どうすればできることなのかは、いまの私にはわからない。ただ私は、現在の日本の都市の中に、そうした意思の萌芽が発見できるはずだと思っている。最先端のインテリジェントービルほど、最先端の都市ほど、そうした意思の荷担を必要としているように思われるからだ。いまは見当もつかないが、きっとそうだと思っている。描いても描ききれない、京都で味わった感動とは。私か講師を務める大学の教員室で、「京都の庭や茶室をめぐる旅をしませんか」と日本美術専攻のA教授が声をかけて下さった。他に十人の先生が参加するという。曼殊院、桂離宮、修学院離宮、裏千家今日庵などを三泊四日でめぐる計画とのこと。A教授には、大学で会えば、いつもといってよいほど、お茶を点てていただいたり、日本の美について造詣深いお話を聞かせていただいたりしている。この先生の「解説つき案内」で、京都有数の名園・茶室が拝見できるとあって、私は一も二もなく、「ぜひ、連れていって下さい」とお願いした。


いまだ寒い三月中旬のこと。最初に曼殊院の八窓軒茶室を訪れた。茶室は小書院の北の奥にある。玄関を入ると案内の女性の後について長い廊下を渡りヽいったん小さな部屋に入る。そこで手荷物を置くと、背の低い客口からそっと頭を下げてくぐるように、一人ずつ茶室の中に入る。一行四人のうち、私を除いた三人は身体の大きな男性である。案内の女性を含めての五人が、きちきちと詰めてなんとか円座を組むことができるほどの空間。私たちよりも茶室のほうが息苦しそうに感じられる。三百四十年ほど前の作というが、内部の工夫は実に手がこんでいて、いくら細かい描写をしても説明し尽くせないと思われた。


壁に七つ、天井に一つ設けられた大小八つの角窓は、明らかにその背後の構成的な意思を感じさせて、不思議なまとまりを形づくっている。八窓は、仏教の八正道への道順を表すという。壁の黒塗りは、ほとんど剥離しながらも、あらわになった淡黄色の土壁全体に名残をとどめている。部屋の隅の半畳ほどの空間が、天井から腰の高さほどに降りた黒塗りの衝立で、わずかに仕切られている。衝立を支える柱は、微かにしなやかなくねりを見せる細身の桜の木で、ところどころに黒塗りが残る。藁葺の屋根裏をそのまま見せる天井が、途中から傾斜して格子天井となり、明かり取りの窓が付く。床の間には、色の消えかけた水墨の画軸が一幅、その脇に置かれた古びた竹の花入れに椿が一輪。


本格的な茶室を内側から初めて体験しながら、仕組みの一つひとつの説明に耳を傾ける。「窓の数は人間の窓の数と同じです」とA教授。目二つ、耳二つ、鼻二つ、ロ一つ、心に一つ。「なるほどそうか」と、内部への旅の見立てを思い、それぞれの窓に目をやる。と、案内の女性が「太陽光線の加減や雲の状態で、外の庭から障子に映りかかる葉の色が変化します」という。内と外との淡い連絡に人の心が静かに動くそんな体験への配慮があるのだろうか。立ち上がって天井の窓を開ける。紺碧の空に薄墨色の柔らかな雲がゆっくりと流れている。深い井戸の底を覗いたときのように、思わず引き込まれそうな気持ちになる。そのまま壁の窓を一つ開ければ、花をつけた椿の木がきれいに窓枠に納まって佇む。座り直して腰下の窓を開ければ、苔むした露地に渡り石が互い違いに点々と連なっている。


やはり、いくら描いても描ききれない。しばらくのあいだ、静かに座り続けた。これらは、「生の文化」の極致なのかもしれない。文化の中に「自然」を含み込みながら、あたかも「自然」の中に文化が含まれているような感じにさせられてしまう。そんな風を生み出すまでにするには、「素材の自然なあり方の質」を壊すことなく、どう手を加え、どう生かすかについて、途方もない工夫が凝らされているはずだ。そして、その途方もなさが人の心であることが驚異だ。この茶室は独立屋ではないが、佗茶の庵は、一見農山村の自然の片隅に佇む何の変哲もない小さなあばら屋と見えて、その実は、豪壮な書院の間を圧縮できるだけ圧縮し、その華美な色つやを洗いに洗いつくし、徹底して余剰をはぶき続けた工夫の歴史をもっている。だから、そこに出現する素朴な味わいも佗しげな風情も、この「余剰をはぶきつつの組みかえ」という力強い意思の働きによってもたらされたものだ。


議論の場は、公労使三者構成の審議会(具体的には、労働政策審議会の労働条件分科会)に移されたのですが、そこでは、労使の意見が大きく対立しました。特に、先に述べた、使用者は就業規則の変更により、合理性のあるものであれば労働者の同意なくして労働条件を変更できるというルールの是非や内容、解雇が無効と判断される場合において、従業員であるという地位の確認判決(いわゆる原職復帰)ではなく、使用者の方から、金銭の支払いにより雇用を終了させることができるかなどの問題が議論されました。


最終的には審議会として労使の見解の統一が図られましたが、コンセンサスの得られた部分の多くは、これまでの判例法をそのまま明文化するというものでした。そのため、研究会報告の提起した様々な新たな提言の多くは、審議会の建議には盛り込まれませんでした。法案が作成された段階では、労働契約法は、条文の数も少なくなっており、いわば小さく出発したといえるでしょう。このような労働契約法案は、国会審議を経て平成一九年一一月二八日に成立し、平成二〇年三月一日から施行されることになりました。労働契約法は、このような経過を経て制定されたものですが、小規模な出発であったとはいえ、それが立法されたことの意義は大きいといえるでしょう。先にみたように、労働契約をめぐる基本的ルールを定め、かつ、労働基準法とは別の実施システムをもつ法律が初めて制定されたからです。今後は、各方面の意見をふまえて、内容も次第に拡充されてゆくのではないでしょうか。


なお、労働契約法は労働契約関係に適用されるものですので、勤務関係の性質が異なる国家公務員および地方公務員には適用されません(一九条一項)。同居の親族のみを使用する場合の労働契約も、親族関係の特殊性をふまえて適用除外とされています(二項)。また、船員の労働契約については、船員法による特別な規律がなされており、労働契約法の一部の適用が除外されます二八条)。まず、そもそも、「労働契約」とは何でしょうか。ある契約が「労働契約」に当たる場合に労働契約法が適用されることになりますので(労働契約法の適用のための「要件」であるということになります)、この点は実際にも重要な問題となります。


この点に関して、労働契約法は、労働契約の成立に関する六条において、「労働契約は、労働者が使用者に使用されて労働し、使用者がこれに対して賃金を支払うことについて、労働者及び使用者が合意することによって成立する」と定めており、また、契約の当事者である労働者と使用者について、それぞれ、「『労働者』とは、使用者に使用されて労働し、賃金を支払われる者をいう」(二条一項)、「『使用者』とは、その使用する労働者に対して賃金を支払う者をいう」(二項)と定義しています。これらの規定からすると、労働契約とは、労働者が使用者に使用されて労働し、使用者がこれに対して賃金を支払う契約であると定義づけられます。こめ定義は、民法六二三条の雇用契約の定義(「当事者の一方が相手方に対して労働に従事することを約し、相手方がこれに対してその報酬を与えることを約する」契約)と同じといってよいと思われます(この点については学説上見解の対立があります)。


労働契約における一方の当事者が労働者であり、労働契約法二条一項によれば、労働者とは、使用者に①使用され、②賃金を支払われる者をいうことになります。労働基準法にも労働者の定義規定があり、「事業または事務所に使用される者で、賃金を支払われる者」をいうと定めていますが、労働契約法は、「事業または事務所に」という要件がない点で異なります。なお、「事業または事務所」は「事業場」と呼ばれることもあり、「一定の場所で相関連する組織のもとに業として継続的に行われる作業の一体」、具体的には、会社全体ではなく、工場や支店など場所ごとに考えるのが原則とされています。


労働基準法のもとでは、近年の就業形態の多様化に伴い、いかなる者が「労働者」に当たるかがしばしば議論されています。①・②の要件だけでは抽象的ですので、判例や行政実務は、①については、契約締結や業務従事への諾否の自由・専属性・時間や場所の面での拘束性・代替者や補助者利用の可否など(契約締結および履行における自律性)、②については、時間に対応した報酬かどうかなど(報酬の労務提供への対価性)の諸要素に具体化し、さらに、器具や経費の負担、税務上の事業所得の取扱いの有無のような独立事業者性などの要素をも加えて総合的に判断しています。

図表にこれらの新しい科学の成立を示す事績をクロニカルに示す。これらの成果は後のさらに豊富な発展に引き継がれる先導的なものであり、普遍的、体系的な知を引き出したという意味でまさに科学の名に値すると思われる。この一連の成果を「革命」と呼ぶことに抵抗があるかもしれないが、その後世への影響力の大きさや十卜十五年の短い期間に集中して成果が出揃ったことからも、革命の名にふさわしい巨大な知の地殻変動であったと思われる。もちろん図表に記された事績以外にも、科学技術の発明や発見はこの時期多くなされている。例えば戦争の帰趨を左右したと言われるレーダーの発明(一九三九年)、情報処理の物質的基盤を与えた半導体の発見(一九四七年)などである。ただし、これらは第二の科学革命の系列にある業績であり、第三の科学革命には含まれない。以下、順に第三の科学革命の成果を追ってみよう。


まず、すでに述べた制御である。蒸気機関を発明したワットは、水車の速度調節の仕方にヒントを得て、蒸気機関で動かす回転機の回転速度を一定に保つための速度制御器を発明した。これが近代的な制御の始まりとされている。ワットの速度制御器は、ハンチングと呼ばれる不規則な振動を起こしがちで、それが欠点とされていた。この問題を理論的に解析し、ハンチングを防止する設計法を与えたのが、電磁気学の基礎方程式で有名なマクスウェルである。マクスウェルによる理論解析は、生産にかかわる機器の振る舞いを数学的なモデルを用いて解析した初めての試みとして画期的である。時に日本で明治維新が起こった一八六七年である。


その後制御工学では、先に述べた巨大船の操舵や位置の遠隔通信などに使われたサーボ機構の設計方式が研究されたが、一九三〇年代には周波数領域における古典制御理論がヘイゼン、ナイキスト、ボードらによって確立される。制御工学の歴史について興味ある読者は、文献を参照されたい。戦争が生んだオペレーションズーリサーチ。不完全な情報に基づく意思決定の問題にひとつの解答を与えたのが、イギリス海軍の作戦研究(オベレーションズーリサーチ)である。第二次世界大戦の開始とともに、イギリスの海上輸送はドイツの潜水艦によって大きな打撃を受けるようになった。被害をなるべく少なくするために輸送船団の編成と護衛艦船の配備をどのようにすればよいかは、イギリスの生き残りにかかわる深刻な問題であった。


イギリス軍は物理学者や数学者を含む研究チームを作り、過去の被害の状況を詳細に検討し、ドイツ潜水艦の行動パターンを分析した。それに基づいて被害を最小にとどめるための船団の編成と護衛の方式を決定し、それを直ちに実施した。これは現代の言葉で言えば最適化である。船団の最適化が劇的な効果をもたらしたことを、戦争終了後発足したオペレーションズーリサーチ学会で、イギリス軍の担当者が報告していかにオペレーションズーリサーチはアメリカ軍でも大々的に取り入れられ、ある規模以上の部隊にはオペレーションズーリサーチの専門家を配備することが義務づけられたという。


ネットワークの問題については、配電、電信電話に関してすでに述べた。ネットワークの最も典型的な姿である電気回路については、すでに二十世紀の初めにマクスウェルが見つけた電磁場の基礎方程式が、「素子と結線」という人工物に適用して数学的に定式化されていた。この定式化は「入出力関係」という行動主義的なシステムの見方に立ち、通信工学の急速な進展を促した。ドイツの電気工学者ブリュンは、電気回路が実現出来る電流と電圧の関係は「正実関数」と呼ばれる数学的な概念と完全に一致していることを一九三二年に証明した。電気回路という技術の対象が、きわめて抽象的なひとつの数学概念と一致することを示したこの結果は、技術の論理的な側面が純粋数学と思いもかけない親和性をもっていることを示した点で意義深い。制御系の安定性を解析したマクスウェルの結果に次ぐ「数理工学」の成果である。