QDRでも予測されているように、予見し得る将来に米国に挑戦できるような地域大国、地域勢力は台頭しないであろうが、台頭を許してはならないというのもまた米国の世界戦略、安全保障戦略の重要な基本的考えである。それには、今現在はとうてい考えられない話ではあるが、日本が米国の影響下から離れてひとり歩きするような事態にならないようにする点も含まれる。


ましてや日本が、第二次大戦前のように太平洋を挟んで、米国と利権を争い、覇を競うような勢力になる事態は何としても阻止するというのが、米国の基本戦略である。それを好む好まないは別として、アジア・太平洋地域に対して米国はこのような姿勢と戦略で臨んでいるという客観的情勢を踏まえ、この地域の安全保障と日米安全保障条約、そして日本がこの地域にいかに関与していくのかを考えなければならないだろう。


それにはさらに、アジア・太平洋地域における戦略状況、不安定要因、そして日本にとって脅威となるような要因を客観的に把握しておく必要がある。米国防戦略の四年次見直し(QDR)にも指摘されてあったように、冷戦後の世界情勢ぱ不確実な要素にあふれ、むしろ冷戦当時よりも不安定化していると言える。

冷戦は東西両ブロックのどちらかに属するか、さもなければどちらのブロックにも属さない立場を取るかの三つに一つの選択であり、最後の立場を取るにしても、東西どちらか寄り、ないしは東西どちらかのブロックと、より強い関係を持つという立場の選択をせねばならなかった。つまり、完全な中立はありえず、東西ブロックのどちらかの勢力圏内での存在しか選択の余地がなかったのである。


この勢力圏への参加の基本的単位とは、いわゆる西洋近代国家の概念で定義されるような「国家」でめった。数が支配する日本の政党のメンバーと同じような単位であるため、この国家という基本単位を維持するためには、少々の原則から外れる行為でも無視されるか、黙認される傾向がめった。例えばその国家の現体制に敵対するような少数民族、あるいは現体制の存在を危うくさせる可能性を持つ宗教勢力などをその政権が弾圧しようとも、「やむをえないもの」として容認、ないしは黙認される場合が少なくなかった。

家庭でも特養ホームでも「寝たきり老人」がまだ数十万もいる。このままだと、私たちもいずれその仲間入りを余儀なくされるだろう。「寝たきり老人」という言葉をめぐってこんな話がある。朝日新聞の大熊由紀子論説委員は、一九八五年、欧州に高齢者福祉問題の取材にでかけ、愕然とする。「寝たきり老人」という言葉が、いくら優秀な通訳を通してくり返しても理解されないのだ。そうした言葉がデンマークなどにはなかったからである。


そこで大熊は、日本の高齢者は「寝たきり老人」ではなく、介護の手がまわらず「寝かされ老人」にされてしまうことを発見する。高名な教授や医者から「デンマークでは寝たきり老人はどこかに隠されているのだ」などと猛烈な反発をくらいながら、大熊は「寝たきりは寝かせきり」というスローガンを執拗に書きまくり、会合やセミナーで話し、ついに厚生省にまでそれを認めさせた。


大熊はその後も、人間の尊厳を失わせる日本の高齢化社会の残酷さに警鐘を鳴らし、福祉先進諸国での見聞や国内の専門家の意見などをもとに、具体的な改善策を提案する社説を書き続けてきた。「高齢者の社会的入院」「ろくに効能も確認されぬまま病院に出回る無数の薬」「七兆円の薬剤費の矛盾」など医療問題に関する社説も多い。


大熊は一九九六年十一月、そうした社説七十本を集め『福祉が変わる 医療が変わる一日本を変えようとした七十の社説プラスa』(ぶどう社)にまとめている。これは日本の福祉・医療問題を具体的に、平明な文章で説いた、市民にとって「目からウロコ」の福祉・医療問題のテキストになっている。ここに転載したのは、その本に掲げられた一九八五年当時の日本とデンマーク両国の高齢者介護の比較である。大熊は、進歩の芽を育てるために、その後の日本の変化も記しているのだが、一九八五年当時のデンマークと現在の日本を比べてみても、依然として落差が大きいことは明らかだ。

大戦に負け、6分の1の領土を失ったドイツだが、1914年8月26日から30日にかけて、ヒンデンブルク将軍を総司令官とする軍団がロシアの軍団にタンネンベルクで大勝したことでは大いに面目を回復した。ドイツ人にしてみると、500年前に同じタンネンベルクでの騎士団の敗北の恨みをはらしたことになるのである。


屈辱をはらしたヒンデンブルク将軍は国民的英雄の扱いをうけ、のちにヴァイマル共和国第二代目の大統領になったが、1933年にはヒトラーを首相に任命して、共和国に引導を渡す。ヒトラーの始めた第二次大戦でドイツが敗れた結果、第一次大戦の結果、飛び地になっていた東プロイセンはさらに南北に切断され、北はロシア、南はポーランド領になる。プロイセン700年の歴史の終幕である。


一方、プロイセンの北に広がるバルト地方では、リガ(現ラトヴィア)もタリン(現エストエア、ドイツ名レヴァル)も13世紀後半にはハンデに加入し、のち一時はともにドイツ騎士団領に属したが、プロイセンとは違った道を歩む。前者は騎士団が没落したあとポーランド、スウェーデンの支配を経て1710年からロシア領になった。後者はスウェーデン領のあと、同じく1710年にロシア領となった。ただ、ドイツ人の上層階級はそのまま生き残っていった。ツアーの下でもロシア人が名目上の行政権を握ってはいたが、経済・文化、ことに大土地所有はドイツ人の手に残されていた。土地の半分はドイツ人の所有だった。


この地方は、長い間、ロシアのドイツ人官僚の供給地でもあったが、ここの貴族たちもサンクト・ペテルブルグの宮廷に大きな影響力を持っていた。この地方でロシア語がドイツ語に代わって官庁用語になったのは、やっと1867年になってからだった。今世紀はじめ頃、タリンの市民階層の大部分はまだドイツ語を母語としていたし、リガは第二次大戦までドイツ人商人、手工業者の街で、人びとは17世紀まではブレーメン地方のドイツ語方言、その後は標準ドイツ語を話していた。


しかし、第一次大戦でバルドードイツ人はロシアのツアーの側に立ち、プロイセンから侵攻してくるドイツ帝国軍と戦った。そして、バルト三国は1920年、ソ連との平和条約で独立を果たした。ただし、脆弱な独立だった。リトアニアぱ1923年、帰属をめぐって揉め、連合国の管理下におかれていた東プロイセンの北端メーメル地方を自国の領土として併合する。しかし、街の人口の6割を占めていたドイツ人たちは、大ドイツを標榜するナチヘの傾斜を強めていく。SS(親衛隊)に似た組織ができ、彼らのナショナリズムをかきたてる。そして、ヒトラーは1939年3月、リトアニアからここを奪い返す。