第4章 第21節 続き2 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む



    大雑把な理解の枠としては、本上座部系統として雪山住部・化地部・法蔵・飲光・南方分別説があり、基本的に彼らは佐々木閑のアショーカの破僧定義のチャクラベーダからカルマベーダへの変更を受け入れた部派であり、その教線は北方を志向し、有部とライバル関係にあったと推論できる。有部は三世実有説を唱え、チャクラベーダを堅持し、ある程度、アショーカの政策に敵対的であった。その為に、カシミールなどの北方に拠点を移した。可住子弟部こと犢子部は、プトガラ説を唱え、そこから犢子部系統の正量部・密林住部・法上部・賢住部が生じたが、彼らは本上座部や有部が勢力を有する北方へ向かわず、南方のデカン高原へと教線を拡大した。このように整理すると

①本上座部系(雪山住部・南方分別説部・化地部・法蔵部・飲光部)
②有部系(説一切有部・マトゥラーの根本説一切有部)
③犢子部系(可住子弟部・正量部・密林住部・法上・賢冑部)

    に上座部系統を大別し、整理できることが分かる。
 


    かくてある程度、整理がなされたところで、残存する情報量の多い、有部と本上座部系統の南方分別説を見ていくが、大乗仏教起源史の研究に資する程度に簡単に見ていくことにしたい(詳しい研究は様々にあるから)。説一切有部と南方分別説部については、筆者の如き素人研究家の出る幕はないと言っていい。従って可能な限り簡単に確認していく。ダルマグプタカこと法蔵部は、その律である『四分律』にガンダーラ語を用いていたとされる。ガンダーラ語を用いていた部派として法蔵部以外に飲光部、そして有部がその碑文から知られている。これに大衆部を加えた四つの部派のいずれかがパロール期からエクリチュール期への移行を推進し、大乗仏教の経典化をガンダーラでおこなっていたと推定されるわけである。大乗仏教史の第一期のパロール期に続く、第二期のエクリチュール期後期の推進者となったのが、経典のサンスクリット化を行った説一切有部である。もともとサンスクリットは、ヴェーダの言葉であり、ブッダのパロールに属するものではなかったので、化地部の『五分律』や法蔵部の『四分律』では、サンスクリットの使用は戒められていた。しかしながらクシャーナ朝からグプタ朝の時代にかけて、北インドの説一切有部において経典のサンスクリット化が進んだ。いわゆるサンスクリット・コスモポリス(シェルドン・ポロック)の流れに仏教が包摂されたのである。またそれと対照的にスリーランカーの南方分別説部においては、インド西部の言語と考えられるパーリ語によって経典がエクリチュール化され、いわゆるパーリ・コスモポリス(馬場紀寿)の核となったのである。クシャーナ朝の王権と有部の関係の密なることを考えれば、クシャーナ朝のヘゲモニー体制の中で有部は、飛躍・発展し、経典のサンスクリット化を進め、他方でスリーランカー島の王権との関係において南方分別説は、パーリ・コスモスとしてのヘゲモニー体制を握った。しかし、本来の仏教の中心がガンガー中流域のマガダ国と見做せば、クシャーナ朝のマトゥラー、カシュミール、ガンダーラ地方を含む北インドと、南方分別説部のランカー島も、インド中央部から見れば辺境であり、中心から遠く離れていた。

    かくて自らの正統性を殊更に主張する必要が有部と南方分別説部にはあった。かかる地方集団の自己中心主義の主張を警戒と共に眺める必要性が理解されるべきである。それらを括弧に一度括ることにより、我々は上座部の流れを、上記二部派の自己中心主義的重力場から離れて、本上座部ないし雪山住部中心に大まかな流れを把握することが可能となったのだった。もしこれが有部と南方分別説部を中心に論じていたなら我々はヘゲモニー体制としての仏教サンスクリット・コスモポリスとパーリ・コスモポリスに巻き込まれて、上座部の本来の中心を見失っていたことだろう。大乗仏教起源史の第二期であるエクリチュール期の理解には、有部との対決の中で北インドへと教線を伸ばした本上座部・化地部・法蔵部・飲光部の流れが、実際にはポイントとなる。特に法蔵部と北インドにも拠点を有していた大衆部のいずれかが大乗仏教のエクリチュール期のガンダーラ語による経典化を遂行したという点で重要である。




【説一切有部】
 
 
 説一切有部を検討する上で、マトゥラーの伝法の系譜が重要になる。『三論玄義』において、おそらく『部執異論疏』に基づくであろう情報によれば、①マハーカーシャパ(迦葉)→②アーナンダ(阿難)→③マディヤーンティカ(末田地)→④シャーナヴァースィカ(商那婆斯)→⑤ウパグプタ(優婆掘多)→⑥プールナ(富楼那)→⑦ディーティカ(寐者)→⑧カティヤーヤナプトラ(迦旃延尼子)の順番になり、上座弟子部は、ただ経を弘めるをもっぱらにし、律は禁止すること許可することが一定ではなく不安定であり、論(アビダルマ)は、経の解釈によるもので過不足あるものとして、二蔵(経・律)の立場を堅持したが、説一切有部は、アビダルマを最勝として、これに偏向して弘めたと述べられている。つまり有部は、学僧的な学者集団であり、議論好きな面に偏していたのがその特徴であると言えるだろう。また『三論玄義』では、カーシャパからウパグプタまでは、正しく経を弘めたが、プールナに至り本を棄てて末を弘めるようになって正にアビダルマを弘めるようになり、カーティヤーヤナプトラに至り大いにアビダルマを興隆させたと述べられている。事実このカーティヤーヤナプトラこそが、名にし負う『アビダルマ・ジュニャーナプラスターナ・シャーストラ(阿毘達磨発智論)』の著者なのである。彼は玄奘によれば北インドのチーナブクティのタマサーヴァナ伽藍でこれを書いたとされる。玄奘の証言に基づけば、カーティヤーヤナプトラの活躍の場は、マトゥラーとカシュミールの間のアムリトサルの近くのタマサーヴァナ伽藍のあったスールタンプルであったということになる。 ③のマディヤーンティカは、アショーカ王の伝師師派遣伝説に基づけば、カシュミール地方に派遣された人物であり、カシュミール仏教の開祖的な地位にある人物である。④シャーナヴァースィカは、根本分裂の原因となったヴァイシャーリーの十事の非法に登場する人物である。⑤ウパグプタは、アショーカの師であったとも言われ、玄奘は彼の寺院がマトゥラーにあったと証言している。ここから少なくともウパグプタの時期までは、マトゥラーにマハーカーシャパ・アーナンダ系列の人々の拠点があったと考えられる。それがカーティヤーヤナプトラにおいてアムリトサル近郊に本拠地が移転したと言えるだろう。有部の拠点として名高いのが、主にカシュミール地方、ガンダーラ地方、マトゥラー地方などである。アショーカ王の時代に一部の上座部の一派がアショーカの仏教政策に反発し、カシュミールに退避したという伝承が残っていることから考えると、マディーヤンティカ以来のシュリーナガルの仏教教団がその避難場所になっていたと見ていいだろう。ウッタラパタ(北道)ルートのマトゥラー、アムリトサル、カシュミール、ガンダーラに有部がアビダルマを中心にその教団を形成していったと考えられる。有部の特徴として、佐々木の論を基に考えれば、律の観点から言えば、カルマベーダを受け入れなかった部派であるということになるが、それだけでは有部の定義としては十分ではなく、『三論玄義』が述べるように、アビダルマを最勝とするということも挙げねばならぬだろう。カルマベーダを受け入れなかった人々は一次、シュリーナガルに退避し、こうした律における保守主義の人々と、アビダルマという思想における革新や研究の余地を残す分野に情熱を燃やす人々との結合において有部が成立したと言えよう。律における保守性と、二蔵を堅持する本上座部に対する思想・研究における革新を追求するのが有部であり、彼らはクシャーナ朝の王権との結び付きの中でサンスクリットによるアビダルマを中心とする著述を行っていったのである。彼らは想像の捌け口を論蔵に求めたのであった。有部は、①律における保守性②アビダルマ研究における進取性③サンスクリット化という特色において規定可能である。またそこから本上座部は、律におけるカルマベーダの受け入れと経を最勝とする立場として規定できる。
 次に『存在の分析《アビダルマ》』からアビダルマ論書の発展を確認していこう。
 



1)『サンギーティ・パリャーヤ(阿毘達磨集異門足論)』
2)『ダルマ・スカンダ(阿毘達磨法蘊足論)』
3)『プラジュニャプティ(施設論)』
4)『ヴィジュニャーナ・カーヤ(阿毘達磨識身論)』
5)『ダートゥ・カーヤ(阿毘達磨界身足論)』
6)ヴァスミトラ作『プラカラナ(阿毘達磨品類足論)』玄奘によればガンダーラで著述された。
 
ここまでを一括して「六足論」と呼ぶ。
 
7)カーティヤーヤニープトラ作『ジュニャーナ・プラスターナ(阿毘達磨発智論)』玄奘によればチョーナブクティで著述された。
8)『マハーヴィバーシャー(阿毘曇毘婆沙論)』
9)『ヴィバーシャー(鞞婆沙論)』
10)『アビダルマサーラ(阿毘曇心論)』
11)『阿毘曇心論経』
12)『雑阿毘曇心論』
13)ヴァスバンドゥ作『アビダルマ・コーシャ(倶舎論)』玄奘によればガンダーラで著述された。

 説一切有部において、全てのものは五位七十五法というダルマに分類され、その七十五法というダルマの実在を説くのが説一切有部である。全ては無常・無我といえどもその存在の法則は過去・現在・未来に渡って、存在するという有名な三世実有の思想であり、現象は無常であるが、法則それ自体は、変化しないということが考えの基本にある。無我・無常のダルマや仏の教えまでもが無常であっては困るというわけである。
 説一切有部の碑銘は、マハークシャトラパのラージュヴラの第一王妃の奉納した先述の獅子柱頭碑文があり、そこではマトゥラーの大衆部に説一切有部の師が真理を教えたと述べられている。またサヘート・マヘート(祇園精舎)やサールナート、ショールコート(パーキスターン)、タキシラー、ガンダーラのゼーダなど広範囲に見つかっている。
 有部においてカニシュカ王と関係のあった僧侶として玄奘は、脇尊者やヴァスミトラを挙げていて、彼らを中心に『婆沙論』の編集がカシュミールで行われたと述べている。




    律において『十誦律』『根本説一切有部律』があり、『根本説一切有部律』はマトゥラーの律と伝わっている。カシュミールの有部が『婆沙論』を以ってその教義を体系化する中で、それに対抗してマトゥラーの有部が根本有部を主張したようである。有部のアビダルマ偏向を是正し、論中心から、経を中心にして揺り戻しを行った部派として経量部が派生したと言われるが、加藤純章が「さまよえる経量部」と名指ししたように、様々に複雑な問題が絡み、有部の徹底した研究抜きには論じ切れない内容であり、あまり大乗仏教起源史の問題と関連性が薄いので今回は端折る。



【南方分別説部】
 
 これまでも述べてきたが、ヒマーラヤからサーンチー地方にかけて勢力を有していた本上座部からモーガリプッタの弟子であるマヒンダが、スリー・ランカーに渡って仏教を弘め、根付いたのがセイロン上座部こと南方分別説部である。分別説部(ヴィバジヤヴァーディン)という名称はセイロン伝によれば、マヒンダの師モーガリプッタが「釈尊は分別説者(ヴィバッジャヴァーダ)であった」と言ったということに由来する。玄奘によれば有名なボードガヤーのマハーボーディ寺院は、セイロンの僧侶の為に、セイロンの王が建立したということである。マヒンダ一行の為に寺院を建立したのが、セイロンの王デーヴァーナンピヤ・ティッサであった。そして彼の建立した寺院は大寺(マハーヴィハーラ)と呼ばれ、そこから大寺派(マハーヴィハーラヴァーシン)が生じた。紀元前1世紀にマハーティッサ長老の為に王がアバヤギリ・ヴィハーラ(無畏山寺)を建立したが、マハーティッサ長老が大寺派より追放され、別に無畏山寺派(アバヤギリヴァーシン)を樹立した。大寺派に比べると無畏山寺派は、戒律の面で緩やかで、仏典の解釈においてより自由であった。この王の時代に口承であった三蔵が書写された。この事業は大寺派が行ったものである。紀元前1世紀後半に南方分別説部は、パロール期からエクリチュール期に移行したのであった。同時代に犢子部のダンマルチ長老が無畏山寺に迎えられた。無畏寺派は、その後もインドと連絡を保ち、新しい学説を受け入れた。
 3世紀に大乗を信奉するヴェートゥッラヴァーダ(方広派)の人々がインドから渡ってきたが、一度は、王によって放逐されものの、その後において、アバヤギリ寺が彼らを継続的に受け入れていった。それに反発して、4世紀のゴーターバヤ王の時代に、アバヤギリ寺から離れて、ダッキナーギリ(南山)でジェータヴァナヴィハーラ(祇陀林寺)とも言われたサーガリヤ派が生じた。5世紀にブッダゴーサが南インドから来島し、『清浄道論(ヴィスッディマッガ)』を著した。




    大寺派と無畏寺派との対立は長く続いて、歴代の王は自由な気風の無畏寺派を支持する者が多かった。8世紀前半には密教が行われ、金剛智や不空が来島した。12世紀のパラッカマバーフ1世によって教団の粛清が行われ、無畏寺派の仏教は否定され、大寺派がセイロンで覇権を握ることになる。
 南方分別説部は、セイロンからアーンドラ地方のナーガールジュナコーンダに逆輸入で教線を伸ばしたのが碑銘に残っている。玄奘は、マハーボーディ寺院の僧侶を大乗上座部と呼んでいる。ここからマハーボーティ寺院のセイロンの僧侶は、主に無畏山寺派の僧侶であったことが推論できる。我々はスリーランカーの仏教というと単純に上座部と考えがちであるが、12世紀のパラッカマバーフ1世の教団の綱紀粛清に至るまではインド仏教を反映して、大乗や密教がセイロンにも伝法されて大きな勢力を有していたということを忘れてはいけない。


 以上、部派仏教を概括した。大乗仏教のエクリチュール化を行った可能性のある部派としては、大衆部、法蔵部などが、エクリチュール化の可能な立場にいて、ガンダーラ語によって経典のエクリチュール化を行い、他方でサンスクリットによるエクリチュール化を行ったのが、主に説一切有部であるというのが現時点での経典のエクリチュール化の歴史の蓋然性の高い真相である。ここで仏教経典のエクリチュール化に関して触れないわけにはいかない下田正弘の『仏教とエクリチュール』について論じておきたい。
 『仏教とエクリチュール』における下田の大乗仏教起源におけるエクリチュール先行論とは、デリダのエクリチュール論を基に、インドのある時期に三蔵経典のエクリチュール化が行われ、そのエクリチュール化の運動の中で大乗経典が創作され、その創作された経典をダルマバーナカが声として再現し、かかるエクリチュールとしての大乗経典が教団に先行して存在し、その後に大乗教団がインドの周辺部で成立したというのがその論旨である。我々はパロールとしての大乗の教えが先行するものという偏見に捕われているというのが下田の主張であり、実際はエクリチュールとしての経典創成後に大乗教団とも言うべき集団が部派仏教の中から背乗り的に発生したと言うのである。
 このような下田の大乗思想エクリチュール先行論を構築する上で準拠するのが、デリダのエクリチュール論である。日本の一般的な仏教学者からすると、突然、バタ臭いエクリチュールだとかデリダとかの名前を振りかざして大乗思想のエクリチュール先行論を主張する下田正弘氏は、まるで「やあやあ我こそは!」と一騎打ち戦法を取る本邦の田舎武士にいきなり南蛮渡来の鉄砲をブチ込んで集団攻撃をしかけるようなものなので、ある種の脅威を感じざるをえないかもしれない。下田のバタ臭いエクリチュール先行論と対決するには、デリダなどのポスト・モダンの哲学に習熟する必要があるから。こういう論法をネット・スラングを用いてレッテル貼りをすれば出羽守の一種ということになるだろう。ということでまずはかかるバタ臭い下田教授の出羽守的エクリチュール論を撫で切りにした上で我々は論考を進めていきたいと思う。その前に唐突ながら厨二病からの派生で筆者が考える【高二病・大二病について】と【内的形式と外的形式】について軽く述べておきたい。
 
 

【中二病・高二病・大二病について】
 
 
 中二病については、筆者が論じるまでもなく、ご存知の通り、多くの人間が14才までに発症する著しく均衡を欠いた心的状態の総称である。それは様々な心的状態として現れる。根拠なき万能感を感じてみたり、無駄に劣等感を感じてみたり、自分だけが真実を知るという特権意識と共に陰謀論者になってみたり、自らを弥勒菩薩の化身と見做してみたり、はたまた外宇宙からの呪われた到来者であると自己規定してみたりする等々。内因的な性ホルモンの過剰な分泌がそうさせるのかは筆者の与り知らぬところではある。




    しかしこうしたアプリオリなオカルティスト時代も17才ぐらいまでには終わりを告げるのがほとんどで、一部の人々はここから次の高二病段階に達することが観察される。ホリエモンだとかひろゆきだとかを念頭に置けば、だいたいの高二病のイメージを付くであろう。彼らは遅れてやって来た啓蒙思想家であり、現代のヴォルテールである。




    基本的な彼らの症例は、割り切り型の合理主義として現れ、「要するに」「それはつまり」「それはたかだか~に過ぎない」という思考様式にその特徴がある。こうした人々が現代日本で一目置かれるということは、現代日本の平均的な意識レベルが、いまだに18世紀のフランス人が到達した精神段階にあると断定を下す根拠になるだろう。こういう人々が喋る内容については、いち早い嗅覚で「こいつ高二病なんだな」と断定を下せば、それ以降の対応は容易となるし、敢えて彼らと戦う必要もなくなる。例えば前回の記事で述べたショーペンの議論の根本には、高二病的な認識の枠組みがその底流に働いているので、それをいち早く察知すれば、「まともにコイツの言うこと真に受けてたら真理探求において袋小路に陥る」ということがすぐにわかるのである。彼らの目的は真理の探求ではなく、マウントでしかないのだから。次に高二病段階を抜け出した一部の人々が陥るのが、20才頃に発症する大二病である。高二病のマウント目的の合理主義もやがてその知性がますます先鋭化することで、知性それ自身が自らにその刃を向ける段階に至る。知性が知性自身にマウントを取るという意味不明な段階のこと。大二病段階の有名人としては懐疑主義者のヒューム、「神は死んだ」でお馴染みのニーチェ、脱構築で名を馳せたデリダなどがそのわかりやすい例である。高二病段階において、全ての物事は知性自体を除き、その解析の対象であったが、それが知性自身にも向かうことで、自己破壊が起こる。 彼らの思考様式の特徴は、唯名論的であり、懐疑主義、ニヒリズム、相対主義、最終的に「戯れ」というところに至る。つまり「真理とは何ぞや」というピラトの冷笑が最終的な彼らの内的な結論となる。彼らだけがこの仮象の世界で痛々しい「真理の不在」という命題の真理に達し耐えているのだという、そのマウントポジション的悲劇意識が、彼らの自意識の勝利感と共に彼らに唯一の満足を与える。




    学問論的にいえば知性による知性批判の行き着く先に、些かなりとも客観性が確保されなければ、全ての学問は、基礎なきものとなるのであるから困ったもので、そうした客観性を救い出そうとする姿勢が大二病の先に存在する。成功したかどうかは別として、それはカントやフッサールを典型とする人々が探求した領野である。


    経験論の行き着く先にイデアや真理が我々の仮設以上の何かでなくてはならぬとしたら、それはどこにあるのかというのが彼らの課題となる。「イデアはいかに経験可能か?」「経験一般を成立させる基盤となるところのものを経験することはそもそも可能か?」「犬一般は経験可能か?」そしてこの問題は、知覚の拡大によってしか解決できない問題であるというのが今の筆者にはいよいよ分かってきたわけである。知覚の拡大していない人間がいかに知的にそれを論じようとも、二次元の生物が三次元の生物に敵わないのとそれは同断であって、どうあがいてもその解決は無理である。筆者の知る限り、この閉ざされた知覚と拡大した知覚のその境界で哲学的に思考をしていたのはバルトリハリぐらしか思い浮かばない。唯名論と実念論の長い争いは、結局、拡大した知覚を有するか否かにかかっている。つまり普遍やイデアは、拡大した知覚の対象として厳然と存在するのであるが、拡大していない物理次元に限定された知覚を有するのみの人間にはそれが分からないのである。
   


【内的形式と外的形式について】
 
 
 内と外。内面と外面。内なるものと外なるもの。内的形式と外的形式の区分をなぜここで改めて説明する必要があるのか、訝しく思われる読者も多いと思う。これ程までに素朴で深みの欠如した、余りに初歩的な哲学的概念装置を今さら説明するまでもないのではあるが、これが大乗仏教起源史を考察する上では、このあまりに素朴な概念装置をきちんと抑えているか否かが、思いの他に重要となる。大乗仏教という文化現象の総体を解明する上で、我々はまず便宜的に、大乗仏教の内実としての内的形式と、外的形式の区分をそこに設けることがまずはその取っ掛かりとして重要となる。大乗仏教という現象の内的形式は、大乗思想のことであり、大乗仏教の思想内容ということになる。従って、大乗仏教の内的形式としての思想内容から大乗仏教の起源史を辿る方途というものが、一方においてあるわけだ。つまりゴータマ・シッダールタの菩提樹の下での悟りの内容が、弟子へと伝承され、それがやがて大乗思想としてどの時点で画定されるのかという思想史、思想の発展史の方面からの解明である。我々はこれまでに大乗仏教の内的形式としての思想内容にはほとんど触れてこなかった。我々がこれまで傾注してきたのは、大乗仏教の外的形式の線上においてであった。我々は部派仏教の研究から組織体としての仏教教団の様々な要因によるところの、その外的形式としての教団の分派を確認した。しかし大乗仏教起源の研究という観点から言えば、そこに第十九番目の部派としての大乗部の不在を確認したに過ぎない。それはあたかもガッカル・ハークラー川ことサラスヴァティー川がヒマーラヤに源を発して、クルクシェートラ付近を経由し、タール砂漠へと消失するようなものである。




    一説部や出世間部、法蔵部、後代の有部には、大乗仏教の受容の痕跡は残っているが、それらの部派が大乗部として存在していたわけではなかった。前回の記事で述べたベクトルMは、大乗部としての分派を促す力の働きを持たなかったことを表すものであった。また化地部から法蔵部が分派した歴史的事件を基にベクトルPを修正したベクトルP´は、既に成立した大乗仏教の思想が仏教教団に到来した時に働く力と定義され、それは分派を生むが、大小兼学の部派を生むのみで、それは大乗の起源の時に生じた一回限りの歴史的事件としてのベクトルMとは別のものを表すものであった。そしてこのベクトルMやベクトルP、ベクトルP´は、大乗仏教の起源史を辿る上で、その外的形式における解明の道具として筆者の提唱するものである。大乗仏教に関する外的形式としての組織論は、我々の研究においては未だに途上の段階であり、我々はそれをモル状の教団として存在したわけではなく、分子状の思想運動のようなものとして存在していた可能性があると示唆したに過ぎない。またダルマバーナカに関しては、民衆文化を背景にした在家中心の思想の媒介者として、ジャータカ・バーナカや、スータ、クシーラヴァと同一の平面に存在していたであろうという推論を行った。大乗仏教の外的形式としての組織論は途上であり、その媒介者の研究も中途である。またその媒介(メディア)は、ジャータカ物語や『マハーバーラタ』 『ラーマーヤナ』と同一の口承の物語(ナラティブ)において広場・集会の言語を通して、大乗が伝播したであろうと暫定的に前回の記事で我々は予断を下したに過ぎない。しかし前回の記事や今回のこれまでの記事で行った大乗仏教の起源史の探求は、あくまで大乗仏教の外的形式の線上での研究であり、内的形式としての思想史的研究は手付かずのままである。この記事の後半部分において我々は、大乗仏教の内的形式としての原始仏教が大乗となる、その瞬間を思想史面から捉えるのを目標にするであろう。ここで確認しておきたいのは、大乗の外的形式から大乗起源史を探求するのは必要であるが、内的形式を無視しての研究は片手落ちであるということである。また外的形式と内的形式は区分されるべきであって、混同されてはならない。大乗の発生を外的形式から語る場合に、その起源の時において内的形式としての大乗思想の内実が発生したことも合わせて証明されなくてはならない。また逆に内的形式としての大乗思想が発生した起源の時こそが大乗の起源を確定できる手段と考えるならば、その時の外的形式とは何であるかもまた、それと同時に確定されなくてはならない。



 デリダは『グラマトロジーについて』の第二部第二章で「テクスト外なるものは存在しない」と述べている。西洋哲学は、これまでパロールをモデルにして、エクリチュールの背後や根源に「存在」「神」「物自体」といった形而上学を想定し、それを実在するものとして、それらによって呪縛されてきたと現代においては批判されるのであるが、デリダのエクリチュール論において、全ては広義のエクリチュールからなるテクストと見做され、それらのテクスト外のものは実在しないものと見做されている。テクスト相互の関係のみが存在するのであり、それは仏教的に言えば縁起ということになるわけだが、そのテクストの背後に実体を求めることが仏教哲学と奇妙に相似しつつデリダにおいて否定されるわけである。テクスト同士はいわばニーチェ的な権力の意志とも言うべき権力関係の場における魚の法則の中で自己を定位することになる。雑把な、余りに雑把な規定を許していただけるなら、デリダの論理は、唯名論の系譜に属する。我々は地獄の如き遠隔透視実験の果てにイデアに、ある種のレベルにおける実在を確認しているので、バルトリハリと共にスポータないしイデアの実在を主張するものである。従ってかかる我々の見解からすれば、デリダの唯名論的な思考をその枠組みとするエクリチュール論は誤謬と断定できる。我々の立場において、「テクスト外のものは存在するのである。」
 しかるに下田の大乗仏教起源における『仏教とエクリチュール』にまとめられたエクリチュール先行論においては、デリダのエクリチュール論を錦の御旗に掲げて、大乗経典というテクストからテクストの外の歴史を再現することの不可能性が下田によって宣告されるのである。




    しかし下田の論にはデリダの徹底さはなく、不徹底さが透けて見える。デリダのエクリチュール論において、「テクスト外のものは存在しない」のであるから、そこからテクストを通じての歴史の再現の不可能性が想定されるわけであるが、下田は大乗仏教以前の初期仏教の三蔵を通しての初期仏教教団の歴史の再構成の不可能性については言葉を濁し、それらの三蔵は大乗仏教に比してファンタジー率が低いのでそこからテクスト外の歴史を構成することができないとまでは断言しない。しかし「大乗経典、お前はダメだ」というわけで、下田は大乗にだけはそれを許さない公平ならざる態度を示す。百歩譲って三蔵から初期仏教教団の歴史の再構成は可能で、大乗仏教はファンタジーであるから、そこから大乗仏教の起源史を解明することができないという下田の論を認めた場合に、当然、デリダのエクリチュール論に従えば、大乗仏教の起源史の解明は不可能であり、歴史という大乗経典のテクスト外の方向へと理論を進めること自体無意義であり、それは存在しないと断言すべきであろう。しかるに下田は自分以外の日本の土臭い仏教研究家の従来の素朴な手法による大乗仏教経典からの歴史の再構成の不可能性を宣告しつつも、自らは東大教授の超越的自我における超越論的手法によって大乗経典外の外なる大乗仏教起源史を解明し始めようとする矛盾をおかすのである。つまり最初に述べた大乗仏教はエクリチュールが先行し、それを声化・再現・再演するダルマバーナカによって大乗仏教が布教され、エクリチュールの創作の後に教団が生じたという命題である。そもそもにおいてデリダの主張である「テクスト外の歴史が存在しない」のであれば、屁理屈的には、下田のエクリチュール先行論も超越論的であってデリダの命題から見れば論理的に破綻したものである。なぜ下田以外の仏教研究家の素朴な方法論はダメで、下田のテクスト超越論的な大乗仏教起源史の歴史命題が真なのか、筆者には理解し難いのである。テクスト外の大乗仏教起源史の命題を主張するのであれば、デリダの命題など持ち出すべきではなかった。純粋にデリダの命題を真とすれば、従来の大乗仏教起源史の研究家の歴史的主張と同程度に下田のエクリチュール先行論も偽とならざるえないはずである。下田教授がデリダのエクリチュール論を超えてテクスト外のものを超越論的に論じることのできる特権を、どこの官公庁で獲得したのか、なぜそれが東大教授であった下田氏の帝国主義的専断においてのみ許されるのか、それが抑圧された重税に喘ぐ下々の者たる筆者には不可解に映るのである。


 つまりかかる点からも『仏教とエクリチュール』の第一章の「エクリチュールから照らす仏教研究」は、蛇足かつ自らの理論さえ破壊する全く意味のない論考と論結せざるを得ない。つまり下田のエクリチュール先行論は、デリダの命題によって諸刃の剣の如く破綻していると宣告を下さざるを得ないのである。とは言えこのような屁理屈でもって下田のデリダを御旗に掲げる理屈を論破したからと言って実り豊かとは言えまい。次に大二病的な屁理屈を超えて真面目に実地にそれを論じてみたい。我々は部派仏教の歴史の研究を通して、大衆部において、または化地部あるいは本上座部から分派した法蔵部においてガンダーラ語を介してエクリチュール化が推進されたことを確認している。ガンダーラなどのインド北部において大乗経典のエクリチュール化が行われたのであれば、デリダの命題を忘れて、下田のエクリチュール先行論を仮に正しいと認めれば、北インドの大衆部ないし法蔵部などが大乗仏教の具体的な震源地ということになり、ガンダーラ一体で大乗仏教が派生したと言う命題が下田のエクリチュール先行論から、歴史の実地に応用して、帰結することになる。我々は前回の記事で般若経揺籃の地がインド南部、そして恐らくマハーメーガヴァーハナ朝の支配地域にあると推定したのであるが、般若経典の自己言及と下田のエクリチュール先行論から帰結しうるガンダーラ一帯の大衆部や法蔵部から大乗仏教が生じたという命題には矛盾が生じていると言えよう。とは言え、下田はインドの地理史に対してほとんどその見識がないためか、全くその辺りを不問に付して、歴史の彼方に押しやっているので、インドのどこかでエクリチュールが先行したぐらいの曖昧さで逃げ切ることも可能ではあるだろう。しかしそのような曖昧さは理論的に許容できるはずがない。彼のエクリチュール先行理論は東大教授のエクリチュール偏向の日常の生活空間を反映させた空理空論であって、宙に浮いているところが多過ぎる空中楼閣の議論でしかない。下田のエクリチュール先行理論をそのまま受け入れて、「ガンダーラ地方の大衆部ないし法蔵部に大乗は起源する」と具体的な歴史命題に応用した場合、下田にとっては印象的にも明らかに具合の悪いものとなるだろう。「大乗のエクリチュール化を推進した可能性のあるのが、大衆部や法蔵部である」というのは、我々が現在の主張できるぎりぎりのラインであり、「ガンダーラ地方の大衆部・法蔵部が大乗を作った」という命題は、どう考えても説得力がない。一般理論として形成された下田の理論を、歴史の特殊に当て嵌めて検証すれば、その下田の一般理論は明証的に間違いであるというのが分かる。下田の机上の空論的エクリチュール先行理論は、インドの実情に即しているというには余りに現実離れしているのである。「ガンダーラ地方の大衆部ないし法蔵部が大乗を作った」という命題が真でない限り、一般論としてのエクリチュール先行論は、真とはなりえない。デリダのエクリチュール理論から、下田の理論自体は瓦解すると先に主張したが、歴史の具体的命題としてそれを応用、運用、適用しても、それが命題として偽であるというのが判明するのだ。そもそも彼のエクリチュール先行理論の成り立ちは、ショーペンの敷いた路線の上で出来上がった理論であると筆者は推定するので、次にその辺りを見ていく。
 前回の記事でショーペンのインドにおける大乗教団の物的証拠の欠如性の指摘の、エリート主義的認識システムの構造的な問題を論じておいた。下田はショーペンに対してその著書においては幾分、批判的なポーズ(態度)を取るが、その理論の基礎的な部分ではショーペンの大乗教団の証拠のなさをそのまま受け入れて、ショーペンの敷いたレールの上で自らの理論を形成したと筆者は推察する。インドにはその初期において大乗教団が独自に存在した物的証拠がない(ショーペン)。しかるに大乗経典はインドに疑いなく存在する。そこから経典を基に起源に遡って大乗仏教のパロール期を捜し求める従来の素朴な研究方法に基づく日本の仏教研究家の方法は、眼光紙背に徹するショーペン教授の主張に抵触してしまう。我々はどうやってショーペン教授のお眼鏡に適い、彼に怒られずに大乗仏教の成立を論じることができるのか。なるほど大乗経典がインドのどこかの僧院で黙々と創作され、それが広域的に流布して、かくて後に大乗教団がインドの辺縁で成立すれば、ショーペン問題に抵触することなく大乗仏教について説明できる。これは上手いこと思い付いたぞ!でかしたぞ俺!こうした推論過程こそが、かなりカリカチュア的ではあるけれども、東大教授下田正弘氏の思索を決定付けたと推定されるのである。これは見事なまでのアメリカ追従型、思想における日米地位協定的態度である。貴様の大和魂はWhere is gone !!




 筆者がなぜかくもショーペン・下田ラインを敵視するかというと、
 
ショーペン:漢文経典によるインドの大乗仏教復元禁止令
 
下田:大乗経典による大乗教団の再構成禁止令

 という二つの不毛な「このはし渡るべからず」という立て札を真に受けていたら大乗仏教研究は何も進まなくなるからである。これは両手両足を使わずにUFCで勝利せよという命令ぐらいに馬鹿げている。そもそもこうした主張の欺瞞を瞬時に見抜けるようにならなくてはならない。言葉の綾に惑わされずに本質的なところで、これらの主張から、高二病・大二病の残存した兆候が様々に読み取れるはずなのである。とは言え、筆者の声は届かないだろうから、日本の生臭坊主的仏教研究家が、坊さんの例に漏れず、性格は悪くても、本質論的にはお利口ちゃまで純朴、すなわち間抜けでお人好しである可能性が高いので、この二人の論考の呪縛を真に受ける人も中にはいるかもしれない。自縄自縛の呪いでもって、漢文経典を用いず(ショーペン)、大乗経典を用いず(下田)に、復元されたインドにおける大乗仏教史の貧困は、歴史の豊饒な真相とは乖離すること甚だしいものとなるとここに筆者は断言せざるを得ない。
 次に蛇足であるが、下田はアラン・コールの『父としての経典ー初期大乗における父権的誘惑』を引用して、コールと共に大乗仏教経典のナラティブ性は、書かれた経典に由来するものであり、かかる根拠として7つの特徴を挙げているので、それらを最後に見ていきたい。



 
(1)経巻供養の推奨(2)一仏から多仏への転換(3)自己言及的ナラティブ性(4)既成仏教との対立の意識(5)語り手の視点の不特定性(6)伝統の制度(聖職制度・教義・儀礼・僧院)との対立(7)時間設定の柔軟性
 
 
 コールや下田の文脈における上記の詳細内容は実際の文献にあたって欲しい。とりあえずこれらに筆者が注釈をつければ、(1)経典供養の推奨は、ストゥーパ供養というアショーカの手がけた国家事業としてのインド全土への八万四千のストゥーパ建立と、その在家の生天と現世利益的願望成就を約束するストゥーパ供養の社会的な集団的性格が、個人で建立可能な経巻供養へと転換したという事態を表すが、これは集団から個への転換である。とは言えその点がコールと下田においては問題にされてるわけではなくて、その集団から個への焦点の転換と共に、書写が推奨されたということから当然、経典のエクリチュール化が最初にあったと彼らは考えるのである。(2)一仏から多仏への転換は、筆者の分析では三段階に分類できる。始まりの仏教において、お釈迦様のみの一仏崇拝であったものが、次の段階で時間の軸上に拡大し、過去七仏と未来一仏という時間軸上の多仏に展開する。さらにそれは空間上にも展開し、多世界多仏に展開する。しかし、この多仏の言及は『法華経』の、辛嶋が最古層と断定した譬喩品第三の偈において言及されているので、エクリチュールに限定したものとは見なしがたい。『法華経』の偈は口承性を強く示唆するものである。(3)自己言及的ナラティブ性とは自己宣伝であり広告である。次のパートの法華経についてでも詳しく述べるが、大乗経典において、自らの経典の功徳の宣伝が経典の内容のほとんどを占めているのが観察される。これは後に詳述する。(4)既存の教団との対立の意識を、コールはそれが大乗経典作者が反論を予想した事前の防御であると述べているが、このような既存の教団との対立意識は、蓋然的には、大乗経典作者が教団の内部にいなかったことを示唆していると一般には思われるのであるが、コールと下田が説明するような、教団内部で大乗経典を創作しつつ、自らが自己の教団に批判されるのではないかという危機を感じつつ、その反論を予想しながら経典を書いているというのはどうにも不可解な状況である。しかしエクリチュール化によって、そのような複雑な対立関係を取り込みつつ、自己の立場を表明できる可能性が生じたのだと彼らは主張するのである。(5)全知的視点の不特定性は、如是我聞からの脱却であり、それはエクリチュールというより演劇性の証左でしかない。『マハーバーラタ』においてクルクシェートラの戦いは千里眼のサンジャヤによって語られた。エクリチュール化しなければ全知的視点を獲得できないということでなかろう。それはエクリチュールに特化される視点ではない。(6)伝統制度との対立も、作者が教団内部にいて対立を煽っていたというのは一般的には考えにくいので、ここから平凡な考えとしては、作者の外部者的特徴が伺えるだけと思われるのであるが、コールと下田においては、新しい媒体としてのエクリチュールの言語空間によって、そのような制度批判が可能となったのだそうである。(7)時間設定の柔軟性は、全知者的視点の不特定性が時間に展開したものである。これもエクリチュールに固有というわけではない。
 
 若干の反論を付けたが、コールと下田においては、以上の7つの特徴はエクリチュール化によってのみ得られるものであり、こうした事柄がある以上、大乗経典は、エクリチュールによってその高度で特徴的なナラティブ性を獲得したと彼らは考えるのである。コールとその論文を引用する下田において高度なナラティブ性とは、エクリチュール性のことである。そして彼らは、ここにおいて、原始仏教教団の如是我聞の口承伝統か、そもなくばエクリチュールかという、選言命題によって二項対立的に問題を捉えているのが分かる。彼らは筆者が前回の記事で主張したような第三項としての、民衆文化を背景にする口承文化におけるナラティブ性の存在の意識がすっかり抜け落ちていると思われる。つまりコールと下田の判断形成は、如是我聞の口承文化に当て嵌まらないものは、エクリチュール的なナラティブ性に的中するものと「あれかこれか」の選言命題によって判断しているのである。しかし、第三項の口承ナラティブ性、つまりジャータカなどに見られる口承的物語性の伝統を加味すれば、彼らの7つの根拠は決してエクリチュール的ナラティブ性に限定して妥当するものではないことが分かる。従って、お釈迦様の直説からの口承伝統とエクリチュールとしての大乗経典との間に、それ以外の口承ナラティブ性を視野に入れる必要があり、彼らの7つの根拠において、口承的ナラティブ性としての第三項を排除しうるような強力なエクリチュール的特色が7つの根拠には乏しいと言わざるを得ない。ただ彼らの主張の強さは、エクリチュール性にのみ意識が集中する余り、口承ナラティブ性という第三の視点に及んでいないからそうなるに過ぎない。さらにこれらのコールと下田の述べる大乗経典の高度なナラティブ性=エクリチュールとしての、大乗経典の特徴は、その外的形式としての伝達方法の一部のナラティブ性が、エクリチュール的特徴を有しているというだけのことであって、それを大乗思想の内的形式である、その思想内容の発生と混同することはできない。つまり語りの形式の導入とその思想内実の発生は、厳密に区別されるべきである。初期大乗思想の六波羅蜜思想や、菩薩の観念、三劫成仏といった大乗思想などの、内的形式としての思想内容と、伝達形式としてのナラティブ性の外的形式とを峻別することなく混同し、エクリチュールの導入をもって大乗思想の発生時期と等しいと見做しうる根拠はどこにもない。大乗経典の一部のナラティブ性におけるエクリチュール的特徴は、大乗思想が経典化され、エクリチュール化した時に導入されたものではあるが、それは内的形式としての大乗思想がエクリチュール化と同時に生じたと下田と共に速断するのは禁物である。
 上記7つの根拠は、エクリチュールにのみ限定するのは根拠に乏しい。そして、下田のエクリチュール先行論とも絡めてとりあえず筆者の雑駁な反論のみをまとめると、(1)経巻供養と大乗思想の内的形式の成立を同時とするのは説得力に乏しい。そこに時間的先後関係を見るのは常識的な発想である。(2)一仏から時間的多仏そして空間的多仏への展開において、空間的多仏も『法華経』の偈にその思想が表明されている以上、エクリチュール以前である蓋然性が高い。(3)自己言及的ナラティブ性は、広告と商品の関係を考えてみればよい。商品開発が先であり、広告は二次的なものである。これはエクリチュール化の段階が二次的であるということを強く示唆すると言えよう。エクリチュール化によって大乗思想が生じたと言う主張は、広告から商品が生産されたという本末転倒の主張に等しい。しかしそれこそが下田においては大乗起源論の骨子なのである。しかし、そのような発想をよそに、常識的に考えて、自己言及的ナラティブの存在は、それ以前に大乗思想が存在していたことを示唆し、既に大乗思想の確立を前提にするのが無難と言える。またこのような宣伝性は広場の口上でも見られることであるから、このような自己言及的ナラティブ性がエクリチュールに固有であるというのは牽強付会に過ぎない。(1)経巻供養と(3)自己言及ナラティブ性は、大乗思想の生成から見れば二次的である。(4)既存教団との葛藤から来る危機意識と(6)制度批判は、作者の外部性を示唆するものであり、大乗仏教の最初期に教団内で生活しながらパンフレットを書く僧侶とは、甚だ矛盾した存在であり、不条理性を感じざるを得ないのであるが、エクリチュールのレベルにおいて初めてそれが許容されえたという推論は、筆者にはどうも合点がいかない。それは作者の匿名性によって担保されると思われるが、実際に教団内部で誰がそれを経典化していたかは、教団内の人間であれば当時、誰もが知っていたはずである。(5) 空間的視点の不特定性と(7)時間の柔軟性は、編集者を示唆するものであるが、それはエクリチュールに限定できるものはないだろう。コール・下田ラインは、パロールにおける物語性という観点が欠如していて、全知の視点や時間的な柔軟性は既存の経典の如是我聞の口伝性とエクリチュールとの選言命題として二択にして、初めてエクリチュール的なものとして軍配が挙がるのであって、原始教団の口伝とエクリチュールとの間にパロール期における民衆文化を背景にする物語作者の介在を想定においていない為にそのような判断形成が可能なのである。前回の記事で述べた、口承ナラティブの存在を可能にする、如是我聞の原始教団の口伝と経典化の間に大乗思想を語る物語作者の介在を我々は念頭に入れなくてならない。しかしそれを下田は否定したいのである。
 以上、大乗経典のエクリチュール的特色としての7つの根拠は、そこまで明確にエクリチュールのみに限定できるものではなく、それはエクリチュールか、さもなくば如是我聞の初期仏教の口承伝承のいずれかという二択に無理に捩込んで、そのエクリチュール性の主張に嵌め込んだものでしかない。とは言え、大乗思想を検討する上で論題としては様々な視点を導入してくれそうなので一応、ここに引用した。ここで再度、強調したいのは外的形式としての高度なナラティブ性の導入時期が、内的形式としての大乗思想のアイデアの発生と同時ではないということであり、外的形式の導入時期をもって内的形式の発生の時間をイコールで結びつけることは不可能であるということである。人の語り口調や語り方、声音から人の思想を特定することはできないし、その書かれた時期が思想の発生時期と同時であるのは別の証明を必要性とするものである。どうも下田においてエクリチュールの生成と思想の生成が無反省に等しいと断定されている節がある。
 高度なナラティブ性は、エクリチュールに固有なものあり、そのエクリチュールとしての発生が、大乗思想の発生時期であるという、以上の三つの項がイコールで固く結ばれて初めて下田の論は妥当性を得ると考えられるのであるが、我々はコールの7つの根拠が口承ナラティブの存在を十分に排除する根拠たりえるわけではなく、また大乗の思想内実の発生とエクリチュール化の時期を等しいものと見なしえないことから、下田の論は仮説としては有望ではなさそうであるとここに論結せざるを得ない。①デリダの命題の下田論への適用により、②下田の一般理論を歴史の実地に応用することにより、③口承ナラティブ性を考慮にいれず、外的形式と内的形式の発生時期を証明なく同時と見なすところの、以上三つの点から下田のエクリチュール先行論は問題を抱えていると、遺憾ながら、筆者は主張するものである。