端的に言えば、真人間であろうとする者には現状のような「生き物人間か餓鬼か」と言った人類世界を、「誰もの命と人生が大事にされている人類世界は素晴らしい世界だ」とは思えないであろうと言うことである。そしてまた、政治家が「馬鹿の一つ覚え」のように言う「我々政治家は国民の命と財産を守るのが使命である」と言うのも真っ赤な嘘か妄見であることも如実である。

 現状のような「飲んで食って、愛し合って、歌って踊って、名利を求めて虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な政治や企業や投資や戦争と言ったゲームに明け暮れていられて、人生は面白くて楽しいじゃないか。これでこそ人生だ」と言ったような人類世界は、確かに、人類の殆どを占める常識的人たちには面白くて素晴らしい世界なのかもしれない。しかしそれはやはり、無明・無知・愚痴な生存欲である「我執煩悩」一本鎗で生きる「生き物人間か餓鬼かの道」と言う他は無く、それを「真人間の道」と言うわけにはいかないのではあるまいか。

 

 日本時間で今朝、アメリカのトランプ前大統領が銃撃を受けたと言う。

 が、もう驚かない。安倍元首相の時もそうであったが、昔から政治家等の要職にある者が殺害されるのは常であり、「またか」、「さもありなん」の感である。99パーセント(もしかしたら99、99パーセントか?)が「生き物人間か餓鬼か」の世界ではそれが当然であろう。

 物・カネを奪い合い、戦争をやりまくり、殺し合う人間世界のどこがどのように素晴らしいのか、そんな人間の命がどのように尊いのか、私にはわからない。

 だから私は、この世・世界・人生の本質を仏・釈尊の教えに求めたのである。どこを見回しても、他に真面なことを教えてくれているところは無かった。

 すると釈尊は「この世・世界・人間・命・人生など何でも無いぞ。このことを仏法によって正見・自覚し、無分別・無執着の智慧の心を育てて中道を歩み、安穏・快適・寂静の存在と成れ」と説き教えられていた。

 生き物である人間が生きるには物・カネは必要である。だが今どき托鉢をして暮らすと言うわけにもいくまいから、平和的な物・カネの売買は必然なことであろう。だが暴力的な行為や殺し合いはやれないのが真人間なのではあるまいかと言うこと、これだけである。

 つまり、私に納得がいかないのは、国家・国民を挙げての殺し合いの戦争がどうしてやれるのだろうか。それを率先してやろうとするような指導者がどうして選ばれるのだろうかと言うことであるが、それが人の世の常なのである。「殺されても殺しはしない真人間であろう」とする者は国家社会を丸ごと捨て超える他は無いわけがここにある。

 だが、それでも私は「真人間」が良くて「生き物人間か餓鬼か」が悪い存在だと言うつもりは更に無い。普遍的真実・真理・自然の法の下においては当然のことながら「みんなちがってみんないい」と言う他は無いからである。ただ、性分・趣味の異なる生き物は心において住み分けるべきであると言うこと、これが釈尊の教えであると私は理解している。人間がアフリカの動物立ちと一緒に暮らすことはないではないかと言うことは何度か書いた。

 

 近年、量子力学と言うことがよく語られている。これは要するに、「仮想現実」とか「不確定性原理」ということで説かれているように、物質世界の最小極限の素粒子は粒子と波の性質を兼ね備えており、「量子もつれ」や「干渉」等と言った働きをしていて、数式として仮定することはできても、その世界は人間の認識能力を超えた世界であり、それをもって人間世界の常識的分別としたり、それによって何かを絶対視したりすることは出来ないと言うことの様である。

 私には量子力学の数式などさっぱりわからないが、その「何とも語りようの無さ」が量子の世界における「不可思議な因縁・縁起(此縁性)だ」、「生き物人間のチエで納得のいく世界では無い」と言うことなら、それはそうだろうなと理解できる。

 それは例えば、人間の心における「以心伝心」、「魚心あれば水心」、「霊感」、「インスピレーション」、「テレパシー」等々の、脳や心の働きの不可思議さにも通じるところがあるのかもしれない。とにかく、人間にとってこの世は只「不可思議」だ(分別し難いものであり、「何でも無い」もの)と言うことであろう。

 アインシュタインは、「相対性理論と量子力学を統一した統一理論の完成が必要だ」と語っているようであるが、それはまだまだの様である。

 だが、仮にその統一理論が完成したとしても、それによって人類世界の無明・無知・愚痴による迷妄・苦悩・地獄が解消されるわけでは無い。むしろ量子コンピューターによってどのような迷妄・苦悩・地獄が掘り起こされるかわからないと言った可能性の方が大きかろう。

 生き物人間のチエによる度の過ぎた知的煩悩による事象限りの科学的開発は人類の発展では無く、むしろ真人間としての人間性の破壊に向かうだけだと言う現実に気づくべきなのではあるまいかと思うのであるが、科学者は口を開けば「ノーベル賞を…」と言ったようなことしか心には無いようで、まさに「生き物人間学者」なのである。ただ、アインシュタインの人生をざっと知れば、只全くの物理科学者では無く、真人間性をも兼ね備えた望ましい科学者のように思えて親しみを感じる。

 

 やはり、心ある人はと言う他は無いが、そんなこの世・世界・人生をいくらかでもうんざり気分を少なくし、心から楽しいものにしようと思うならば、それはやはり、この世・世界・人生の「何でも無さ」を正見・自覚し、生死の世界(政治・メディア・経済・科学等「生き物人間か餓鬼か」のおぞましい憎悪・戦争の世界)とは距離を置いて「何でも無い。すべてよし」の智慧の心で、太陽や月・星・空・雲・風・山・川・草木・虫たちと語り合って暮らすのがいいように思う。

 大統領や総理大臣に成ったり、あるいは高位の勲章をもらったり、ノーベル賞をもらったりと言う仕事や榮譽は、一体、何のための仕事、何の功績なのであろうか。それがよく言われる「世のため、人のための仕事だ」と言うのは正気なのであろうか。その辺は私にはわからないが、まさか「生き物人間か餓鬼か」と言った世間の人々に褒め称えられ、歴史に名を残すためだなどと言うような虚しいことではあるまいと思いたいが…。

 

 政治とは、「民生活動」である。即ち、「生き物人間か餓鬼か」としての生存欲を発揮して生きる世界のまつりごとなのである。真人間としての生き方を探求する思想・哲学・宗教、あるいは教育の分野では無い。であれば、我執煩悩によって「俺が」「私が」と言った自我主張や、「あいつが」「こいつが」と言った憎悪によって「幸せを求めて迷妄・苦悩・地獄づくり出す」ことの他にはなり様があるまい。

 だから釈尊は「生き物人間か餓鬼か」の世界はひとまず置いといて(政治を放棄して)、真人間であろうとするものを救う道を求めて普遍的真実・真理・自然の法に向かわれたのである。

 ただ釈尊の説かれた法と道は「虚仮成る世間を捨てて法に生きる道」であるから、このことがわかる仏性の心での求道心が働かないことには始まりようが無い。

 「歴史に学べ」とか「歴史が評価してくれる」とかよく言われる。が、これも仏性の心で学んでその「何でも無さ」(虚仮・虚妄・嘘・欺瞞の歴史であること)を学んで初めて意味があるのであり、我執煩悩の心で歴史を学んだのでは「迷妄・苦悩・地獄道」の復習にしか成らないことはウクライナ等々の戦争に見る通りである。そしてまた事実、歴史が立証するのは間違いなく「この世の何でも無さ」であり、「人類の生き物人間か餓鬼か」と言った歴史のすがたなのである。

 古代からのことを語れば切りが無いが、只今の日本が米中の間に在って右往左往、迷妄苦悩しているのは、間違いなく明治政府の我執煩悩外交と軍国主義に原因があったと言わねばなるまい。そしてアジア太平洋戦争に敗れ、やがて米ソ対立を経ての米中が対立する中での田中角栄元首相の外交に仕掛けられたロッキードの罠、そして安倍元首相の外交姿勢を怨んでの暗殺であったろうと推測されているようである。トランプを狙撃した犯人は射殺されたと言うから、背後を探るのは難しいかもしれないが、個々の事象は問題では無い。

 

 これだけ日常的にこの世・世界・人生の「おぞましさ」「何でも無さ」を見せつけられ、教えられれば、「一体この世・世界・人間って何なんだ!」と言う大きな疑問が沸き起こるのは抑えられないのではあるまいかと思うし、そして仏法を学んでみようと言う若い人が幾らか増えているのではあるまいかと思うがどうであろう。

 お寺に行って…ではなくてもいい。今ではその気さえあればスマホからでも仏法を学ぶきっかけは掴めよう。

 仏教は、決して断じて死後のことを問題にした教えでは無い。仏教は、わけの分からないこの世・世界・人間・人生がどのようにわけがわからないのかを究めて簡明にわかり易く解き明かして下さっている、現実的、合理的救いの教えなのである。

 だから、例えば兵士や民間人ばかりでなく、首相や大統領が暗殺されるのも決して珍しいことでは無いと言う目の前の現実を見て、「あゝ、人間とか人生とか政治とか国家とか、一体何なんだ!?」と言う疑問が生じるのを抑えられないであろう真人間においては、(各宗祖の独特の仏道の歩み方の教えではなく)、この世・世界・人間・人生と言うものの何たるかを説いて下さっている、仏・釈尊の法の教えを聞き学ぶべきである。

 そこでは、「この世・世界・人生など何でも無いぞ、案ずるな。このことを正見・自覚した無分別・無執着の智慧の心を用意して中道を歩み安穏・快適に過ごせ」と言う教えは即座にわかる。勿論、まともな求道心の働く「心ある者」にはであるが。

 ほんの少しでもこの世・世界・人生と言うものに対して深い所からの疑問や矛盾を感じたら、それに対しては、虚仮・虚妄・嘘・欺瞞なサムネイルや広告等の「世間虚仮」につられて惑わされることなく、この世の普遍的真実・真理・自然の法によって真正面から応えてくれている仏・釈尊の教えそのものをまずしっかり学んで欲しいと思うし、またそのような方には必ず、「なるほど、わかった!」と成るであろう。

 仏教は、釈尊ばかりでなく、虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な「世間虚仮」(人間世界)も仏法を説いているのだからである。