それは、真人間としてこの世の普遍的真実・真理・自然の法の道を求めつつ生きようとする真心(ここでは仏性の心での求道心)が働かず、大方の人間の生き方である世間の常識道を生きているとどうなるかと言うことでもある。

 常識道とはご覧の通り、生き物としての人間の野放図な生存欲(欲望・感情)で生きる絶対多数の道であるからそれによって生きる道は目先的には安心感はあろうが、如何せん、それは普遍的真実・真理・自然の法に違背した生き方であるために、戦争状態に至れば言うまでも無いが、戦後のこれまでの日本のように仮に平和な環境で長生きが出来たとしても、個々の人生においては「無明・我執煩悩の独り舞台」を演じることと成り、戦時下と変わりのない迷妄・苦悩・地獄の人生苦は避けようが無いと言うこと、人間世界をご覧の通りである。

 それが、

〇 生きるために生きる(決して適うことでは無いものを生存欲に尻を叩かれて)

〇 貪るために貪る(自分で使いこなせないことを承知の上で貯め込むために貯め込む)

〇 妄見するために妄見する(この世を正見する智慧の眼が働かないために) 

〇 苦悩するために苦悩する

〇 慢心するために慢心する

〇 貶すために貶す

〇 怒るために怒る

〇 怨むために怨む

〇 憎むために憎む

〇 争い戦うために争い戦い、殺すために殺す(餓鬼道の典型)

〇 死ぬために死ぬ(本当は死にたくないのに自分の我執煩悩に蹂躙されて)

〇 みんながやっているから自分もやる(イワシのチエ)

〇 世間の常識に追従する(そこには自分自身の心・人生は無く、とにかく世間体を保つために世間常識に関心を持ち、あるいは政権を維持したり売り上げを増やしたりすために群盲の庶民・国民の意向に沿った毛バリを使って釣り上げる等々、要するに自分の我執煩悩に翻弄されているだけの人生)と言うようなことであろう。

 

  これを読んで、「そんなバカなことを誰がやるか!」と思われる方がいるかもしれない。

 が、仏性での求道心が全く働かず「普遍的真実・真理・自然の法なんてそんなものは…」とか「仏法なんて…」と言う普通の常識人?においては、生き物としての人間の生存欲(欲望・感情の我執煩悩)で自我中心的虚妄分別をしつつ生きる他は無いため、上記のような「我執煩悩の独り舞台の人生」は必然と成ってしまうのである。が、「普遍的真実・真理・自然の法なんてそんなものは…」と言う無明な心では自分の無明・無知に気づくことも無いため、当然の常識として、あるいは「基本的人権だ!」「自由民主主義だ!」と言う思いで、自分でも気づかぬうちに上記のような暮らしに明け暮れているのである。

 確かに、この世の普遍的真実・真理・自然の法そのものは事象では無いからわかり難くはある。が、常識的な人間でも一切の事象の上にその働き(因縁・縁起)を見ることは出来るし、また見ても居るのである。だから上記のようなこともかなりは加減されてはいるのだが、ここで「わかっちゃいるけど…」の我執煩悩が真理の法に生きることを許さないのである。ここに、真人間としてのまともな道を生きるには、我執煩悩を能く抑えることの出来る仏性の心での健全な求道心の働きが不可欠と成るのである。

 人間には理性がありそんな愚かしいことをやるはずは無いと思いたいかもしれないが、人間の理性は多くの場合我執煩悩の手助けをするだけで殆ど意味は無い。それは「ついかッとなって…」と言うようなことばかりでは無く、例えば、太平洋戦争の開戦や、日本国憲法第九条を変えて戦争のやれる国に成るべきだと言うようなことさえ「理性」としての分別だとされると言うことである。(ウクライナ・台湾・尖閣…も)。

 あるいは、そのような常識信仰の人は、「常識的な人間なら、この世・世界・人生など何でも無い。あるがまま、成り行くままですべてよしだなど、そんな不真面目で無責任な生き方は出来ないはずだ」とか、あるいは「慈悲の心とか、思いやりだとか言うけれど、この世は食うか食われるかであり、そんなことを言ってては自分が生きて行けないじゃないか」言いたいかもしれないが、ではそう言う常識人の真面目で責任のある生き方とは一体何なのか、あるいは自分を守るのは自分だと言うその暮らし方がどうなのかと言えば、上記のような迷妄・苦悩・地獄作りのための人生と成っているのだと言うことではあるまいか。世界の実情をご覧の通りであろう。

 

 要するに常識人とは、「普遍的真理に沿った無条件絶対の安穏・快適・常楽な(真人間としての)人生など面白くない。やはり自分は喜怒哀楽や毀誉褒貶の世間常識的な生き方の方が好きだ」と言う「生き物人間か餓鬼かの心」で、欲望と感情のままに迷妄・苦悩・地獄道を行く絶対多数の人々と言うことであって、それは決して「正常だ」と言う意味では無く、むしろ「無明・無知・愚痴」を意味しているのである。

 たまたま、相手を思いやったような言動をしたとしても、その多くは「お世辞」か「情けは人の為ならず」の欺瞞であろう。

 総じていえば、そこにあるのは自我中心的な幸せを求めつつ無明・無知・愚痴な心で迷妄・苦悩・地獄の人生を只虚しく過ごすと言った世間常識の生き物人間のすがたであり、そこには「一体、この世・世界・人生(命・心等)とは何なのか」と言った真人間として生きる道は求められることは無いし、またそのような教育も為されてはいないか、むしろ禁止されていると言った状態であり、そうであれば仏どころか真人間にさえなり様が無く、そこではただ野放図な生存欲で物・カネ・愛・地位・名誉等々を争い求めて生きる「生き物人間か餓鬼か」の生存競争の道を世間常識から学ぶだけと言うことに成って当然と言うこと、ご覧の通りである。


 つまり、大雑把に言えば、「生き物人間か餓鬼か」と言った我執煩悩に忠実な「世間の常識」を見習った生き方をするか、それともそのような常識的な生き方について行けず、「真人間」であろうと「この世の普遍的真実・真理・自然の法」を聞き学びつつ求道の人生を歩むかと言うことの違いだと言えよう。

 それは善・悪では無く、不可思議な因縁による趣味の違いだと言っておこう。「味気ない仏道より喜怒哀楽や毀誉褒貶の世間の方が人生らしくて面白いじゃないか」と言うことでもあろうか。「これが自分だ。自分はこれでいい」と言う自覚で生きていればいずれでもいいと言う他はあるまい。

 近・現代における「生存権」や「自由民主主義」等の我執煩悩思想は人間世界の迷妄・苦悩・地獄の火に油を注ぐことにも成っていると言うことは何度か書いたが、これらの西欧思想は封建領主からは解放されても、自らの「我執煩悩の奴隷」から解放される道には成り得ないことに気づかねばなるまい。

 人類世界における最大の悲惨・愚悪はやはり戦争であろうが、人類史における戦争で「あの戦争だけは人類にとってやって良かった正義の戦争であった」と言えるものがたった一つでもあるであろうかと言うことである。否であろう。

 見ればわかる通り、そして日々体験している通り、「今日は今日、明日は明日の風が吹く」と言う他は無い「何でも無い」この世・世界・人生であることを正見・自覚していれば戦争など絶対、絶対のこととして考えられないはずであるが…、人間とは実に愚かしく哀しい生き物なのだと言うことをつくづく知らされるのである。そんな人類においてITやAIに一体、何の意味があるのであろうか。そこに普遍的真実・真理・自然の法に目覚めた智慧が伴わない限り、それは真の人間性を破壊する科学者・政治家等、生き物人間の知的煩悩による危なっかしい悪戯ごとでしかあるまい。

 

 その、見ればわかるこの世・世界・人生の「何でも無さ」を仏法(因縁・縁起、無常、無我、空、中道、涅槃)によって正見・自覚し、その無分別・無執着の智慧の心で迷妄の生死から解放され、無条件絶対の安穏・快適な暮らしをすべしと言う、実に明白・簡明な普遍的真実・真理・自然の法の教えが、仏・釈尊の教え・仏教なのである。この他に仏教などありはしない。

 ところが、この簡明な釈尊の教えを日本の各宗派の教えでは、何とも難しく、ややこしく、信じ難い教えとして説かれているため、私のような愚鈍にはとても難しくて「もう結構です」と言いたくなってしまうのだが。

 ただ、その辺の所は奈良・平安・鎌倉・室町時代にはまだ釈尊の教えを最もよく伝えていると言われる阿含経は伝えられてはいなかったようで、日本の宗祖の方々は中国からの大乗仏教にしか触れることが出来なかったようなので何とも言いようが無い。

 ただ今、浄土真宗本願寺派では「新しい領解文」のことがいささか問題と成っているようであるが、これも大乗思想によって「方便」として説かれた浄土教の虚仮・難解さの表れの一端だと言えよう。

 親鸞聖人の教えは大乗仏教限りの「七高僧の教え」であり、釈尊の本則的な教えとは全く別の教えなのだが、これには今述べた歴史的仏教伝来の成り行き上のことと、それに関連して、親鸞聖人が若い頃の20年間、堂僧としての修行において何をどう学ばれたのがよくわからないこと、そしてもう一つ、はっきり言えそうなことは親鸞聖人の仏性の心の純真さによるものであろう。

 これらの因縁によって成った親鸞聖人の独特の「他力の信心」なのであり、これらを経験することの不可能な浄土真宗の門徒に「親鸞聖人の信心をそのまま受けよ」と言うのは、これは無理難題と言うものである。親鸞聖人の思いは釈尊が説法をためらわれた心境に似たようなものでは無かったろうか。親鸞聖人においては、ただ人生苦に喘ぐ同朋・庶民に弥陀の本願・慈悲による救いを一人でも多くの人に伝えることが出来るならばとの思いからの布教だったのであり、弟子だの宗派の建立だのと言う思いは無かったようである。

 勿論、親鸞聖人はご自身の九歳からの求道心により、結果としては「他力の信心」のお悟りを門弟に平易に説き教えてはおられるのだが、例えば阿弥陀仏の本願の頼もしさを「摂取不捨」と説き、これを「逃げるものをおわえとって救うと言うことだ」と言われるように力強く説き語っておられるのであるが、それでも文字通りの無明・無知な煩悩具足の凡夫に信心を芽生えさせることは容易ではなかったのであり、つまるところ親鸞聖人も「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」とするより他は無かったのである。

 つまるところ仏教とは、釈尊の説かれたこの世の普遍的真実・真理・自然の法によって成る「何でも無い」この世のことは、「あるがまま、成り行くままですべてよし」の智慧、あるいは信心より他は無いと言うことなのである。

 私には、当然のことながら真の大乗仏教と言うなら、善人・悪人、自力・他力、難行・易行等々の虚仮なる分別とは関係なく、絶対普遍の真実・真理・自然の法あるいは仏に真心を向けることの出来る有縁の者(仏性の心での求道者)がその「仏・法」の教えを学びつつこの世の現実・事実としての『何でも無さ』を正見・自覚し、その智慧、あるいは信心によってその法・仏に信順・帰命することがすべてであり、このことをとわかり易く説かれた釈尊の「本則仏教」こそは大乗だと言え、方便として色々と細かく説かれた「難解な大乗仏教」は、「乗り物」としては大きいのかもしれないが、大きな無明煩悩を抱えている私を始めとした大方の凡夫には、その桟橋が狭く、迷路が多くてなかなかに本願船に乗り込めないと言うのが実情なのである。

「親鸞会」と言う浄土真宗の会派の方々の主張も、「新しい領解文」の問題と同様、本願寺派との間で何らかのしころがあるかのようである。弥陀の願船への桟橋のどこかに我執煩悩が引っ掛かっているのではあるまいかのような気がする。

 私は「弥陀の願船」を、釈尊の慈悲で説かれた「法」と同一視して理解しているので、問題の生じようが無い。これなら感性的仏性の心で仏教に接している方々にも容易に乗り込めるのではあるまいか。またこれより他には、ただ「信じ込む」他は無い方便虚仮として説かれた浄土教の阿弥陀仏の救いの「難信の法」の弊害を緩和・解消する方法は無いように思える。

 浄土真宗の教えで救われた方々の例はよく、妙好人と言うことで語られることが多いが、そのような方はみな感性としての仏性の心の方々のようであり、親鸞聖人の細々とした緻密な教義を理解した信心で救われたのでは無いように思われるのだが。

 

 即ち、大乗仏教はインドの大乗仏教時代の多くの仏?たちによって説かれたものであり、それがどの程度釈尊の教えを深く理解されて大乗経典を説かれたのか、いささか疑念が残るのである。第一「大乗」と言う発想からして煩悩なのではあるまいかと言う気さえするのだが。

 仏教においては仏性による求道心が健全に働くことの不可欠性は否定の仕様が無いように私には思えるのであるが、これを軽視したかのような大乗思想は、これは「船山に登る」の類と成ろう。だから大乗仏教は必然的に多種多様と成り、日本の各宗派は更に多数の分派に分かれているのである。

 それはそうであろう。その各宗派の宗祖方の説かれた教えもそれぞれの宗祖の独特の個性によって説かれた個性的仏道と成っているのであり、その思想に感じ入り信じ込まねば救われないと言うのでは、これはとても、誰もが納得して歩めるような大乗では無いと言うことから分派が進むのである。

 にもかかわらず、日本での宗派仏教がこれまで続いて来たのは、葬式や先祖供養の法事等のための「寺・僧侶」と言う、仏教では無い庶民行事としての宗派仏教だったからに他ならない。少しきつい言い方をすれば、仏教における宗派間の対立・批判、あるいは教義上の惑い・もつれ等々は、それ自体が我執煩悩による虚仮仏教、あるいは虚仮仏教徒だと言うことの証だと言えなくもない。さて、そんな仏教、今後どう成って行くのであろうか。

 私にはやはり「今日は今日、明日は明日の風吹く」と言う他はあるまい。産業・経済・政治・文化・戦争・平和等々ばかりでなく、仏教をも含めた目の前のこの世の現実・事実としてのこの世・世界・人生の「何たるか」(その「何でも無さ」)を、普遍的真実・真理・自然の法として解き明かされている釈尊の簡明な教えが性に合っていると言うことであった。

 

 いずれにしても、スマホやNSN、あるいはテレビ、ユーチューブ動画等に見られる人間世界のすがたはほゞみな上記に列挙したようなすがただと言えよう。

 そんな情報や人生に趣味が合う方は勿論それを楽しめばいいのであるが、趣味が合わない方や、こんなことをやってていつか死んで…と言うことに疑念を抱ける方には、釈尊の説かれた仏法・仏道なら趣味が合うのではあるまいかと思われお勧めしたいと言うこと、いつものことである。

 「生き物人間か餓鬼か」では無く、「真人間」としてこの世の普遍的真実・真理・自然の法に生きるのが仏教徒なのだと言えようが、ご覧の通り真の仏教徒は極めて少ない。そのため仏道を生きるのには周りの抵抗もあり、かなり勇気のいることかもしれない。しかし、その心(仏性による求道心)さえあれば、これほどたやすく、安穏・快適で楽しい道は無い。何故なら仏道は禁欲の道では無く、「無分別・無執着」の道である仏道(中道)は、やってみようと思うことは何でもやれる、実に自由で楽しい道だからである。

 これもまた孔子の教えから言えば、「七十にして心の欲する所に従へども、矩を超えず」だからである。勿論、七十歳に限ったことでは無い。五十歳でも九十歳でもいい。その領域に至ると、「あゝ、これが真の人生を言うものだな。人間に生まれ、そして仏縁に恵まれてよかった。死など問題では無い。有難いことである」と思える、安らかな晩年を過ごせることであろう。「眠るがごとく…」とはそれではあるまいか。

  素晴らしいと言えば素晴らしく、愚劣と言えばこの上ない愚劣な、要するにどうにでも取れる「何でも無い」この世・世界・人生である。

 今生での「世間向けの人生」や、「あの世」とやらの「何でも無さ」を仏法に照らして正見・自覚すべきであろう。「法に照らして只今の自分の心を整えよ」と言うこと、これが仏・釈尊の救いの教えのすべてなのである。

 

 自分の明日の命は元よりだが、これからの人類世界の転変ぶりはこれまでとは異なり、5年、10年先さえどうなるか見当がつかないと言った状態であり、「この世は何でも無い。あるがまま、成り行くままですべてよし」の正見・自覚が一層に強く望まれる世界・人生と成るのは間違いあるまい。つまりそれは「真如一実」の世界に心を据えると言うことである。

 私は自分自身は今生で仏に成れる自信など無いので、仏の道を探りながら生きつつもそれは「真人間としての道」と心得ているのだが、当然のことながら、仏法・仏道は本来、仏に成るための道なのであって、生き物としての人間の幸せを求めて生きる道では無い。この点は他の宗教とは全く異なるのである。

 そういう意味でも、上記に列挙したような「生き物人間か餓鬼か」と言ったような虚しい限りの人間としての常識道を解脱することこそが仏に通ずる真人間としての道だと言うことである。

 「この世・世間を見ればわかる」程に簡潔・明白な釈尊の教えこそは大乗だと言うことを理解すべきであろう。宗派の違いや宗派内の細かな分別騒動などに惑わされているようでは、それは全くの小乗の証であり、煩悩の材料とは成っても「解脱」の助けとなることはあるまい。

 

 人口減や年金の不安、あるいはAI世界や核戦争に大地震等々、「この世は何でも無い。あるがまま、成り行くままですべてよし」と言う他は無いのが、見た通りの現実の世界・人生なのである。

 心ある方には、「迷妄・苦悩・地獄を生きるために迷妄・苦悩・地獄を生きる」ような世界・人生からは早めに手を引くか足を洗うかされることをお勧めしたいと思うこと、いつもの通りである。