ひとつ、ひとつ | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

ゆっくりと焦らずに丁寧に。


一歩、一歩、ひとふみ、ひとふみ。


ひと呼吸、ひと呼吸。


善き心持ちで。


調身、調息、調心


身体の姿勢を整え、呼吸を整え、心を整える。


この三つはとてもシンプルな禅の基本理念だけど、究極の一つだと思う。本当に効果がパッと一瞬で現れるから。


それはとても簡単な事。


姿勢と呼吸を整えるのは分かるけど、心はどうやって整えるの?と思うかもしれないけど姿勢と呼吸を整えるとその結果としてほぼ自動的に心も整う。


禅においては何てことのない日常の作務自体が既に大切な修行であると言われる。


普通に生活すること自体が修行であると。


日々の行いを一つ一つ、きちんと修めてゆくこと。


それが本来の修行。


一つ一つの動作、動き、働き、行為集中し、静かに、丁寧に。


ただ、それだけのことなのだが、本当に誠実にそうするならば、それはとてもとても楽しいことなのだ。


その楽しさとは当然、心が浮き足立つ楽しさとは異なるが。


楽しくなるためにはウキウキしたりワクワクしたりする必要はないし、心を作為的にわざとそのようにあらしめようと努力する必要もない。そんなことをしていてもいずれはくたびれてしまうだろう。


本当は、本来は既に楽しいのだ。それを見落とし続けているだけのこと。


それに気づくにはただ自然な正気に立ち帰るだけ。


それは無駄で無意味な諸々の心のガラクタを落とすこと。


どのようにして?


燃料を与えないことによって。


どのようにして?


それは坐禅が自ずと知っている。私達のエゴには永遠に分かり得ないことだ。


なんにせよ、如何なる想いも私達自身が取り合わなければ一瞬たりとも持続はしないのである。


私達は心地の悪い世界・次元にグダグダと居座り続けることもできる。


しかしそれの何がよいのだろうか。


よいことなど、ありはしない。


ならば、そこから出てゆくだけだ。


迷妄の迷宮から、出てゆくだけだ。


その脱出経路の基本かつ簡単なことが調身・調息・調心。


あまりに簡単過ぎて私達にはそれがわからない。見落としてしまう。


私達は大袈裟な脳内ドラマに深く耽溺していて、それが「フゥ」と落ち着いて一息つくだけでパッと消えてしまう程度の幻想であるとは思わない。思いたくもないのだ。


そこに自分のアイデンティティの全てがかかっていると信じているからだ。


その盲信・恐れは正しくもあり、間違いでもある。


そのアイデンティティは偽物のアイデンティティでしかない。その意味では私達のアイデンティティは確かに脆弱なものであり、それは消えゆく定めにある。だから私達のエゴが自由を恐れるのは当然と言えば当然だ。


しかし真のアイデンティティは存在そのものにある。それは変化しない。それは現れたり消えたりするものではない。だから私達のエゴが信じていることは間違ってもいる。


実際に調べ、克服を試みた人はわかる。


一切の想いが無常なものでしかないことが。


鈴木俊隆老師は「涅槃(ニルヴァーナ)とはなんですか?」と問われた時にこう答えた。


「ひとつの事を最後まで見届けることだよ」と。


もし私達の心が「心、ここにあらず」であればひとつの事を最後まで見届けることはできない。


その場合、私達はひとつのことをやっているそばからあれやこれやで頭が一杯になり、気が急いだり、気怠くなったりで、きちんと見届けることができない。目という器官に映像が入っていても、心が見えていない。


見届ける前に次へ次へと焦ったり、あるいは嫌だ嫌だと後退しようとしたり。


しかしもし私達が既に在るようにあれば、一つ一つのことをその瞬間ごとに最後まできちんと見届けることができる。目だけでなく、全ての感覚、そして内観的な気づきにおいて。


そのこと自体はとても簡単なのだ。


楽器の演奏などもそうなのだが、どうにも私達人間は難しいことができればできるほど凄くて偉いみたいに思い込んでいる節がある。


本当のところでは、そうでもないのだ。


自転車を運転する時、超絶的な技巧が必要とされるアクロバティックなポーズで運転する必要はない。


そんなことをしてもいずれは転倒するだけだ。


心の問題にも同じことが言える。


シンプルなことを侮ってはいけない。