坂合黒彦皇子墓 | 天皇陵(クラシックおじさんレポートのブログ)

天皇陵(クラシックおじさんレポートのブログ)

天皇陵巡りを始めました。皇后や皇子の陵墓も巡ります。起点は大和の国。全天皇陵制覇を目指す。
クラシックおじさんの演奏会レポートです。
年間50公演以上にお出かけするおじさんが演奏会の感想などレポートします。

坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)墓/奈良県吉野郡大淀町今木。

坂合黒彦皇子は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。『日本書紀』では「坂合黒彦皇子」のほか「境黒彦皇子」、『古事記』では「境之黒日子王」と表記される。「坂合(境)」は一説に地名。第19代允恭天皇の皇子、皇后の忍坂大木中姫(おしさかのおおなかつひめ)との間に生まれた5男4女のうち、3番目に生まれた皇子である。同母兄弟に安康天皇(第20代)・雄略天皇(第21代)がいる。

『日本書紀』雄略天皇紀によれば、安康天皇3年8月に安康天皇が眉輪王(まよわのおおきみ)に殺されたのち、雄略天皇(黒彦皇子の弟)は坂合黒彦皇子を疑った。殺されそうになった坂合黒彦皇子は、眉輪王とともに葛城円の邸宅に逃げ込んだ。葛城円は贖罪として娘と私地を献上しようとしたがかなわず、雄略天皇は火を放って葛城円・眉輪王・坂合黒彦皇子を焼き殺したという。この時、坂合部連贄宿禰(坂合部は一説に坂合黒彦皇子の名代・子代)が皇子の遺骸を抱いて焼き殺され、その舎人が回収にあたるも遺骨を選別できなかったため、1つの棺に入れて「新漢𣝅本南丘(いまきのあやのつきもとのみなみのおか、新漢槻本南丘)」に合葬したという。

陵の形式は円丘。遺跡名は「ジヲウ古墳」。国道309号線北側の山の中腹に石の鳥居が見える。村中の民家の間から山側へ入った高台に佇んでいる。//令和元年6月25日。

※村中の甲神社の写真を添える。






甲神社