第4章 第21節 続き5 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む
 
    前回の記事で我々は、『バガヴァッド・ギーター』を世にもたらしたヴリシュニ族の一英雄神であるヴァースデーヴァ信仰が、異民族のギリシア人や、ヴィンディヤ山脈を超えてインド南部など広範囲に前1世紀頃には拡大していたことを確認した。言わずもがな、『バガヴァッド・ギーター』も各章に各々の成立年代の区分があり、『八千頌般若経』『法華経』同様に時代的な段階を経て層状に成立したものである。一般的に『バガヴァッド・ギーター』においてギーターの最高秘説をクリシュナが語った最終章の第18章は新しい層に属すると見做さている。しかしギリシア人などにバーガヴァタ信仰が説得力を得て、部族宗教から普遍宗教化した契機は、バクティによる解脱を説いたからであると筆者は推論するものである。従って前2~前1世紀頃には、世俗的な義務を遂行しながらもヴァースデーヴァへのバクティ(帰依)によって人は最高の帰趨へと赴き、解脱することが可能であるというメッセージを有する宗教が『バガヴァッド・ギーター』という韻文形式で書かれる以前に成立していたと考えるものである。大乗仏教の成立に『バガヴァッド・ギーター』が影響を及ぼしたのか否かという問題は、結論の分かれる問題ではある。筆者は14歳の頃には原始仏教原理主義者であったが、16歳の頃には『バガヴァッド・ギーター』バカに改宗しているので、当然、大乗仏教に『バガヴァッド・ギーター』の影響があったと、ア・プリオリに考える。しかし、一般的に日本の仏教学者は、思い入れの強い大乗仏教に『バガヴァッド・ギーター』の影響を見ることに否定的か、渋々認めるかどちらかであろう。そんなわけで、ギーターの大乗仏教への影響をア・プリオリに筆者がただ闇雲に主張しても信用して貰えないだろうから、少々、ア・ポステリオリなところを交えつつ弁じたいと思う。
    まず前提として筆者は、部派仏教内部の専門の僧侶にギーターの影響が色濃く反映していたということには懐疑的である。筆者が主張するのは、少なくとも前2世紀から前1世紀の在家の仏教信者にあっては、戦国時代の我が国の一向宗の如くに、バクティを説くバースデーヴァ教が新興宗教として彼らの視野に否応なしに入っていたであろうということである。これは決して不合理な推論ではない。まずその教説をおさらいしよう。本当ならば上村勝彦訳の『バガヴァッド・ギーター』の引用を、調子に乗ってここで畳み掛けたいのは山々ではあるけれども、手間なのでヴァースデーヴァのメッセージを筆者が適当に要約する。それはつまり、「私(クリシュナ)に一意専心、帰依すれば、生まれの悪い者でも、悪人中の最悪の極悪人でも、女子でも、ヴァイシャでも、シュードラでも、私の恩寵により、四姓の義務を行いつつ、世俗の中で最高の帰趨に達し、解脱を得ることができる」というものである。つまりどう考えてもこれこそが、真のマハーヤーナ(大いなる乗り物)であり、マハージュニャーナ(大いなる知)という印象を受ける。かかる教説は、ややこしいメッセージ性など一切なくて非常にシンプルで、易道そのものである。もし仮にこの教説が逆に大乗思想に由来するならば、大乗の基本思想の成立年代より『バガヴァッド・ギーター』の思想の成立年代が新しいということにならざるを得ない。しかし、これから詳しく見ていくが、大乗思想における一乗思想の成立も、念仏による往生の思想も、最も古い大乗の基本思想から少し時代の降ったものであるということをまずは指摘しておこう。つまり、①最古層の二乗批判を内包する六波羅蜜に基づく大乗思想→②ローカクシェーマに典型として現れる浄土思想・一乗思想へと展開せんとするクシャーナ朝期の北西インドの大乗思想→③バガヴァッド・ギター思想の成立という順番を考えざるを得ない。最古層の大乗思想に浄土思想や一乗思想などが付加されたのはクシャーナ朝下の北西インドであり、そこは元々、バーガヴァタ派の故地であった。ここをまず抑えておいていただきたい。そして大乗思想の成立時期にはすでにヴァースデーヴァ教は広く拡大していたのである。
 バーガヴァタ派のメッセージは完全に在家主義を標榜したものであり、出家主義を至上のものとはしていない。原始仏教は、出家主義でありシュラマナの古い伝統に属する。つまりジャイナ教やアージーヴィカ教などと同列のお釈迦様在世中の古い出家主義のトレンドに属していた。『ミリンダ王の問い』の新しい部分で、「在家の者が阿羅漢果に達したら、その日のうちに出家するか、死ぬかどちらかである」と言った議論が述べられていて、在家であっても阿羅漢果を得ることは可能とされているが、基本的に仏教は出家者に対する教えが主であり、在家者への教えは、彼らが解脱を求めているわけではないというドライな認識で割り切ったものであり、生天の為の布施・ストゥーパ崇拝・清浄法などが説かれていたに過ぎなかった。つまり在家に寄り添った教え、在家の魂の救済のような、弱者に媚びたユルい系のものに、もともと仏教は重点を置いていなかった。なぜなら実際に解脱するのは生半可なことではなく、どっちつかずの状態で阿羅漢果を得られるほど、この世は甘くはないという現実的な認識が基底にあったから。それはお釈迦様の基本認識でもあった。お釈迦様は、甘い言葉で大衆の阿片を与えようとすることはなかった。それはお釈迦様の優しさであった。しかし時代は下り、四胡・部族国家林立のシュンガ朝・カーンヴァ朝期の混迷の時代には、おいそれと出家することができなかった人も多かったであろうし、その結果、数百年前のシュラマナによる出家主義のトレンドは過ぎ去り、在家者の解脱問題こそがトレンドになっていたと考えられる。一族郎党を異民族の襲撃から守るべき一家の家長が、世をはかなんで出家遁世することが許されるほど時代は平和ではなかった。しかしそうした中でも心に拠り所が欲しいというのが人の心情というものである。「汝は自らの本分を尽くし、戦士として戦え、その結果を捨離し、その結果を平等のものと見做して我に捧げよ。一意専心、我を念じて自らの義務たる戦いにおいて、敵を殺戮し、戦え、さすれば、我は汝を最高の帰趨に導こう」というのがクリシュナの教えであった。明らかにこれは在家の魂の問題に対するヒンドゥー教の解答であった。それに対して仏教はアップデートされていない古いシュラマナ主義の下で、保守的に教団を維持することにこそ教是があり、当時の在家の魂の要求に応え得るものでもなく、在家者の魂の救済にそれほど積極的に関わろうとしてはいなかった。救われたければ出家しろというわけであり、魂の救済と在家の義務は両立しないというのが仏教の基本見解であった。しかし、言うまでもなくサンガ(僧伽)は、在家者を必要とした。サンガにとって日々の托鉢の相手である在家者は、サンガを維持する上での下部構造のようなものであり、彼らは僧伽の養分として必要であった。但し、我々に布施を行えば、あなた達は次には良い生を受けて、いつかはお釈迦様の説いた「一切皆苦」の真理に気づき、出家する時が来るであろうし、その時にはいつでも世俗を捨てて私達のサンガに加わりなさいというのが、僧伽の基本的な在家に対する方針であった。出家エリート主義であり、当然ながら在家は二軍であり、出家予備軍に過ぎなかった。これについてお釈迦様というカリスマがいた時は良かったが、時代が下り、声聞・独覚・仏との間に部派仏教が僧侶間の相互牽制の為に垣根を自ら設けて、声聞・独覚は、誰も全知の仏陀にはなれない、我々が獲得できるのは阿羅漢果だけだという認識にいたった時、在家を養分とするだけのかかるサンガに対して在家の人々が疑問を持たなかったのかという疑念が我々に生まれるわけである。仏教において在家は二次的・副次的な集団に過ぎず、出家こそが主要なる集団であった。そしてその主要集団のゴールが阿羅漢果であるとなった時に、在家の人々は、自分達がいくら布施をして生天し、最終的に来世で出家するとしても、阿羅漢がこの仏教集団のゴールであるというシナリオがありありと彼らには見えたはずである。つまり何か素晴らしいことがもしかしたら起こるかもという、人間的な薔薇色の慰めともなる希望を既存の教団に抱けるものではなかった。実際に仏陀になれるかは置いておくとして、最初から仏陀にはなれないというのは、人間的な、余りに人間的な期待感から言えば、あんまりなわけである。在家者が阿羅漢をゴールとし、一人の仏陀も生み出さない仏教教団に幻滅し、最終的にお布施活動に疑問を起こさなかったのか、そこに阿羅漢・布施ニヒリズムが生じなかったのか、考えてみる必要があるだろう。当時、一人の在家のひろゆきがニヤニヤしながらこう発言するの想像していただきたい。「それって要するに、僕らがいくらお布施しても、皆さんは仏陀にはなれず、阿羅漢どまりなわけですよね。それでまた僕が来世で生まれ変わって、最終的に一切皆苦に気づいて出家したとしても、阿羅漢になって解脱するのがゴールってことですよね?でも知ってます?別に僕は信じているわけではないですけど、ヴァースデーヴァを信仰すれば、とりあえずお金稼ぎながらでも最終的には解脱できますよって話、今よく聞くじゃないですか。なんか仏教ってすごい袋小路感ないですか。仏陀になったお釈迦様にお布施するなら分かるんですよ。でも、ぶっちゃけ、ちょっと僕は阿羅漢どまりのあなたがたにお布施するメリットが感じられないんですよね。僕があなたにお布施するメリットって本当にあると思います?」




    こんな人物がいたかどうかは知らないが、古いシュラマナ主義の伝統に立つ部派仏教が在家に対して正面から、これまで向き合うことのない、二軍扱いのその消極主義は、ヴァースデーヴァ教の積極的な在家主義に比すれば、明らかに古い時代のトレンドのものであり、四胡部族国家林立時代のシュンガ朝・カーンヴァ朝期の大衆のニーズに合っていなかったことは明らかである。逆に言えば、完全に『バガヴァッド・ギーター』は、古い時代のヴェーダ教の教えから脱皮して、その時代のニーズに適合したものとしてデザインされていたことが、部派仏教との比較から明白になる。そしてかかる『バガヴァッド・ギーター』の思想は、現代のインド人の精神の根幹部分にDNAとして深く植え付けられているのであり、インド人にあって瞑想家やヨーギンなどは実際には我々の想像以上に少ないわけで、彼らインド人はバクティ・ヨーガ一辺倒なのである。インド人で瞑想が日課だ、ヨーガが趣味だという人間は少数だが、バクティを有する人間はほとんど全員である。寺院に行けば分かるが、彼らは倫理観をかなぐり捨ててでも、列に割り込んで我先に女神に参拝しようとするバクティ信仰の持ち主達である。人倫に勝る信仰心。インド人の魂にバクティ思想がここまで深く根付いていることを考えても、その最初期の原始バクティ思想の魅力や価値を、低く見積もるのは間違いの元であり、それどころかその引力は発生時から強烈であったと考える方がより合理的であろう。バクティ崇拝の思想は、部派仏教の教団内部の理論家・専門家にとってはザルのような教義であり、そこに様々な矛盾を見つけるのは容易であっただろう。従って専門の僧侶にヴァースデーヴァ教の衝撃があったと考える必要はない。しかし在家の自分の将来・来世のゴールが、阿羅漢果に過ぎないと看取した人々が、仮に幻滅から情緒的に阿羅漢・布施ニヒリズムに達していたとするなら、その人々にヴァースデーヴァ教の易行の教えは自分達の信奉する仏教の古臭さを鮮明にしたであろうと考えられる。当時仏教には在家の為の積極的な教えが不在であったが、四胡・部族国家林立時代のシュンガ朝・カーンヴァ朝期においてのトレンドは、在家の為の教え、在家の救いをどうするかというところに、焦点が移行していたのである。ここにおいて古いシュラマナ主義としてのお釈迦様の仏教とは、異なる在家の為のバーガヴァタに対抗する思想運動の要請があったと筆者は考えるものである。明らかに大乗仏教の思想の構成要素の中には、バーガヴァタの思想の構成要素を仏教風に再編成、再構成したものが多い。大乗思想は時代に要請されたものであり、それは在家の人々の欲求に応じて、在家の人々と深く関わりながら彼らの心の救済を願う出家者によって創造されたものである可能性が高いと筆者には思われる。この点こそが筆者がこれより証明したいと思うことなのである。
 とりあえず大乗仏教の思想内実を考察する上で、大乗仏教と従来の部派仏教を分ける要件をまず考えてみよう。部派仏教においてお釈迦様の地位が徐々に、超越化・肥大化・インフレ化し、仏と声聞・独覚の間に懸隔が生じ、いかなる出家者も全知の仏にはなり得ず、一世界に一仏のみという考えが生じた(化地部などの西部では僧と仏の解脱に違いはなかった)。本来、サールナートでお釈迦様が、初めての説法、すなわち初転法輪を五人の元の修業仲間(アジュニャーダ・カウンディニヤ、アシュヴァジット、マハーナーマン、バドリカ、ヴァースパ)の間で行い、結果、お釈迦様とこの五人、合計六人の阿羅漢が世に誕生し、サンガが誕生した。そこにおいて覚りの先後問題はあれ、お釈迦様とこの五人の弟子の覚りに違いはなかった。ところで大乗仏教の人々が、目指した仏というものは、お釈迦様の時代の素朴な阿羅漢果ではなくて、部派仏教によってハードルの上がりきったインフレ後の超越的な仏になることを目指したものであった。彼らは、部派仏教の教理としてのインフレ化した仏観念を受け入れつつ、その中で部派仏教の声聞・独覚としての解脱を拒絶し、仏になることを目指したのであった。分かりやすく説明するとレベル51でクリアできるゲームにおいて、声聞(レベル51)・独覚(レベル72)付近でゲームをクリアするのではなく、レベル99(部派仏教におけるお釈迦様)に達して初めてゲームをクリアすることを目指したのであり、ラスボス(煩悩)を倒すことは最後まで自らに禁止したのであった。それにより衆生済度が可能となる。従って部派仏教の教理を前提にしつつも、「二乗批判」こそが大乗仏教を構成する基本要件の一つ目ということになる。「二乗批判」なき大乗は存しないのだ。また次の基本要件は、最大のレベル上げによって仏となることを可能にする方法論としての「六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)」である。そして最後の三つ目の用件として六波羅蜜を実践し、仏を目指す求道者としての「発展した大乗的菩薩観念の成立」をあげることができよう。筆者はこの三つの要件、「二乗批判」「六波羅蜜」「発展した大乗的菩薩観念」というこれら三つを、大乗仏教を成立させる基本用件として挙げておきたい。この三つが揃った時に少なくとも大乗らしきものが、そこに突如出現するわけである。そしてこの三つ以外の一乗思想や、廻向思想、浄土思想などはさらにその先にある発達した観念とひとまず見なしてよいであろう。ではこのような三つの基本要件がどこから発生したのかということであるが、六波羅蜜と菩薩観念の発達の根はジャータカ(本生譚)にあり、この二つの基本要件が歴史的な部派仏教の変遷の中で発生し、そこに「二乗批判」の契機が加わることで原始大乗思想が一挙に成立したと筆者は想定するものである。
 六波羅蜜と菩薩観念の発生の根であるジャータカ思想を考察するに先立ち、般若思想について少し触れておく。前回の記事の『八千頌般若経』の研究で簡単に確認したが、般若思想は、六波羅蜜の内の般若波羅蜜を強調したものであり、平川が指摘するように、般若思想が成立する以前に六波羅蜜のそれぞれを等しいものと見なす六波羅蜜思想が先行していたはずであり、それは漢訳経典で名ばかりが残る『六波羅蜜経』に語られていたと推定されている。しかし『六波羅蜜経』は現存していないので、その経典については憶測によって考えるより他ない。或いは今日のガンダーラ写本の中にその断片でも発見されれば世紀の大発見になるのだろうが、それを期待するわけにはいかないので、今あるものから我々は推論を形作るより他ないわけだ。失われた『六波羅蜜経』を推測するうえで、漢訳経典の康僧会の『六度集経』こそが重要だと筆者は考えるのであるが、この康僧会訳の『六度集経』は、その価値が研究者の間で今日においてかなり低く見積もられている。『六度集経』は誤解された哀しき経典なのである。近年、法蔵館より全訳註の『六度集経』が刊行されたが、その評価は、『法華経』の自己言及ナラティブに比べれば惨憺たるものである。






   この全訳をおこなった六度集経研究会のメンバーでもある伊藤千賀子の論文からの重引きになるが、少し見ていこう。鎌田茂雄は、それは「多くの経典からの抜粋や、抄経が引用されて構成されている。翻訳経典というよりも一種の抄経であり、小経をそのまま載せているらしい」と述べ、フランスのエドゥアール・シャヴァンヌは、「『六度集経』は経典名が内容を示唆しているように、もともとは別個の経典として独立していた経典の寄せ集めである。多分すべて、僧会本人が、一方で経典を選び、一方で内容を簡潔にし、『六度』を編集した。サンスクリット語で書かれた逐語的な原典が存在するという証拠はない」と述べている。そして伊藤自身は、「『六度』はインド原典の翻訳などではなく、漢訳された経典を集めたものでもく、康僧会自身が書きあらわしたものである。……呉王の姿勢を正さねばならないと考え、インドの経典の翻訳だといつわって、理想の為政者を主題とした『六度集経』を自分自身で執筆した。」と述べる。つまり鎌田は『六度集経』は、様々な経典からの雑多な寄せ集めと見做し、シャヴァンヌも寄せ集めであり、サンスクリット原典の存在する証拠のない疑わしい経典。そして伊藤は御定まりの「偽経」であり、インドで書かれたわけではなく、康僧会の執筆したものとする。
 というわけで被告人『六度集経』をこれよりこの三人の検察官より弁護するのが差し当たっての筆者の課題となる。康僧会(~280)は、その名が示すようにシルクロードの康居(サマルカンド)に祖先が住んでいて、ソグド人であったと考えられる。後に祖先はソグド商人としてインドに住むようになった。彼の父の代になって商人として今のベトナムに渡ってきた。つまりその経路はサマルカンドに端を発してインドを経由し、恐らく南回りでベトナムにやって来たと推察できる。


(サマルカンドからインド、ベトナムを経由して建業に至る康僧会の一族が辿った経路)


    若くして両親が亡くなり、ベトナムで出家し、247年に孫権の支配する呉の建業にやって来た。仏教はクシャーナ族出身のローカクシェーマ・支亮・支謙の流れで北回りの仏教が呉にも伝来していたが、支謙は在家であったので、呉の人々は、初めて僧侶を康僧会に見たのだった。ここから当時の呉には、北回りの仏教と南回りの仏教がそれぞれ、ローカクシェーマ系と康僧会系で、それぞれ伝来していたことが分かる。『六度集経』は大乗経典であり、それは主にジャータカ(本生譚)を、六波羅蜜のカテゴリーに準じてそれぞれ分類し、六波羅蜜について様々な話をもって具体的に分かりやすく説明する経典である。従って一つ一つの物語は様々な経典に同一の物語がある為に、当然、雑多な寄せ集めという印象を持たれかねないわけであるが、六波羅蜜のカテゴリーによる分類というのが、『六度集経』を理解するうえで重要な鍵となる。六波羅蜜というカテゴリーの下にジャータカなどの、説話を編集するという発想こそが大変重要なのだ。何故ならこれはパーリ語の十波羅蜜によって分類されたジャータカ物語の集成であるチャリヤー・ピタカ(所行蔵経)や、近年、岡野潔がせっせと翻訳を発表しているハリバッタ著の『ジャータカー・マーラー』と同じ構成形式を示すものであり、康僧会は3世紀の人であるから、非常に古い時代に既に六波羅蜜のカテゴリー分類に従って、ジャータカが語られていたことのこれは証左なのである。つまりこのジャータカを六波羅蜜に従って分類するというのは、康僧会の単なる気まぐれの思いつきや恣意的な発想ではなく、明らかにインド由来のものであり、そのようなインドの大乗仏教の伝統的な編集スタイルを伝承し、それを南回りで中国に伝えたのが康僧会であったと考えられる。またサンスクリット原典の不在については、同じ時代のローカクシェーマが伝えた『道行般若経』の経典がガンダーラ語によることが分かっているわけで、そもそもサンスクリットでの著述は、当時、ナーガールジュナ(竜樹)や『ブッダチャリタ』の著者のアシュヴァゴーシャ(馬鳴)、そして恐らく『維摩経』など、一部の単独の作者によって書かれた書物が現れ出ていたくらいであり、古い伝統的な経典に属するものは、パロールによる口承伝承が主流であり、その中で北西インドにおいてエクリチュール化が進められ、混合梵語から梵語へと書写化が進み始めていたというのがその時代の状況であった。19世紀のオリエンタリストであるシャヴァンヌがサンスクリット中心主義の幻想の下で『六度集経』にサンスクリット原本の不在を推測し断罪するのは許されるが、21世紀の今日、インドの当時の仏教の状況が明らかになりつつある以上、エクリチュール中心主義の下で『六度集経』を偽経扱いするのは、間違いであると筆者は考えるものである。筆者の推論ではパーリ語のチャリヤー・ピタカが記憶の補助の為の偈だけで書かれていたように、康僧会はある程度、偈の形式で六波羅蜜において、様々なジャータカ物語を分類したものを暗誦していて、それらの記憶をもとにわかりやすく人々に大乗仏教の教義である六波羅蜜を伝える為に、散文形式でそれらを漢語化したと推測する。エクリチュール化が始まったのはクシャーナ朝の北西インドが発端であり、そこから最新の経典を北回りで中国に持ってきたのがローカクシェーマであり、一方で南回りの大乗の教えをベトナムで受容した康僧会は、口承伝承主流のより原始的なパロール期の古い大乗仏教の伝統の中にいたと推察される。また彼が大乗を信奉する僧侶であったというのも重要である。つまり当時のベトナムには南回りでやって来ていた大乗を信奉する僧侶が複数いたということである。ここで思い出して欲しいのが、南方分別説部の説明で述べたスリーランカー島に3世紀に大乗を信奉するヴェートゥッタヴァーダ(方等派)がインドから渡ってきて、それをアバヤギリ(無畏山)寺派が受け入れたために、それに反撥して4世紀に、サーガリヤ派が生じたという有名な事件である。つまりスリーランカーに三世紀に渡ってきたヴェートゥッタヴァーダ(方等派)の流れは、康僧会のもたらした大乗仏教を鑑みれば、ベトナムに南回りで達していたということが推論できるわけである。このインドから南方航路経由でヴェートゥッタヴァーダ(方等派=大乗派)が、布教活動をしていた大きな流れの中で康僧会は捉え直さなくてはならず、言ってしまえば、康僧会は対他的には方等派であったということであり、もし彼が祖先の住んでいたインドに戻ろうとして途中スリーランカーにやって来たならば、南方分別説部の僧侶には、彼は方等派であると規定されていたであろうということである。


(3世紀当時のスリーランカーやベトナムへと布教する方等派の南回りルート)

    ヴェートゥッタヴァーダ(方等派)の最も極東への布教者が康僧会であり、彼は呉で驚くべきことに北回りのエクリチュールの帝国と化したクシャーナ朝下の最新の大乗仏教、そしてその経典と出会ったわけである。それは日本の柔道家がアメリカでグレイシー柔術に初めて出会った衝撃のようなものであったと推測される。『六度集経』の翻訳者の康僧会とローカクシェーマの訳行を比較すれば、北回りのエクリチュール期の大乗仏教と南回りのパロール期のより古い姿を保存した大乗仏教の明確な非対称性が明らかとなる。とは言え単にそういう印象は、南回りの大乗仏教の布教者が少なかったからであり、康僧会の大乗仏教のみから、南回りの大乗仏教の経典の貧しさを推定するのは材料に乏しい嫌いもあるが、これは次回の記事のサータヴァーハナ朝下のナーガールジュナの大乗仏教で補いたいと思う。筆者の私論では、明らかに北回り大乗仏教の豊饒さと南回り大乗仏教の貧困というその非対称性は、北回りの仏教がエクリチュール化の革命を経たからだと考えたい。それはつまりエクリチュール期と、より古いパロール期の大乗の相違であった。もしこの筆者の仮説が正しければ、我々は時代は少し下がるものであっても、3世紀の『六度集経』に、失われた『六波羅蜜経』を推論する大きな手がかりがあると期待することができそうである。ここで「六波羅蜜思想の発生の源はジャータカであった」という命題を思い出しておきたい。そもそも六波羅蜜思想が、ジャータカと全く別個に発生した上で、その六波羅蜜のカテゴリーを外挿し、ジャータカ物語を編集したのが、『六度集経』や変則的な十波羅蜜の『チャリヤー・ピタカ』、『ジャータカ・マーラー』では全然なくて、ジャータカ説話の、その分析から六波羅蜜が析出されて発生し、その抽出されたものを使って改めてそれらを分類し直し、信者に分かりやすく説法することで生まれたのが『六度集経』であったと考えられる。ジャータカ説話と全く別のところで六波羅蜜思想が生じて、それを使ってジャータカを編集したのではないというのが繰り返しになるが、筆者の主張である。従って、ここから我々は大乗仏教思想の思想的な震源地と目星をつけたジャータカについて次に見ていこうと思う。そしてジャータカから大乗仏教の他の用件であった「発達した大乗的菩薩の観念」が生じたことも合わせて見ていきたい。ジャータカという根から、大乗を構成する用件である二つの幹、六波羅蜜と発展した大乗的菩薩観念が生じたのである。
 本邦の大乗仏教起源史の研究において、平川彰の金字塔『初期大乗仏教の研究』の重要性は言うまでもないが、それに先行するものとしては干潟龍祥の『本生経類の思想史的研究』が重要である。




    一見してその題名からはその研究が大乗仏教起源史の研究だとわかりにくいのであるが、一読すればその重要性が分かる。平川の大乗研究は網羅的であり、その対象領野の広さにおいて他の追従を許さないものであるが、干潟の先行研究は、本生経典いわゆるジャータカにテーマを絞っているので、大乗の震源に関する研究としては的が絞られているぶん分かりやすい。畢竟、ジャータカこそが大乗の由来するものであるからだ。
 そもそもジャータカとは何か?ジャータカは漢訳では本生経や本生譚と訳されるもので、「生まれたもの」というのが原義である。雪山住部ないし本上座部に属するサーンチー第二塔のレリーフやシュンガ朝期のバールフットの欄楯などに最も初期の表現が見られ、干潟の定義によれば、それはつまり「仏陀釈尊の前世物語」のことである。歴史的な仏教に属する物語としてジャータカとは別に「仏伝」が基本にある。つまり一代の仏陀の物語である。それは大衆部の出世間部に属する『マハーヴァストゥ』やアシュヴァゴーシャ作の『ブッダチャリタ』などで現代の我々も読むことができる。唯物論的な19世紀から続く狭隘な世界観に基づけば、輪廻とは妄想に過ぎないわけであるが、輪廻は事実として、あるレベルにおいては疑いなく存在する。お釈迦様の過去世の物語などは現代の学者からすれば全て後代のお釈迦様崇拝が産んだ創作物であると見做されるかもしれないが、お釈迦様が自らの前世を弟子への戒めや教訓として語った可能性はありうる。お釈迦様は無記を説いたが断滅論者ではなかった。それ故に筆者としてはオフレコであれ、お釈迦さまが実際に自らの過去世の物語を語った可能性を留保しておきたいと思うのである。つまりジャータカは全部が全部、後代の創作ではなく、お釈迦様自身が、そのモデルとなるような幾つかのジャータカ物語の原形となるような話を語られた可能性はありそうなことである。ともかくそうした原核的なお釈迦様の過去世譚が、様々な民間説話や物語、神話を包摂して一大分野として以後確立されたのであった。バールフットやサーンチー、ブッダガヤーに残る最古層のジャータカ物語のレリーフなどは、その人気の現れであったと言えよう。口承文化の堅固な伝承形式において、経や戒、仏伝などには創作の余地はなかったが、ジャータカの分野には、それに携わるものの創作意欲を刺激し、それを発展させる余地があった。それは創作欲求、創造の天才を有する者にとってのフロンティアであった。有部における論の発達も、そこに創造力を発揮するフロンティアを人々が見たということが大きいだろう。こうして拡大・進化・ないし深化するジャータカの分野は今で言えばスピンオフ物語のようなものであり、二次創作を許す分野であった。このような創作を許す物語としてのジャータカは、新しいものがどんどん加わって、僧侶・在家を問わず人気があったと想像される。こうしたジャータカの発展によって成道以前の仏陀に対する具体的な観念が発達したのであった。ブッダガヤーの菩提樹の下で悟る前のお釈迦さま、そしてその過去世で善行を実践するお釈迦様の前身の姿。こうした観念の成立と同時のアショーカ王の時代に、過去七仏の思想が発達した。これも実際にお釈迦様が過去仏について語った可能性を留保しておきたいのだが、そこから時間軸上に部派仏教の一世界一仏の原則を保持しつつ、複数の仏の観念が過去の時間軸上に反映し、そこから逆向きの未来に向かい未来仏としての弥勒菩薩の萌芽となる観念とその信仰への方向性が開けたのである。


(アジャンターの石窟の入口上部の過去七仏+未来一仏の壁画    筆者撮影)

    平川の見解に基づけば、この時代にはまだ菩薩という観念はなかった。そして過去七仏+未来一仏という系譜とは別に、燃燈仏の観念が発生し、燃燈仏によって過去世のお釈迦様が、仏となる約束、すなわち授記(ヴィヤーカラナ)を受けたという思想が発生する。ジャータカ物語を読むことで、お釈迦さまが布施などの自己犠牲を伴う利他行などの善行を行っていたことが大衆に当時知られるようになり、それが在家信者などへの教訓話として使われていた。そこから過去世で布施や利他行などの善行を行えば、お釈迦様になれるという安易な考えが生じた可能性があるだろう。六波羅蜜の原形になるようなジャータカをモデルにした利他行だけが仏になれる条件であれば、道のりは厳しくても、多くの人が仏陀になれる可能性が開けてくるはずである。これは一世界一仏の部派仏教においては、まずかった。従って善行や利他行以外の別の条件を伴わなければ、仏にはなれないという規制が必要とされたのである。ここに筆者は急ごしらえの過去七仏の系統と異なる燃燈仏物語創作によるところの授記思想が必要とされた動機であったと考える。干潟は授記思想が大乗思想由来のものであると述べるが、平川説では部派仏教において、授記思想の発生によって「仏になるのを約束された衆生」という観念が発生し、これを菩薩観念の最初の発生の時期と規定する。過去七仏(アショーカ)→燃燈仏による授記による菩薩観念の成立→授記を受けなくとも仏となるのを求める菩薩(大乗的菩薩観念の発生)という順番。過去七仏の発生時期(アショーカの時代)と大乗菩薩の観念の成立の時代の間に授記思想に基づく菩薩の観念が生じた時期があったわけである。つまりシュンガ朝・カーンヴァ朝期の前期頃のことであろう。筆者は平川説に若干修正を加えて、授期思想はジャータカのお釈迦様を真似れば、仏陀になれるだろうという安易な考えの牽制によって生じたと考えるので、大乗菩薩の観念を成立させるような楽観的な六波羅蜜思想の原型的思想の成立と、それを牽制する授期思想に基づく菩薩観念の成立はほぼ同時期であると考える。従って大乗において授記を得たのか、得てないのかということが大乗の修業者には常に問題となって心に疑いとして去来していたのであり、それは『八千頌般若』において、悪魔がお前は授記を得ていないのにどうして仏になれると考えるのかと執拗に善男子善女子に疑念を植えつけようとする描写からも証せられるだろう。恋愛は幸福の約束であるといったのはスタンダールだが、授記とは成仏の約束であるというのが授記思想なのである。部派仏教において一世界一仏の原則によって、授記による仏となる資格は制限されていて、かくて部派仏教において、ジャータカにおける布施や利他行に基づく善行は、仏になることはできないが、生天を可能にする点で推奨され、それは常に教訓・として機能し、成仏を約束するものではないが理想論として在家に語られていたのであった。このようなジャータカから発生した仏とはなり得ないが生天を可能にする六波羅蜜的教えを、とりあえず成仏への道が閉ざされているという意味で部派仏教における「閉六波羅蜜思想」と名付けよう。これは『毘尼母経』において在家に説くべき浅法として語られる類のものに典型として現れる。そしてこのような教えに対する在家者の幻滅の反応を筆者は、情緒的な意味で布施・阿羅漢ニヒリズムという名称で仮説として先程述べておいた。それに対して六波羅蜜による菩薩という生き方を通して、仏に誰もがなれるという思想を、誰にでも仏となる道が開かれているという点で大乗仏教における「開六波羅蜜思想」と名付けたいと思う。そして開六波羅蜜思想こそが大乗思想の原初形態である。また彼らは授記思想の資格のハードルを無効化し、それを越えなくてはいけなかったわけで、それを可能にしたのが平川説では心性本浄説であり、干潟説では菩薩の誓願なのであった。そして筆者はそこに菩薩の誓願として二乗に堕しないという二乗批判的契機が必須であることを加えておきたいと思う。どんなに生まれ変わって善行を行っても、出家し、レベル99に至る前に、二乗による阿羅漢果を得てしまえば仏になる道は断たれてしまうわけである。従って二乗に堕落しないという決意は大乗において必須なのであり、先に述べておいた大乗の用件はここにひとます揃ったことになる。以上の思想史的に大乗思想の成立過程を追っていけば、仏教教団内部から自然発生的に大乗思想が発生するという、部派と大乗が連続しているという考えは有り得ず、既存の部派仏教にはっきりとノーを突き付けていて、在家的な生き方にその比重が置かれていた以上、在家との関わりに重きをおいたところで大乗が発生したことが明白となる。
    また一方では誰もが菩薩になりうるという大乗の理想は、大乗修業者のモブ菩薩を多数産んだが、それと相補的にスター菩薩の観念をも産んだ。すなわち、文殊菩薩・普賢菩薩・観音菩薩の類である。これは最初に大乗を説いた人を理念的なモデルにしたり、様々な修行やその境地の理念化、そして大乗修業の過程の道標として出現したと思われる。筆者としては大乗のスター菩薩の出現はモブ菩薩の理念化であるから、スター菩薩の観念の成立は後のものであると考える。ちなみに弥勒菩薩だけは特殊で、彼は有部などで崇拝され一世界一仏の原理に沿った未来仏の地位にあり、授記思想に基づき部派仏教で過去七仏の前身の菩薩と共に存在の許される菩薩であった。従って弥勒菩薩は、大乗的な菩薩ではなく、それと系統を異にする部派仏教起源の菩薩であったと考えられるわけである。この辺りについてさらに自ら思索されたい方は、辛嶋の『アジタと弥勒』を参照のこと。
    ここまで纏めると、ジャータカという二次的創作物の分野で菩薩観念と、布施を筆頭にする利他的六波羅蜜の思想が発生し、その中で授記思想によって一世界一仏の原理に沿った『毘尼母経』に典型として現れる浅法としての部派仏教的「閉六波羅蜜思想」が成立した。そしてそれより若干早めに大乗的「開六波羅蜜思想」の原核的なものが発生し、そこにさらに誓願としての、二乗に堕せず、衆生を救済するまで解脱しないという誓いを授記変わりにする大乗的なモブ的菩薩観念が授記思想の乗り越えとして発生し、大乗の最も原初的な思想が成立したのであった。そのモブ修業者の理念化や理想化の中に大乗のスター菩薩が相補的に派生したというのが大まかな大乗思想の発生の流れである。
 ここまで来て我々は、失われた『六波羅蜜経』がどういったものであったか検討する準備ができたと言えるだろう。一つは『六度集経』と同一の、六波羅蜜の具体的な説明の為に六波羅蜜の分類の下にジャータカを編集した経典の可能性。もう一つの可能性は、ジャータカから単に六波羅蜜思想を抽出したもの。そしてそれが閉六波羅蜜的なものなのか、大乗の菩薩観念を伴った開かれた六波羅蜜思想なのかといった可能性の分岐が考えられる。筆者の想像では二番目の可能性に賭博師の勘としては賭けておきたい。それは具体的なジャータカ物語を欠き、単にジャータカ物語から六波羅蜜の要素を抽出して、大乗の菩薩観念を付加したものだったのではないだろうか。しかし『六度集経』に類似したものという可能性も捨てきれない。いずれにせよ、六波羅蜜思想とジャータカ思想の結合は康僧会の発明ではなく、インドの大乗仏教起源のものであり、集成されたジャータカから、その基本要素を抽出したところに六波羅蜜思想が発生したといえるだろう。かくて初期の大乗仏教徒は、ジャータカ・バーナカの系譜に属しているということがここに論結されわけである。畢竟、ジャータカ・バーナカ達が自らの分野であるジャータカ物語から抽出したものが六波羅蜜思想なのである。そしてここに先述の吹田-平林ラインの大経→方等経ラインの命題を強化する可能性が開けてくる。「大経」は、主に「縁起」という仏教の基本教義の概要を述べるものであり、それは雨安居においても出家者が在家に語ることが許されていたものであった。そこから出家者から在家への説法の場で方等経が成立した可能性が考えられるわけである。そしてかかる説法の場において「大経」は、より高度なお堅い内容のものであり、そうしたものの分かりやすい親しみやすい形式がジャータカによる教訓話であったと考えられる。落語で言えば「大経」は古典落語のようなものであり、ジャータカは創作落語・現代落語の類のものであった。方等者における説法において大経からの流れとジャータカからの流れとが合流し、それらを方等者としての大乗仏教の創始者が、在家に説いたのが大乗思想の始まりの形態だと考えられる。かくて我々は、大乗の発生が、出家者から在家への説法の場において生まれた可能性を告げる二つの証拠を手にした。一つは「大経」→方等経の流れ、そして布施などの教訓話を多く含むジャータカの二つである。ここに大乗思想の震源がある。
 ここまで来て我々は、大乗の近年否定された平川の在家仏塔教団説と欧米で有力な「森林の仮説」などの部派仏教教団内部起源説というモル状の二項対立的な大乗起源論の素朴な発想を超える三番目の可能性について述べる段階に来たと言えるだろう。そしてそれは筆者の編み出したベクトルPとベクトルM理論によってより明証的に浮き彫りにされうるものなのだ。それでは今回の記事の最後のパートに進もう。いよいよこれより満を持して我が本隊の大乗起源史問題に対する突撃のお時間となる。