井上内親王陵 | 天皇陵(クラシックおじさんレポートのブログ)

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井上内親王(いのえないしんのう)【宇智陵】(うちのみささぎ)/奈良県五條市御山町。

延喜式に「宇智陵 皇后井上内親王 在大和国宇智郡 兆域東西十町 南北七町 守戸一烟」とあります。
現在の奈良県五條市御山町にある御廟が比定されている。

井上内親王(養老元年(717年) -宝亀6年4月27日(775年5月30日))は、第45代聖武天皇の第1皇女。母は聖武天皇夫人の県犬養広刀自(あがたのいぬいのひろとじ)。伊勢斎王、のち第49代光仁天皇の皇后。別名井上廃后、吉野皇后。先に訪れた他戸親王はその子であり、“悲劇の母子”その人である。

養老5年(721年)9月11日に5歳で伊勢神宮の斎王にト定され、6年後の神亀4年(727年)、伊勢に下向する。天平16年(744年)1月13日、弟の安積親王の死去により、斎王の任を解かれ、退下したとされる。帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃になる。光仁天皇が宝亀元年(770年)10月1日に即位すると、それにともない、同年11月6日立后にされ、また翌2年(771年)1月23日には他戸親王が立太子された。

宝亀3年(772年)3月2日、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年5月27日には他戸親王も皇太子を廃されることになった。翌4年(773年)1月2日には、山部親王(後の桓武天皇)が立太子された。

宝亀4年(773年)10月19日、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王と共に庶人に落とされ大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、同6年(775年)4月27日、幽閉先で他戸親王と同日に薨去した。なお、この不自然な死には暗殺説や自殺説も根強い。享年59。他戸親王は15歳である。

皇后と皇太子が廃され庶民にされたあとに死亡したのは事実。不幸な彼女たちの運命はやがて怨霊伝説を生み出す。

宝亀7年(776年)ごろから災害が頻繁に起こるようになった。地震、日照り、暴風雨、御所への落雷がありました。そこで宮中で大祓をしましたが効果は無し。

宝亀9年(778年)。井上内親王の墓を改装して「御墓」にして他戸親王の墓を「山陵」にして天皇陵と同じ扱いにしました。

光仁天皇と山部親王が病気になったり、藤原蔵下麻呂、藤原良継、藤原百川が死亡。これも母子の祟りだと恐れられます。山部親王の病気は深刻で、精神疾患になってしまう。誰も山部親王の病気を治すことはできず1年間闘病生活をおくる。最後には山部親王が自ら伊勢神宮に行き病気回復を祈願した。皇太子が伊勢神宮に行くのは初めてで、そのせいもあってか山部親王の病気は回復した。ところが今度は光仁天皇が病気になる。天応元年(781年)。光仁天皇は山部親王に譲位、山部親王は即位して桓武天皇となり、弟の早良親王が皇太弟になりました。早良親王を皇太子にするのは父・光仁天皇の考えです。その後、光仁天皇は亡くなる。

桓武天皇は即位すると廃皇后の墓の近くに霊安寺を建てる。しかしそれでも怨霊騒ぎは治まらない。

延暦3年(784年)。桓武天皇は即位してわずか3年で平城京から長岡京に遷都。「早く井上内親王と他戸親王の怨霊から逃れたい」という想いが遷都の理由の一つともされる。

奈良時代の末ごろ、非業の死を遂げた皇后「井上内親王」と息子「他戸親王」は、怨霊と化したと恐れられた。幽閉先だった奈良県五條市には、それぞれの陵墓(お墓)とその魂を鎮めるために祀られた「御霊神社」などがある。恨みから災いをなしたと考えられた悲劇の母子ですが、現在は静かに眠っている。//令和元年6月25日。