日本企業は、まさにその種の事実を次から次へと突きつけてくる。たとえば年功序列制度。個人の能力を評価の対象にしない制度は日本企業の効率を阻害してしかるべきなのに、アメリカやヨーロッパと競争すると、いつもかならず日本か勝つ。マーケットーシェアは増大する一方だ。アメリカやヨーロッパのプライドを木端微塵に蹴散らして、円高など他の国には不利な要素でさえ、味方にしてしまう。


これはつまり、日本人という人種が優れているからなのか。同じことでも、ほかの国民より余計に働き、余計に貯めこみ、余計に知恵を絞るからだろうか。それとも異質な制度で動き異質なルールで戦いを挑んでくるからだろうか。日本は我々をもう少し優秀にしただけのものなのか。それともまったく異質なものなのか。私は、後者だと考えている。日本が異質であるならば、世界の資本主義経済は根本的な変革を迫られることになるだろう。共同体的な日本企業の戦略は、アングロ・サクソン系企業のやり方とは大きくかけ離れている。日本的経営が成功の原因であるということになれば、日本以外の先進国経済は大規模な変革への圧力を受けることになろう。


自動車業界における過去二〇年間の競争を例にとってみよう。一九七〇年代初頭には、ゼネラル・モーターズが自動車業界の帝王だった。GMは、あらゆる産業の頂点に立っていた。GMに比肩する企業はなかった。毎年のように「アメリカの最優良企業」に選ばれていた。二〇年前、自動車産業はアメリカ経済の中枢、難攻不落の砦だったのだ。


ところが二〇年後の現在、アメリカの自動車メーカーのなかで今後二〇年間生き残れる企業がはたしてあるかどラか、はっきり答えることさえむずかしい。日本車のマーケットーシェアは一九九一年半ばに三〇パーセントを超え、ゆっくりではあるが年々確実に増大を続けている。トヨタ自動車は系列の部品会社にこんなことを言っている。「今世紀末までに、卜ヨタはGMを抜く決意です」。二〇年前には夢想さえしなかったことだ。トヨタは、本気で勝つための態勢を固めている。


今日、アメリカ自動車業界の経営者たちは無能の代名詞のように酷評されている。だか、二〇年前には彼らは「最優秀」とたたえられていたのである。一九七〇年代の経済記者か愚か者ぞろいだったということだろうか?有能と無能の見分けもつかなかったということだろうか?何十年も世界最高の経営手腕を誇ってきた経営陣が、今から二〇年前に突然世界最低の経営陣に交代したとでもいうのだろうか?。

「身体髪膚これ父母に享く。敢て毀傷せざるは孝の始め也」(孝経)の思想が今もって無意識のうちに日本人には受け継がれているのであろう。さらに「自分の死後、どんな扱いを受けるのか」、「何をされるかわからない」という不信、不安の気持から死後の尊厳を保ってもらえないのではないかという恐れもあると思われる。


孤独の寂しさ。核家族という新語が生まれた時代になっても、北米と異なり子供は依存心が強く、なかなか親離れができず、また親のほうも子離れができにくい日本の社会にあって、死後、解剖学教室で家族に見守られることなく、独り寂しく過ごすなんてたまらないというセンチメンタリズムも見逃すことはできない。


お墓に入れば独りではないかといっても、お墓は普通、家族単位あるいは先祖代々の一族が一緒に眠っているので、死んだら亡くなった家族とまた一緒になるという考え方が生きている日本では、解剖学教室における孤独感は耐えがたいものとみるべきではなかろうか。そればかりではなく、独りで入院するのさえ寂しく嫌がる傾向の強い一般の人が、死んだ後とはいえ解剖学教室に安置される不安と寂しさを感じられても、単にセンチメンタリズムだけで片付けられないものがある。


また日本人は無縁仏になるのを嫌い、無縁仏に強い憐欄の情をもち、独り死んで行ってかわいそうという気持が強い。無縁仏ではないが、つい先日旅先から帰宅して誰もいない所で死んで行った江利チェミさんの死を悼む報道では、独り寂しく死んでかわいそうということが強調されていた。


人の目を気にすること。最近日本でも若者の間で「目立ちたがり」ということがよくいわれるようになった。これは北米ではあたり前のことであり、自己主張、オリジナリティー、スタンドプレーを白眼視することはないし、「自己の売り込み」は個人主義社会ではむしろ大切である。日本ではまだ「目立ちたがり」はむしろ軽薄でおっちょこちょいとみられるのではあるまいか?

最後に、インフォームドーコンセントやバイオエシックスと関わりが深く、近年日本でもよく議論されるようになった「告知」の問題を考えてみよう。わが国では「告知するべきか、するべきでないのか」という形で議論が行なわれることが多いが、告知は、二者択一式に決定すべき性質のものでも決定できるものでもない、大変難しい高度な医療行為であることを、まず強調しておきたい。


皮膚癌、乳癌、胃癌などが早期発見された場合には、一刻も早く手術して予後をよくする必要から、患者に癌の告知をして積極的に治療に協力してもらうようにすることは、医師の義務といっても過言ではなかろう。その場合には、医師は「これこれこういう早期癌だから、早くこのような手術をすれば治って再発の心配もないが、放っておくと手遅れになってしまう危険が高いから、一刻も早く入院して手術したほうがよいと思う。手術には温存療法と根治療法がある」と、患者にさらに詳しく説明をすることができる。その場合、患者は癌を告知されて精神的なショックを受けるにしても、「手術によって治癒する」と医師に保証され、生きる希望が与えられているので、そこには救いがある。


それにひきかえ、癌の末期患者の場合に、医師が「あなたの病気はかなり進んだ○○癌で、治療しても治る見込はなく、あまり長くはないと思います」と単刀直入に説明したとしたら、患者は生きる望みをなくしてしまう危険が大である。ましてや「あなたの○○癌はかなり進んでいて、三、四ヵ月、長くて半年くらいでしょうから、そのおつもりでお仕事のことやお宅のことを始末なさったほうがよろしいのではないかと思います」と告げたとしたら、死を前にした患者から生きる望みを絶つばかりか、患者に対して医師が「死ぬ前にするべきことをしておきなさい」と指示を与えることになる。告知した医師個人の価値観に基づいて、その医師と同じ価値観を持っているかどうかもわからない患者の個人的な生き方にまで立ち入るなどということは、医師の分限を越えた僣越な行為であると思う。


医師にいわれるまでもなく、しておかなければならないこと、しておきたいことを持っている患者なら、医師に止められてもしておきたいと思うことが多いであろう。また、何らかの形で告知をすれば、患者は自分で考えて行動をしようとするであろうし、必要があれば医師に、どの程度の活動をしてよいのかを尋ねるにちがいない。むしろ、そのような比較的簡単な質問を患者ができるようなゆとりのある雰囲気を医師は患者に示す心遣いが必要ではないであろうか。