美について(講談社学術文庫):プロティノス | 夜の旅と朝の夢

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プロティノス「美について」 (講談社学術文庫)/講談社

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プラトンの思想の核とされるイデアという概念を完全に理解するのは困難である。

「円のイデア」のような単純なものであれば、特に問題はない。この世にある円は全て完全な円ではないが、この不完全な円の理想形としての完全な円が「円のイデア」であるという説明はよく分かる。つまり、「円のイデア」とは、円という概念(=特定の点からの距離が等しい点の集合からなる曲線)のことを示している。

これが「美」などのイデアとなると少し怪しくなるのが、まだ理解できる。この世には様々な美しいものがあるが、それらを共通して美しいと呼ぶ根拠、つまり美の共通事項が「美のイデア」である。「美のイデア」=「美の共通事項」が具体的にどのようなものかは分からないが、抽象概念として理解可能である。

不完全な円の共通事項に完全な円が存在すると考えるのは不合理(不完全な円の中に完全な円はない)なので、「円のイデア」と「美のイデア」とでは、「イデア」の意味合いが異なるのだが、「イデア」を「本質」という概念で捉えて直しておけば、両方のイデアを統合することができるだろう。

では、イデアは実際に存在するのか。プラトンによれば、この世には存在しないが、この世の外に種々のイデアで構成されたイデア界が存在し、この世のものは、イデア界に存在するイデアを与っているとされる。例えば、青空が美しいのは、青空が「美のイデア」を与っている(青空が美のイデアを分有している)からであると説明される(実際にはプラトンが青空を例に挙げて説明しているわけでない)。ちなみに、青空は、「美のイデア」だけでなく、「空のイデア」や「青のイデア」なども与っていると考えられる。つまり、この世のものは、通常、複数のイデアを分有していることになる。

また、青空のイデアは当然「青空のイデア」であるということに思い当たると、この「青空のイデア」と「青のイデア」や「美のイデア」の関係性はどうなっているのかという疑問が浮かぶ。一般化すれば、イデア間の関係はどのように規定されるかという問題だが、これはよく分からないし、多分重要ではない。

重要なのは「イデアの中のイデア」とも呼ばれる「善のイデア」と、「善のイデア」と他のイデアの関係だと思われる。しかし、プラトンの『国家』では、「善のイデア」を直接説明することができないとして、比喩(太陽の比喩、線分の比喩、洞窟の比喩)を用いて説明している。

先ず太陽の比喩。ここでは、「善のイデア」は太陽のようなものだと言われる。太陽は、人が物を見るために必要な光を放出する光源。つまり、「善のイデア」は、人がイデア(物事の本質)を知るために必要な「光」を人に与える源である。人が物事の本質を知るには知性が必要だが、ここでいう「光」は知性ではない。この比喩では、知性は物を見るために人に備わった目(または視覚)に対応するものであって、「光」は知性を活性化させる何かである。したがって、知性があるだけでは物事の本質を知ることはできない。

次に線分の比喩。説明が面倒なのだが、要するに、認識には段階があり、人は、感覚的な認識から始まり、認識力を深めることにより、最終的には「善のイデア」の認識するに至ることが説明されている。そして、認識力の発達を魂の発達に対応させている。

最後に洞窟の比喩。ここでは、洞窟の中で入口を背に拘束されている囚人がいて、生まれてからずっと、洞窟の奥の壁しか見られない状況が仮定される。囚人の後ろには火が燃えていて、囚人と火の間に様々なものが通る。囚人は、洞窟の壁に映った影しか見ることができないため、影を実体だと思う。しかし、それは間違いである。本当の実体を知るためには、拘束を解いて後ろを振り向かなければならない。そして、洞窟を出て外に出ると、太陽(善のイデア)の光が降り注ぐ世界があって、太陽こそが全ての根拠であることを知る。太陽を知った人間は、当然元の囚人には戻りたくないと思う。つまり、人が「善のイデア」で照らされた真実(物事の本質)を見るためには、拘束を解き、今までの認識が誤っていることに気付かなければならず、そして気付いたならば、もうそれなしには生きることができない。

さて、これらの比喩で説明される「善のイデア」とは何だろうか。

プラトンが比喩で語っている以上、それを具体的に把握することはかなり困難であると言わざるを得ない。しかし、この「イデア」という概念は良くも悪くも人々を魅了するものがあって、古今東西様々な人が解釈したり批判したりしている。そんな「プラトンの解釈者」の一人にプロティノスがいる。プラティノスは、プラトンが生まれてから約600年後、ローマ帝国下のエジプトの生まれ。プラトンの真の後継者を自称して、ネオプラトニズム(新プラトン主義)の開祖となった人物である。

プロティノスは、「善のイデア」を「一者」または「善」と呼び、それを神(神の中の神、神を生じさせるような神)と同一視して、実際に存在するものとして規定している。そして、この世の全ての物は、「善のイデア」から流出したものであるとするのである。

今回紹介する『美について』は、プロティノスの論文集『エンネアデス』の中から美に関する論文を3つ訳出したものである。

これらの論文によれば、美は「善のイデア」に到達しようとする欲求(または意思)を人に与える神秘的な力となるだろうか。人は、先ず、感覚的な美(目に見える外見的な美)によって、ある対象に魅せられるが、その後、精神的な美(内面の美しさ:徳など)に惹きつけられる。さらに魂を清め、知性=神的なもの=美の泉の湧き出ずるものへと立ち上る。そして、魂は善くなり、「善」へと近づいていく。

とまあ、簡単に言えば、このような主張がなされているのだが、「善のイデア」から流出したものの中でもかなり特権的な地位を有する「美」がどのように形成されるのか、など分からないことも多い。

また、「美」は「善」を必要とするが、「善」は「美」を必要としない、「美」は「善」を覆う幕であるなどと説く。つまり、「善」と「美」は明らかに別物であって、「善」は、「美」の後ろから「美」を使って人を「善」に引き寄せていることになるだろう。しかし、「美」を使って人を「善」に引き寄せているのだから、「善」は「美」を必要としているのではないだろうか? 必要の意味が違うのであろうか?

本書をさらりと読んだだけでは分からないことだらけだが、それでも、ネオプラトニズムの真髄の一端を垣間見ることはできると思うので、興味ある方は読んでみてはどうだろう。

そして私に詳細な内容をレクチャーして欲しい。