悪の根源 | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

悪の根源。それは時に悪魔と呼ばれる。サタンやマーラ。それは俯瞰的な視点で見ると集合意識における禍の渦のようなものだ。ある力の流れ。躍動。脈動。


その力を司る何か。それが悪魔だ。それは比喩であり揶揄であり、それと同時にそのままの現実的事実でもある。悪しき意の流れ。その力がもたらす結果。それは私達の本当の願いである幸福と異なる結果をもたらす。人をその悪しき流れに誘う内なる悪。それは心に内在している。


先の記事で私は外界に見られる悪は二次的なものにすぎないと記した。全宇宙の全ての悪意の心臓部・中心部は何処にあるのか?と言えばそれはあなた自身の心にある。私の視点からならば私自身の心にある。


しかしあなたの視点から見るならばその「ぽっぽの視点」という観念自体、あなたの心の内容の一部にすぎない。「ぽっぽ」とかいうヤツはあなたの夢の登場人物の一人にすぎず、その「ぽっぽ」はあなたの心が生んだ心の一部の小さな反映だ。


それ故、あなたはあなた自身の存在に集中すべきであり、私は私でこの文を記しながら他ならぬ自分自身の存在に集中している。集中もなにも他に存在などありはしない。その「存在」が全てなのだ。


個人が目撃している世界はそれが現世であれ何であれ、神の具現そのものであり、また心そのものでもある。


その心。この摩訶不思議な神秘的幻力を宿した想念の塊の中に一般的な意味における個人という存在がある。個人はそこで様々なものを見る。ギーターに記された通り人はこの意識内の現れ=相対界を現実の実在であると錯覚する。


その心は本質的・究極的には一つのものである。しかしそこには「相対」という概念があり、その概念から無限にあらゆる現象が複雑に展開してゆく。その複雑さ、広大さは文字通り無限であり、個人の個人的人智ではその全てを掌握することはできない。知る必要もない。


その複雑怪奇に広がる宇宙とやらもシンプルに見るならば、「主体・対象」という二元性の概念にある。この場合における主体とはあなたのことだ。そしてあなたは「自分は存在している」と考えるまでもなく知っている。


この「私」、これは通常、個人として当人に解釈されている。それは誤解であり、その誤解がエゴ意識である。「私は独立して他から離れそれ自身存在する個人である」、これが諸悪の根源である。


この個人は「自分」というその存在に固執する。それ故に自・他という分離性に固執する。この内的な分離の概念があるからこそ人は内なる孤独を有している。その内なる孤独なくして「自・他」という相互排斥の感覚は維持できない。


個人はこの「個」という概念に固執すると同時に苦しみもまた感じる。自分という存在の特別性に固執すると同時に拒絶してもいる。「自分が特別だなんて思っていない」と思う人もいるだろうがそれは偽証にすぎない。


自分を独立した個人であると思っているならば、その時点で個人は特別性を自分自身に付託しているのだ。「個人として自分は存在する」、この時点で個人は自分を特別視している。この特別視の根拠は「存在」にある。


個人は自分に不運や不幸がふりかかる時、苦しむ。自分が愛する者や物に危害が及ぶと自分が苦しむ。自分にとって自分が特別であるからだ。


この特別視は正当でありまた不当でもある。その不当な部分は存在の誤解に起因する。個人には自己存在・純粋精神・アートマンがある。アートマンはブラフマン(神)と本質的に同一である。平たく言うとその意味では個人は神を内に有していて、それ故に神でもある(厳密には神の中に個人がありその個人の中に全宇宙がある)。それ故、それは特別である。その内なるアートマン・ブラフマン=神なくして宇宙の全ては現れ得ないからだ。


個人が自分を特別に感じるのはその意味では正当であり、自然なことだ。ただその「存在そのもの」は個人の限定を受けていないのである。個人という限定を受けているのは個人を自称するその当人であり、存在そのものは個人の限定にはなくそれ故、個人の所有にはない。


その意味では全ては存在そのものであり、それ故全てが等しく特別である。全てが特別である時、個人の特別さは特別でもなんでもない。


しかしエゴは自分だけが特別でいたいから普遍的な特別さ(神)を否定する。その普遍的な特別さ(神)こそが、エゴが自分を特別に感じる根拠であるにもかかわらず。それ故、エゴは矛盾した形態にある。自分を特別にしておきたいから自分で自分の本質を否定する。


この普遍的存在の普遍的な特別性(それを愛と言ってもいい。個人にとって愛とは特別さの象徴であるから)を個人が我が物として奪う時、それが世にいう個人となる。この表現はご覧の通り矛盾している。個人がそれを奪うと個人になる…奪う前から個人じゃねぇかよ、と思うかもしれないが言語による描写には限界があるのだ。


事実は初めから個人が実在したことなどないのだ。個人が生まれ、死に、輪廻したこともない。にもかかわらず私達個人は自分の存在を主張し、苦しみを主張し、その苦しみの解決を望む、本当の幸福を望む。だからこそ輪廻や業など沢山の説明が生まれる。それらは個人の視点からは現実だ。個人は確かに生まれ、死に、あらゆる次元を輪廻し、業の法則に応じた果報を受け続ける。確実に。避けようもなく全てはあの世この世色んな世と輪廻する。


その全てはひとえに「私(個我)」という諸悪の根源があるが故。しかし聖典における真理はその存在を否定する。真理と個人はそのような矛盾関係にある。個人の存在を一先ず仮定的に認めた上でその個人がどのようにして現れ、どのようにすれば本来の存在に還れるかを言語で描写すると理論的な破綻が生まれるのだ。ありもしない話をあるかのように語るのだから当然だ。「束縛、解放」、「輪廻、解脱」、その全てが初めから幻覚でしかないからだ。


その矛盾を言語上の理論付けで解消してゆく作業にはキリなどない。欲望は心の想像が生み出す。想像に限界はない。それ故、欲望にキリはない。それ故、知識欲にもキリはない。つまりマインドにおける最終の答えなどない。あるにはあるがエゴが期待しているものとは違う。


個人は自分が勝手に想像した「まだ見ぬ最終の答えに真理があるはずだ」と推測し、その最終の答えを探す。実際に思考を巡らし、あるいは瞑想などで様々な意識界を巡り、その中に真理を探すのだが、その全てが心の中の想像でしかない。真理はその個人が現れる以前・最中・以後、全ての時と場において時と場を超えて在る。


聖典は「汝はそれである」という。初めから個人は個人ではなくアートマン・ブラフマンであり必要とされることは単に誤解を止滅させることだけなのだ。


もう一度、先の矛盾した描写を記そう。


個人が自己の存在を自分個人のものとして、思い込みの次元で略奪する時、エゴが心の中の想像として現れる。このエゴが自分の特別さに自惚れ、自分を神(主体)であると誤解し、神が如く世の全てを裁き始める。その裁きの働きをもたらす差別意識(相対界)という非現実の世界を造り出す。エゴの特別さはある時は幸福として現れ、ある時は不幸として現れる。


醒めた言い方をすれば幸福も不幸も自分で自分のエゴにスポットライトを当てるための脳内演出にすぎない。心の中の架空の人生劇場において個人は心の中で一人きりだ。その寂しさ、苦しみがある。この苦しみが外界への希求、対象への欲望となる。


しかし他者や物を手に入れても個人は個人のままだ。どんなに素晴らしい一体感を得ても個人は個人のままだ。一体感を求めるそのエゴ自身が第一の分離性であり、エゴはその個人という内外を断裂させるテリトリーを死守しているからだ。


エゴの欲望は常に矛盾している。求めながら拒み続けている。それ故に得られる幸福もまた矛盾したものとなる。実際にエゴの幸福は後に苦しみに変わる。幸福であったものが不幸に変わる。これは矛盾だ。


「自分は幸福だ!」とエゴは主張する、そのエゴがまた「自分は苦しい!」とも主張する。エゴはそのように自己定義がコロコロ変わる。そこにエゴ自身が混乱しているのだ。自分という存在自体は確かに一つであるのにそれがあれやこれと変わり二つや三つになり定まらないからだ。


欲望の追求が過剰になり、エゴが強まってゆくとある時点で苦しみが幸福を凌駕する地点に来る。何が本当の自分であるかがわからなくなり、その混乱に追われ欲望は更に理想の自分を追う。本当の自分はこうだ、これだ、そうあるべきだ、そうでなければいけない、いやこれか?いやこうだろう、様々な思いと共に個人は本当の自分=本当の幸福を追求する。


その働きの現れ方は人により異なるが欲望のやっていること自体は皆同じだ。そして欲望は必ず内的にも外的にも摩擦を引き起こす。その摩擦の火花が現象界における様々な苦しみとして具現化されてゆく。欲望自体が矛盾を孕んでいるが故にそれ自体がそれ自体に敵対する。それがそのまま他者の欲望との敵対にもなり、人は実際に争いあう。


これが悪魔の働き、悪しき意の働きだ。各々が各々のエゴを互いにぶつけあう働きだ。


そのエゴ自体が悪しき意そのものであると認められないエゴが自分を立派に見せるために「常識や正義や善」を引き合いにして自分の負の感情を正当化しようとするのだが、そのエゴの自惚れ自体が悪であるが故に、その欲望が敵対するための悪を求め、その求めに応じた悪が実際に現れ続ける。それが作用と反作用、宇宙の法則だからだ。


しかしそれは存在および心に関する誤解にすぎない。宇宙の法則が欲望に準じた欲望の姿・結果を顕にしただけだ。当然その法則は幸福に準じた幸福の姿・結果を顕にすることもできる。それは理法・法則性であるから。顕現に対する神は全てを与えしものであるから。


先ずは私達が自分自身の内へと向かい、自分の心、そのエゴ、そして何より存在を理解してゆかなければならない。


悪しき意とその果報である苦しみ。生きる上で自然に現れる表面上の苦しみはさほど問題にはならない。子を産み育てる母の多くがその苦しみを憎むべきものには感じないように。


問題は内的な苦しみだ。どのみち苦しみを感受するのは常に心であるから外的な苦しみというものは厳密には存在しない。苦しみは常に心にあるからだ。心から離れて苦しみが知覚されることはあり得ない。


悪しき意による無益な苦しみ、それは私達の望みに則していない。それ故、それは否定されるべき働きである。事実、聖典も聖者もそれを否定している。しかし短絡的な拒絶の否定ではないのだ。受容した上でのなすべきこととしての否定だ。


具体的にどうすればよいのか?については単に仏陀やキリストやクリシュナ、あるいは他の聖者や聖典の言うことに耳を傾ければよい。で、丸投げすると記事にならないので当面この記事を続けて記してゆこうと思う。


人の善悪自体が一つの悪であるとはいえ、行為そのものはその限りではない。重要なのは自分の内的な面だ。人の世において善とされる行い、その多くはそれ自体、普遍的な善である。それは実行されることが望ましく、聖典もその点を奨励している。


そこで「自分は善側の人間だ。自分は善を行っている。それ故、自分は悪ではない」などという自惚れを持つことが悪である。そのエゴは悪を目撃した時に自ら進んで悪との敵対を自身の心の内に描き出すだろう。そのエゴは怒り、悪という対象に理解を示そうともせずに否定・排除への情動にのまれるだろう。


それは悪である。一つの悪を目撃したなら悪は一つだけだ。しかしそこで自分が悪に対する悪意に駆られるならば悪は二つに増える。それは望ましくない。それ故、キリストはそれを戒めた。


クリシュナは行為者の感覚を捨て、行為の果報を期待することなく行為せよ、と説いた。善なる行いもエゴが自尊心のために行うならば本質的な意味はないのだ。


文字数が限界なので、次へ続く。