求む!「志ある」編集長-DAYS JAPAN | 雑学三昧のブログ

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雑学三昧のブログ-アフガニスタン

アフガニスタン     広河隆一


◆求む!「志(こころざし)ある」編集長
 報道写真誌「DAYS JAPAN」
 2013年6月7日:朝日新聞夕刊(東京版)
 DAYS JAPAN


DAYS JAPAN (デイズ ジャパン)
2013年 02月号 [雑誌]/デイズジャパン

¥820
Amazon.co.jp

戦争や社会問題の現場に肉薄する月刊報道
写真誌「DAYS JAPAN(デイズジャパン)」(広
河隆一編集長)が今月から、後任の編集長を
公募する。学歴・年齢・国籍・話す言語、いず
れも不問。応募資格は「世界のフォトジャーナ
リストが作品を発表する舞台を守る志のある
人」(広河編集長)だ。

同誌は2004年3月、「一枚の写真が国家を動
かすこともある」と表紙にうたい創刊。イラク戦
争の悲惨さを伝える写真特集などを掲載し、
評価を高めた。一時は部数低迷で廃刊の危
機にさらされたが、2万部まで持ち直した。定
期購読者1万人に支えられ、黒字を確保して
いる。創刊以来の責任編集者で社長も務め
る広河さんは今年、70歳を迎える。健康に不
安を抱え、「体力と経営に余裕があるうちに
次世代に託したい」と編集長交代を決めた。
20日発売の7月号で異例の公募を告知する。
志望者には、目指す雑誌の姿を形にした見
本誌をつくって、応募してもらう。使う写真は
オリジナルでなくともよく、読者に訴えかける
写真や見出しの言葉を選ぶ力を確かめたい
という。海外にも、応募を呼びかける。締め切
りは11月1日。定期購読者による投票で候補
を絞り、書店員と大学教員らによる最終審査
で、次期編集長を決める。適任者なしと判断
された場合、廃刊の可能性もあるという。
広河さんはチェルノブイリ原発事故を追い、現
地を50回以上取材した報道写真家だが、後任
は写真家である必要はないとい。「DAYSは写
真ファン向けではなく、世界で何が本当に起き
ているのか知りたい人のための雑誌。ジャー
ナリズムを受け継いでくれる人の応募を期待し
たい」


《雑学亭閑話》
広河隆一さんに初めてお会いしたのは、大塚
の写研本社ビルのなかにあった「写植教室」
でした。広河さんは「草思社(当時)からパレス
チナ関係の本を2冊出版したけれど、それでは
全く喰えないし、母親が写植機を買ったので、
自分も写植をやろうか、と考えて写植教室に来
たんだ」とおっしゃっておりました。
広河さんと知り合うきっかけは、写植教室の1日
目の講義が終わった午後、藪から棒に「あなた
は、ここに自分の居場所はない、という顔をして
いるね」と話しかけてきたことです。「え?なんて
こと言うんだ、このひとは?」とわたくしは鳩が豆
鉄砲をくらった思いでした。それから広河さんは、
元暴走族だというイカレたカップルに熱心に話し
かけ、写植教室が終わる頃には、「族」の写真集
を出すんだ、と話していました。

写真植字の文字の大きさを表す記号はP(ポイ
ント)ではなく級数で表します。1㎜が4H(歯)。
16級は16Hで4㎜です。版を組むときは級数(歯
数)をしっかり計算しなければなりません。また
早く採字をするためには文字盤のどこに捜して
いる文字があるのか熟知する必要があります。
「一寸の幅、なべぶたしんにょうは函がまえ」と
ブツブツいいながら採字の練習を繰り返します。
写植教室が終わってわたくしは市ヶ谷の大日
本印刷に就職し、毎日漫画の吹き出しばかり
採字しておりました。広河さんは早稲田奉仕園
で妻のルティと写真展を開いたりしておりました。
(驚いたことにお子様も2人いらっしゃいました)。
たぶん広河さんは真っ当に写植機の前に座る
ことはなかったのでは、と思います。級数表を
覚えたり、文字配列を覚えたり、書体を覚えた
り、版組みの計算をしたり、そんな辛気(しんき)
くさい作業はお好きではないと思います。

1986年、旧ソビエトのチェルノブイリで原発事
故が起きました。そして新聞やTVで広河さん
の名前をお見かけするようになりました。
2004年、新聞のTV欄の「徹子の部屋」のゲス
トが広河隆一となっていましたので、「徹子の
部屋」を見ていると広河さんが写真雑誌を創
刊したと話していました。わたくしは「DAYS
JAPAN」を定期購読するようになりました。
2011年3月11日、東日本大震災が起こり、福
島原発の建屋が吹っ飛ぶのをTVで見ました。
ほどなく、広河さんは現地入りしまいた。広河
さんはチェルノブイリでも、福島でもたっぷり
と放射能を浴びたのです。健康は不安だらけ
でしょう。

南條直子さんというフォトジャーナリストがい
らっしゃいました。山谷へ入って写真を撮った
り、右翼の写真を撮ったり、そして1988年アフ
ガニスタンに行き、ゲリラとともに行動し、33歳
で地雷を踏んで亡くなりました。死んでいくとき
自分のカメラをゲリラの青年に渡し「死んでい
くわたしを撮りなさい」と言って死んでゆきまし
た。青年は写真を撮り続けました。
広河さんもなにか、昨日の続きの今日、今日
の続きの明日、みたいな日常に馴染めないの
でしょうね。女を裸にして写真を撮って荒稼ぎ
するような方はたくさんいらっしゃいますのに。