私は大学に進み、物理学の博士課程でガタク教授の指導の下、光通信の分野で研究をすることになった。すると、この分野で、米国と肩を並べて研究していたのは、日本のNTTや日本板硝子などの科学者たちだった。「やっぱり日本か」と思いながら、ネルー首相の言葉を思い出したのを覚えている。1982年、ダブリンのトリニティーカレッジで教え、研究を行なっていた時代に、私はフランスのグルノーブル大学を訪問する機会があった。その際、あるフランス人の家庭にホームステイすることになった。私は知らなかったのだが、その当時から、日本の旅行者の買いっぷりはヨーロッパで話題になっていたそうだ。たまたまそのことが夕食の話題になって、フランス人が日本に対してあまりいい感情を抱いていないことを、私は初めて知った。


しかしその時はそれと気づかず、なぜか私かその場で日本の肩を持つ格好になったため、かなり激しい討論となってしまった。フランス人は、日本は戦争で負けたので、今度は経済で世界に勝とうとしている、だからよくないといった論調。私は、もしそうだとしても、それで何がいけないのかと議論し続けた。内心、むしろ結構賢い戦略ではないかと思っていた。このような心情を背景に、1984年、キャノン株式会社の朝枝さんに紹介され、故・御手洗肇社長(当時は専務だった)の「日本に来たいなら、キャノンヘどうぞ」の言葉に乗せられて、3歳児の頃から聞いていた勇気の国、日本へ行く機会が私に訪れた。日本に来る前からも、来てからも、私か思い描いていた日本を実感させてくれた1人ひとりはとても素敵な人たちで、まさに人間のお手本とも言える人ばかりたった。故・御手洗肇社長、奥様の美智子様とご家族の皆さん、最初の上司の南さん、奥様のマサ子様、研究所の所長の遠藤専務など、キャノンファミリーはもちろん、来日数年後、私のような未熟な人間を家族の一員として迎えてくれた夫の須田家もそうである。


来日した時は、日本のすべてが美しかった。特に日本の陶器は私にとって、昔からの日本の物づくりの頂点に思えた。デパートに入ると丁寧な挨拶で出迎え、買ったものは美しく包装してくれるし、電車やバスは定刻通り運行し、車内の安心感(24年前は女性専用車両など必要なかった)など、どこから見ても、地球のどこかに天国があるとすると、それは日本である、と思っていたし、24年後の今でもそう思う。だからこそ、いじめで子どもが自殺することや、何年付き合った後でも、わずかなコミュニケーションのズレがあった時、「これが文化の違いだ」と言われてしまうようなことにぶつかると、何か天国での夢から目が覚めて地に落ちたかのように、毎日の美しさを疑ってしまうのだ。


日本人のように勇気ある人になりたいという思いで来日した私だったが、日本に来て一番見かけないのは、実はこの勇気だった。つまり、今日の日本人に一番足りない気質が「勇気」だとわかった。いろいろな側面で、勇気がないためにやりたいけどできないことがたくさんある。新しい仕事や事業にしても、最終的な判断には勇気が必要だが、結果的に勇気がないためにできないことが多い。最初はいちいち本気にして、「少しも進んでいないじやないですか、前回もやると言ったのに」と追及したこともあった。しかし今は私も日本での長い経験を通じて、日本人は言ってもできないことが多いとわかるようになった。そして、時には絶対やらないとわかっていても「そうですね、できればよいですよね」「お気持ちはわかります」と流せるようになった。また発言を本気に受け取ってはいけないこともよくあるのだとわかった。


「しょうがない」という語彙は、私が日本語で最も嫌いな言葉である。日本に来た時、いろいろな場面で会社や社会の中での決まりごとに対してできないことが多く、「しょうがない」という言葉ばかりを経験していたように思った。私がまだ日本語ができなかった時期に、ある日怒って「しょうがないではなくて、しょうがある」と言った。今になって考えると、私たちインド人はすべてに対し、自分の思いは実現できると育ってきた。つまり状況がまずければ、それすら変えることができるのが人間なのだと教育されてきた。だから、「しょうがない」という立場におかれることは人生でそうしょっちゅう起こることではなく、毎日の生活で、ささいなことでいちいち、「しょうがない」と言葉にするような無力な立場におかれることは許しがたい。そこを日本人は何とも思わずに「しょうがない」という言葉を使う。私から見ると、「しようがない」という言葉を使うことによって、自分で自分の力を放棄しているように見えた。


趙紫陽は、一九八九年北京天安門事件の「反革命暴乱」の責を負わされて失脚した。しかし、彼の主唱した「沿海地域発展戦略」は、現在の中国における最重要の経済戦略としての地位を失っていない。趙紫陽は、王建の戦略の起点に位置する労働集約的製品輸出のにない手として、沿海地域の郷鎮企業に照準を合わせた。そして、郷鎮企業を中核とする沿海地域の労働集約的加工業は、内陸経済との開発資源の奪い合いを避けるために、国際市場から原材料を輸入し、付加価値を高めたのち、ふたたびこれを国際市場に輸出するという「進料加工」(輸入原材料加工)を大々的に展開すべきだと主張した。


すなわち、沿海部加工工業は原材料入手と製品販売の両端を外におく「両頭在外」を基本とし、「大いに入れて大いにだすべきだ」、と語った。同時に、沿海地域郷鎮企業の競争力強化のために外国資本の積極的導入を許容すべきであり、全額外資企業、合弁企業、合作企業の「三資企業」を、その品質向上、技術の更新、企業管理技術の改善、製品販路の開拓に寄与させようとも主張している。


趙紫陽日王建の提唱する新戦略は、その基本的方向において、まことに有効なアプローチだというべきである。その理由の第一は、開発資源の制約条件を前提とした上で、膨大な農村余剰人口の工業部門への動員を図るという中国の経済発展において決定的に重要な傾向を持続させた。


なおかつもうひとつの基礎的な条件である国家基本建設投資を拡充するという課題を、ふたつながら同時に解決するためのほとんど唯一の可能性ある開発シナリオを、これが提供しているからである。そして、かかる開発シナリオが有効性をもつであろうと私か考えるのは、これが実は韓国、台湾などNIESの開発における成功的経験によく見合うものだからにほかならない。

それでもピークは過ぎたと言える。とくに業界再編による企業合併・提携のラッシュは二〇〇〇年に一区切りついた感がある。そのなかでもとくに社会インフラとして影響の大きい金融機関については、大手の統廃合はおおよそ決着がついた。いまは、統合に向けてひたすらシステムの開発を実施している段階である。

そしてその巨大プロジェクトも多くは二〇〇二年から二〇〇三年のあいだに終了する。どんなプロジェクトも企業合併や統廃合に比べれば規模は小さい。構造改革で仮に規制緩和がさらに進んでも、現在ほど大きなプロジェクトには発展しないと思われる。実際、現在銀行の合併で金融システムの対応に追われている大量のSEたちの一部は、このプロジェクトが終わると行き場がないという。このように社会的環境の変化から見ても、IT業界に対する需要はしだいに落ち込んでいくはずだ。Y2Kの狂乱のあとを受け継いだ大型案件開発ラッシュは、今後急速に縮小していくのである。

平成不況は収まるどころか、しだいに深みにはまっていく一方である。政府は、従来型の公共事業による景気刺激策に効果がないことにようやく気づき、「構造改革」と称して官から民へ、規制から緩和へ、保護主義から自由競争社会へと社会システム全体の変換を図ろうとしている。

しかし、底辺からの改革には時間がかかる。英国が英国病から国を立て直し、現在の繁栄を再構築したのも、米国が長い不況から脱して長期にわたる「インフレなき成長」を成し遂げたのも、一〇年以上の歳月を要した。しかも改革には副作用がともなう。構造改革によって景気は今後数年さらに落ち込むかもしれない。政府が盛んに「痛み」についてふれるのはこのためだ。

不況をIT投資の面から考えてみよう。たとえば、金融機関である。銀行をはじめとする金融機関における、IT投資は年問数百億円にのぼる。とくに合併が相次いだここ二、三年では年間一〇〇〇億円を超える投資も珍しくない。大手のソフトウェア企業数社の売上を合計しても余るほどの規模である。もっともこれでも、年間一五〇〇億円ものIT投資が常識とされている欧米の銀行に比べれば小規模だが、日本のIT投資における金融機関の占める割合がきわめて高いことは間違いない。