善だの悪だのわけのわからん話を記してきたが、要約すると以下の言葉になる。
「同じ土を掘りおこすのでも…剣をもってただ掘り返すのと、植物の根が土の間を割り進むのとでは違いますでしょう。同じく土を痛めても、種はやがて実をつけます。憎しみは…何も実らせません」
うしおととら~ラーマの姉~
偽りの善がやっていることは剣(怒り、憎しみ、短絡的否定)でただ土(心)をザクザクとブッ刺し、土の中の悪を痛めつけ排除してやろうとしているだけだ。
しかしいくら刺していくら掘り返そうとも、期待された幸福が顕にならない。
悪への憎しみや怒りに任せ心をざわめかし、その苦しみを原動力に騒ぎ立てている間は興奮がある。気がすむまで騒げばエゴは満足する。エゴの存在感覚を増強してくれる刺激があるから。
悪を否定してやったぞ、どうだざまみろ、悪を害して痛めつけてやったぞ、排除してやったぞ、正しいことをしたぞ、我は正義ぞ
そのような激昂・興奮に震え、エゴは望んだ通りの情動を得る。
しかしそんな興奮は一時のこと。興奮が冷めれば虚しくなる。虚しいから幸福がない。
おかしいぞ、幸福がないぞ、我こそは幸福に値する真っ当な人間であるぞ、気に入らぬぞ、誰のせいだ、これは何かのせいに違いあるまい
そうしてまた悪を探し出す。彼らは善を自称するが、本当は理由など何でもいいのだ。怒っていたいだけなのだから。
それらしい理由をつけて望み通りの悪を見出だし、その対象を再び剣で害しにゆく。
しかしそんなことをしていても幸福は顕にはならない。
聖典や聖者もまた悪を否定する。この否定がエゴの短絡的否定とは異なることは既に記した通り。
マイナスにマイナスを加算してマイナスを増やすのではなく、マイナスにマイナスをかけてマイナスをプラスに変えるのが正しい義だ。
そのように真理に則った義もまた悪を否定はする。
それ故、悪が内在するその土(心)に対して、悪を取り除くという意味では土を痛める。
しかしそれは幸福という実りをもたらす種子なのだ。種子は根をもって土を割り進む。そのように土を痛める。
しかしやがてその種子は発芽し、実りをもたらす。
キリストも種子を例えに信仰を説いたが、信仰は悪を徐々に滅ぼしてゆく。あるいはシャンカラの語ったところの知識も同じ道理で悪を滅ぼしてゆく。
本質的な悪を。
その悪の中には人の世の勝手な善も含まれている。エゴの勝手な善悪はそれ自体が悪であるから。
剣でザクザク掘り返すことをやめ、種子を植える。
上記のセリフにあるようにどちらも土を痛める(どちらにも否定の力はある)。
しかし種子は実を結ぶ。
これが本当の善の働きなのだ。
・・・
関係ないが、久しぶりに「うしおととら」読んだら泣いたわ。
やっぱり善い話だよあの漫画。自己肯定の話なんだよなアレ。エゴの自惚れとしての自己肯定ではなくて。
エゴの自惚れは実際の働きとしては自己否定だから。
「あのねぇ、消防士さんは火を消せるでしょ。パン屋さんはパンをこさえるのよね。でもパン屋さんが消防士さんになろうとしたら大変よ。パンがなくなって消防士さんのお腹がへるでしょ。火事になった時ハラペコじゃ、消防士さん、ホース持てないもの。みんな大事。みんな、みんな…そのまんまがいいの」
~麻子~
このそのまんまとは当然エゴのことじゃない。エゴをそのまんまに放ってみれば、やっぱりエゴは「今、ただ、ある、なんでもない私」を否定するだろう。
その自己否定の苦しみを原動力に理想の自分という想像上の自分(偶像)を追求し続けるだろう。
「私は麻子になりたかったなぁ…でも麻子にそういったら、おこってねー。その人のまんま、その人がやるべき事をがんばればいいって麻子はいいたかったのかもね。私はそれから正義のヒーローになれなくてもいいって思えた」
~真由子~
「やっぱりここにきても私は君のフォローだな。でも、ふふ…可笑しいね。今はぜんぜん悔しくない。男に生まれなかった哀しみ、伝承者になれなかった悔しさ…私はそんな気持ちでいっぱいだったのに。伝承者でなくとも…男でなくとも…私は…私。私は日輪。関守日輪だ」
~関守日輪~
ヒロトが歌ったとおり、俺は俺らしくなくても俺だし、これを読むあなたも、あなたらしくなくてもあなたなんだ。
「不完全な人間だけど、完全なオレだ」
甲本ヒロト~the high-lows "オレメカ"~
その「私」、自己そのものでなければ他のなんだというのか。
その「私」に「他の私」なんてあるのか。
ないだろ。
神は「私は私であるものである」と語る。
私達に内在するアートマン・仏性、そのあるがままの自己が否定されない時、心もまた自己と共にあるがままに在る。
個人は「それ」と共に在る。それと全く離れていない。
そこに自然と個人のアイデンティティーはある。色と空は分断し、それぞれ独立してあるわけではないからだ。
それは神が創造した神の反映であるから。
しかしエゴはその自惚れ故に自己を拒絶して、否定してしまう。その苦しみが「今とは違う、別の理想の自分」という欲望に希望を見せる。
その希望は暗闇に光る灯りのようだ。サタンが明けの明星と言われるのもうなずける。
しかしそれは結局自己否定の闇なくしては輝かない虚偽の光だ。その光は自ら自ずと輝くことができない。闇を原動力としているから。闇に依存しているから。
その闇・悪を滅ぼし善・光をもたらす話。それがうしおととらだな。
善悪についてなにやらごちゃごちゃ記していたら白面の者を思い出してね。
白面の者はうしおととらの最終ボスなんだけど、宇宙における集合意識の負の面が具現化した妖なんだよ。
宇宙の創成と同時に生まれた闇そのものが白面。
だから生き物達が白面(悪)を憎めば憎むほどに白面は強大になってゆく。恐怖、怨み、生き物達の負の感情が高まれば高まるほど強くなってゆく。
憎しみの激昂、その怒りをぶつけて攻撃しても効かない。余計に白面は強くなってゆく。
現実世界における悪も同じ道理なんだよな。
人がその誤った敵対に固執する限り、終わりなんてありゃしない。
で、それが俺達人間の望むところなのか?と言えば…違うだろ。
それ故、その所存に応じた心を修してゆくしかない。
「仏さんがどうした、何年前にどんな偉い人があった。そんなことは何でもない話である。自分の問題でなければならぬ。自分の問題は自分で修行することである。仏とは自分自身のことである。自分自身が仏になるより他に仏というものはない」
~澤木興道老師~