最近アメリカに行って強く感じたことは、アメリカ・インディアン(今は、ネイティヴ・アメリカンと呼ばれる)の世界観に対して、そこから何かを学びとろうとする態度が、急激に高まってきていることである。これまでは、もの珍しさで注目することはあっても、「低い」文化として、まったく無視していたネイティヴ・アメリカンから、何かを学ぼうとするのだから、これは大変な変化である。前節にホピ族の少女の宗教性について少し触れたが、以前ならこんなことは誰の関心も引かなかっただろう。しかし、あらためて考えてみると、キリスト教として「唯一の神」を信じ、それのみが正しいと考えると、他の宗教や神話などに関心をもつのは、端的に言って「悪」と考えるべきではなかろうか。
実際、アメリカに多くいるファンダメンタリストの人たちは、そのとおりと言うことだろう。一神教を信じる人たちが他宗教に対して、どのように考え、どのような態度をとるべきかは、今世紀末における、一神教内部での大きい課題であったし、そのことは次の世紀まで持ちこされるだろうと思われる。そこで、キリスト教内部にあって、神学者のなかで、これに対して何とか新しい考えをもたらそうとした人たちの考えを少し紹介してみよう。前節に紹介した書物で、コールズが子どもたちにその子にとっての「神」を絵に描かせた体験を語っているところがある。「多くの子は神の毛髪を自分と同じ色に塗る。したがって北欧では金髪の神や金髪のイエスが多いが、ハンガリー、イタリア、イスラエルと南下するにしたがい、髪の毛は次第に濃くなっていく。目も同じだ」という。「一神教」で同一の神を信仰していてさえ、神のイメージは異なってくる。
ところで、コールズは、ある10歳の男の子(ストックホルム郊外に住む)が、イエスを描くときも神を描くときもクレヨンや絵の具を使わなかったと報告している。その子はその理由について、「だって神様はみんなの神様でしよ。だから神様は白人でもなければ黒人でもない。茶色の肌でもない。みんなの肌の色と目の色をしているはずだ。でもそれがどんな色なのか考えもつかないから、鉛筆で描くことにする」と説明した。同じような考えで、髭の色を、茶色に黄色や黒を足したりする子がいたという。これは「一神教」を信じていても、子どもたちが、異なる人にとってそれは異なるイメージとなることを容認しよう、あるいは、むしろ積極的に配慮しようとしていることを示し、非常に興味深い。これも21世紀の宗教を考える上で参考になるのではなかろうか。
このように子どもたちが直観的に感じとっていることは、キリスト教神学における「宗教多元主義」とつながるものと思われる。「宗教多元主義」の考えは、英国バーミンガム大学の神学者のジョンーヒックの唱えた ものである。彼はあくまでキリスト教の立場に立ちつつも、宗教の多元性が存在することを明確にしようと努める。彼は「私がキリスト教徒であって、イスラム教徒でもなければ、仏教徒でもないということは、綿密に論証が検討されたからであろうか。そうではなくて、私かイギリスに生まれ、サウディアラビアでもなければ、タイでもなかったという事実におおいに関係するのではないだろうか」。そしてどの宗教に属するかは、そもそも世界のどこに生まれたかによって相当に影響され、「宗教は宗教自体のイメージに合わせて私たちを造りあげる。したがって自然に宗教は私たちに合致し、私たちはそれに合致していく。
このように宗教的伝統のうちの1つに形成されているので、それが他のどれよりも正しく、真実で、規範的で、優れているのは明白であるように思えるのである。しかしその明白さは、通常、証拠や論証に頼っているのではなく、またそれに反対する証拠や論証によってたやすくゆすぶられるようなものでもないのである」と言う(ジョンーヒック著、間瀬啓允訳「宗教がつくる虹-宗教多元主義と現代」岩波書店、1997年)。ピックが同書の「日本の読者に」のなかに述べているように、「日本は長いあいだ、宗教的に多元的な状況に慣れ」てきているので、以上のような引用文を読んでも、当り前のことじやないか、などと感じるかもしれない。しかし、このことを一神教の神学者が述べるとなると、大変なことなのだという認識はもって欲しい。