地下室の手記(光文社古典新訳文庫): フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー | 夜の旅と朝の夢

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【ロシア文学の深みを覗く】
第21回:『地下室の手記』
地下室の手記(光文社古典新訳文庫)/光文社

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今回からはドストエフスキー(1821-1881)を少し続けて紹介する予定です。といっても、有名な5大長編小説(『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』)は除いて比較的短いものを中心に紹介します。5大長編小説も腰を据えてじっくりと再読したいと思っていますが、それは別の機会に。

今回紹介するのは『地下室の手記』(1864)です。中篇程の長さですが、フランスの小説家アンドレ・ジッド(1869-1951)によって「ドストエフスキーの全作品を解く鍵」と評されるなど、語られることの多い小説です。

僕はこれまでに新潮文庫版で2、3回読んでいますが、「ドストエフスキーの全作品を解く」ことは当然ながらできていません。今回はそんな身の丈に合わない野望は捨て、前回紹介したチェルヌイシェーフスキイの『何をなすべきか』との関連性に目を向けて読んでみました。

『何をなすべきか』の記事の中で、『地下室の手記』は『何をなすべきか』に対する批判として執筆された側面もあるなどと書いたのですが、実際に比較してみると、表現が穏やか過ぎていたことが分かりました。『地下室の手記』は、『何をなすべきか』のパロディ小説と言ってもいいくらいです。『何をなすべきか』を読む前と読んだ後では、『地下室の手記』は別の小説に見えます。

本書は、親戚からの遺産を受け取り、勤めていた役所を退職して地下室に引きこもった男の手記という体裁で、「地下室」と「ぼた雪に寄せて」の二部に分かれています。ちなみに、男は20年間も引きこもり続け、手記が書かれた時点で40歳。

「地下室」は、地下室に引きこもった男が自分の思想を語る理論パート、「ぼた雪に寄せて」は、男が地下室に引きこもる前に経験したエピソードを3つほど語る物語パートといったところでしょうか。

「地下室」は理論パートとはいえ、男の愚痴、怒り、卑下、冗談、思想などが混然一体となっていて語られていて、理路整然とはほぼ遠い。このため、男が重要な思想を語っているのか、それとも戯言を捲し立てているだけに過ぎないのかが判別困難になっています。

「地下室」の冒頭はこんな感じです。

『俺は病んでいる……。ねじけた根性の男だ。人好きがしない男だ。どうやら肝臓を痛めているらしい。もっとも、病気のことはさっぱり訳がわからないし、自分のどこが悪いのかもおそらくわかっちゃいない。医者にかかっているわけでもなければ、今まで一度もかかったこともない。医学や医者は立派なものだとは思っているのだが……。(中略)いや、金輪際、医者なんぞに診てもらうものか(P9)』

冒頭から混乱しています。病気なら医者にかかるのは理に適っていますし、医学や医者は立派なものだと思っているならなおさらです。でも男は医者なんぞに診てもらいたくないのです。ちょっと意味が分かりませんね。

この冒頭は、主人公である「俺」の変人ぶりを強調するためのようにも思えますが、実は既に『何をなすべきか』のパロディが始まっているのです。

『何をなすべきか』の主要登場人物であるロプホーフとキルサーノフは医者または医者志望の学生でした。また、医学は科学的・理性的なものの象徴でもあります。『何をなすべきか』は、科学や理性によって人は導かれ、自分の利益と社会の利益とが合致するようになり、最終的にはそのような人々が暮らすユートピアがこの世界に築かれると予言します。

地下室の男は、それを否定し、科学や理性を立派なものだとは認めるけれども、だからと言って科学や理性に導かれたくないと言っているのです。

その理由は、本書では、例えば以下のように語られています。

『自分にとって有利なことではなく、不利なことを望む時もある(P43)』

『良識と科学が人間の本性を完璧に再教育し、正常な方向に導けば、人間は必ずや例の習性を身につけるはずだと。(中略)「そうなれば、科学自身が教えてくれるはずだが(もっとも、俺に言わせれば、そんなことは余計なお世話だがね)、本当は人間に意志や気まぐれなんてものはないし、そもそもかつて一度もあった例(ためし)などなく、人間そのものが、ピアノのキーかオルガンの音栓(ストップ)のようなものに過ぎないのだ(P50)』

『願望も意思も欲求もない人間なんて、オルガンの音栓以外の何物であろう?(P55)』

つまり、科学や理性によって導かれる利益に反する行動を起こす欲求だって人間にはあって、欲求は個人的であるが故に、人間の独自性の一部であり、欲求を排除するならば、人間は画一化されたピアノのキーと変わらないのではないかといっています。

ドストエフスキーは、ザミャーチンの『われら』(1927年)、ハクスリーの『すばらしい新世界』(1932年)、オーウェルの『1984年』(1949年)などが執筆されるより前に、既に共産主義に潜むディストピア性を見抜き、それを批判しているわけですね。

以上をまとめると、本書の基本的な構造は、理性が支配する世界(ユートピア/ディストピア)=独自性の排除=チェルヌイシェーフスキイと、欲求を尊重する世界=独自性の尊重=俺との対立というわけです。まあ、これ以外にも色々あるわけですけど。

「地下室」はこの辺にして「ぼた雪に寄せて」に移りましょう。

「ぼた雪に寄せて」では、上述したように、男が地下室に引きこもる前に経験したエピソードが3つほど語られています。

そのうちの一つに、将校との対決があります。

将校の通り道をふさいでいた「俺」がその将校によってまるで物のようにどかされてしまいます。それに腹を立てた「俺」は、将校と決闘しようとするのですが、うじうじと何もできず、2年以上も経ってしまいます。それでも最後には、前から歩いて来る将校に道を譲らず肩をぶつけるという「果敢な」行動をとることで溜飲を下げることに成功します。

このエピソードはまたしても『何をすべきか』のパロディです。

『何をすべきか』では、学生時代にロプホーフが道を譲らなかった傲慢な男を溝に投げ捨てて、その後で引き揚げてやったことがあるということが語られています。「俺」のエピソードは、まさしくこのエピソードを裏から見たものといえるでしょう。

ロプホーフは、必要と考えたならば躊躇せずに行動を起こす人間で、それは『何をすべきか』によれば誠実な人間の証です。男が道を譲らない、つまりその男は傲慢なのだから罰を与える必要があると考えたロプホーフは、男を溝に投げ捨てるという罰を与えます。そして投げ捨てられたからには、つまり、罰を受けたのだからその男は助けられるべきである。だから、ロプホーフは、直ぐに男を引き揚げるのです。

本書では、「地下室」において既にロプホーフのような行動の人間を否定しています。

『すべての率直な人間、やり手タイプは、愚鈍で足りないがゆえに活動的なのだ。これをどう説明したものか? こう説明しよう。あの連中は、愚鈍さゆえに手頃な二義的な原因を根本的な原因だと思い込み、かくして、自分の為すべき仕事に対する揺るぎない根拠を見出したと、他人より素早く容易に確信し、それで気持ちが落ち着いてしまう(P36)』

「俺」に言わせれば、ロプホーフは、道を譲らない根本的な理由を男の傲慢さと容易に確信し、素早く男を投げ捨てる愚鈍で足りない人間なのです。「俺」はそんなロプホーフの被害者です。

ロプホーフは落ち着きを得え、直ぐにこのエピソードを忘れてしまうかもしれませんが、被害者である「俺」は落ち着きをなくし、なんと2年以上も悩み続けるのです。被害者が2年以上も悩み続ける可能性なんて、愚鈍で足りないロプホーフには浮かびもしないでしょう。

このように本書は『何をすべきか』のパロディ小説として読めるわけですが、『何をすべきか』と本書の根本的な違いは、その思想にあるのではなくて、その思想の描き方にあると思っています。

『何をすべきか』では、作者の思想が優れた思想として描かれていて、その思想の体現者であるロプホーフたちは優秀で誠実でそして最後には幸福になります。

一方『地下室の手記』では作者の思想は「俺」の語りによって相対化され真面目なのか不真面目なのかすら分からず、その思想の体現者である「俺」は、はっきり言ってダメ人間で最後には地下室にこもり、幸福だとは到底思えません。

『何をすべきか』を読んで説教臭いと思っても、本書で読んで説教臭いと思う人は多分いないでしょう。『何をすべきか』は思想を押し付けていますが、本書は思想を押し付けてはいません。『何をすべきか』は理性により幸福になれる単純な世界を描いていますが、本書は理性と幸福との関連性があやふやな複雑な世界を描いているのです。

さて今回は『何をすべきか』との比較をメインに書いてみましたが、本書は『何をすべきか』を読まなければ分からないようなものでもありません。『何をすべきか』とは独立した小説ですからね。自意識過剰な変人の独白として読んでも良いですし、「ドストエフスキーの全作品を解く」ために読んでも良いですので、是非読んでみてください。お勧めです。