第4章 第20節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む




न कश्चिद्ब्राह्मनः पुनरावर्तते ॥२०॥



na kazcid braahmaNaH punaraavartate ॥20॥



【ブラーフマナは、決して再び〔輪廻に〕戻らない。】


    パーシュパタはエリート主義なのでその修行者はブラーフマナに限られるわけだが、そうしたパーシュパタの婆羅門階級の修行者は、ルドラ神のもとへと行って二度と輪廻のゴタゴタに戻らないということである。お釈迦様は涅槃に達して輪廻から戻らないわけだが、パーシュパタにとりルドラ神の下に達することが、仏教徒の涅槃と同じ結果をもたらすと考えられていたわけである。


(釈迦入滅の地クシナガルにおける11世紀頃のパーラ派の仏陀像    筆者撮影)


    この『パーシュパタ・スートラ』の時代に『バガヴァッド・ギーター』の核となる思想は成立していたはずであるから、ヴィシュヌ派においても同様の思想が見られるが、ヴィシュヌ派はより進歩的だったのか、バクティに基づく解脱は、ブラーフマナに限られているとは言わなかった。



 以下の大乗仏教起源史の論究は、故辛島静志氏の『初期大乗仏教は誰が作ったか』(2007)『大衆部と大乗』(2017)『《法華経》――「仏になる教え」のルネサンス』(2019)の三論文を筆者が、半年前にネットで拾い読みしたことがきっかけで生まれたものである。また同じくウッジャイン出身で異国の地で亡くなった眞諦のほとんどが散逸した『部執異論疏』なしでは、成り立たなかったものである。従って、縁も所縁も面識もないが、初期大乗仏教の起源の真相にもっとも近づいていた辛嶋氏の御霊と我らがウッジャイン代表、眞諦に、以下の論究を、深い哀悼と感謝の意と共に、捧げるものとする。
 
 

 かくて、これより、一部の方々にとっては、悪い冗談か、とんでもない悪夢としか思えないはずである、良心の呵責なき、悪魔の如き筆者による、大乗仏教起源史の解明がなされる。

 筆者が大乗仏教起源史の解明において、用意した五つのカードがある。これら、一見、大乗仏教起源史の解明において、場違いな五つのカードは、寄り道ばかりの道草人生であった筆者をもってしか、収集・用意のできなかったものであると自負するものである。大乗仏教起源史の解明の本筋に進む前に、かかる五つのカードないし、五人のアベンジャーズを紹介するところから始めたいと思う。
 

 
1)コナン・ドイル

 言わずと知れた名探偵シャーロック・ホームズの生みの親である。中学生の筆者は、内田惣七の講談社現代新書の『シャーロック・ホームズの推理学』を参考にしつつ、ドイルに、演繹(ディダクション)と帰納(インダクション)、仮説形成(アブダクション)、そして、蓋然性を計算に入れた、推理のイデーを学んだ。「不可能なものを除去して、残ったものは何であれ、それが如何にありそうもないものであっても、それは真実に違いないのだ」(『四つの署名』第六章より)。但し、実際の推理能力は、二十代前半の頃の武術の研究とサンスクリット学習によって培ったものであり、演繹と帰納の何たるかは、中学生の時になんとか当時理解したが、蓋然性の計算というものは、全く理解てきなかった。



2)スタンダールことアンリ・ベール

 蓋然性というものがいまいち理解できなかった十代後半の筆者に、とりあえず男は確率の感覚(le sentiment de la probabilité)を失ってはいけないということを教えてくれたのが、ナポレオンの陸軍主計官補であったスタンダールである。0・100思考とは20世紀的表現を許していただければ、女々しい思考でしかなく、賭博師的な感性で、確率を冷静に計算し考慮に入れて、生きることが重要であるというのを筆者は彼に学んだのであった。絶対に大丈夫か、そうでなければ全部ダメという二択で石橋を叩いて生きる人間は、男らしくなく卑劣なのだ。「確率としては30%だな、それに賭けてみるのも悪くはあるまい。よろしい、結果を見てみよう」という感性のこと。かくて中学生には理解できなかった蓋然性を、筆者はこの人生の痛い経験から多岐に学んだのであった。


 
3)マルティン・ハイデガー

 筆者は彼に、問いに対する答えを性急に求める前に、答えを出すこと以前の、牛歩戦術的なねちっこい問いの立て方を学んだ。「存在」というものが解明される為には、まず「存在」への問いの、その問いの「在り方」こそが問われるべきであり、その問いの「在り方」とその射程が定められて初めて、その「存在」への問いによって的中される問題性としての「存在」が明るみに出されるであろうと言った風のねちっこい設問の立て方。結構、こうした遣り口は、哲学的な衒学趣味の、気取った、言葉遊びの類に取られがちであるが、筆者はかかるねちっこい問いを立てることこそが、問題解明に必要であるという認識を以って、遠隔透視の方法を解明したのであるから、なかなか侮れないわけである。つまり「遠隔透視はどうしたらできるだろう」という素朴な問いは、最終的に「如何に明晰夢や幽体離脱時の意識状態を覚醒時に惹起できるか」という問いとしてねちっこく練られることによって、筆者において、その答えがあっけなく解明され、結局、筆者も幼なじみのE先生も遠隔透視ができるようになったのであるから、16歳の時のハイデガーの『存在と時間』の読書も無駄ではなかったのである。


 
4)ジョン・メイナード・ケインズ

 散々このブログで、シヴァ教の歴史をまとめることが、このブログの副次的目的であると言いながら、意味不明に一年半もの間、経済学の研究にかかりっきりになり、大事な時間を、棒に振ったのは意味が分からないとぼやき続けたのは、読者諸賢においても記憶に新しいことだろう。しかし筆者において、どうやらケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』の方法論が染み付いてしまったようで、ある文化的、社会的現象において簡単なモデルを使っての分析が非常に有効であるという発想が無意識裡に血肉となっていたようなのである。ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』も畢竟、高校生レベルで理解できる簡単な数式を巡っての考察に過ぎない。しかし適切なモデルを抽出し、それを用いて事象を分析することにはかなりの有効性があるのである。かくてこの発想が、驚くべきことだが、大乗仏教起源史の解明に思いの外に有効であることを筆者は発見したのである。筆者は今回の記事でその方法を、いんちき賭博師の腕の冴えよろしく読者に鮮烈に呈示できることを幸福に感じている。あの忌ま忌ましいケインズ研究も無駄ではなかったのだ!と。



5)ミハイル・バフチン

 ロシア・フォルマリズムの天才学者。彼が五つのカードのジョーカー、伝家の宝刀である。名著『ドストエフスキーの詩学』を読んだのは17歳の時だ。モノローグ的な従来の小説形式とは、異なったポリフォニー小説という概念を呈示して、自己と他者を意識し、非自己完結的な複数の発話者の対話を通して物語が進行する、ドストエフスキーの小説をポリフォニー小説として規定し説明したのを読んだ時、15歳の頃に集中的に読んでいたドストエフスキーの小説の言語化できない不可解さが一挙に溶解して感動したものである。それこそ「バフチン、こいつヤベェな」である。そして何と言ってもバフチンの文芸理論、文芸批評の金字塔が『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』である。



    フーコーは、近世にかけて一つのエピステーメーの転換、断層があったと指摘したが、フーコーを俟つまでもなく、そのエピステーメーの断層を飛び越えて、近代以降の人々の意識において、シェークスピアやセルバンテンスと同程度には理解されなくなっていた、フランソワ・ラブレーの小説『パンタグリュエル物語』と『ガルガンチュア物語』の作品の背景にある民衆文化を源泉とするコンテクストを復元・再現し、20世紀の人々に呈示したのは、20世紀人文科学の分野における未曾有の業績と言っても言いだろう。それは真の天才による研究とはかくあるべしという模範である。もし大乗仏教の起源史を研究するなら、ミハイル・バフチンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネサンスの民衆文化』の一読をお勧めする。筆者は彼のこの書も『ドストエフスキーの詩学』と同時期に読んで、「やっぱバフチン、マジやべぇな」となったのであったが、その後、この書はとんでもない名著だが、そもそも自分の人生で今後、フランス文学のそれもラブレーの小説を対象にしたこの書物を引用したり役立てたりすることはないだろうと考えて、引っ越しの際に二束三文で古本屋に売ってしまったのであったが、この度、大乗仏教の研究において、絶対にバフチンが必要だという閃きを得て再購入した。一つ遺憾に思うことは、バフチンの批評作品は、批評対象を超えて燦然とその価値が輝いているので、批評対象としてのラブレーの小説は、面白いことは面白いのであるけれども、それよりか、よほどバフチンの批評の方が面白いということである。批評の方が批評対象より、面白く、なおかつ重要であるというのは、批評というジャンルにおいては瑕疵的であろう。




 以上、五つのカードを使って筆者は、大乗仏教の起源に迫りたいと思うのである。そもそも大乗仏教の起源に迫るのに、これら五つのカードを用意するという発想自体が、そもそもアタオカ的である。しかしこの世界にはアタオカにしか見えない風景というものがあるのであるからして、かかるアタオカ的遠近法によってのみ見えてくる世界の真相というものも又あるのだ。ではまず大乗仏教の起源史を考察する上での差し当たっての当座の論題を幾つか呈示し、読者との問題意識の共有を行っていきたい。
 
 
1)なぜ大乗経典の作者達は、平気で、それらが仏説であるという、嘘を付くのか?
 
2)ショーペンは、大乗仏教徒は軽蔑の対象であったと述べるが、山林に住む修行僧であるという理由で軽蔑されるということは、インドでは一般的に考えられないであろう。ならばその軽蔑は何故をもってなのか?
 
3)なぜ、ショーペンが証拠として求めるレベルの、碑文や遺物などに彼らの足跡が僅かしか残っていないのか?
 
4)小乗仏教における戒律や八正道の体系の必要性について我々はすぐにも理解できるが、なぜ六波羅蜜などという「布施」を含む不可解な体系を彼らは要請するのか?
 
5)大乗経典の、あのけばけばしいこと孔雀の如き、悟る為の教えを純粋に学びたいだけの者にとっては、ただただ邪魔なだけの、無駄な荘厳主義(土中からの突如の宝塔出現、多次元宇宙主義、無限を志向し増殖する多仏達)の、あの馬鹿げだSFファンタジー、スペースオペラは、一体何を意味するのか?
 
6)無駄な繰り返しや、無意味にパレードをなす如来・菩薩・仏・仏弟子達の羅列、神々、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、ナーガ、ヤクシャス、ラクシャス、ガンダルヴァ、アスラ、ガルダ、キンナラ、マホーラガと言ったこのただ言いたいだけの畳み掛けるヴァースの、かかる高層のメガ神殿の狂乱のファンドの雨と降り注ぐ大乗経典における、かかるパレード(行列)のこの狂気性は、何を意味するのか?
 
 
 これら差し当たっての様々な論題に、答えることができるだろうか?この論題にヴィマラキールティの黙狂的な沈黙で答えることなく、ずばり一言で答えられてこそ、箸にも棒にもかからない仏教を知り尽くした野狐禅の大家、在家にタカるアーチャリヤ(阿闍梨)というものである。さあ、言ってみなされ、皆々様!ここに大乗仏教、ぎりぎりの「無」やら「空」やらの本質的な仏性の、その犬も喰わない、その父母未生以前の模糊模糊がありまするぞ。さあさあお答えめされよ。そこの坊主の旦那方よ!愛らしき袈裟を着た生臭菩薩大士どもよ!答えてみやがれ、マルコメ小僧!でしゃばり出るな、1コメ大僧!さあさあ言ってみよ!本質をえぐる獅子奮迅の働きで、アレクサンドロスばりの快刀乱麻を断つ、ズバリとした、たった一言を!
 
 基本、もったいぶるのが嫌いで、結論先だしの筆者も今回は結論先ださない。とは言え、直観的な人間であれば、あれら五つのカードとこれら論題の羅列から、推論や証明の手順を省いても、答えがすぐに出るだろうと思われるのである。これらの論題は、明証的に全て有機的に連関しているものなので、本質的には個々別々に説明を要さず、一つの答えによってこと足りるものなのである。
 閑話休題。先ほどミハイル・バフチンの話が出たので、ここで確認としてテクストとコンテクストについて一言述べておくのも無駄事ではあるまい。
 
 
 
【テクストとコンテクストについて】
 
 テクストゥス(織物)としてのテキストは、奇妙なものである。インドでのそれは、縦糸(スートラ)と横糸(タントラ)によって織り上げられ、中国でも奇妙な一致を以って、同じように、経書(縦糸からなる書物)と緯書(横糸からなる書物)からなるとは言え、筆者が言いたいのはそういうことではない。それは二つに大別できるという、些かも奇を衒うことのない単純なことを言いたいだけなのである。しかしテキストには、我々を欺きもすれば、導きもする奇妙さがあるのだ。テクストの背景にあるコンテクストをあらわに示し現すテクストがある一方で、その背後にあるコンテクストを示さず、時に隠蔽さえするテクストがある。レパントの海戦で左腕を撃たれたセルバンテスの物した、苦り顔の騎士を主人公にした、あの乾いた平原の物語において、そのコンテクストを成すものは、種々の騎士道物語であった。シェークスピアの戯曲において、その作者を隠蔽することがあったとしても、そのコンテクストは隠されることはない。しかるにフランソラ・ラブレーの『ガルガンチュア物語』と『パンタグリュエル物語』において、それが「笑い」という効果を目指す以上、その効果の為にコンテクストの説明は犠牲にされなくてはならなかった。それ故に数百年後には、その背景を成すコンテクストとしての民衆文化と、その饗宴的なカーニバル性、祝祭性、そして広場の言葉というものが、近代人には疎遠となってしまい、結果、ラブレーの言い知れぬ常軌を逸した奇怪さと、読者におけるある種のテクスト読解の居心地の悪さだけが、印象に残り、そこに絶対的な断絶、断層を感じざるを得なくなるわけである。かくてある種のテクストは、殊更にコンテクストを指し示さぬが故に、コンテクストから孤立したテクストとして、我々の前に渺たる読解空間における孤島の如くにその姿を呈するのだ。例えば、卑近な例で恐縮だが、前々回の記事で「読者がこれを読んでどう感じるかは、アナザースカイならぬあなた次第である」という面白くも何ともない文章を書いたが、これなどは、当然、読者が、都市伝説の「信じるか信じないかは、あなた次第です」という言葉と、筆者は見たことはないが、テレビ番組のアナザースカイという二つの文脈、コンテクストを理解しているということを前提にしてこそ成り立つ文章である。しかしながら、もし100年後の、日本語を学ぶ実直なインド人がひょんなことから筆者のブログの文章を見つけて、翻訳しようとした場合に、「読者がこれを読んでどう感じるかは、アナザースカイならぬあなた次第である」という馬鹿な筆者のしょうもない発言の意図と、コンテクストを果たして理解して翻訳できるかとなると事態は絶望的と言わざるを得ない。コンテクストの背景抜きにテクストは成立しえない。ところで、あのアルジェリア出身のユダヤ人であったデリダは、そのような根源としてのコンテクストを拒否し、脱構築という様々な読解可能性からなる、本質的には存在しえないものとされ、差延からなるシステムによって構成された根源なき無限のコンテクストと戯れる、ポスト・モダン的な方法論を述べたわけであったが、我々はバルトリハリと共に、イデアル(理念的)なものとしてのコンテクストの実在を措定せざるを得ない地点にいる。ラブレーのテクストの失われた中世の民衆源泉との生き生きとした接触は、バフチンによって『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』において復元・再現されたのであった。そこにデリダ流の賢しらな脱構築の入り込む余地はない。もう一つ具体例を挙げよう。イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの詩を理解するには、当時の神秘主義の言語、すなわち、グノーシス主義や古代密儀宗教、新プラトン主義、ヘルメス主義、カバラー主義、聖書学、錬金術、薔薇十字思想、フリーメーソン思想、西洋魔術思想といったコンテストの理解なしには正しくその象徴を規定しえないようなものである。とは言え、ウィリアム・ブレイクの詩における象徴は、生きた象徴としての力をもっているので、上記の、訓詁主義的な解釈を不要にもするのではあるけれども。とりあえず『無垢の予兆』における、以前筆者が翻訳したウィリアム・ブレイクの詩を特に意味はないが再掲する。


Every night and every morn
Some to misery are born.
Every morn and every night
Some are born to sweet delight.
Some are born to sweet delight
Some are born to endless night.


毎晩、そして毎朝、
ある者らは、悲惨さの内に生まれる。
毎朝、そして毎晩、
ある者らは、甘美なる喜びの内に生まれる。
ある者らは、甘美なる喜びに生まれ、
ある者らは、終わりなき夜に生まれる。


ウィリアム・ブレイク




    コンテクストとの関係を、喪失したテクストであればまだ良い方である。中には敢えてコンテクストとの関係を隠蔽するテクストというものがある。この世界というテクストは、マーヤー・システムにより、輪廻というコンテクストとの関係が見失われてしまっている為に、何度も死ねば記憶を失って常に同じ過ちを我々に促すのであるということは、再三再四筆者が強調してきたことである。また以前の記事でデリダを取り上げた際に述べたが、挙示的ロゴスという、ハイデガーがロゴスを区分した際に記した、意味を示すだけの単純素朴な意味的ロゴスとは別の挙示的ロゴスという、敢えて意味とコンテクストを隠蔽し、抗弁するロゴスというものが存在する。「陰謀論」という安っぽいレッテルを貼って、真実から大衆の目をそらさせ、思考停止させようとする謀略、あるいは戦略は、いわゆる「偽旗作戦」の一種であるが、コロナ・ワクチンの広告宣伝活動においても、こうしたことが行われていたことは明らかである。大勢に反し、もう少し様子見をした方がよいという冷静な正しい判断情報を伝えようとする少数の勇気ある人々と、明らかにパラノイア的な人々の言説が両方とも、陰謀論に惑わされた哀れなアブない人として一括して「反ワク」「陰謀論者」の名の下にレッテル貼りをされ、デーヴィッド・ヒュームのキマイラや火を吐く龍の如く観念において連合され、かくて大政翼賛会ならぬワクチン大賛成会の優良会員となった戦後八十年相変わらずのメンタリティの国民は、愛する人たちの為に1億総ワクチン漬けとなり果てて、結果的に巨額の資金がアメリカの製薬会社を潤す結果となったのであった。我が国だけでも、2兆4036億円がアメリカの製薬会社に渡ったのである。僅か数年の間で、一国だけでも2兆円荒稼ぎする機会があり(実際にはそれが何十国にも渡る)、かかる企業が、宣伝や広告活動、工作や根回しなどで、反対意見を潰す努力もせずに、ただ善意だけでその荒稼ぎのチャンスをただ待っていたと考えるとしたら、それはおめでたいお花畑の住人としか言いようがない。しかし少しでも疑いの目と共に思考しようとする者は、我が国の良識ある根っからのお人好し、孟子も真っ青の性善説に立つ大多数のワクチン大賛成会の人々から言わせれば、彼らはチャンダーラであり、陰謀論者なのである。ともあれ、世界とは、バルトリハリを俟つまでもなくシャブダ(ロゴス)からなるテクストである。その世界を構成する背後のコンテクストを如何に読み取るかという技術は、非常に重要である。その読み取りを誤れば、薬害にあったり、寿命より早く命を落とすこともありうるし、場合によっては、何度も生まれ変わって同じ状況をループする間抜けな状況に陥りかねない。世界というテクストを読むためには、様々なシャブダないしはロゴスの性質を熟知することが求められるのであり、そういう意味では人文科学としての文法学や批評(クリティケー)という技法は、一見取るに足りない技術のように見えても、この世界を生きる上では、実証科学の教えぬ、この挙示的な世界を解読する上で重要な技法なのである。かくてバルトリハリはかく述べる。



आसन्नं ब्रह्मणस्तस्य तपसामुत्तमं तपः । 
प्रथमं छन्दसामङ्गं प्राहुर्व्याकरणं बुधाः ॥११॥

かのブラフマンに親しく接するもの、タパス(苦行)中の最高のタパス、チャンダス(ヴェーダ)補助学の筆頭が文法学であると、賢者達は述べた。(11)


तस्माद्यः शब्दसंस्कारः सा सिद्धिः परमात्मनः ।
तस्य प्रवृत्तितत्त्वज्ञस्तद्ब्रह्मामृतमश्नुते ॥१३१॥

それに従って、シャブダ・サンスカーラ(シャブダの浄め)があり、パラマートマンの成就がある。その産出の本質を知る者は、かの不死のブラマンに達する。(131)



 以上、テクストとコンテクストとの一般的な関係性について簡単に確認した。次に大乗仏教起源史解明の為の、テクストとコンテクストの関係性について考えてみよう。まず大乗経典のテクストは、歴史的に仏説ではないにも関わらず、如是我聞で始まり、仏説であることを主張するのであるから、かかるテクストは、上述のテクストの定義により、挙示的ロゴスを用いた、コンテクストを隠蔽する類のテクストであるということが分かるであろう。従ってかかる挙示的なロゴスを用いたテクストの読解の為には、真実のコンテストの復元と、挙示的ロゴスの動機・意図・目的を明らかにすることが、テクストの真の読解の条件になる。故に我々はまず大乗経典のテクストを離れて、大乗仏教興起の時代性の歴史認識をもって、その歴史的コンテクストを確認することから始めねばならない。
    大乗経典の最古層に属するいわゆる『八千頌般若経』の漢訳経典の『道行般若経』が、クシャーナ(月氏)族出身のローカクシェーマ(支婁迦讖)によって翻訳されたのが、CE179年である。そこから成立年代を推論し、一般的に、紀元前1世紀には、インドで原(ウル)‐般若経が成立していたと推定される。また般若経はシャト・パーラミター(六波羅蜜)の内のプラジュニャー・パーラミター(般若波羅蜜)を称揚する経典なので、般若経成立以前に、六つのパーラミター(波羅蜜)に、特に優先順位を設けない、般若経成立の地盤となった大乗仏教の震源と目されるシャト・パーラミター(六波羅蜜)の教えが成立していたことが推論される。おおよそ前1世紀に原(ウル)‐般若経が成立していたならば、大まかに言って、原(ウル)‐六波羅蜜の教えが成立していたのは、紀元前2世紀ぐらいと見て大過ないだろう。従って我々が大乗仏教起源史を探る上で主に照準を合わせるべき年代は、紀元前2世紀から紀元0年のポスト・マウリヤ朝期のインド史ということになる。当時、パータリプトラを中心とした東インドを支配した王朝は、シュンガ朝→カーンヴァ朝であった。他方で、北西インドにおいては、紀元1世紀ぐらいまでに侵入してきた異民族国家を四つ挙げることができる。①ギリシア人のインド・グリーク朝。前回の記事で確認した西クシャトラパ王国を建国することになる②スキタイ=サカ人のインド・サカ朝。③パルティア人のインド・パルティア王国。そして④クシャーナ(月氏)族のクシャーナ帝国である。またギリシア人、スキタイ=サカ人、パルティア人、クシャーナ族のこの四つの異民族国家を、このブログでは便宜的に、中国の五胡十六国の呼称を借りて、今後、「四胡」と呼ぶことにしたい。またこれまで本邦のインド史研究では見落とされがちであった、当時の北西インドに林立していた種々の群小部族国家(ヤウデーヤ、アウダムバラ、クルータ、クニンダ、マドラ、アグラティヤ、アールジュナーヤナ)を若干丁寧に古銭学の成果を基に確認していきたいと思う。それと言うのも、この北西インドの群小部族国家にこそ、大乗仏教起源史を解く上で重要なファクター(因子)が隠されているのであり、またそれは今後のシヴァ教の研究においても重要な前段階を成すと想定されるから。今回の記事においては、主に東部のシュンガ朝、カーンヴァ朝と群小部族国家を研究の対象とする。また次回の記事で、四つの異民族国家(四胡)を重点的に取り扱う。それでは、東インドのマウリヤ朝の後継国家であるシュンガ朝・カーンヴァ朝ラインと、北西インドの四胡・群小部族国家林立の時代を、大乗仏教興起時代の歴史的コンテクストを形成するものとして、これより研究していくことにしよう。
 マウリヤ朝は、前320頃に建国され、プラーナ文献によれば、その支配は、10代137年続き、おおよそ前180年頃にプシャミトラのシュンガ朝に取って代わられた。


    マウリヤ朝の最後の王は、プシャミトラによって殺されたと伝えられている。ダナのアヨーディヤ碑文において、プシャミトラの6代目の子孫である、コーシャラ国を支配していたダナは、その碑文において先祖のプシャミトラを二度、アシュヴァメーダ(馬犠牲祭)を挙行したセーナパティ(将軍)・プシャミトラの名で言及している。プシャミトラは、後継者のアグニミトラが、ラージャと呼ばれているのと対照的に、後世においてもセーナパティの称号で呼ばれている。これは恐らく、三国志の時代の魏の曹操が、漢王室に配慮し、自分が纂奪者の汚名を受けない為に、禅譲を受けなかったことや、現代の北朝鮮の国家元首が将軍の称号で呼ばれたりするのと同じようなものだと考えられる。プシャミトラの息子のアグニミトラを主人公にしたカーリダーサの戯曲『公女マーラヴィカーとアグニミトラ王』でも、父のプシャミトラは、あくまでセーナパティの称号で呼ばれ、ヴィンディヤー山脈以南のヴィダルバ国の抑えとしてヴィディシャー国の王に任じられたアグニミトラはラージャの称号で呼ばれている。




 『マハーバーシャ』において文法家のパタンジャリは、プシャミトラについて、有名な一節で、現在形を用いて、かく述べる。
 

इह पुष्यमित्रं याजयामः ।
 
ここで、〔我々は〕プシャミトラに犠牲祭を執り行わせる。
 
    文法家のパタンジャリはプシャミトラと同時代人であり、プシャミトラのアシュヴァメーダ(馬犠牲祭)を執行する祭僧の一人であったことがここに窺えるわけである。他方で、
 

अरुणद्यवनः साकेतम् । अरणद्यवनो मध्यमिकाम् ।
 
ギリシア人は、サーケータ(アヨーディヤ)を包囲した。ギリシア人は、マディヤミカー(ナガリー)を包囲した。
 
 
    と話者が直接目撃したものを述べる際に用いる、直接法過去を用いて、ギリシア人のサーケータとマディヤミカーの包囲を目撃したことを彼は語っている。従って、有名なギリシア人の中央インド進攻は、プシャミトラの二度のアシュヴァメーダ祭の挙行より、時間的に先であるということが同時代人パタンジャリの証言によって分かるのである。それにしてもギリシア人の進攻を目撃したり、プシャミトラのアシュヴァメーダ(馬犠牲祭)を執行したり、なかなかに文法家のパタンジャリの人生は、静謐な学究的人生とは言いがたい波乱万丈なものであったようである。ちなみにパタンジャリの出生地は、祇園精舎のあるシュラーヴァスティーとサーケータことアヨーディヤーの間にある、筆者も行ったことのあるゴーンダー(ゴーナルダ)と言われていて、別名のゴーナルディーヤもその出生地から来ているとされる。




(ギリシア人進攻を目撃したパタンジャリの活動範囲を推定させるサーケータとマディヤミカーを結ぶパタンジャリ・ライン)


   綜合的に考えれば、ギリシア人の進攻によって混乱した末期のマウリヤ朝は、ギリシア人との攻防で頭角を現したマウリヤ朝の将軍であったプシャミトラによって権力を奪われたと考えられる。ユガ・プラーナではギリシア人の進攻をかく述べる。



ततः साकेतमाक्रम्य पंचाला मथुरास्तथा ।
यवना युद्धविक्रांताः प्राप्स्यंति कुसुमध्वजं ॥ 

かくて、サーケータ(アヨーディヤー)に攻め込み、パンチャーラ、マトゥラーも同様であり、戦いに勝利したギリシア人達は、クスマドヴァジャ(パータリプトラ)に到るだろう。


ततः पुष्पपुरे प्राप्ते कर्दमे प्रथिते हिते ।
आकुला विशयाः सर्वे भविष्यन्ति न संशयः ॥

かくて、プシュパプラ(花々の都パータリプトラ)は汚泥に塗れ、散じ投じられ、全ての者達が混乱し疑心に駆られるのは疑いないであろう。


शस्त्रद्रुममहायुद्धं तद्भविष्यति पश्चिमं ॥

刀剣の林立するかの大戦闘が最後に起こるだろう。


धममीत तया वृद्धा जनं भोक्षन्ति निर्भयाः ।
यवना क्षापयिश्यन्ति नगरे पञ्चपर्थिवान् ॥ 

ダマミータは、それによって、多くの人々を餌食とするだろう。恐れ知らずのギリシア人達は、都市において五人の王らを圧倒するだろう。




(デーメートリオスの貨幣)

(マトゥラー→パンチャーラ→サーケータ→パータリプトラと延びるギリシア人の進攻ルート)


    バクトリア王のギリシア人王デーメートリオスは、マトゥラー、パンチャーラ、サーケータと次々とインド北部の諸都市を陥落させ、快進撃を続けて、ついにマウリヤ朝の栄華を極めた首都パータリプトラに到ったのであった。アショーカ王の栄光の記憶が残るインド人にとり、首都へのギリシア人の進撃は大きな衝撃であったろう。この辺りのゴタゴタについて、当時のアウディシャー一帯を支配していたマハーメーガヴァーハナ朝のカーヴェーラ王の碑文によってさらに別角度から事件を知ることができる。このマハーメーガヴァーハナ朝は、後に述べるが般若経典の研究においても重要となる。
 当時のカリンガ国、現在のアウディシャー州を支配したマハーメーガヴァーハナ朝の王カーラヴェーラの事蹟を記念したハーティーグムパー碑文は、マハーナディー川下流域に位置するブヴァネーシュワル近くのウダヤギリの南面の洞窟に掘られた17行の文章からなり、ブラーフミー文字によるプラークリット語で刻まれたものである。様々な重要な情報を含んでいるにも関わらず、その内容の若干の曖昧さにより、学者によって様々な紛糾した解釈がなされていて、現在においても問題のある碑文とされている。しかし、筆者に言わせると、それ程の難しい推論を伴うこともなく、動かし難い事実を基準に解釈を行えば、多くの識者において疑問に思われている事が、もはや疑問とは思えず、寧ろ様々な隠された事実を明らかにするという点では、資料として有効性の高いものであるということが分かるのである。筆者の独自研究において、ハーティーグムパー碑文にもはや謎はない。そしてこの碑文を利用することで、先にみたギリシア人のパータリプトラ進攻とシュンガ朝の成立の時期に新しい光が投げかけられるので、そこのところを重点的に詳しく見ていきたいと思う。碑文は、『Epicraphia Indica volXX.1929‐1930』に依る。
 まず碑文の4行目のカーラヴェーラの治世の2年目に、saatakamniとの戦いがあったことが、述べられている。そしてこのサータカムニこそが、この碑文の解釈を紛糾させる原因となっている。サータカムニとは、後にデカン高原を支配するサータヴァーハナ朝の家名のシャータカルニー(サータカニ)を指すとされる。そして幾人かの学者は、このカーラヴェーラと戦ったサータカムニムを有名なシャータカルニー1世(在位前70~前60年頃)に比定する。またサータヴァーハナ朝の初代は、このシャータカルニー1世の父のシムカであるので、ここからカーラヴェーラの年代は、紀元前1世紀頃とされ、それ以前には遡り得ないという見解が出されている。しかしまずここでのサータカムニを既存の他のサータヴァーハナ朝のデータを基に、碑文の年代設定の基準にしてしまうと、ハーティーグムパー碑文の解釈は迷走する結果となる。故に、サータカムニを碑文の年代設定の起点におくのをいったん判断保留、エポケー(判断停止)して括弧に括っておくことが、ハーティグムパー碑文の解釈作業においては重要となる。なぜならば、その6年後のカーラヴェーラの治世8年目にさらに重要な記述があるからだ。
 それは碑文の8行目にある。yavanaraaj[aa]  d[i]mi[ta](ギリシア王ディミタ)をmadhuram(マトゥラー)に撤退させた(apayaato)というのが、それである。これは文章全体の内容としては、カーラヴェーラ王が、raajagahaM(ラージャガハム=ラージャリハ=王舎城)に進駐し、圧力をかけた為にギリシア王ディミタが、マトゥラーに撤退したということを語るものである。この内容は疑いなく前述の同時代人の文法学者であり、プシャミトラの祭僧を務めたパタンジャリが目撃したギリシア人のマトゥラー進攻の後日譚であり、後代のプラーナ文献が語るデーメートリオスのパータリプトラ進攻後の撤退の様子を活写したものと見做すべきであろう。しかし、シャータカルニー基準でこの碑文の年代設定をしてしまうと、紀元前1世紀中頃にギリシア人王ディミタがマトゥラーに撤退する事件があったと考えねばならならなくなり、そうすると辻褄合わせが困難となって、苦しい解釈をしなくてはならないことになる。プラーナ文献では、ギリシア人王ダマミータがパータリプトラに進撃したと述べられていることと、ハーティーグムパー碑文のギリシア人王ディミタの撤退は、同一人物のことを述べているということを排除する根拠は乏しい、従って、プラーナ文献とハーティーグムパー碑文は、同一事件の違った角度からの描写と見做すべきである。ここからギリシア人王デーメートリオスとマハーメーガヴァーハナ朝のカーラヴェーラは、同時代人であり、彼等はまたパタンジャリやプシャミトラと同時代人であることが帰結するわけである。かくてこのギリシア人のパータリプトラ進攻をこの碑文の年代特定の基準に定めれば、この碑文はさらに多くの事実を明らかにし、シュンガ朝建国時の混乱の時代の同時代資料として大いに役立つこととなる。ここからは筆者の独自研究の独壇場である。
 ①カーラヴェーラ王の治世8年目に、カーラヴェーラ王がラージャグリハ(王舎城)に進駐して、ギリシア人王デーメートリオスを牽制し、マトゥラーに撤退させたというのが、碑文の語る歴史証言である。それから4年程して、②カーラヴェーラ王の治世12年目にカーラヴェーラ王は、マガダ国の王baha[sa]timita(ハバサティミタ)を屈服させて、マガダ国とアンガ国を侵略し、財宝を略奪したことが述べられる。
 そしてここでの重要なポイントは、ギリシア人進攻からカーラヴェーラ王のマガダ国進攻までのこの空白の四年間の解釈である。なぜカーラヴェーラ王は在位8年目にラージャグリハまで進駐しながら、そのままマガダ国に漁夫の利を得て、進撃し略奪をほしいままにしなかったのか?そして空白の4年の期間を経てから、なぜマガダ国に進攻したのか?ということが問題とされねばならない。カーラヴェーラ王の敵は、碑文の直截的な表現だけから判断すれば、在位8年目には、ギリシア人王ディミタであった。また在位12年目の敵は、マガダ国王バハサティミタであった。かくてこのマガダ国王バハサティミタの正体が今度は問題になる。
 マウリヤ朝の最後の王は、プラーナ文献によれば、ブリハドラタである。そして彼はプシャミトラに殺されたのであった。プラークリットのバハサティミタは、サクスクリットで言えば、ブリハスパティミトラである。彼が何者かという解釈として以下の可能性が挙げられる。
 
 
バハサティミタ=ブリハドラタ=マウリヤ朝最後の王 (A)
バハサティミタ=シュンガ朝の王  (B)
バハサティミタ=(A)(B)以外の王 (C)
 
 この三つがバハサティミタは誰なのかということを解釈する上で思い浮かぶ可能性である。