悪魔の隠れ蓑 | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

人の語る常識とやらはよく見てみると人それぞれ皆、微妙に違う。時に人は自分の悪しき意(怒り、憎しみ等々)を正当化・正義化するために常識を引き合いに出す。


常識という権威性に自分のエゴを隠し、自らの悪しき意の責任を架空の正義に転嫁する。「こんなの社会の常識だろうが!!」、「言われなくても常識だろうが!!」、そのようにして体の良い理由を付けては気に入らぬものに八つ当たりをする。


それは正義でも善でもない。エゴの八つ当たりにすぎない。理由が何であろうと基本的にエゴの怒りは八つ当たりにすぎない。どんな理由をでっち上げようとその本意はただ「不快だ!ムカつく!」という話にすぎない。


そして私達のエゴ意識は結局、その自分の精神視野を常識・正義・善という権威に定め、それを元に神が如く気に入らぬものを裁いているにすぎない。


言い分がどれほど正当であろうとも個人がその内なる第一の不義・不正の奴隷になっている限りそれは決して正当にはならない。それは悪である。このことは以前、映画シューテム・アップの主人公を例えに説明した通りだ。


その主人公は「ゴミのポイ捨てとか信じらんねぇ!!」と怒る。言い分は確かに間違っていない。しかしその怒りは正義ではない。悪しき意である。


常識は善とされ、それに反するものは悪とされる。しかし先に記した通り、その常識とやらは国によりけり、時代によりけり、人によりけり皆、違う。だからこそ、その常識という概念が人々を対立させる。


その常識は平和や秩序をもたらすのではなく、争いと混沌をもたらしている。それ故、それは善ではない。無益な争いは幸福という結果にはならず、望ましいものではないが故。


昨日、こんな言葉を目にした。

「もしある朝、目を覚ました時に全ての人間が同じ人種、同じ宗教、同じ肌の色になっていたとしても…我々は正午までに別の偏見のネタを捜し出すことだろう」。


これに私は同意する。エゴ意識とは常にそのようなものだ。偏見というものはエゴ自身の特別さの顕示にすぎない。この悪しき意の働きが末期になってくると、人間は悪に対する怒りや憎悪を持って正義や善を狡猾に自称し始める。


自分の悪意を正当化するため。自分を立派に見せるため。さも世界の正義や平和のためであるかの如く。だがしかしその実態は理由が何であれ「自分がムカついてるだけ」なのである。


キリストは善を偽証する律法学者達を「偽善である」と批判した。悪意や嫌味で言ったのではなく、単に事実を伝えるために。キリストの個人的立場を擁護するためにではなく、普遍的な善性を擁護するために。


律法学者達自身、キリストが正しいことを言っているのは初めからわかっていた。しかしそれがムカつく。何か偉そうなことを言っていてしかもそれが正しいからムカつく。おまけに自分の悪意を暴かれ、偽善であると指摘されたものだから更に嫉妬して怒る。


「あの野郎をどのようにして貶めようか」。後にキリストは謀略にハメられ罪人に定められてしまう。それ自体が計画通りであったのだが。


一方、キリストの着物を剥ぎ取り奪い、唾を吐きかけ罵り嘲笑い、暴力を振るった者達に対して彼はこう言った。

「父よ、彼らを赦したまえ。彼らは自分が何をしているのかわかっていないのです」


前者は手厳しく批判、否定された。つまりその偽善は赦されなかった。後者はただ神の赦しを祈られた。つまり赦された。この違いは何なのか。先の記事で書いたが、良くも悪くも純粋な悪というものは自分に疑いがなくそれ故に悪の自覚がない。間違った形であれど疑いがないという点は信心が深いとも言える。きっかけさえあればその純粋さが神性の善を強く反映する。


キリストはそのきっかけを祈ったのかもしれない。それが普遍的な善性や幸福につながるからである。キリストを辱しめた輩は恐らく善や正義を引き合いにそうしたのではなく、純粋にキリストを辱しめることを喜んでいたのだろう。


「ヒャハハ!虐めるのって楽しい!」という具合に。それは勿論、悪しき意であるが彼らにはその自覚がない。それ故、当人の中でそれは悪でもなく善でもない。


彼らはエゴの悦楽のみに着眼し、人の善悪には囚われていない。それ故、自由である。しかしその自由が悪に用いられているが故に、その自由は普遍的な自由を抑圧している。その意味では悪ではある。


自覚がないという点においては彼らを責めることはできないのだ。責めても意味がないのである。キリストがもし彼らへの憎悪に囚われていたら彼自身が悪に堕ちたであろう。


しかしキリストが仕える主はただ一つ。彼は自分が他者に戒めたように、二人の主人(二元性の善悪)には仕えなかった(惑わされなかった)。彼はただ公正であった。他ならぬ彼自身の内にある神(本当の自分自身)への愛故。


一方、「自分は善側・正義側の人間だ」と自惚れる者には疑い、不信がある。彼らは悪を自覚している。その自覚された悪しき意があるからこそ、その悪が自分の心の内にある観念であることが認められない。それは自己イメージに反するが故。


自身の心に負の感覚(悪)があるにもかかわらず、偽善者はその偽善性故に自身の悪しき意が自分の心にあると認められない。自分のプライドが、自分の内にある悪しき意を赦せない。しかし悪しき意、負の感覚は自分の心に感じられている。


そこで善なる自分というエゴの自惚れを守るためにその悪しき意を対象に押し付ける。自分の心にある「善悪の敵対という概念」において悪への憎悪を元に自分を悪との敵対位置に据える。そして相対的に自分を善たらしめるのである。自分の想像の中で。


これが偽善というものだ。このような場合、当人には自覚がある。自覚があってのことは改心しない限り赦す余地がない。それは否定されるべきものである。実際にこの類いの悪は聖典も聖者も受容はすれど一切容認はしていない。その悪自体は決して赦されることがない。


何故決して赦されないのかと言えば、他ならぬその当人が「当人の定めたところの悪を決して赦すことがない」からだ。神は勿論、全てを赦している。でなければその悪(偽善)がこの宇宙に現れることもなかったであろう。


しかし偽善という悪は自分の気に入らないものを決して赦さない。それが自分自身の心の一部であるにもかかわらず。それ故、その働きがそのまま当人に適応されることになる。

「私の言うことを聞いてそれを守らなくても私はその人を裁きません。しかし私(自己・当人のアートマン)を拒み、私の言うこと(内なる真理)を受け入れない者にはその人を裁くもの(他ならぬ当人の善悪の秤)があります」

~キリスト~


だからこそキリストは「裁いてはいけません。自分が裁かれないためにです」と言った。これはエゴの保身としての教えではない。どのみちエゴは何であれ何でも自動的に裁くのだ。この教えはエゴの保身ではなく、仏陀の「自己を護れ」と同じなのである。


「悪に手向かってはいけません」、「怒らないことによって怒りに打ち克て」、これらは同じ意味だ。もし本当に幸福を望むのであれば、あるいは本当の善や本当の平和、本当の公正さを望むのであれば、そうするより他にない。


そうする気のない者はそれはそれでいい。キリストも「聞く耳のある者」以外には無理に教えを押し付けようとはしなかった。律法学者にしても彼らが食ってかかってきたからそれに対応しただけであり、キリスト自身は悪に対して自ら喧嘩をふっかけにゆくことはしなかった。


彼は真理を語り、真理に準じて生きた。彼が真理に順応していたが故に、真理に反する者からは彼が敵に思え、実際にキリストを排除しようとした。キリストは人の世の善からも悪からも拒絶された。真理は人の世の勝手な教えに反するからである。


しかし当のキリストの中には「自ら率先して敵対してゆくべきもの」などなかったはずだ。大切なのはエゴが勝手に悪と決めたものと敵対してゆくことではなく、真理に順応することだけだ。キリストもクリシュナも確かに戦ったのだが、それは彼らが自ら進んで戦いにいったわけではない。


彼らは真理に順応していただけで戦っていたわけではない。ただ彼らは内なる真理を擁護しただけだろう。それが本当の戦いだ。


妙な正義感や信心を持つ者は時に悪との敵対に自ら固執する。悪に勝つのだ!!と。自らその対象を潰しにかかる。その必要はない。必要なのは内なる真理を自己として、その自分自身を生きることだけだ。そこには勝ちも負けもない。勝ちも負けもエゴの話であろう。


勝敗を超えた本当の勝利(私達の本当の望みである幸福)を敬うならば、エゴ(差別性の生み出す両極端、善悪、勝敗、優劣等々)から退くことがその唯一の道だ。つまり中道だ。


確かに世における善なる行いはそれ自体、その多くは普遍的な善にある。私はそれ自体を否定しているわけではない。ただエゴが内なる悪を隠すために善や正義を振りかざすことは無意味なのである。その結果が善にはならないからである。


しない善よりする偽善、うわべで見るならばその通りである。一時の結果だけで言うならば私は「しない善よりする偽善」を肯定しよう。しかしより深い次元、本質的な部分で見るならば「する偽善よりしない善」の方が圧倒的に善である。


偽善は偽善にすぎず、長い目で見るとそれは悪しき結果になるからだ。偽善故に。しかし善は善なのだ。しないことが善であるならば、しないことが善なる結果となる。善であるが故に。


一般的な善の行為でいうならば、別段私達の人間性が仏陀やキリスト並みに成熟するのを待つ必要もない。それは実行できる時に普通に実行すべきであろう。


徳と言いうるカルマが存在するのも本当だ。しかしそれはエゴが所有するお得なポイントカードではない。「善いことを沢山して徳を貯めて美味しい思いをしてやろう」…僅にでも徳をそのように解釈しているならばそれは誤りだ。

「利益を得るよすがはニルヴァーナへ至る道とは異なる。悪魔は善業の功徳(見返り)を望む人々にこそ語るがよい」

~仏陀~


もしエゴが徳と得を混同しているならば何の徳にもなりはしない。何かのポイントが貯まって、ポイントが一定数になるとお得な見返りが得られるというものではない。


善き行い、それは確かに必要とされるものである。それを実行するなら善き結果は現れよう。このことに関してはほぼ全ての聖者が説いている。しかしこの場合の善き結果とはエゴからの解放だ。エゴの得ではない。


他ならぬ自分のエゴ自身が自らを苦しめていると気づいた者はエゴからの解放を望む。エゴの威圧が緩まってゆき、エゴが薄まってゆくことを望む。この結果を顕すためにエゴ自身が何かを期待していては本末転倒なのだ。


私達のエゴ意識がそれ自体を自己であると誤解し続ける限り、私達の如何なる試みもその終局においては必ず挫折に終わることになる。全ては無常であるから。エゴは無常という現実を頑なに拒絶するから。受容なきその拒絶が苦しみとなる。


エゴ意識を実在の存在であると誤解する限り、如何なる善も大局的には宇宙に悪をもたらすことになる。


キリストは自分を心配してくるぺテロに対して「下がれサタン」と言い放った。世の善悪で見るならば、キリストを心配して気遣うぺテロは善であり、その気遣いをサタン呼ばわりしたキリストは悪である。この時のキリストは空気が読めないとかそういう次元ではない。


社会の善悪で見ればこの時のキリストは「ただの嫌なヤツ」である。ぺテロはこの時に自分の過ちに気づいたのかもしれないが、通常気遣った人間の多くはこの場合怒るだろう。「人の気遣いを無下にしやがって!!」、「人がせっかく元気づけてやろうとしたのに!」といった具合に。


何故、初め善意であったものが後に怒りという悪意に変わるのか?


それが初めから善なる意ではなかったからだ。


次へ続く。