時代はすっかりネット世界と成り、誰もがスマホを通じで混とんの中に置かれ、人はいよいよますます「犀の角のようにただ独り歩む」べき時代と成った。ITだ、AIだと言うこれど、科学者も含めて人はみな人間性や人生とは何かと言うことがつかみにくくなって来たのではあるまいか。

 それは、蜘蛛の巣(罠)に掛からないように、「これが自分だ!自分とはこれだ。これが自分の生きる道だ」と言える自分の思想・哲学・宗教を、時間をかけて歴史や先哲の教えから学びながら自分の心で人生を切り拓きつつ構築しなければ成らなくなったと言うことである。

 乱雑なユーチューブ動画やネット上の広告や詐欺メール等の虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な情報に翻弄されては成るまい。ドローンは確かに便利はいいが、戦争や犯罪にも使えるのである。 

 思想・哲学・宗教をそれら世俗世間の事象と同列に語るのは抵抗を感じるかもしれないが、「生き物人間か餓鬼か」の世界では旧統一教会やオウム真理教等々、宗教を語りながらほぼ犯罪的集団や結社もめずらしくないのが実情である。

 翻って、極々真面目で神聖な世界である伝統的仏教の世界でも、迷い道に陥りかねないことに変わりは無い。

 「ただ念仏だ」「ただ信心だ」「只坐禅だ」と教えてくださっている法然上人や親鸞聖人、道元禅師言う方々の教えも、別の宗派からは地獄の道だと説かれるようなこともある。

 宗祖に成るつもりは無くても、真人間として生きたいと言うのであれば、やはり釈尊の説かれたように、この世の普遍的真実・真理・自然の法によってこの世・世界・人生と言うものの何たるかに目覚め、自分自身の道を確立しなければ成るまい。

 と成れば、やはり真の宗教だと言える釈尊の教えを高僧方の教えを参考にしつつ「これが自分の道だ。この道ならいつ死んでも悔いはない」と言うところまで求道すべきだと言うことである。それが「朝に道を聞かば優美に死すとも可なり」(孔子)であろう。その「朝」は十年も二十年もかかるかもしれないけれどである。

 仏法は二千五百年前に釈尊によって説かれてから、長い時間をかけ幾つかのの国を超え、無数の人々によって語り、学び、解釈を繰り返された中で私たちは聞き学んでいるのであり、そのどれが本当の仏教なのか、そして自分が学ぶべきはどの道かと言うことを思い定める必要があるため、結局は自分の仏道は自分で構築する他は無いのであり、結局、仏法・仏道は生涯学習の道なのである。

 それが「物が」「金が」「あいつが」「病気が」「食品が」「企業が」「政治が」等々と言った愚痴りの生き方をしてしまいかねない「生き物人間か餓鬼か」の自分自身の「人間革命をする」と言うことである。私たちとは思想・精神のレベルは異なるが、釈尊も、そして高僧方もそれを為さった方なのである。

 

 それは、例えば只今のロシア・ウクライナ、イスラエル・ハマス等、あるいはそれに何らかの関係で加担する諸国に見るような「生き物人間か餓鬼か」と言う他は無い無明・無知・愚痴な常識人の世界から解脱すると言うことである。

 自由民主主義とか、社会共産主義とか、西とか東とかの世間の常識(イデオロギー)で生きるのは生き物人間としてのチエで在り、この世の普遍的真実・真理・自然の法を知らず求めず無関心な無明・無知な存在として迷妄・苦悩・地獄道を生きる他は無いと言うのが現実の人間世界である。これは善悪、賢愚・損得では無い。これは世界人類の歴史で見る通りであり、そして21世紀の今日でも同じこの世の普遍的真実・真理・自然の法のすがたなのである。

 そして、だから、不可思議な因縁によってはそうはありたくないと思い求道心が働き、真人間で在りたいと思う者も稀には生じると言うことである。問題は、「あいつが」「こいつが」では無く、「自分はどういう道を生きたいのか」と言うこと、ただこれだけの問題である。犬猫でもそれくらいの心は働いているのではあるまいかのような気がするのだが。戦争を当然の常識としているかのような人間は犬猫にも及ばない「餓鬼」としか言いようが無い所以である。善悪では無いけれど。

 

 いずれにせよ、そんな「生き物人間か餓鬼か」の世界におけるわが心に革命を起こすとは、それは「この世は『何でも無い』。あるがまま、成り行くままですべてよし」と言う、目の前の現実・事実としての普遍的真実・真理・自然の法に目覚めて、生死を超えた仏道を生きると言うことである。

 真に自分自身を生かす真の自由民主主義は、この世の普遍的真実・真理・自然の法の下における「みんなちがって みんないい。すべてよしだ。われはこの道を行く」の中道によってこそ実現するのである。

 この世の普遍的真実・真理・自然の法と共に生きて死んで行く心さえ用意できれば、その道は極道でも、世間道でも、そして仏道でもいいであろう。

 世間で言う多数決の原理での自由民主主義のルールは、少数意見の者を多数意見で縛ると言うものであるが、元来「何でも無い」事象は、そこで何がどう取り決められても、結果として「あいつが」「こいつが」のゴタゴタした、只煩わしく悩ましいだけの迷妄・苦悩・地獄が絶えることが無いのは法・因縁としての普遍的真理であることはご覧の通りである。「生き物人間か餓鬼か」の無明・無知な常識人の自由民主主義は即「自我中心的わがまま主義」であることは明白であろう。

 真の自由民主主義の実現はこの世の普遍的真実・真理・自然の法には全く無関心な無明・無知・愚痴な「生き物人間か餓鬼か」の世間常識を捨て超えた(それから解放された)個々人によってしか実現しないのである。それが仏・釈尊による人生苦からの救いの教えである。

 

 その前の根本として、この世は不可思議な普遍的真実・真理・自然の法によって成っているのであるが、人間にはこの世は何のためにあるのか、そして人類、あるいは自分は何のために誕生したのか等々のことはとてもわかりようが無いことだからと言うことに成ろうが、それは常識的に考えてみても、「自我・自分」と言った自覚も無いまま人間として生まれさせられて来て、この世・世界・人間(自分)・人生とは何かも分からないまま、有無を言わさず、只生き物の一種としての人間として生存欲(欲望・感情の我執煩悩)のままに今日とも明日とも知れない儚い命・人生を「人生は生存競争だ、戦いだ」と自らに言い聞かせられながら「生き物人間か餓鬼か」の迷妄の日々に明け暮れ、しかもまた死後のことなどさっぱりわかりようの無いまま人生を閉ざされてしまうと言うことである。

 これでは誰もが「生き物人間が餓鬼か」と言った本能的生存欲(我執煩悩)のままに、迷妄・苦悩・地獄の「あるがまま、成り行くままに生きて死んでゆく」他は無いであろう。

 

 それでは、その真っ暗闇の中での野放図な生存欲(我執煩悩)での生存闘争とあっては真の敵も味方もわからないままの生存闘争と成り、そりゃアフリカの動物たち以下の「生き物人間か餓鬼か」と言った生き方と成って当然と言うことである。

 人間はそんな何もわからない無明・無知のまま成長し、只「生き物人間か餓鬼か」のチエで雲か霞か煙か霧かと言った物・カネ・愛・地位・名誉・家族・子孫・領土・国家等々の「何でも無い」事象を、どれが、何が有か無か、成可否か、善か悪か、損か得か、敵か味方か、勝か負けかと言った虚妄分別をして利益を上げよう、名声を得ようと言うのが人間世界で行われている産業・経済・金融、政治、学問・教育、医療等々の国家社会の基本的な営みだと言えようが、そんな無明・群盲の人間社会がまともに運営されるわけは無いであろう。

 だが、イワシの群れのような群盲は、自分たちがどこへ向かっているのかもわからないまま、只まわりの流れについて行くチエしか働かないために、「信号を、見分けるチエは無いけれど、みんなで渡れば怖くない」と言うことなのであろう。

 そこでは自由民主主義か、独裁政治家など関係ない。人生苦(人類苦)の真の敵は、自分自身の際限のない貪欲な我執煩悩の心であると言うことがわからないのが無明・無知・愚痴な「生き物人間か餓鬼か」と言った存在であると言うことである。

 平たく言えば、そのようなわかりようの無い、分別の仕様も無いこの世・世界・人生をそのまま素直に「今日は今日、明日は明日の風が吹く」と正見・自覚せよと言うのが仏の教えだと言うことだと何度も書いてきた。そして、その教えに素直にうなずけない分だけ人生苦が生じるのだと言うことである。こんなわかり易い話は無いのではあるまいか。

 不可思議な因縁により、たまたま私はそのような「生き物人間か餓鬼か」と言った世間に深い疑問を感じて別の道を求めていたところ、「自分の求めていたものはこれだ!」と言える仏・釈尊の教えに出遭ったと言うことである。

 

 そこで、そんな道を求める心のある方には、是非、釈尊が説かれた簡明な、この世の普遍的真実・真理・自然の法の教えを聞き学んでいただきたいと思うのであるが、そこでまず、最初に注意しなければならないのは、釈尊の説かれる「真実・真理・自然の法」と、世間で言われている「真実・真理・自然」は全く異なると言うことである。この点は仏教徒としての根本条件である仏性の心が関わることであり、避けて通れない最初の難関だと言えよう。

 即ち、釈尊の説かれるそれはあくまでも人間の意志(欲望・願望・理知)の決して通用することのない、事象のはるか向こうの方で働いている只不可思議な絶対的「普遍的真実・真理・自然の法」であるため、その法の教えには生き物としての人間のチエの心では及ばず、「普遍的真理とか仏法とか、そんなものは…」と一蹴してしまい、そこで頼りとされている「真実・真理」とは殆どの場合、生き物人間としての関心事である物・カネ・愛・地位・名誉等々に関連した事象限りの、空模様のような、風のような、木々の枝葉のような、そして人の心や言葉・行為のような「何でも無い事象としての現実・事実」が自分の欲望・願望・理知に照らしてどうかと言うことでその「是非・真否」を分別(妄見)してしまうと言う、痛ましいほどに哀れな迷妄・妄見のすがたなのである。このことは国会審議で日々展開されている愚聞愚答でおなじみのことである。

 それがどうして痛ましいほどに哀れなことかと言えば、例えば、空模様を見て、ある者は「今日の天気は晴れだ」と言い、他の者は「否、これだけ雲が出ていれば曇りだろう」と言うと言った具合である。が、そんな議論をしている間に空模様はどんどん変わってしまうし、あるいは、ある者が「今日は晴天でいい天気だ」と言えば、ある者は「いい天気どころじゃないぞ。雨が降らないで野菜が枯れてしまっているに!」と言った具合である。

 大臣が答弁で「私にはそのような記憶はありません」と言ったその心と言葉は何時でも訂正されたり撤回されたりする。全くの嘘であることもしばしば再々である。そのような答弁の心や言葉は事象としての事実ではあっても、全く真実ではない。大臣の心も言葉もあぶくのようなものなのである。

 では、そこでの真実・真理・自然とは何かといえば、それは人間の心や言動を含めたこの世の一切の事象は只「無常・無我・空」(何でも無い)と言うことである。

 人間と言う生き物が名利を求めて政治家に成り、大臣と言う職を得てそれを維持しようと思えば嘘の答弁をするのは大臣として、あるいは政治家としての大事な仕事、手腕だと言うことであろうが、これもすっかり常識と成っていて、そのような政治家がむしろやり手とされ再選されていると言うことである。

 が、人間世界・人生における一切の事象は大なり小なりみなそれであり、そこには信じたり、頼りにしたりすることの出来るものは断じて無いと言うことである。

 勿論、例えばそのような事象の中では、政治家の働きによっって公共施設が出来た、補助金が支給された等々の恩恵を受けて助かったと言うこともあろう。が、それで人生苦が解消されるかと言えば、むしろその逆と成ることが多いであろうことに気づくのは難しいかもしれない。物・カネで人生苦が真に解決することは無いからである。

 そうである。大方の人々はみんなみんな「うつつ(事象)に翻弄されてまこと(真実・真理・自然の法)を抜かしている」と言うことである。本末転倒とはこのことであろう。

 では、人間は何を信じ、頼りとすればいいのかと言うなら、それが「仏法によってこの世の『何でも無さ』を正見・自覚し、あるがまま、成り行くままですべてよしの無分別・無執着の智慧の心であれ」と言う仏・釈尊の教えだと言うことを何度も書いてきたのである。納得が行くか行かないかはともかくとして、私にはこの他には仏教は無いように思う。

 物・カネ・愛等々の事象の分別による有無、成否、善悪、損得、勝敗、幸不幸等々(喜怒哀楽や毀誉褒貶等の事象)には真実・真理などあり得ないと言うことである。それはすべて、常に流動している無常・無我・空なる「何でも無い」事象だからである。

 つまり、「この世の普遍的真実・真理・自然の法」とは人間にとってはどこまでも不可思議なのであるのに対して(精々正見したところが無分別の「真如・一如」である)、人間世界で言う「真実・真理・自然」はあくまでも、「その日はどんな天気であったか」と言うような「何でも無い」事象に対する各人の自我中心的虚妄分別だと言うことである。

 この点に心が及ばないと、どうしても歴史を含めた現実・事実としての事象限りの全く当てに成らない流動的無常な事象を真実・真理・自然として語り、主張することに成ってしまうことに成ろう。そしてその虚妄分別の対立がそのまま争い・戦い・戦争等、人生苦の原因と成っているのである。

 言い換えれば、仏の教える深遠なる絶対普遍の真実・真理・自然の法では「無分別・無執着の心でのすべてよし」の生き方しか出て来ないが、人間世界で言う全くの虚仮成る「何でも無い」事象を自我中心的に虚妄分別した真実・真理では、争い、戦い、戦争と言う迷妄・苦悩・地獄は避けようが無いと言うのは 只今のウクライナやイスラエルでの戦争、あるいは我が国の安倍元首相事件や政治資金疑惑等々に見る通りである。

  

 次に、真人間であろうとするときに大事なことは、釈尊の説かれる「真実・真理・自然の法」と、世間で言われている「真実・真理・自然」は全く異なると言うこととに関連したことであるが、真人間であろうとする者においては、生き物としての我執煩悩一本鎗で生きるのも、法の道を求めて一切の執着を断ち、生死を超えて安穏に仏道を生きるのも、共に普遍的真実・真理・自然の法によるものと言う絶対平等の自覚を持ち、そこでは是非・善悪・損得等々の分別の余地は無いと言うことである。

  即ち、真如・一如の「無分別」の見方こそは普遍的真実・真理・自然の法に沿った正見と言うことであり、何かを分別したら即「妄見」と言うことで苦悩を招くと言う点が仏教では極めて大切であり、この心が具わらなければ真の仏教徒には成りようが無いと言うことが言えよう。そしてその「無分別の分別」の道が「中道」(仏道)だと言うことである。

 この世・人生の「何でも無さ」を正見・自覚し、「すべてよし」の、生死を超えた普遍的真実・真理・自然の法に依拠した心で生きようとする無分別の心においては憎しみや争い等の苦悩の生じようが無いわけがここにある。

 ただ、全くの無分別では確かに暮らしてゆく上では不都合であるから、いわゆる俗諦としての分別は不可欠であろう。しかしそれはあくまでも方便としての分別であり、決して断じてその分別に心・人生をゆだねては成らないと言うことである。ここに「無執着」と言うことの大切さが大きく浮き上がってくるのである。

 仏の心を慈・悲・喜・捨の「四無量心」として説かれるのは、仏の心をこの世の普遍的真実・真理・自然の法そのものに重ねて見た表現であろうが、真の仏教徒でも仏性の心の働き具合(求道心の強さ)は色々様々段々であり、真人間で在りたいとは思いつつも仏に成るのは至難だと言わねばなるまい。

 しかし求道者においては仮に苦悩が生じてもその頻度は少なくその苦悩も極めて軽いと言うのは必然のことである。世俗世間の「煩わしく悩ましいこと」から解放されるためにこど求道しているのだからである。

 私のブログを読んでくださる方にはそのような仏性の眼差しがあってのことであろうと思われるが、「なるほどなぁー」と言う思っていただけたら、そこから求道心として動き出されることをお勧めしたいところである。 

 その求道はなるべく若い年代からがいいのは言うまでも無い。また、人によりけりだが、求道を楽しくやるには出家するより在家での求道の方が「世間虚仮・唯仏是真」がわかり易くて面白く学べるかもしれない。

 いずれにしても、仏道は真人間で在りたいと思う心(生存欲である我執煩悩よりも、真心・真の自己を大事にしようとする心)の道であり、それは必然的に政治等の虚仮・虚妄・嘘・欺瞞の渦巻く「生き物人間か餓鬼か」と言った迷妄・苦悩・地獄の世間の常識道は虚しすぎてついて行けないと言う者の道である。

 仏法・仏道はそのための道なのであり、決して難しい修行の道では無い。自分の心一つで出来る迷妄・苦悩・地獄道から解放される安穏・快適・常楽そのものの道なのである。

 

 物・カネ・愛・地位・名誉等々の世間道は確かに馴染みやすく甘美であり、その時は幸せいっぱいの感はあるが、今日で言えば、それは甘くておいしい砂糖や添加物たっぷりのお菓子や総菜・酒・たばこのようなもので、それに馴染んでしまうと取り返しのつかない病気に成ってしまうのと同じで、折角の人間としての命と人生を真人間らしく爽やかに過ごしたいと思うのであれば、やはり「世間虚仮」の煩悩暮らしでは無く、「唯仏是真」の安穏・快適な生死にしてはどうかと思うのである。

 ただ、私にはわからないが、この世の普遍的真実・真理・自然の法にも「俺は癌や透析に成っても心筋梗塞や脳梗塞に成っても構わん。食いたいものを食い、飲みたいものを飲む」とか、「人間は生き物だ。戦わない人間・人生なんて腑抜けだ。生き物である意味は無い」と言うような人間も居ないと具合が悪い事象があるのであろう。

「すべてよし」とする他は無い所以である。

 尚、近年、ユーチューブ動画と言う超便利な物が普及していて私も大いに楽しませていただいているが、こうなるといよいよ「世間虚仮」のあだ花が咲き乱れることに成り、人々はますます迷妄・苦悩・地獄へ陥りやすくなるだろうなと言う思いがしている。しかしここでも真心・真の自己と言う真人間として心さえ働いていれば、むしろそこで「世間虚仮・唯仏是真」をより学びやすく成るであろうとも思う。つまり、要はその人の心次第ということであり、即「不可思議な因縁次第」「すべてよし」「この世・人生など何でも無い」と言う「仏法(唯仏是真)」に帰着するのである。

 

 

 今日では百歳以上の人が珍しくないようであるが、透析通いや半身不随、あるいは認知症等での寝た切りに近い状態での長生きはあんまり嬉しくはあるまい。

 「この世は『何でも無い』。あるがまま、成り行くままですべてよし」と言う、無条件絶対の安穏・快適な暮らしに向かって、その練習である仏道を人生のなるべく早くから心掛けていると、70歳~80歳以降の老後の難関も案外とすんなり通過できるであろう。大事なことは、自分の真心や趣味と合わない道・人間・世界・仕事とは関わらない、距離を置くと言うことである。

 私も、長生きすりゃいいってもんじゃないことはわかっていたが、お陰でまだまだ車のアクセルとブレーキの踏み違いの危険性は感ぜず、ドライブも楽しめている。とにかく精神的ストレスが無いと言うのがいいのであろう。身体まで元気に成る。だから毎日の90分程度の河原での散歩や野菜づくり、あるいは週五回ぐらいコーヒーショップでの3時間ほどの気ままな求道も実に楽しい。

 そんな日々の私の求道は、空行く雲や風・水・草木・鳥・虫たちの「あるがまま、成り行くままですべてよし」の自然を師としていることが多い。そこには普遍的真実・真理・自然の法そのものが直に学べるからである。釈尊もそれらに法を学ばれたのであろうが、私もささやかながらそんな趣味のご縁に恵まれたことを只々有難く思うばかりである。

 だからであろう、その喜びを有縁の人にもと、心に沸き起こったことをまた書いてみた。