一つの善 | ぽっぽのブログ

ぽっぽのブログ

綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

初め善意であったものが後に悪意に変わる…私達には馴染みの深い現象である。


結婚・離婚もそのようなものであるし、幸せにあった心がそのまま不安の心となるのもまた然り。


自分が好きなものを他者に勧めた時、好きな相手に贈り物をする時、それはエゴにとっての善意(喜び)ではあるが、相手がさっぱり関心を示さなかったり、冷たくあしらわれたり、敵意を返されたりしたら、初めの善意は寂しさや悲しさに変わる。その落胆を受容できなければそれは相手に対する怒りに変わる。そもそも落胆というもの自体自分へ向けた消極的な怒りでしかない。


こういったケースは種々様々、多く見られる。全ては欲望だ。欲望というものは二元性を対立させる。善悪、光闇、言葉でどう飾ろうともシンプルに見るならばエゴにとっての快・不快だ。


欲望はそれ自体が一つの賭博のようなものである、と以前記した。欲望があるところには期待がある。心配も期待も本質的には同じ欲望だ。


期待はワクワク、心配はソワソワ。これが賭け金となり、結果が出た時にそれに応じた情動、快もしくは苦が倍増して現れる。この刺激がエゴの存在感覚を強めてくれるが故にエゴはそれに執着し自分で自分を掻き乱す。


時に欲望は善の仮面を被って現れる。善なる自分という自己イメージを醸造するには他の存在を利用する必要がある。私達のエゴ意識というものは程度の差こそあれ、基本的には自分を立派に見せたがるものである。


その演出道具として善を利用するのは偽善である。表面上の行いが正しくとも、それが内なる悪から目を反らしたり隠すためであるならば当人にとっては何の徳もない。この善は悪と敵対関係にあり、当人の中で憎悪の闘争となる。


エゴは自己イメージを満たせた時に快を感じる。善意がその道具に貶められることは望ましいことではない。善意はそれ自体を目的としていなければ善にはならない。アートマンが自己を目的とし、それ以外のその他という二元性を持たないように。


エゴの善意は見返りを求めている。相手が喜ぶこと、相手が感謝を述べること、自分がよい気分になれること、時と場合により様々であるがそこには期待がある。それが嬉しさであれ何であれ、エゴ自身が自分を立派に思えるような何かが必要なのだ。


それを期待しての善意は当然、期待の反応、期待の快、自己イメージの満足などが得られない場合、落胆を生み出す。他者が裏切るわけではない。エゴの欲望がエゴ自身を裏切る。


自分が落胆し、そこに自分の欲深さを見て反省し精進の糧にするならいいが、時にエゴはこういう場合に怒りもする。この落胆は相手のせいだ、と。そして大なり小なり相手を責める。


怒りが消極的な形として自分に向いた場合はそのまま落胆に沈み込む。どちらにせよエゴの隠された真意たる目的、動揺が得られているという点においてはエゴは望みを達成している。

「あなた方は心を騒がしくしてはなりません」

~キリスト~


そのようであるから、徳というものについてもエゴが何かしらの情動を自己同一化して味わったならばその時点で徳は欲望の快もしくは苦に相殺されている。そのエゴは頭では徳を望んでいても実際には情動の刺激を望んでいるにすぎないからである。


キリストが語った通り、既に報いは受けている=見返りは得ているのだからそこに徳はない。そして私達がその本当の願いとして望んでいるもの(法にかなった願望)は情動の刺激ではないのだ。


私達は普遍的に幸福を望んでいる。それは厳密には欲望ではない。エゴが何かを欲しがる以前にその願いは既に自ずと在るからだ。自己そのものが第一の願いなのだ。それ故、クリシュナは「アートマンは法にかなった願望である」と説いた。仏陀は「私は自己への帰依を成し遂げた」と語った。


その自己をおいて他に善はない。その自己に心が順応するならば、何をしようがすまいが善である。神、仏、真理をおいて他に善などはないからだ。


個人が徳を望むことは正当なことだ。徳と得の識別があるならば徳を望むことは欲を望むこととは異なる流れにある。


仮にもし私達が一切幸福を望めないのであれば仏陀もキリストも他の聖者も、何も言えはしなかっただろう。しかし聖典や聖者は何かを語った。幸福について語った。ただその幸福はエゴが期待する欲望とは違うというだけだ。エゴの幸福は無い。エゴ自体が幸福とは異なるからだ。


それと同じくして、エゴが勝手に期待する善とやらも無い。アダムとイヴが善悪の知識の実を食べた時、彼らは善悪を知ったのではない。勝手に善悪を定義して自他に強要するようになっただけだ。そして本当の善を見失った。


善悪が対立し続ける限り平和はない。仮にその善が勝っても平和はない。その善がまた自身の内に別の悪を定義し、別の善悪に分裂する。悪が勝っても平和はない。悪はそれ自体を滅ぼしてゆく。その全てが悪しき想像の産物にすぎない。そこに平和な世界などはない。


善と悪のドラマチックなバトル、壮絶な戦いの末の偉大なる勝利、ダイハードのブルース・ウィリスみたいにボロボロになりながら戦い、最後に悪の親玉を討ち善を実現する…エゴのそんなド派手な脳内ドラマはどうでもよいのである。


私達はただ単に平和、愛、幸福を望んでいるのだから。


善は平和、愛、幸福であるからそれは確かに必要とされている。そしてそれは自己をおいて他にない。自己は心自体を対象とするものだ。心が対象として見られるならば(どのみち心は常に対象だが)、その時には全ての二元性が一つの心として見られる。


その時、人の世の善悪の対立という概念は意味を失う。無益であるから。それが幸福に基づいていないが故に無益で無意味なのだ。


私は先の記事で「全宇宙の悪意の心臓部は自身の心にある」と書いた。ニサルガダッタは「悪をやめることが善を行うことに先立つ」とそのようなことを語った。人はまず、世界に公正さや平和や善を求める前に自分自身にそれを求めなければならない。でなければ不公平である。不公平は公正ではない。故に不正である。

「あなたは世界に平和を求めるが、あなた自身の内に平和を持つことは拒否しているのだ」

~ニサルガダッタ・マハラジ~


それ故、自身の心に向き合わなければならない。そのありのままの姿をあるがままに見なければならない。これはエゴにとって非常に恐ろしいことである。必ず自己イメージに反するものを目にすることになるからだ。しかし何てことはない。その自己イメージが不当なだけだ。


個人が内なる自己(神、仏、アートマンetc)を拒絶し、否定することがエゴというものを存続させる。個人自体は例え解脱を成就しても表面上それ自身のカルマが尽きるまでは存続する。自我、心、それは問題ではない。ただそれが自己を拒絶し、否定することが問題だ。


それは心の誤解そのものだ。仏陀もキリストも自身の内なる悪魔にきちんと向き合った。彼らは悪魔を悪魔であると識別した。それで悪魔は正体を暴かれた。これが悪との戦いだ。


「心には悪魔がいる=悪しき意がある」と素直に認めることが大切だ。それ自体は全く問題ではない。ヨーギ・バジャンでさえ「私の中には神も悪魔もいる」と言った。二元性のこの宇宙ではそれが自然なことなのだ。


自惚れたエゴが「自分は悪じゃない!」という自負を持つ時、それが本来一つである心を二分する。そしてその二つが当人の中で争う。その内的な争いの道理がそのまま外界に投影・適応される。そして当人は実際に外界に対しても争いにゆく。エゴ自体が悪魔なのだからこの戦いに意味などない。


心には想像しうる全てがある。そこには当然、怒りや憎しみや非道さなどもある。それを否定する限り望みはない。もし単に否定して済むならばキリストはわざわざ自分から悪魔の試みを受けに荒野へ出かけることもなかっただろう。


この世に生を受け、僅かにでもイラッとしたことがあるならばそれが憎悪というものだ。悪しき意を知らない限り、悪しき意が克服されることもない。


心と同一化する限り、その心はエゴの自己イメージを負わされ限定され束縛される。そして心はその自己イメージに合うもの合わないものという差別基準によって内なる分断を作る。この分断は「個人的主体・その対象」という根から始まり無限に広がりゆく。


ラマナ・マハルシはその個人的主体(私)という感覚がどこから現れたのかを探求しなさい、と説いた。その自分という個人自体を見なさいと。自分という個人を対象として見る時、その見るものは非個人性にある。それはマインド内に反映された気づき、観照意識である。


気づきそのものには善も悪もない。それを理解すれば人は善悪に囚われなくなる。

「善悪を思わず、是非を管すること莫れ」

~道元~


心そのものが見られるならば顕現の全てが一つの心にある、ということがわかるだろう。自・他というものは本質的には一つなのである。一つのテレビ画面に複数の人間が現れるように。


そのように見るならば、人の世の善も悪もその全てが自分の内にあることがわかるだろう。それが本質的に一であると知られるならば、ありもしない二を作り互いに戦わせる働きこそが悪魔の働きであるとわかるだろう。


その闘争への誘惑を拒否することが本当の戦いだ。仏陀もキリストも悪魔に対して「クソッタレが!フルボッコにして二度とワシの前に現れんよう排除したるわ!」という戦い方はしなかった。喧嘩を挑むような戦い方はしなかった。そのやり方では勝てないのだ。


ただそれが悪であると知り、それが望まれたものではないと知り、誘惑を断っただけだ。


悪しき意は心にある。その現実をそのまま見ればいい。その上で何をすべきかは、その都度自然とわかる。しかし悪しき意に囚われると自分の心に対して「うるさい!静まれ!」と苛立ったり、「自分は違う!」と恐れたりするはめになる。


その心を無理矢理抑圧しても外界を通し、その心の実態が想起される。全ては投影の性質にあるから必ずそれは起きる。するとエゴは否定すべき心を想起させた対象を憎み怒る。


その全てが悪魔の働き、エゴの自己イメージの美化だ。心が自己を自己として理解するならばその全ては当人の中で支配力を失う。


「聖者も第一の矢は受ける」と言われる通り、何であれ起きたことに対する反射的反応は生まれ続けてゆく。しかし心と自己を混同しなければそれは問題にはならない。


人の世は太古の昔も現代も争いに満ちている。もしその世にうんざりしたならば、その世に関わらないことが賢明だ。脱俗者になる必要はない。ただ内なる自己の存在を理解すればよいだけだ。


そしてそのまま生きれば、それがそのまま善、平和、幸福、愛をこの顕現に顕す。他に善、平和、幸福、愛は存在しない。


実在しないものは実在しない。人間が世の善悪に固執してそれに実在性を与える限りは悪は決して消え去らない。


しかし触れたものに何であれ実在性を分け与えるという自己の性質は愛にある。それは現れの全てを分け隔てなく等しく現すからだ。自己を自らとする心はその性質が反映される。

「心はそれが思ったものになる」

~アシュターヴァクラ・ギーター~


それ自体は既に自ずと在る。世の実在性を拒否し、あるがままに在るならば、真実は顕される。キリストは「私を思う者が数名いればその中に私もいる」と語った。


社会という概念もそれと同じ道理で顕されている。善悪も同じく。現代は人間に宿ったその大きな力が誤用されているだけだ。人が世の善悪の中に善も悪も見ない時、善悪の正体は空っぽだ。


その本性上、空であるものをどのような色で色づけるかは当人の心に依る。幸福を望むのであるならばそれに応じた所存がある。


聖典や聖者を信頼するか、あるいは社会の通念の副産物にすぎないエゴの思い込みを信頼するか…皆が好きな方を選択すればよいだろう。