何処へ/入江のほとり(講談社文芸文庫):正宗白鳥 | 夜の旅と朝の夢

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何処へ・入江のほとり (講談社文芸文庫)/正宗 白鳥

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今回は正宗白鳥(1879-1962)の短編集を紹介します。

白鳥は、近代日本文学史に名を連ねる文人の一人です。近代日本文学というは、二葉亭四迷の『浮雲』辺りから太平洋戦争終結くらいまでの日本文学を指しますが、文学愛好家の中では、今でも人気が高くて、日本文学の黄金期として捉えている人も多いみたいです。私個人としては、近代日本文学に固執してはいないのですが、文人達の層の厚さや文章の美しさなどを鑑みると、人気が高いのも頷けます。

近代日本文学に限らず、文人や文学作品は、様々な流派や主義に分類されますが、白鳥は、一般的には自然主義文学に分類されています。

自然主義文学は、元々19世紀末のフランスで、エミール・ゾラなどによって提唱されました。自然主義文学は、あらゆる美化を避けて、事実をありのままに描くという意味で写実主義と似ていますが、それだけではなくて、社会環境や遺伝的性質などと人間の行動との関連性が客観的に描かれていることが重要となります。これによって、芸術作品は、初めてその内部に社会批判を組み込むことに成功したといえるかもしれません。

ただ、日本における自然主義文学の人たちには、重要な後半部分の認識が弱かったせいで、社会批判は忘れられてしまい、単に身の回りのことや実体験を赤裸々に描く私小説へと転落してしまいます。近代日本文学において、今まで読んだ本の中で本来の自然主義文学と思える作品としては、島崎藤村の『破戒』くらいかなと。まあ、本来の自然主義文学だから良いとか、本来の自然主義文学から外れているから悪いとかそういう話ではないんですけどね。

それはさて置き、白鳥は、同じ自然主義文学の徒である島崎藤村とか田山花袋とかに比べるとマイナーです。本書を読んでいただければ分かってもらえると思うのですが、作品がつまらないわけじゃないんですよね。ただ、島崎藤村の『破戒』や田山花袋の『蒲団』のような決定打がないのが致命的かなと。消え行く作家の一人のような気がしています。

さて、本書には、白鳥の短編小説が8編収録されています。そのうち、4編は比較的若い時代に書かれたもので、残りの4編は晩年に書かれたもの。その中間が抜け落ちている感じです。

晩年の4編は私小説です。個人的に私小説は好きではないんですが、それを差し引いても、若い時代の4編の方が面白いと思いますね。

個々の作品ではなくて、若い時代の4編に通底する白鳥のテーマについて書いてみたいと思います。

同じ小説家が書いた作品には共通するテーマが見えることがよくあります。例えば、カミュの場合でしたら「反抗」が、カフカの場合でしたら「官僚機構」がそれです。

白鳥のテーマを一言で言い表すとすると、本書の2作目のタイトルでもある「何処へ」になるかと思います。もう少し具体的に言えば、自分が何処へ連れていかれるか分からないことに不安を抱きながら、なにも行動しない人間がテーマです。

表題作の一つ『入江のほとり』には、こんなシーンがあります。
主人公の辰男が勉強していた英語に興味を失います。

「以前ふとヴァイオリンが厭になった頃には、語学に興味が起こって、心がその方向へ吸い寄せられたが、今度は新しい道は開かれそうでなかった。(P228)」

新しい道を「開こうとしなかった」でもなく、「開けなかった」でもありません。「開かれそうでなかった」という受動性が白鳥のテーマを如実に表していると思います。

でも、これって現代でも見られる光景だと思うんですよね。そう考えると、白鳥のテーマには現代性(というより普遍性かな)があるのかもしれません。

ということで、白鳥はまだ消え行ってはいけない作家なのです。