時事問題について思うところ、批判なんぞを生意気にも書いてみたいと思います。
ただ、僕、思い込みの激しい性格でして、「あの子おれに気があるんじゃないか」とかよく思い込むんですけど、まあそれは置いといて、ときに事実を間違って理解していたり、全くもって見当はずれなことを言う傾向があります。
なので僕の書く時事問題ネタは、あまり信用しないでください。
僕、バカですから。
事実と違うところがありましたら、コメント等で「ちげーよバカ」とご教授下さい。
よろしくおねがいします。
時事問題について思うところ、批判なんぞを生意気にも書いてみたいと思います。
ただ、僕、思い込みの激しい性格でして、「あの子おれに気があるんじゃないか」とかよく思い込むんですけど、まあそれは置いといて、ときに事実を間違って理解していたり、全くもって見当はずれなことを言う傾向があります。
なので僕の書く時事問題ネタは、あまり信用しないでください。
僕、バカですから。
事実と違うところがありましたら、コメント等で「ちげーよバカ」とご教授下さい。
よろしくおねがいします。
さてさて、2回目となりましたサブカルチャー論。
今回は『涼宮ハルヒの憂鬱』というアニメを紹介しましょう。
サブカルチャーというかただのオタク文化紹介のような気がしますが。
これはアニメをぜんぜん知らない方でも名前を聞いたことがあるのではないでしょうか?
エンディングテーマやキャラソンがオリコン上位に入ってもいましたからね。
んで、あらすじはといえばこんな感じ・・・
これといった希望もなく高校生活をスタートさせた主人公キョン。
入学式直後のクラスでの自己紹介で、彼は思いもよらない言葉を耳にする。
「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上。」
こんな強烈な自己紹介をしたのは、彼の後ろの席に君臨する涼宮ハルヒであった。
SFな世界にどこまでも本気なハルヒに、何故か気に入られたキョンは無理矢理ハルヒに連れて行かれて…
このときからキョンの「日常」は「非日常」なものになり始めていた―。
はい。
『涼宮ハルヒの憂鬱』は一見、学園コメディ的な印象を与えます。
強引で奔放なハルヒのわがままに振り回される主人公キョン。
退屈な学園生活からの脱却を描いた、そんな作品に思われるのであります。
これは差し詰め、韓国映画の『僕の彼女を紹介します』のノリと変わらないです、ハイ。
自由奔放、ちょっぴり強引な女性に振り回される主人公という構成という点でね。
主人公の名前も「キョン」と「キョヌ」でなんか似てますし。
しかし、この『涼宮ハルヒの憂鬱』には、韓流映画にはない、際立った特徴があるのです。
それが、あらすじでも触れた、「日常」と「非日常」の錯綜であります。
まだ見ていない方の楽しみを奪ってしまうのもアレなので、詳しい内容は避けたいと思いますが、『涼宮ハルヒの憂鬱』にはSF要素がふんだんに取り入れられています。
このSF要素だけを取り出してみれば、それは取るに足らないイチ、アニメのものであります。
が、何度も言いますように、このアニメの素晴らしき点はなんといっても、「日常」と「非日常」の錯綜が巧妙だという点です。
まず、このアニメでは一切のアニメ的な効果線や記号が用いられていません。
わかりやすく言えば、汗マークや顔にかかる斜線が使われないってことです。
宮崎アニメなんかを想像してもらえればわかると思います。
そのリアルな作画が「日常」の部分を鮮やかに浮き上がらせます。
特に、第12話の「ライブアライブ」でのバンドのシーンは、力の入った作画がなされています。
ドラムのタイミング、ギター、ベースの指の動き、ボーカルの口の形まで、実際の演奏を元に、忠実に再現されています。
このシーンだけでも、このアニメが秀作であることがよくわかります。
こうして「日常」を強調するなかに、鋭角的に「非日常」が入り込んでくるわけですが、ここでも、まさしくアイデアの勝利といいましょうか、素晴らしき構成がなされているのです。
それは、SFな世界を求め、それにどこまでも本気なハルヒだけは、SF的な体験をしないというものです。
つまりSF的な体験は、ハルヒの周り(たとえばキョン)にだけ訪れ、ハルヒは作品中で、ただただ「日常」を生きているのです。
これはもう、なんてインスピな発想でしょう。
なるほど、それは確かに「涼宮ハルヒの憂鬱」です。
ハルヒはリアルに描かれた「日常」を生きているだけなんですからね。
この「日常」と「非日常」の錯綜の巧妙さが、どこか「非日常」たるものを求め、普通でいることに恐怖感すら覚える若者に、とてつもない鳥肌モノの衝撃を与えたんでしょう。
それが、このアニメが秀作と呼ばれる所以なのかもしれません。
もちろん、このアニメにもいわゆる「萌え要素」的なものも含まれています。
オタク文化としても、やはりイイものであることに違いはありません、同意します。
しかしそれ以上になんといいますか、どこか退屈で憂鬱な日本の若者のココロを揺さぶるなにかを、このアニメは持っていると感じます。
こういった類のアニメは見たことないという方も、一見する価値は大いにあると思います。
ただ前半はどうしても「萌え」に走っちゃってる感があるから、そこだけ大目に見てやってください。
それが、サブカルチャーですから。
まあタイトルで『サブカルチャー論』なんて大それたこと言ってますが、別に何かを論じるつもりはなく、ただ、サブカルチャーについて思うことだったり、僕が出会った素晴らしき作品を紹介なんぞしてみたり、そんな感じでやるだけです。
んで、まず
「サブカルチャーって何やねん?」
ってことですが、簡単に言えば、
メインストリームじゃない文化、大衆ウケではない文化のことなんじゃないか
と僕なんかは思っております。
最近なんかじゃ、いわゆるオタク文化を指してこう言うこともあるんだそうで・・・。
シャツをズボンにインしたオタクどもが「萌え~」とか言ってる美少女ゲーもひとつのサブカルチャーですし、アングラなドブドブのヒップホップだってサブカルチャーですし、芸大にいる奴が着てそうなワケノワカランファッションだってサブカルチャー。
もっといえばニルヴァーナとかのオルタナロックも、サブカルチャーでしょうか。
まあ、要するに、マニアックな、オタクな文化って事ですね。はい。
僕は一般にサブカルチャーと呼ばれるものが結構好きで、と言ってもそうなったのはここ数年で、昔なんかは大衆文化に溺れていましたけど、精神的な堕落から目覚めたなんというか反骨精神らしきものでメインストリームを蔑むようになりまして、大衆受けしないような音楽・文学に没頭するようになったのです。
まあ僕がサブカルチャーに目覚めたのは、高校時代の友人でもある『サブカルの申し子N』の影響でもあるわけです。
彼もどこか、冷たい目で、ナナメ45度の角度で大衆を見つめていた感があります。
まあ、反骨精神的なものなんでしょうね、要するにサブカルチャーってのは。
カウンターカルチャーに近いのかな、最近じゃ。
ところで、このサブカルチャーってのを考えるときにいつも思うことがあるのですが、それはつまり果たして「サブカルチャーが好き」という奴(もちろん僕も含めて)のうち、何割がエセか、ってことなんです。
この「エセ」っていうのは本当に難しくて、白か黒かで割り切れる類のものではないのだろうとは思うのですが、やはり、エセはいるんですよ。
ここで僕が「エセ」って言ってるのは、ただ純粋にサブカルチャーが好きで没頭しているわけではなく、サブカルチャーとそれに没頭する自分が好きな奴、とでも言いましょうか、つまり、「サブカルチャーすらファッションの一部だぜ」みたいな、そんなフザケタ奴のことです。
これはもうホントに許せない。
お前サブカルをナメてるのかと、ここはお前の来る領域じゃねぇんだよと嬲り倒したくなるんですね。
「わたしぃ~、最近インディーズのバンドにハマっちゃって~」とかいう女、チャラ男的な身なりして「実はおれって、ちょっとオタク系なアニメ見たりしちゃって?」とかいう男、こいつらもう嬲り倒してやりたいんですよ。
お前ら骨埋める気で来ているのかと、ちょっと流行ったからってハンドボールの応援行くような気分でサブカルチャーを語るんじゃねえよと、そういう訳です。
しかしまあ、こんなことを言ってる自分もエセである可能性はあります、というかおそらくエセです。
サブカルチャーを語る自分、大衆文化から外れたところにいる自分、そんな反骨精神が、僕にも多分にあるからです。
さきほど罵倒した方々、ごめんなさい、僕もエセでした。
しかし、とすれば果たして「エセ」でない者などいるのでしょうか。
本当に、ピュアに、I's的な程にまでにピュアに、サブカルチャーにのめり込んでいる人などいるのでしょうか。
文化と自分との1対1で、サブカルチャーを楽しむ人っているのでしょうか。
そもそもサブカルチャーに限らず、文化と人は、第三者のないところで face to face でいられるものなのでしょうか。
とまあ、サブカルチャーから話がずれてずれて変な問いかけで行き止まりにぶつかってしまったわけですが、要するに、これからこのブログにおいてサブカルチャーを語るであろう僕は、「エセ」です。
そこんところヨロシク。