第4章 第21節 続き4 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む


 ガンダーラ地方の大乗仏教経典の発見については、アロン・サロモン論文『New evidence for mahayana in early gandhaara』と、その日本語による紹介である加納和雄の『近年の初期ガンダーラ語大乗仏典写本研究について』で確認することができる。両者ともネットで拾えるものである。加納の論文を主にして重要事項をピックアップすると、
 
 アロン・サロモン論文において、まず初期大乗の存在を知らせる既知の資料5点が述べられる。
①2世紀中頃のガンダーラ碑文におけるアンゴーカと考えられる大乗信奉者の王への言及
②カニシュカ王の後継者のフヴィシュカが大乗信奉者であったことを記す2世紀後半のガンダーラ語アヴァダーナ集成写本の奥書
③フヴィシュカ在位26年目に記された阿弥陀如来像建立に言及する碑文
④観音に言及していると推定される2世紀のガンダーラ語碑文
⑤バーミヤーンで発見されたクシャーナ文字で記された3世紀後半と推定されるスコイエン・コレクション所収の『八千頌般若経』の写本。

 次に近年発見されたものとしてガンダーラ語の大乗仏典写本断簡6点。
①バーミヤーンで発見された『賢劫経』の断片
②スコイエン・コレクションの『集福徳一切三昧経』の写本断片
③バーミヤーン出土の『菩薩蔵経』の写本断片
④パーキスターンのバジョール出土の阿閦仏に関する樺皮巻物写本
⑤スプリット・コレクションの1世紀後半から2世紀前半のガンダーラ語の『八千頌般若経』写本断片
⑥ガンダーラ語『善思童子経』の写本断片
 
 上記のものから1~2世紀にガンダーラ語の大乗仏典が存在していたこと。そしてそれは幾つかの小乗部派(大衆部や法蔵部)で共存していたことが想定されると語られる(バーミヤーンでは大衆部。バジョールでは法蔵部など)。


(大衆部の出世間部の拠点が存在していたアフガーニスターンのバーミヤーンが緑、法蔵部の拠点が存在していたパーキスターンのバジョールがピンク)

    発見はされていないが、ガンダーラ以外でも、同様にして、大乗を取り巻く状況が、他の地域でもおなじく想定されるという可能性について示唆される。ここから碑文に大乗と明記されていないことをもってショーペンの主張するように、インドにおける大乗の存在を否定することはできないということが判明したと述べられる。また⑥の『八千頌般若経』が出家者によって書写されたという明記があり、ガンダーラにおいて出家者によって『八千頌般若経』が書写されていたという事実は注目に値するであろう。アロン・サロモンの二人は、大乗経典原典の言語がガンダーラ語よりもさらに元になったインド古語に遡りうる可能性についても述べている。
 
 
 さらにまとめれば、ガンダーラ地方で1~2世紀頃にガンダーラ語によって大乗経典が書写され、その書写は発見された証拠に基づけば、出家者によってなされていた。またクシャーナ朝の王などが大乗を信奉し、後ろ盾になっていた。またバーミヤーンの大衆部の出世間部やバジョールの法蔵部において大乗経典が存在し、いわゆる大小兼学的な状況を呈していた。しかしこれはガンダーラの環境が写本の保存に単に有利に働いた可能性があり、アロン・サロモンにおいては、中インドにおいても同様の状況が存在していた可能性と、経典化が中インドでも行われていた可能性が示唆されている。しかしその物的証拠はない。ここで下田のエクリチュール先行論という限界理論を有効活用し、大乗経典のエクリチュール化した場所が、モル状の物的証拠に基づいてガンダーラであるならば、当然ガンダーラで大乗思想が発生したことになる。そうすると当然、大衆部または法蔵部によるガンダーラ語化→主に有部を中心としたサンスクリット語化の流れという経典化の順序が想定され、アウディシャー地方やアーンドラ地方への大乗思想の到来は1~2世紀よりも後になると考えられ、ナーガールジュナ以前にアウディシャー地方やアーンドラ地方に大乗思想は存在していなかったということにならざるを得ない。しかしそうなるとガンダーラ語の『八千頌般若経』に存在する、般若思想の源流が南インドにあるという言明そのものが不条理となる。またもし仮に権威付けのために自らの地方以外にその思想の源流があると述べるならば、仏教思想である以上、中インドに源流があることを言明するのが普通であろう。こうなると「ガンダーラ地方で大乗思想が発生した」という命題の真実の可能性はかなり低いと言わざるを得ない。故に大乗思想の発生場所はガンダーラ以外に求めるべきである。また辛嶋の「大乗は大衆部によって作られた」という命題の真偽を考察する場合に、選言命題を確立すれば、「大乗は大衆部か上座部いずれかから発生した」という命題となる。仮に「上座部から大乗部が発生した」という命題を真とするならば、上座部の勢力範囲から、地理的命題としては「インド東部ではなくインド西部で大乗が発生した」という命題に置き換えが可能である。その上で物的証拠から言えば、法蔵部に大乗経典が存在していたことがその写本の発見状況や『三論玄義』に引用されたウッジャイニー出身のパラマールタの『部執異論疏』から知られるので、「インド西部の上座部の一派である法蔵部が大乗を作った」という歴史的かつ具体的命題に落とし込むことが可能となる。しかしそれは「ガンダーラで大乗経典及び大乗思想が作られた」という命題同様、般若思想の源流地域の言明に反するし、大乗思想の伝播が北西インド→中インド→南インドの順番になるので、アウディシャー地方やアーンドラ地方にナーガールジュナ以前に大乗が存在していなかったという命題が真でなければならなくなる。明らかにこのような想定には無理がある。従って法蔵部で大乗思想が最初に発生した可能性は低いとせざるを得ない。残るは「インド中部の本上座部において大乗思想が発生した」という可能性であるが、これは辛嶋の大衆部において大乗思想が発生したという論拠と見比べると可能性が低いと言わざるを得ない。しかし完全に否定はできないにせよ、既存教団から大乗思想が発生したという可能性の線上では、やはり大衆部から大乗思想が発生したという説が目下一番有力となる。しかし筆者が述べたベクトルPとベクトルMの論理を元に検証すると、直接大衆部教団から大乗思想が発生したとなると、どうしても提唱者を基点に分派圧力がかかるわけで、第十九番目の大乗部が生じることなく、単純に大衆部から大乗思想が発生したという命題を真と認めるのには抵抗を覚える。つまり上座部に比べれば大衆部から大乗思想が発生した可能性は高いが、単純に大衆部教団内部から大乗思想が発生したとは言い切れない面があると言わざるを得ない。ガンダーラ地方における大乗経典写本の発見とその研究は前途有望であるが、ガンダーラ地方が大乗思想の震源地でないのは間違いなさそうなので、その線上での大乗仏教の起源史の研究には自ずから限界があると言わざるえない。また下田理論における、エクリチュールというモル状の証拠以後にしか大乗思想は存在しないという命題は、間違いの可能性が高い点については何度も繰り返し述べているが、とは言っても分子状の口承のみでしか存在しないパロール期の大乗思想の起源の探求というのは非常に困難なものである。しかしインド北西のガンダラーラ地方の大乗経典が大乗思想の震源に属するわけではなく、また大乗が上座部に比較すれば大衆部から発生した可能性が高く、またベクトルPとベクトルM理論に基づき、単純に教団内部から、大乗部として分派することもなく、直接、大乗仏教が発生したという素朴な命題も疑わしいといった諸点を元にして、あり得ない可能性を排除することにより、徐々に分子状のパロール期大乗仏教起源問題の、闇に覆われた部分の範囲を狭めつつ、包囲網ができ始めているのは間違いないだろう。




    上記の地図を見て頂きたい。地図への落とし込みにより、オレンジがガンダーラ地方の大衆部・法蔵部、青が化地部、緑が雪山住部こと本上座部の勢力の強かった地域を表す。これら三つの地域で大乗が発生した可能性は低い。消去法により大乗の発生地はこれら三つの上座部系の勢力の強かったインド西部ではなく、大衆部の勢力の強かった東インドの可能性が高いと推定される。これで地図上からも包囲網が狭まったと言えよう。


    さらに吹田・平林ラインの論文の線上で、「大経」から方等経が派生し、方等経典は雨安居の時期でも出家者が求められれば、在家に説くことができるということにより、方等経が「出家者から在家へ」という説法と伝播の方向性が判明するわけであり、ここにおいて在家と出家の接触の境界に身をおく、方等者というキーパーソンが見えてくるわけである。
 大乗仏教の信奉者は、パーリでは方等者と呼ばれて貶られていた。彼らは『八千頌般若経』ではダルマ・バーナカと自らを規定していた。つまり対他的な蔑称としては「方等者」であり、対自的には彼らはダルマ・バーナカであり、彼らの説くものは、既存の教団勢力から見れば、仏説以外のものを説く者、そして彼らは畢竟、詩人に過ぎず、彼らの説は創作の詩でしかなかった。
    とりあえず大乗仏教起源史の探求において我々は暫定的にこれまでの判明したことを上記の如く総括できるだろう。
  以上、ガンダーラ語の大乗経典の写本による最近の研究を簡単に確認したが、クシャーナ朝下の大乗仏教のトレンドを研究するのに『道行般若経』の翻訳者であるクシャーナ族出身のローカクシェーマ(支婁迦讖)の漢訳経典からクシャーナ朝の大乗仏教の状況を推論することもできる。ショーペンは、漢訳経典からインド仏教を推論することが有効的ではないと説いたが、少なくとも、ローカクシェーマの大乗経典の翻訳状況から、クシャーナ朝の大乗仏教の動向を単純に推定することは、なんら不合理なことではない。クシャーナ朝の大乗仏教の状況が、サータヴァーハナ朝下の大乗仏教とイコールでないのは確かである。またそれは旧マガダ国などの中インドの大乗仏教ともイコールでない。我々は次回の記事でサータヴァーハナ朝下の大乗仏教の代表者としてナーガールジュナの大乗仏教を研究する。ちなみに北西インド出身のローカクシェーマと南インド出身のナーガールジュナは、ちょうど2世紀で同時代人である。



    ここから少なくとも北西インドと南インドにおいて、2世紀に大乗仏教を信奉する僧侶が存在していたことが分かるであろう。また北西インドのクシャーナ朝の支配階級出身の異民族の者と、歴史的に見て、超一級の知識人である南インドのブラーフマナ階級出身のナーガールジュナが大乗思想を信奉していたことは重要である。それは異民族の支配階級出身者やインドの知的階級の者を魅了するだけの運動として大乗思想が存在していた事実を物語る。これらの運動を物的証拠の欠如を基に、その周縁性を強調したのがショーペンであった。ショーペンの線上では、ローカクシェーマもナーガールジュナも細々とした微々たる大乗仏教運動に現れた突然変異の一現象とされなくてはならない。彼らが民衆文化を背景とした巨大なうねりの中でそれに巻き込まれ、かかる歴史の必然が産み出した現象としての大乗仏教徒なのかどうかということは、大乗仏教という運動に対する解釈の問題となる。ともかく我々は、その結論を先送りし、ローカクシシェーマの訳経の範囲を見ていくが、これは平川彰の研究に基づく。




    まず平川彰の結論めいたものを引用する。『インド仏教史』より、
 


 
 
支婁迦讖の訳出経によって見るに、西紀一世紀末には、北インドに般若経系統、阿閦仏の思想、華厳系統の思想、阿弥陀仏、観仏思想、心性本浄説、文殊の教理、般舟三昧、首楞厳三昧、宝積経系統の思想などが存在したことが知られる。法華経関係の経典は、支婁迦讖には見当たらないが、それ以外の重要な大乗仏教の思想は、既に一世紀末に北インドに出揃っていたと考えてよいものである。
 
 
 ローカクシェーマの訳経は以下のものが大蔵に収められている。
①『道行般若経』――前回の記事で研究したが、ローカクシェーマの般若経系統の思想の中核が『八千頌般若経』の翻訳である『道行般若経』である。
②『阿閦仏国経』――阿弥陀仏信仰に先行する多世界多仏の代表となる阿閦仏信仰の経典。
③『兜沙経』――『華厳経』の「名号品」に相当する多仏的華厳思想の経典。
④『般舟三昧経』――阿弥陀仏の経典であり、観仏思想を述べる。
⑤『首楞厳三昧経』――文殊菩薩の教理の経典。この経典においても具体的な三昧の方法論に欠けるのが大乗運動の性格を規定するのに役立つであろう。
⑥『伅真陀羅経』――六波羅蜜を詳説した経典、六波羅蜜による不生法忍を得て、十地の階位を上って、悟りに近づくことを述べている。
⑦『阿闍世王経』――心性本浄を説き、文殊菩薩は成仏の行を完成しているが、菩薩の位に止まって、人々を導いていて、釈迦も過去世で文殊菩薩の下で修業したということを説く。心性本浄と文殊の教理を説いている。
⑧『遣日摩尼宝経』――宝積経の最古層の経典で『迦葉品』の名で知られる。「遣日」は大乗を示す方等の意味である。平川は、『初期大乗仏教の研究』において、この『遣日摩尼宝経』で述べられる「但だ好経法の六波羅蜜、及び菩薩毘羅経、及び仏諸品を求索す」の「六波羅蜜」を『大阿弥陀経』に出るものと同じ『六波羅蜜経』のことであると断定している。「菩薩毘羅経」が菩薩蔵のことであり、「六波羅蜜」が『六波羅蜜経』であり、『遣日摩尼宝経』に先行して菩薩蔵や『六波羅蜜経』が成立していたと推論している。
⑨『内蔵百宝経』――文殊の問いによって仏陀が仏身論や仏の功徳を説いた経典。
⑩『文殊師利問菩薩署経』――如来の四事(段階)を説く。発意・阿惟越致(アユイヴァルテティヤ・不退転)・菩薩坐於樹下・具足仏法。つまり仏(菩薩)の階梯論。
⑪『雑譬喩経』――説話集。
⑫『平等覚経』――ローカクシェーマ訳が疑われているが、『大阿弥陀経』と『無量寿経』との中間段階の浄土経典。
 
 
 上記の経典群から大乗思想の基本的な要素が既にローカクシェーマの時代の北西インドで成立していたことが分かる。従って、上記の経典はローカクシェーマの時代には全てガンダーラ語によって経典化され、それらがローカクシェーマによって、三国志好きなら多言を用さない、後漢の霊帝の時代に中国に移植されたのであった。今日のガンダーラ写本の研究の進展が、このローカクシェーマが中国に齎した大乗仏教の現地での物的証拠によってさらに解明されることが期待される。前述の如く北西インドの大衆部や法蔵部において大乗経典が収蔵され、ガンダーラ語によって経典化され、大乗を信奉する僧侶が存在したということが判明している。クシャーナ朝の下でのエクリチュール化の進行は、エクリチュール先行論者の下田の言うように大乗思想そのものを生んだわけではないが、パロール期の大乗思想をさらなる次のフェーズに進めたのは明らかである。我々は、このクシャーナ朝の大乗仏教の経典化のフェーズを便宜的に「帝国のエクリチュール」と呼ぶことにしたい。
    少し「帝国のエクリチュール」という概念について哲学的に説明しておこう。『アンチ・オイディプス』においてドゥルーズ=ガタリは、歴史を三つの段階に大まかに区分し、資本主義という脱コード化に基づく社会において、オイディプスという概念が如何に形成されたかを述べる。原始大地機械・専制君主機械・資本主義機械の三つが、その段階である。この三つはそれぞれコード化・超コード化・脱コード化作用に対応する。原始大地機械というコード化の段階は、人類学の扱う未開状態に対応する。その段階において、エクリチュールは声から独立していて、身体の上にもろもろの記号を刻みつける行為に典型として現れる。例えば、仏教はマガダ国を初めとする十六大国など、ある程度、社会組織が未開を脱した時代のものであるとはいえ、お釈迦様の作りあげたサンガは、疑似的に原始共同体を模していたと言えよう。そこでの声はパロールとして口承文化の中にあって、物に刻み付けるという行為は、身体の上に刻み付ける修行となって現れていて、それは身体への登記行為とも見做しうるであろう。原始仏教においてインドの灼熱の原始大地機械が作動し、そこに国家の介入は人為的に排せられていた。そうした疑似的原始共同体においてエクリチュールの必要性はなかった。
 エクリチュール、すなわち我々が一般に理解する文字によるエクリチュールを生み出すのは、「専制君主であり、書体をもって、厳密な意味でのエクリチュールとするのは帝国的組織体である」とドゥルーズ=ガタリは述べる。専制君主機械は遊牧国家として出現し、「異邦の機械」として表現され、「この機械の場所は砂漠であり」、彼らは異国の言葉で喋る。「専制君主とその軍団が通過してゆくところではいたるところで、医者、僧侶、書記、官吏たちが行列している。」大地機械の上に専制君主機械が折り重なるように外挿され、大地機械のコードが、専制君主の下で帝国主義的な超コード化の作用を受ける。その様を想像するのが難しいならば、日本に仏教が導入され、律令国家が成立し、渡来人が漢字を伝え、エクリチュールによって『古事記』『日本書紀』が誕生する段階と、それ以前の邪馬台国・大和朝廷の段階との断層を考えてみれば良い。大地機械はイデアルなものであるが、その段階において身体に刻み付ける行為としての記号の登記活動はあったのだが、それは声とは独立し、独自のコードを有していた。しかし専制君主の出現と共にエクリチュールは声に従属するようになる。そして超コード化によって、超越的なものを導き入れようとして「この書体は、天上、あるいは彼岸の無言の声を招きいれる」。或いは内面に砂漠や荒野を招き入れると言ってもいいだろう。「専制君主的シニフィアンがあり、そこからあらゆる記号が画一的に流れ出し、エクリチュールの脱領土化(現実的なものに直結する多義的で空間的な書体から時間の一義的な書体への再編成)した流れになる」。こうして古い大地機械の上で専制君主の新しい組織体がピラミッド状の国家を出現させる。それは血の出自に依存する部族とか、疑似的な共同体としてのサンガとは異なるものである。サンガのコードにおいて、お釈迦様を模した仏像は不可能であり、お釈迦様の声のエクリチュール化も不可能であった。それは外からやって来なければならなかった。大地的紐帯が断ち切られる必要があり、沼に落ちた人間が自分の髪を引っ張って、陸に上がることができないように、彼らにとり経典のエクリチュール化や仏像の作成は文字通り不可能なのであったが、それを可能にしたのが、外挿されたエクリチュールの帝国主義というべき装置の出現による。そうして生産されたものが「帝国のエクリチュール」である。クシャーナ帝国は、遊牧国家としてかかるエクリチュール化を行うのに躊躇する理由はなかったのだ。
    かくしてクシャーナ朝という帝国がエクリチュールの輸出元として大乗仏教布教の駆動力となる。パロール期において、その口承による伝播は、口から口、人から人であったが、経典化というメディア革命が大乗思想の伝播を別のフェーズに推し進めたのである。次の記事で述べるが、帝国のエクリチュールを受容し、大乗思想を南インドに逆輸入したのがナーガールジュナであると筆者は考えている。つまり般若経の源である原産地の南インドで育ったナーガールジュナが、「帝国のエクリチュール」の文化状況の中で、台頭する有部に対して空によって対抗し、帝国のエクリチュールによって結晶化した大衆部由来の可能性の高い新式の大乗思想を逆輸入して南インドに齎したのである。彼は『竜樹伝』では謎に満ちた海中に存在する竜宮で、大乗経典を得たと述べられているが、そのぼやかされた竜宮とは、過去世で疑いなくナーガールジュナの弟子であったと考えられる佐々井秀嶺は、南インドのナーグプル(竜宮)であると述べているにせよ、実際は、北西インドの近郊において、クシャーナ朝下の大乗仏教、すなわち、ローカクシェーマが中国に輸出した、大乗のほとんどの思想が揃っていたと平川が総括するところの当時の最先端仏教である北西インドの大乗思想を受容したものであったと筆者は考える。







    とは言え、ナーガールジュナの大乗仏教は次回に詳しく述べるので、ここでは触りのみ述べるにとどめる。また佐々井秀嶺についても次回論じる。彼は書いていることの半分以上はトンデモだか、過去世の師匠であった竜樹の夢のお告げで法顕や玄奘の述べているサータヴァーハナ朝の王が竜樹に布施したブラーマラギリ(跋邏末羅耆釐)を恐らく発掘するという無茶苦茶をやってのけているので触れないわけにはいかないのである。
 
 ここまで大乗仏教起源史の探求を行ってきたが、ここが大乗仏教起源史の探求の五合目である。しかし相当、見渡しの良い地点に来ているのは間違いないだろう。それも我々はまだ大乗思想の内的形式である思想内実の探求にまだ着手していないということを思い出して欲しい。つまりまだ本隊に突撃命令は降っていないし、勝敗を決定する予備隊の投入もまだである。それではこれより大乗仏教起源史の探求における後半戦、内的形式としての大乗仏教の思想史の線上から大乗仏教の起源史の考察に進んで行くことにしよう。