第4章 第21節 続き3 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む




 続いて『法華経』について考察に進もうと思うが、辛嶋静志の『法華経』を中心とした論文の研究をする前に、『法華経』という特異な経典について筆者の雑感を述べておく。
 
 
 
【『法華経』について】
 
 
 現代の日本人で、『法華経』に良いイメージを有している人は少ないと思う。一部の人々には熱狂的に迎えられ信奉されている経典ではあるが、逆にそれが多くの大衆に『法華経』に対する忌避感を生む原因になっているとも考えられるから。かかるアンチテーズ(対照)を形成する原因となっているのは、最近、鬼籍に入られた池田大作大先生と我らが創価学会によるところが大であろう。




(最近ことに大先生に似てきた鳥肌実の故池田大作大先生に対する惜別の寄稿を読むために『宗教問題』という意味不明の雑誌をアマゾンでポチったのはここだけの内緒の話である)


     創価学会及び創価学会インターナショナル、オウム真理教、幸福の科学、エホバの証人、統一教会、このあたりの新興宗教団体こそが、現代日本人に強烈な宗教アレルギーを生むことになった主要因子である。かくて創価学会の偉大なる貢献により『法華経』に、カルトのイメージが定着したのであった。非常感謝大作。そもそも『法華経』という経典自体に、コールが述べていたが、他の既存の仏教教団との対立の意識が深くDNAに刻まれていて、かかるカルト性はそもそも『法華経』にア・プリオリに存するものなのである。日蓮の苛烈さというのも、『法華経』信奉者の一つの典型の表れであって、日蓮宗や日蓮正宗、創価学会という流れの中で、近代に至って突然変異的に戦闘的なカルト性を発揮したわけではない。『法華経』自体に他の経典と比較しても、カルト化する要素が内在しているのである。「それじゃ『法華経』なんぞ、ろくでもないもんだ。断固焚書すべきである」という審判を下したくなる宗教アレルギーの方も多いであろうが、ここからは大変残念なお知らせになるわけだが、聖徳太子以来、我が国は「法華一乗」の国であり、日本仏教は徹頭徹尾、「法華経」を中心に巡ってきたと言っても過言ではないのである。空海なんぞ、日本仏教においては一つの挿話に過ぎない。日本という国家の成り立ちと日本的精神構造の形成に『法華経』が果たした役割は無視できないものである。中国仏教研究家の鎌田茂雄は、中国は『円覚経』の国であり、朝鮮は『華厳経』、日本は『法華経』の国であると、日中韓の仏教思想の違いと特色を、分かりやすくその代表的な経典によって表現している。我らが聖徳太子は三経義疏として、『法華経』『維摩経』『勝鬘経』に注釈を書いた。



    最澄は『法華経』を宗派の根本に置いて、天台宗を開宗した。南都六宗や真言宗の影響を除けば、日本仏教は天台宗の影響下にある。鎌倉仏教のその流祖達、法然・親鸞・日蓮・栄西・道元はみな天台宗で学んでいたことは有名である。近代に至れば、国柱会の田中智学に学んだ、宮沢賢治や高山樗牛、北一輝、石原莞爾などが『法華経』信奉者であった。




    残念ながら筆者も天台宗の檀家ということで、一応、公称では『法華経』信奉者の数に数えられざるを得ないわけである。とは言え繰り返しになるが、筆者は基本的に中学生の時から一人で勝手にカルト化し、イスラーム原理主義者も真っ青の原始仏教原理主義者だったので、『法華経』などは非仏説として全く歯牙にもかけていなかった。原始仏教原理主義者の筆者の折伏の方法は簡単で、「んなもん読んでないで、お前はとりあえず『スッタニパータ』を読め」というものであった。そんな風にして中村元ちゃんを勝手に流祖に奉り、


(筆者により武闘派原始仏教原理主義グループの流祖に勝手に奉られた六歳?ぐらいの中村元ちゃん)

    一人カルトと化した原始仏教原理主義者の筆者に対し、以前所属していた会社で、本家本元の折伏を試みようとしてきた恐れ知らずの同僚がいたのは良い思い出である。彼とは馬が合ったのであろう、仲が良かった。そして会社帰りに二人で飲みに行ったところ、それまで全然知らなかったのであるが、彼は創価大出であると自白してきたのである。そして止せばいいのに筆者に何をとち狂ったのか折伏をかましてきたのである。このブログの読者なら筆者に折伏をかますということが一体何を意味するのか、南無阿弥陀仏、言わなくても分かるであろうが、筆者のおっちょこちょいの同僚にはそれが分からなかったようなのである。秒で筆者のイスラーム国も真っ青の、原始仏教原理主義者の眠れるイージス・システムが起動したのは言うまでもない。「なるほどなるほど、んで、○○は『法華経』を、何で読んだの?」「なるほど、要は『サッダルマプンダリーカ・スートラ』を漢文で読んだんだね~、んで、お釈迦様が『法華経』を説いた霊鷲山にはいつ行ったのよ?まさか『法華経』を信奉しながら霊鷲山に行ったこともないなんていうんじゃないっすよね?まさかそれでこの俺を折伏しようとしてるんかい?」というサンスクリットとインド旅行でのマウントに始まり、


(お釈迦様が法華経を説いた霊鷲山にて    筆者撮影)


    大乗非仏説から「んで、おめぇは一日に題目を何回唱えているんだ?千回!!それだけか~い!笑」というマントラ回数マウントまでフルコースの逆折伏が展開されたのは言うまでもない。日蓮宗起源の題目は、マントラ・ヨーガの一種なので、実際、創価学会の学会員が題目によって人生が向上したというのも、実際効果があるはずであって、一概に馬鹿にはできない。創価学会という色々とダークな闇の部分を含むにせよ、題目は、聖徳太子の「南無仏」や『般若心経』の「羯諦羯諦…」、浄土宗の「南無阿弥陀仏」と効能において等価であって、広義には公案禅もそうだが、全部、同一の効果を有し、心の澱を取り除くのに有効なのである。筆者のグルであるハイラーカーン・バーバーもマントラは聖なる名を含んでいれば、どんなマントラでも効果があると述べているので、シヴァ・マントラを唱える筆者も、題目を唱える折伏の鬼である元同僚の学会員がやっていることもマントラ・ヨーガに過ぎない。創価学会の題目でさえも、やったものにしか分からない効果があり、その効果を感じている人間は一定数いるであろうから、合理主義者に迷信と罵られ、カルトと馬鹿にされようとも、題目至上主義者を根絶やしにするのは不可能事なのである。
 このように聖徳太子以来、日本仏教の中心には『法華経』が基底音として響き続けているのであり、またそれだけに創価学会・創価学会インターナショナル・公明党などに代表される負の暗黒面を現代に噴出させつつも、日本人に大きな影響を与え続けているのが良くも悪くも『法華経』なのである。これ程までに日本人に大きな影響を与え続けた経典でありながら、『法華経』ほど読んでがっかりさせられる残念経典は他にない。それは『死海写本』級のガッカリさである。
 『法華経』なんぞは、ぶっちゃけ商品紹介へと誘うワンクリックのネットの悪質なサイトのようなものだ。「おっ!?結構、良さそうだなコレ、金額いくらかな!?」すると延々と何頁にも渡って続く広告の連なりと、その商品の効果を説明する寄せては返す波また波。続いて有名人の不要な感想文の連続と、最後まで値段を記載しないその無限の苛立たしきマズルカの回廊!かくして最後に68000円で~す、という法外な価格設定!「つうか何だよこれ、高けぇよ!買うか馬鹿野郎!」と、時間だけを収奪されご立腹体験をネット広告にした方も多いことだろう。まさしく『法華経』体験とは、そういうものの古代版である。歴史は、恐ろしいことだが反復するのである。キェルケゴールよ、罪深き我等を救い給え。
        そんなわけで二十代後半の筆者は『法華経』を、とりあえず勉強の為に読んでおかなくてはなるまいと、嫌々ながら、義務感と共に、坂本幸男・岩本裕訳の岩波文庫版『法華経上中下巻』を入手して読んだのだったが、そこに展開するのは目眩く大乗仏教経典に典型的な、その自己言及ナラティブの洪水であった。聖徳太子以来、我々の祖先を夢中にさせてきた『法華経』ではあるが、その内容は、登場人物たる固有名詞の無限の羅列、あの忌ま忌ましい荘厳主義の万華鏡、多世界多仏の増殖するパラレルワールドの無駄な曼陀羅。自画自賛、自己宣伝、誇大広告の果てしなき白鯨も溺死寸前の大西洋。そして『法華経』を誹謗する者への法的措置を取るぞという脅しならぬ、カルマ論的恫喝と威嚇の無数のドローンの群れによる今日的戦争風景に見られる絶望の波状攻撃。さらにはお待ちかねの地中から湧き出る巨大な宝塔出現の忌々しき勃起的ファロス主義のアイアン・ドーム。かくて『法華経』は、真面目にお釈迦様の悟りを追い求める現代人に、焚書坑儒を行った始皇帝に対する深い共感を覚えさせるのである。
    とりあえず筆者の個人的な読後の印象は、「『法華経』はとにかくスゴいんだぞという讃嘆という名の広告と『法華経』を誹謗したらヤバいんだぞという脅迫以外、何の内容もない、ホントくだらねぇ経典だな、こりゃゴミだな」というものであった。嘘つきクレタ島人の自己言及パラドックスを彷彿とさせつつ、その経の内容はすべてこの経はスゴいというものと、この経を誹謗したらヤバいという内容なのであってみれば、これは一部の脳なしなら、その意味不明な荘厳主義と宣伝によって洗脳されるかも知れないが、なんらかの知性の徴候を有するものであれば、怒りによる吐血か嫌悪による吐き気を催させる代物であると筆者は結論せざるを得なかった。しかしこのような罰当たりな感想は何も筆者一人のものではなくて、江戸時代に大乗非仏説を説いた学者の富永仲基(1715~1746)もまた筆者と同じ感想を三百年前に『法華経』に対して述べているのである。曰く「法華経一部は、終始みな讃仏の言にして、全て経説の実なし。」つまり全部自己言及の宣伝ばかりでその内容がないという、筆者と全く同趣旨の発言なのである。我が意を得たりとはこのことである。
 かくて最初に『法華経』を読んだ時から去年ぐらいまでの筆者の『法華経』観は、内容空疎の伽藍堂のごと、外面荘厳主義者の三島由紀夫の作品にも似た、単なる悪質な誇大広告の古代版というものであった。




    従って『法華経』信奉者は、おしなべて、消費者センターに相談しなくてはならぬ類いのカルトの被害者であり、トンデも詐欺にひっかかる間抜けであるという見立てであったわけである。方便品の一乗思想、如来寿量品の久遠仏の思想なども、特にそれが自己の覚醒に役立つものでもなければ、たいしたことを言ってるわけでもないので問題にもしていなかった。しかしどこかしら『法華経』にはひっかかるものがあった。本当にこんな古代版誇大広告が、聖徳太子を筆頭にして、日本人の知的エリートを虜にし、簡単に騙せるものであろうかという一抹の疑念が残ったのであった。そうした疑念を抱く筆者が、昨年、辛嶋の遺作となった講演内容に加筆した『《法華経》――「仏になる教え」のルネサンス』という論文を読んだところ、長年抱き続けた、かかる疑念と不可解なる謎が氷解したのであった。そもそも『法華経』は『華厳経』に比べれば、大部とは言えないが、岩波文庫で三巻と現代人にとっては、分量的に決して『般若心経』などに比べれば、読みやすい手頃なサイズではない。しかし『法華経』はそもそも繰り返し増広され、編集を繰り返されて今に至ったものであり、本来の最古層のウル『法華経』を構成するものは、ほとんど『般若心経』レベルに短いもので、それは方便品第二と譬喩品第三のトゥリシュトゥブ・ジャガティー韻律によって書かれた詩句の偈頌部分であったというのが、布施浩岳説を受けての辛嶋説なのであった。その内容は単に「誰もがブッダになれる」という思想に集約される。つまり『法華経』の経説の実の部分は、全くないのでなくて、その最初の部分のほんの一握りの、一読しても見落としてしまうような僅かな部分にこそ『法華経』の中核があったのである。「それは誰もが仏陀になれる」という『スッタニパータ』を読めば、当たり前にお釈迦様が説いていたことを強調したに過ぎない。つまり『法華経』の核となる部分は、後の増広部分である宣伝広告や荘厳主義、宝塔出現などの無駄な演出に覆い尽くされて、一般的な読者に分からなくなってしまったのであった。方便品と如来寿量品は重要であるというのは一般に言われているが、まさか方便品の一乗思想を言いたいがために『法華経』全部があるなどと看破するのは、素人には無理な相談である。内容と広告の割合が狂っているのだ。かかる点においては江戸時代の非常に有能な学者であった、加上説に基づく大乗非仏説を説いた富永仲基も、去年までの筆者も『法華経』というテクスト読解に失敗していたのであり、この謎を明らかにし『法華経』テクストを文献学的に筆者に読解してみせたのが創価大学教授であった辛嶋静志なのである。そしてこの去年の筆者が辛嶋の論文から感じた感動こそが、現在の大乗仏教起源史の探求のモチベーションになっているわけである。





 辛嶋は大乗経典の言語と伝承の変遷を大まかに以下のように区分する。
 
 
(1)口語・口承だけの時代(紀元前)
(2)(1)と並行して口語・書写(カローシュティー文字)の時代(紀元1~3世紀)
(3)口語まじりのブロークンな梵語の時代(紀元2~3世紀)
(4)(仏教)梵語・書写(ブラーフミー文字)時代(紀元3~4世紀以降)
 
 
 
 下田理論のエクリチュール先行論に基づけば、辛嶋の(2)の時代にエクリチュール化と同時に一挙に大乗経典がその思想と共に創作されたということになる。下田の理論においては(1)の時代は大乗仏教研究家の集団幻想ということになるわけてある。簡単に辛嶋の時代区分を勝手に筆者が名付けるなら、(1)地方言語によるパロール期(2)地方言語によるパロール・エクリチュール並行期(3)サンスクリット化への過度期(4)仏教梵語成立期と呼びうるだろう。
 (2)の時代こそがガンダーラで『八千頌般若経』と『法華経』が経典化、すなわちエクリチュールとしてカローシュティー文字によって書写されたのである。そしてこの時代こそ、下田の理論に基づけば、般若経の思想も法華経の思想も突如、書写によって生じたわけである。しかし『法華経』を細かく見ていけば、その思想は幾重にも時代の層が折り重なっていて、一挙にエクリチュールとして出現したとは言い難い。もし下田のエクリチュール先行論が真ならば、『法華経』は一挙に書写によって、ほとんどの所が書かれたと見做されるべきである。つまり下田のエクリチュール先行論では、『法華経』の層状の在り方というのは、根本のところにおいて、細かい例外はあっても、純理論的には否定されなければならない(下田のエクリチュール先行論が妥当するのは『維摩経』のような経典でしかない)。しかし、文献学的な辛嶋の地味だが、実り豊かな分析をみれば、辛嶋の最初の時代区分を反映させるような在り方を『法華経』が示しているのは明白であって、下田の理論的なエクリチュール先行論的在り方を『法華経』は示していない。
 辛嶋の『法華経』研究の成果は非常に興味深いのでさらに細かく見て行きたい。 
 辛嶋の『法華経』研究は、布施浩岳の『法華経』研究における分類法を踏襲したものであり、『法華経』の時代層を大まかにに三類に分類する。
 
 
(A)第一類:トゥリシュトゥブ・ジャガティー韻律による偈頌部分。方便品第二~授学無学人記品
(B)第一類:(A)のシュローカと散文部分。
(C)第二類:法師品第十~如来神力品第二十と序品第一及び嘱累品第二十七。薬草喩品第五品後半もここに属すると考えられる。
(D)第三類:その他の第二十一~第二十六までと見宝塔品第十一の後半部分の提婆達多品
 
 
 その中で、最も古層であり『法華経』の核となる部分が、声聞乗・独覚乗・菩薩乗の三乗を一乗に統合し、誰もが仏になれると説く方便品第二のトリシュトゥブ・ジャガティー韻律の偈頌部分と、三乗とは方便による仮のものであり、火宅から逃げようとしない愚かな我が子達を面白い三種類の乗り物で釣って逃げさせようとする長者によって如来を例えた有名な譬喩品第三のトリシュトゥブ・ジャガティー偈頌部分であるというのが辛嶋の『法華経』論の肝である。これは当時の部派仏教の在家・声聞・独覚・仏というヒエラルキーを破壊し、声聞知・独覚知・仏知の三種の知の在りようを仏知の一つに統合しようと企てたものであった。いわば、『法華経』は「誰もが仏陀になれる」という簡単なパンフレット的内容だったのであり、マルクスの『共産党宣言』やブルトンの『シュルレアリスム宣言』のような、宣言文の類に過ぎなかった。『法華経』という名前が、わかりにくいのであって『大乗教宣言』とでも本来は名付けるべきものなのである。『スッタニパータ』から仏教に入門した筆者にとってみれば、『法華経』の核の思想である「誰もがブッダになれる」という命題にたいした意味は見いだし得ないのであるが、仏陀観が超人化・肥大化・神格化した後の仏教文化を受容した人々にとって、「誰もがブッダになれる」という、万人平等の成仏思想は、文字通り福音であったと想像できる。この衝撃を簡単に想像するのは難しいかもしれないので、たとえを挙げるなら、「誰もがキリストになれるし、ならなくてはいけない」という命題を考えてみれば、その革命性、その衝撃が分かるであろう。オースドックスなキリスト教の歴史的伝統の中で、三位一体を否定し、誰もがキリストになれると主張する勇気を持っていた人を筆者は知らない。『法華経』の思想には、お釈迦様の原始的な教えにおいて、そういった教えが含まれていたにせよ、部派仏教の思想的限定を受けざるを得ない状況にあって、「人は阿羅漢果を得るのがやっとである」という阿羅漢とお釈迦様との懸隔を乗り越えようとするその思想は、キリスト教世界で「誰もがキリストになれる」と説くぐらい革命的であったと言えよう。しかしどうやったら仏陀になれるのかという事に関して、『法華経』は明確なメソッドに欠けたパンフレット的な単なる主張でしかなく、実際の具体的な方法論を明記してないところにテクスト読解の間違いを生む原因があるとも言える。総じて大乗経典に特徴的なのは、主張はあるが、具体的な方法論が欠如しているということが挙げられる。この大乗経典の方法論の欠如という現象(例えば、最高位の菩薩のサマーディについて饒舌に語る首楞厳三昧経』において首楞厳三昧を得る具体的な方法が述べられることはない)は、それが実際の修業者用のものではなく、実践的な八正道から六波羅蜜に基づく信仰行為に頽落しつつある信仰者用の教えであった為と指摘しうる。大乗仏教という思想の本質が、雪山部の『毘尼経母』で浅法として言及される持戒・布施・生天・清浄法を在家に説くべしという主張と同一線上の大衆向けの思想であったと推論する根拠がそこにあるとも言える。こうした「誰もがブッダになれる」というただの宣言書が様々な増広を経て『法華経』として成立したのであった。大乗仏教のマニフェストが『法華経』なのであれば、当然、どうやったらお釈迦様になれるのかという方法論の詳細な説明が本来あってしかるべきであり、増広がかかる方向に進んでいれば、江戸時代の富永仲基や、去年までの読解力のない修行の実践論ばかりを求める筆者を満足させられたのであろうが、詳細な方法論を含む成仏論が述べられることはなく、「誰もがブッダになれる」という宣言の素晴らしさへの讃嘆と、その宣言自体を信仰することの功徳を述べる能書きと、それを誹謗するものへの威嚇、そしてその宣言の舞台設定の詳細な描写などの、いわゆる枝葉末節の所に、無駄に繁茂したのが、今日の『法華経』なわけである。翻って考えてみるに、結局のところ、ブッダになるための実践の教えは、最終完成段階においては、従来の出家による、お釈迦様が実際に説いた原始仏教の実践的な教えにつきる。またそこに至るまでの、出家以前の在家者が解脱を可能にするための功徳の蓄積に関しては、浅法としての布施などを説く従来の方式より他になかったわけである。六波羅蜜などと編集されていても、畢竟、解脱の方法論は部派仏教の範囲で収まるたぐいのものなのである。繰り返される輪廻の過程において、自分はお釈迦様になるんだという菩薩的な在り方を堅持し、菩提心、すなわちそのモチベーションの持続の為の大乗への信仰こそが、三劫をかけて仏陀になることを可能にするというのが、大乗仏教における成仏論の真相なのであるから、精神論優位のその教えにおいて、そこに技術的な瞑想技法の詳細を説く余地や必要性はなかったわけである。つまりかかる点において、実践としての仏教が信仰としての宗教に大きく転換していることを大乗は示しているのである。大乗の説法者が、六波羅蜜以外、大乗に具体的な修業論などは本質的になくて、大乗に対する信仰や仏陀になる決意、現代スピリチュアル用語で言えば、アファメーションがあるばかりであるという大乗の本質的な在り方を、もし粉飾なく説明してしまえば、大乗というある種バブル的な価値が萎んでしまうので、そこのところの内実をぶっちゃけて言うわけにはいかなかったのだとも考えられる。従ってそこに必要とされるのは誘惑の方法であった。現実の結婚生活と結婚生活の幻想は異なるわけで、結婚幻想を破壊して、実際の結婚の現実を語れば、結婚したいという人が減ってしまうのも道理であろう。従ってできる限り結婚幻想のバブルを大いに膨らませる必要があるわけで、大乗思想には結婚の理想や幻想によって、人々を結婚させようとする誘惑のやり口と似よりの戦略が見られる。しかしながら現実的には出家し、独覚となって菩提樹の下で瞑想しなければ、お釈迦様にはなれないのであるから、畢竟、最終的な経路として声聞や独覚の道を否定するわけにはいかないはずなのである。しかしそれだと在家的な菩薩乗による成仏を目指す在り方の価値が下落せざるを得ない。ここに二乗批判を必須条件として初めて大乗が成立するというその構造的ジレンマがあるとも言える。かかる内情において、現実的に成仏の方法を述べるよりかは、理想・幻想・宣伝・約束・福音的な大風呂敷を拡げるところに、法華経を現在の形にする論理があったのだと推定できるわけである。
    いつの間にか、辛嶋の研究から離れてしまったので、大きく軌道を修正すると、
 辛嶋は、第一類のトゥリシュトゥブ・ジャガティー韻律で書かれた部分の成立地を以下のように推測する。
 
 
第一類に見えるこれらの偈は、本来庶民の言葉である口語(プラークリット)で詠まれ、口頭で伝承されていたと私は考えている。第一類の偈頌は、おそらく、紀元前一世紀に、大衆部が有力であった東インドあるいはインド南東部で成立し、その後、ガンダーラ地方に伝わり、紀元後三世紀以降にサンスクリット化され、今日のような形になったのではなかろうか。
 
 
 辛嶋は、大衆部にこそ大乗の起源があると考えているのだが、『法華経』の偈頌と散文の同一内容の重複する二重構造が、大衆部の出世間部由来の『マハーヴァストゥ』に同じ二重構造があることを指摘する。筆者がつけ加えれば、玄奘はバーミヤーンに大衆部の出世間部の拠点があったことを述べているから、ガンダーラ地方、またはバーミヤーン地方でガンダーラ語によって経典化をしたのは、この北西インドの大衆部であった可能性が高い。近年、ガンダーラで見つかっている大乗経典の写本は、法蔵部ないし大衆部のものと考えられるので、大衆部による大乗起源説の仮説を前提にすれば、『般若経』『法華経』などのガンダーラ語による経典化の推進者は、具体的には北西インドの大衆部中の出世間部であった可能性が最も高い。しかしこれはあくまでエクリチュール化の推進者であって、口承での大乗思想の推進者や成立地とは別に考えなくてはならない。
 辛嶋は、『法華経』の第二類以降に南インドで成立した、『般若経』の影響を以下に見る。
 
①第一類のストゥーパ信仰から第二類では『般若経』が推奨するチャィティヤ崇拝への変更があること。
②『般若経』で頻出するマハーサットヴァの語が第二類において出現すること。
③善男子・善女子が第二類以降に頻出するようになること。
④無生法忍という『般若経』に特徴的な観念が第二類以降に出現すること。

⑤第二類以降に大乗化した空の観念が出現すること。
⑥第二類以降に般若波羅蜜の語が出現すること。
 
 
 これらのことを根拠に『法華経』の第二類以降の『般若経』の影響を辛嶋は、「『般若経』の洪水」と呼ぶ。また第一類において『般若経』の影響が見られないことから、もともと原『法華経』と原『般若経』は別々に発生したものと推定する。
 辛嶋の重要な指摘としてガンダーラ語においてマハーヤーナ(大乗)のヤーナは、ジャーナと発音され、マハージュニャーナ(大いなる知)のジュニャーナもガンダーラ語においてはジャーナであり、同音であることから、もともとマハーヤーナ(大乗)はマハージュニャーナ(大いなる知)という意味が本義であり、かけ詞的に、譬喩品においてジャーナが「乗り物」の意と「知」の意味で使われたと推定する。大乗とは大いなる乗り物という意味では本来なくて、「大いなる知」という意味であったという指摘は重要である。お釈迦様が最初にサールナートで修業仲間に説いた初転法輪の教えの、誰もが自分と同じく悟りを開き、解脱できるという教えの意を汲み、後代における仏陀の神格化・超絶化と阿羅漢の価値の低下によって生じた阿羅漢果と仏果の、その壁を取り除くマニフェストとしての、原『法華経』の「誰もが仏陀になれる」という認識こそが、「大いなる知」なのであり、それが大乗思想の根本の教えであったわけである。
 大乗という呼び名が「法華経」において発生する前には、大乗は遣日・方広経・方等経などと呼ばれていた。そしてこの遣日・方広経・方等経という名称から大乗仏教の起源に迫ったのが、辛嶋の『大衆部と大乗』である。
 詳しくは本人の論文を読んでいただきたいが、「遣曰」は、ガンダーラ語でvevullaまたは、veulla の音写であり、「方等」はサンスクリットのvaitulyaの訳であり、「方広」はサンスクリットのvaipulya の訳である。「大乗」については、先述の通り『法華経』の「大いなる知」と「大いなる乗り物」を掛けたガンダーラ語であった。例えば、大乗経典の『如来蔵経』は正式名称は、『大方等如来蔵経』である。「方等」の由来は、十二部経の一つにヴァイトゥリヤと呼ばれる経典群にあり、釈尊と弟子や帝釈天の間、あるいは仏弟子と仏弟子の対話など、「他とは異なる、変則的な」という意味で使われていた。
     吹田隆道の《『十誦律』に見る「大経」と方広経典》という論文では、有部の『十誦律』における、在家者や仏教教団の新参者に読誦される「大経」が、『阿毘達磨大毘婆沙論』においては、方広に分類されていること、そしてそれが教理要綱をまとめたパリヤーヤ態という呼び名で分類されていることから、大経・方広・パリヤーヤが同一のカテゴリーやその発展したものの呼び名として使われていたことが指摘されている。また平林二郎の『読誦経典としてのnidaanasaMyukuta』において、大経の一つである『ニダーナサンユクタ』が『十誦律』において安居中であっても在家者や仏教教団の新参者が願い出た場合は、読誦し教えにいってもよいと規定されているので、この大経‐『ニダーナサンユクタ』には、出家者が在家に教えに行く時に読誦する経典という特徴があり、「大経」が方広と呼ばれるようになったことを考えに入れれば、このような出家者が在家者のもとで『ニダーナサンユクタ』を読誦し、教授する会合や場の在り方から、方広経の思想、ひいては大乗思想の成立してきた生成の場を探ることができそうなのである。しかしながらその点は平林の研究のこれからの課題ということであり、これは非常に有望な研究の方向性である。辛嶋の論文に戻ると、辛嶋は次にこの方等経典が大衆部によって作られたことを論じている。その根拠として方等経典の集成である『大方等大集経』の「虚空目分」において、法蔵部・説一切有部・飲光部・化地部・犢子部という西北インドに広がっていた部派について否定的な見解を述べると同時に最後に大衆部を称賛する内容が記述されていることを挙げる。大衆部は、パーリの『論事』において、多世界多仏・一音説法・化仏説法を認めていたと述べられていて、それらは上座部と有部が否定した説であり、ブッダゴーサは化仏説法を認める者達を方等者として貶していることを辛嶋は指摘する(スリーランカーに方等者がやって来て、大乗を弘めたと述べられていたことは南方分別説部のところで確認した)。方等者は大乗教徒なのであり、有部の『アビダルマディーパ』では空性論者(スーンニャターヴァーディン)として名指しされている。ここから辛嶋は大衆部が方等経典を作成したと結論づける。また法顕が大衆部の『摩訶僧祇律』を書写した場所が、パータリプトラの大乗比丘の住む寺院であり、5世紀の玄暢の訶梨跋摩伝によれば、当時パータリプトラに住む大衆部の比丘はすべて大乗を奉じていたこと、また中観派の系列において、インド南東部のナーガールジュナが大衆部の経典を援用し、チャンドラキールティが大衆部の経典を阿含経典として引用していること、シャンティデーヴァが大衆部の律を自分の律として引用している点、アティーシャが大衆部で出家しているという中観派と大衆部の密接な関係からその論拠を補強している。かくて辛嶋は結論として「大衆部が方等経典を作った」と従来の大衆部起源説を擁護するのである。ここに先述の吹田‐平林ラインの大経の『ニダーナサンユクタ』‐パリヤーヤの研究成果を基に、出家者から在家への読誦とその教授の場において方等経が成立したという可能性を合わせて考えれば、大衆部において方等経が作られ、大乗思想が出家者から在家や教団の新参者への読誦や教授の場において発展・生成してきたという命題を打ち立てることが出来そうである。纏めれば「大衆部の方等経典を読誦する者達が在家などの集会や新参者への教授や説法を行ったその場において大乗が発生した」という命題となる。これは辛嶋説と吹田-平林説を綜合した命題である。この命題をさらに練りに練って鋼の如く鍛えあげることが筆者のこれからの記事の課題となる。