと言うことであろうが、これもすっかり常識と成っていて、そのような政治家がむしろやり手とされ再選されていると言うことである。

 が、人間世界・人生における一切の事象は大なり小なりみなそれであり、そこには信じたり、頼りにしたりすることの出来るものは断じて無いと言うことである。

 勿論、例えばそのような事象の中では、政治家の働きによっって公共施設が出来た、補助金が支給された等々の恩恵を受けて助かったと言うこともあろう。が、それで人生苦が解消されるかと言えば、むしろその逆と成ることが多いであろうことに気づくのは難しいかもしれない。物・カネで人生苦が真に解決することは無いからである。

 そうである。大方の人々はみんなみんな「うつつ(事象)に翻弄されてまこと(真実・真理・自然の法)を抜かしている」と言うことである。本末転倒とはこのことであろう。

 では、人間は何を信じ、頼りとすればいいのかと言うなら、それが「仏法によってこの世の『何でも無さ』を正見・自覚し、あるがまま、成り行くままですべてよしの無分別・無執着の智慧の心であれ」と言う仏・釈尊の教えだと言うことを何度も書いてきたのである。納得が行くか行かないかはともかくとして、私にはこの他には仏教は無いように思う。

 物・カネ・愛等々の事象の分別による有無、成否、善悪、損得、勝敗、幸不幸等々(喜怒哀楽や毀誉褒貶等の事象)には真実・真理などあり得ないと言うことである。それはすべて、常に流動している無常・無我・空なる「何でも無い」事象だからである。

 つまり、「この世の普遍的真実・真理・自然の法」とは人間にとってはどこまでも不可思議なのであるのに対して(精々正見したところが無分別の「真如・一如」である)、人間世界で言う「真実・真理・自然」はあくまでも、「その日はどんな天気であったか」と言うような「何でも無い」事象に対する各人の自我中心的虚妄分別だと言うことである。

 この点に心が及ばないと、どうしても歴史を含めた現実・事実としての事象限りの全く当てに成らない流動的無常な事象を真実・真理・自然として語り、主張することに成ってしまうことに成ろう。そしてその虚妄分別の対立がそのまま争い・戦い・戦争等、人生苦の原因と成っているのである。

 言い換えれば、仏の教える深遠なる絶対普遍の真実・真理・自然の法では「無分別・無執着の心でのすべてよし」の生き方しか出て来ないが、人間世界で言う全くの虚仮成る「何でも無い」事象を自我中心的に虚妄分別した真実・真理では、争い、戦い、戦争と言う迷妄・苦悩・地獄は避けようが無いと言うのは 只今のウクライナやイスラエルでの戦争、あるいは我が国の安倍元首相事件や政治資金疑惑等々に見る通りである。

  

 次に、真人間であろうとするときに大事なことは、釈尊の説かれる「真実・真理・自然の法」と、世間で言われている「真実・真理・自然」は全く異なると言うこととに関連したことであるが、真人間であろうとする者においては、生き物としての我執煩悩一本鎗で生きるのも、法の道を求めて一切の執着を断ち、生死を超えて安穏に仏道を生きるのも、共に普遍的真実・真理・自然の法によるものと言う絶対平等の自覚を持ち、そこでは是非・善悪・損得等々の分別の余地は無いと言うことである。

  即ち、真如・一如の「無分別」の見方こそは普遍的真実・真理・自然の法に沿った正見と言うことであり、何かを分別したら即「妄見」と言うことで苦悩を招くと言う点が仏教では極めて大切であり、この心が具わらなければ真の仏教徒には成りようが無いと言うことが言えよう。そしてその「無分別の分別」の道が「中道」(仏道)だと言うことである。

 この世・人生の「何でも無さ」を正見・自覚し、「すべてよし」の、生死を超えた普遍的真実・真理・自然の法に依拠した心で生きようとする無分別の心においては憎しみや争い等の苦悩の生じようが無いわけがここにある。

 ただ、全くの無分別では確かに暮らしてゆく上では不都合であるから、いわゆる俗諦としての分別は不可欠であろう。しかしそれはあくまでも方便としての分別であり、決して断じてその分別に心・人生をゆだねては成らないと言うことである。ここに「無執着」と言うことの大切さが大きく浮き上がってくるのである。

 仏の心を慈・悲・喜・捨の「四無量心」として説かれるのは、仏の心をこの世の普遍的真実・真理・自然の法そのものに重ねて見た表現であろうが、真の仏教徒でも仏性の心の働き具合(求道心の強さ)は色々様々段々であり、真人間で在りたいとは思いつつも仏に成るのは至難だと言わねばなるまい。

 しかし求道者においては仮に苦悩が生じてもその頻度は少なくその苦悩も極めて軽いと言うのは必然のことである。世俗世間の「煩わしく悩ましいこと」から解放されるためにこど求道しているのだからである。

 私のブログを読んでくださる方にはそのような仏性の眼差しがあってのことであろうと思われるが、「なるほどなぁー」と言う思っていただけたら、そこから求道心として動き出されることをお勧めしたいところである。 

 その求道はなるべく若い年代からがいいのは言うまでも無い。また、人によりけりだが、求道を楽しくやるには出家するより在家での求道の方が「世間虚仮・唯仏是真」がわかり易くて面白く学べるかもしれない。

 いずれにしても、仏道は真人間で在りたいと思う心(生存欲である我執煩悩よりも、真心・真の自己を大事にしようとする心)の道であり、それは必然的に政治等の虚仮・虚妄・嘘・欺瞞の渦巻く「生き物人間か餓鬼か」と言った迷妄・苦悩・地獄の世間の常識道は虚しすぎてついて行けないと言う者の道である。

 仏法・仏道はそのための道なのであり、決して難しい修行の道では無い。自分の心一つで出来る迷妄・苦悩・地獄道から解放される安穏・快適・常楽そのものの道なのである。

 

 物・カネ・愛・地位・名誉等々の世間道は確かに馴染みやすく甘美であり、その時は幸せいっぱいの感はあるが、今日で言えば、それは甘くておいしい砂糖や添加物たっぷりのお菓子や総菜・酒・たばこのようなもので、それに馴染んでしまうと取り返しのつかない病気に成ってしまうのと同じで、折角の人間としての命と人生を真人間らしく爽やかに過ごしたいと思うのであれば、やはり「世間虚仮」の煩悩暮らしでは無く、「唯仏是真」の安穏・快適な生死にしてはどうかと思うのである。

 ただ、私にはわからないが、この世の普遍的真実・真理・自然の法にも「俺は癌や透析に成っても心筋梗塞や脳梗塞に成っても構わん。食いたいものを食い、飲みたいものを飲む」とか、「人間は生き物だ。戦わない人間・人生なんて腑抜けだ。生き物である意味は無い」と言うような人間も居ないと具合が悪い事象があるのであろう。

「すべてよし」とする他は無い所以である。

 尚、近年、ユーチューブ動画と言う超便利な物が普及していて私も大いに楽しませていただいているが、こうなるといよいよ「世間虚仮」のあだ花が咲き乱れることに成り、人々はますます迷妄・苦悩・地獄へ陥りやすくなるだろうなと言う思いがしている。しかしここでも真心・真の自己と言う真人間として心さえ働いていれば、むしろそこで「世間虚仮・唯仏是真」をより学びやすく成るであろうとも思う。つまり、要はその人の心次第ということであり、即「不可思議な因縁次第」「すべてよし」「この世・人生など何でも無い」と言う「仏法(唯仏是真)」に帰着するのである。

 

 

 今日では百歳以上の人が珍しくないようであるが、透析通いや半身不随、あるいは認知症等での寝た切りに近い状態での長生きはあんまり嬉しくはあるまい。

 「この世は『何でも無い』。あるがまま、成り行くままですべてよし」と言う、無条件絶対の安穏・快適な暮らしに向かって、その練習である仏道を人生のなるべく早くから心掛けていると、70歳~80歳以降の老後の難関も案外とすんなり通過できるであろう。大事なことは、自分の真心や趣味と合わない道・人間・世界・仕事とは関わらない、距離を置くと言うことである。

 私も、長生きすりゃいいってもんじゃないことはわかっていたが、お陰でまだまだ車のアクセルとブレーキの踏み違いの危険性は感ぜず、ドライブも楽しめている。とにかく精神的ストレスが無いと言うのがいいのであろう。心が快適だと身体まで元気に成る。だから毎日の90分程度の河原での散歩や野菜づくり、あるいは週四~五回ぐらいコーヒーショップでの3時間ほどの気ままな求道も実に楽しい。

 そんな日々の私の求道は、空行く雲や風・水・草木・鳥・虫たちの「あるがまま、成り行くままですべてよし」の自然を師としていることが多い。そこには普遍的真実・真理・自然の法そのものが直に学べるからである。つまり世間常識は反面教師と言うことに成っている。釈尊もそのようにして法を究められたのであろうが、私もささやかながらそんな趣味のご縁に恵まれたことを只々有難く思うばかりである。

 だからであろう、その喜びを有縁の人にもと、心に沸き起こったことをまた書いてみた。