生の短さについて(岩波文庫):ルキウス・アンナエウス・セネカ | 夜の旅と朝の夢

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生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)/岩波書店

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今回も前回に引き続き、セネカ(紀元前4年頃-65年頃)の哲学的な著作を集めた『生の短さについて』を紹介します。

本書には、「生の短さについて」「心の平静について」「幸福な生について」の3篇が収録されています。

【生の短さについて】
一言でいえば、人生は短いと嘆く人々に対する反論。人生が短いのではなく、人は人生を自ら浪費することで短くしているのだとセネカは言います。

ではなぜ浪費するのかと言えば、それは他人のために忙殺されているから。ただし、ここでいう他人のために忙殺されている状態とは、基本的に古代ローマ特有の比護関係に基づく義務的な行動(たとえて言うなら、先輩の命令によるパシリのようなもの)に忙殺される状態のこと。困っている人間を助けたりとか、国家や人類に対する奉仕をするなと言っている訳ではありません。

セネカに言わせれば、偉人(理想の人間)は、自分のために時間を使う「閑暇な生」を生きます。ただし、自分のために時間を使うと言っても、自分自身が煩いの種になるような人間は、「無精な多忙」を生きているのであって、「閑暇な生」とは違います。

「無精な多忙」の生きる人とは、例えば、『少数の者たちの酔狂で高値を呼ぶコリントス物の什器をさも大事そうに細心の注意を払いながら並べ、一日の大半を錆びついた銅片に埋もれて過ごしている者たち(P39)』のこと。う~ん、胸が痛いのはなぜだろう? まあ、他にも、役に立たない文学研究をしている人とか、無駄な知識を覚えようとしている人もこの部類。

では、何をすれば、「閑暇な生」を生きられるかと言えば、それは哲学のために時間を使うこと。具体的には、『徳への愛好と実践、さまざまな欲望の忘却、生と死の知、遍(あまね)きものの深い平静(P62)』を目指すべきだというわけです。

【心の平静について】
セネカに言わせれば、理想の人間である偉人は、何事にも精神的な打撃を受けない「心の平静」を持っています。では、どうしたら「心の平静」が得られるのか、というのが本作の主題。

セネカは先ず、自分に対する倦怠や不満を取り除く必要性を説きます。そしてそれらを取り除くためには、『実生活の活動に従事し、国政に携わり、市民の義務を果たすことに専心する(P82)』ことが最良であると見なします。あまり自分自身の「生活」に気をもむなという意味でしょう。

ただし、あくまでもなすべきこと(国家や人類に役立つことなど)を推奨しているのであって、無益なこと(できもしないことなど)に労を費やすのはやめるべしと言っています。

そして他人に起こったことは自分にも起こるものだと認識することで、身を守る備えが出来上がります。

また、緊張を持続させては精神のためにならず、たまには息抜きも大切であると言っていて、ストイックの語源となったストア学派に分類される割には、意外と実際的。

ちなみに息抜きとは、例えば、適度な飲酒により、『精神を解き放って歓喜と自由へ導き、素面のしかつめらしさをしばし脱ぎ捨てること(P129)』 こういった息抜きなどにより、精神を真摯な不断の気遣いをもって包んでやる重要性を最後に強調しています。

【幸福な生について】
議論は前半と後半とで異なります。

前半はタイトル通りで、幸福な生について語っています。幸福な生は、自由であることから生まれるとし、快楽(欲望)に支配されているものは幸福な生ではないとされます。

では、何が幸福な生かといえば、最高善を身に付けること。セネカのいう最高善とは、『徳に喜びを見出し、偶然的なものを軽視する精神(P141)』、言いかえれば、『さまざまな事象に精通し、行動するに冷静沈着、かつ深い人間性と、交わる人々への気遣いとをともなった不屈の精神力(P141)』のことです。

後半は、哲学者への批判に答えるという内容。哲学者への批判とは、最高善を身につけろと言う割には、哲学者自身が最高善を身につけていないのはなぜかというもの。それに対してセネカは、確かに哲学者の多くは最高善を身につけていないが、それでも最高善を身につけようと努力しているのであって、それでさしあたり十分なのだと釈明します。

少し都合がいい感じもしますが、まあ、間違いではないでしょう。