第4章 第12節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む


मायया सुकृतया समविन्दत ॥१२॥




maayayaa sukRtayaa samavindata ॥12॥




【〔それらは〕よくなされた[1]詭計によって[2]獲得されたのである[3]。】



[1]sukRtiは、「よく為された」、「美徳」という意味の具格。
[2]maayaaの具格。「マーヤー」「詭計」という意味である。
[3]samavindataは、動詞saMvid「獲得」の直接法過去三人称複数形である。


 インドラ神の行った韜誨行為は、意図的な奸計によってなされたということ。もし神が絶対神であるならば、彼は当然、自分より下のものの尊敬や崇拝を必要としないであろうし、彼らから軽蔑されようと意に介さないこと必定である。筆者が路傍の蟻から尊敬されようが軽蔑されようがそれが筆者の生活に何の影響があろうか。従って尊敬や崇拝を求める神は、それ自体で、自らの劣位を証しているのである。これは人もまた然りである。尊敬や崇拝を求める心情はそれ自身が下位感情であり、そうした心情自体がその者の劣位を証するのである。つまり尊敬や崇拝、承認を他者に求める人間とは下司野郎ということだ。こうしてインドラ神は、自らの尊敬される地位を投げうって、悪魔どもと人間を出し抜いて最初のパーシュパタ(畜主派教徒)となったのである。しかし本当にそういうつもりでインドラ神が、インド神話において醜態を曝していたのであれば、恐ろしいカウティリヤイズムを具現化したような神である(あちらの世界を自由に行き来するシャーマニズ能力を有する筆者は、インドラ神とお知り合いなので、今度、暇な時に訊いてみたいと思う)。





 前回、我々は租税貨幣論を基礎とする古代における貨幣の起源論と現代貨幣理論(MMT)を簡単に検討した。古代において、通貨は、マルクスの言うように、金銀であった。それ故、通貨の発行には、原料としての金銀が必要であり、通貨発行の限界は、その体制の保有する金銀の量に依存するのであった。かくて通貨の発行を、その保有金銀の量によって制限されていた政府は、金銀の含有量を調整したり、国債を発行したりで急場をしのいでいたのだった。しかし、ブレトン・ウッズ体制の崩壊に伴い、金本位制や固定為替相場制から変動為替相場制に切り替わることにより、一部の通貨主権国家において、通貨の発行能力は、ハイパーインフレや、為替相場における通貨の暴落という実体経済との関係性を考慮に入れた自己規制以外、如何なる制限も取り払われることになった。しかるに多くの人々の思考は、ブレトン・ウッズ体制以前の旧来の経済思考パターンに囚われたまま、思考がアップデートされることなく均衡財政への異状な執着を続けているのであった。今回の記事で我々が検討するのは、ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』であり、ケインズの一般理論を通じて、大雑把なマクロ経済のメカニズムを理解することに努めたい。今日においてケインズの理論にも様々な批判がなされているのは承知である。しかしケインズのシステムという経済学の認識の叩き台を理解すること抜きに、その紛糾する種々の経済問題に対する議論に加わることも難しい始末であるから、それは今日においてもなお非常に有益なのである。





 ケインズの体系において、その国の経済の基礎、繁栄の源である雇用量(N)がいかに決定されるかということがその論の中心になる。従って我々はまず雇用の一般理論を理解しなくてはならない。


 雇用量(N)は、個々の企業や産業においても経済全体においても、企業者が〔その雇用量に〕対応する産出量から得られると期待する売上収入の大きさに依存することになる。なぜなら企業者は雇用量(N)を、売上収入が要素費用を超過する額(すなわち利潤)が最大になると期待される水準に設定しようとするからである。(P36)


 つまり企業者は、期待される売上収入を考慮してその最大の利潤をあげられるように、その雇用量を増減させるということである。従ってこれをN人を雇用することによる産出量の総供給価格をZとするなら、Z(総供給価格)とN(雇用量)の関係は

Z=Φ(N)

と書くことができ、これを「総供給関数」と呼ぶ。

 また企業者がN人の雇用から得られると期待する売上収入をDとした場合、D(売上収入)とN(雇用量)の関係は、

D=f(N)

と書くことができ、これを「総需要関数」と呼ぶ。

 またD(期待売上収入)>Z(総供給価格)の場合、D=Zになるまで、N(雇用量)を増加させる誘因が企業者に生じ、雇用量(N)は、総需要関数と総供給関数の交点で与えられることになり、この交点のD(期待売上収入)を「有効需要」と呼ぶ。


 ケインズの雇用の一般理論とは 
  
「総供給関数」:Z=Φ(N)  ①
「総需要関数」:D=f(N)  ②
「有効需要」:①と②の交点のD ③


 この三つを巡る理論なのである。数式を見れば分かるように、数学が苦手な筆者の頭でも理解できるレベルの単純なものである。
 ここから有効需要(D)を二つに分けて分析する。つまり有効需要の構成要素は、D1(期待消費額)とD2(期待投資額)である。貯蓄を除けば、企業であれ、一私人であれ、我々がお金を使うのは、消費か、投資かのいずれかであるから。


D(有効需要)=D1(期待消費額)+D2(期待投資額)



 ここに総供給関数Φ(N)を加えれば、

D=D1+D2=Φ(N)④

という式が成り立つ。

 またD1(期待消費額)は、消費性向と呼ぶ心理的特性xに依存し、その消費は当然、雇用量(N)に依存することから、D1は、x(N)と書き換えることが可能となる。


D1=x(N)⑤


D=D1+D2は、以下のように書き換えられる。


D(有効需要)-D1(期待消費額)=D2(期待投資額)


 これをさらに④と⑤を使って書き換えると


Φ(N)-x(N)=D2


 ここから均衡雇用量は、総供給関数Φと消費性向x、そして投資額D2に依存するということが分かる。これがケインズの言う雇用の一般理論の核心部分である。

 つまりその社会の雇用量(N)は、Φ(総供給関数)とx(消費性向)とD2(期待投資額)が決定されれば分かるということなのだ。

 従ってケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』は、この総供給関数と消費性向と期待投資額の分析にほとんどを費やされるのである。またD2(期待投資額)は、資本の限界効率表と利子率(r)によって決定されるので、資本の限界効率表(資本の利潤率)と利子率がさらに分析の対象となる。

D1(期待消費額)は、消費性向x(N)
D2(期待投資額)は、資本の限界効率表と利子率(r)に依存する。

 さらにケインズの体系において、雇用(N)が増えるとD1(消費)も増えるが、それはD(有効需要)程ではない。なぜなら貯蓄に回るからである。従ってその生産物の総供給価格ZとD1との間には必ず開きができる。そしてその開きを埋め合わせるように、D2が増加しなければ、雇用量は完全雇用の水準に達することもなく、総需要関数と総供給関数の交点で与えられた水準Nで安定均衡状態に達する可能性が出て来るということが帰結する。つまり、貯蓄によって消費性向が抑えられる限り、資本主義経済では、政府などが意図的に公共投資として投資D2を行わない限り、完全雇用の水準に達することはない。資本主義体制において貯蓄は個人的には善だが、大局的には悪である。貯蓄を因とし、資本主義において失業はそのシステムに不可避的に組み込まれているのであり、資本主義のシステムは、一定数の失業者を生み出すことでそのシステムを維持せざるを得ないのである。割り切れない学校のグループ割りの如く、必ずグループからあぶれる人が生じるということが、哀しい哉、資本主義の宿命である。一定数の不幸な人々を必ず再生産するのが資本主義のシステムであるなら、それは自己責任の問題では片づけられないことであるのだから、その論理を理解せずして、したり顔でもって自己責任で問題を論じようとする人は、資本主義万歳を唱えつつ、資本主義の根本的なシステムさえ分かっていない大馬鹿者ということになろう。
 次にケインズのシステムにおける、個々の要素を見ていく。D1に関わる消費性向xは、雇用量(N)の関数である。現代日本では、この消費性向がかなり下落していて、それによって総需要Dを押し下げて、失われた30年と呼ばれるデフレ不況を現出させているのである。多くの人々はできる限り、貯蓄(S)しようとする。また雇用(N)はある程度改善されても、非正規などの不安定な就業状況や、賃金が上昇しないことなどによって、消費(D1)は押し上げられることはない。また投資(D2)は、資本の限界効率表と利子率(R)に依存するが、資本の限界効率表は、最終的には技術革新や成長率による伸び代によって新たなフロンティアが生じない限り、なかなか上がらないものであるし、成長の伸び代の不足は、給与が上がらないことへとつながり、D1を下落させる圧力となって働く。利子率は、後に詳しく見るが、日本において名目利子率としては現在ゼロ金利である。しかし長引くゼロ金利政策が、実質金利(名目利子率-インフレ率)を押し上げていると考えられ、それによってゼロ金利政策が、企業の設備投資を促すどころか、株価や企業の内部留保、及びデフレ不況による家計の消費性向の低下と貯蓄額の上昇圧となっている始末である。とは言え、一般的なケインズの体系において、資本の限界効率表に問題がなければ、金利が下がれば、企業は設備投資の額を増やすことに繋がるはずなのである。かくてケインズは、消費性向が冷えている時には、投資(D2)を増やす為に、民間に代わって政府が公共投資をすべきであると主張する。


富裕な社会は、豊かな成員の貯蓄性向を貧しい成員の雇用と両立させようとするなら、もっと十分な投資機会を見つけ出さなくてはならない。(P44)





 彼は家計や企業の貯蓄や内部留保に回っている部分を、政府が財政政策における公共投資で埋め合わせることが必要であると説く。つまり


D2=民間の設備投資+政府の公共投資


 そして投資には、ケインズの言う乗数効果があるとされる。消費性向が一定ならば、雇用量(N)の変化は、投資額の純変化の関数になる。従って投資がどのように雇用に影響するかを考えてみると、そこからケインズの乗数理論が導き出される。
 
 所得の増減に応じて、消費も増減するのであるが、賃金単位の所得をYwとし、Cwを賃金単位表示の消費とした時に⊿Yw>⊿Cwとなる。

dCw/dYwを限界消費性向と定義する。 また⊿Cwと⊿Iwを、消費と投資の増加分とすると、⊿Yw=⊿Cw+⊿Iwとなり、この関係は
 
⊿Yw=K⊿Iw

と書くことができ、
 
k=⊿Yw/⊿Iw
(つまり乗数の大きさは、限界投資性向の逆数)
 
限界消費性向をKで表すとすると
 
限界消費性向=1-限界投資性向
 
限界投資性向の逆数が乗数Kであったのだから、Kの逆数が限界投資性向である。
 
つまり限界消費性向=1-1/Kとなる。そしてKを投資乗数と呼ぶ。

 数式で表すと数学の苦手な筆者などは、なかなか苦労するのだが、つまり投資乗数とは、ある一定量の投資を増加させた時に、乗数的に国民所得が増加し、雇用も増加すると云うことの謂いである。上記のものに雇用との関係性なども加味すると限界消費性向が1をさほど下回らない場合は、投資の僅かな変動でも雇用に大幅な変動をもたらし、限界消費性向が、ゼロの近辺であれば、投資の変動が小さいと雇用の変動も小さくなる。色々細かい条件や要因を考慮しなければ、不況時には、公共投資は効果的に雇用を増やす手段であり、好景気の時には公共投資の効果は少ないということになる。とは言え、こうした公共投資の有効性の理論としての乗数理論も、グローバリゼーションの時代において、多くのものが輸入に頼る状態においては、乗数効果はそれにより減退せざるを得ない。これはケインズも述べている。
 

外国との貿易関係をもつ開放体系においては、投資が増加したとき、乗数効果の一部が〔漏出して〕外国の雇用を利することになろう。(P166)
 



 それ以外にも、消費性向が冷え込んでいるデフレ下においては、当然その乗数効果は減退するであろう。また成長率が低空飛行をしているような社会においては設備投資が減り、これも乗数効果を減退させると考えられる。さらには公共投資が、多くの中抜きを経る場合も、消費性向が高い人々にお金が回らず、それによって乗数効果を減退させる可能性が考えられる。いずれにせよ、現在の日本において、旧態然とした公共投資への財政支出は、思いの他、乗数効果を生まないと考えられる点では再考の余地があると言える。これに付け加えるに、今日の資本の形態の特徴である有形資本から無形資本への推移も乗数効果にどう影響してくるかという問題も気になるところではある。
 続いてD2を増加させる投資誘因としての資本の限界効率と利子率(r)を見ていく。資本の限界効率は、大雑把に言えば資本の生み出すと期待される利潤であり、利子率は、貨幣の生み出す利潤である。資本の限界効率は資本に対する投資が増加すると低下する。またそれは発展の余白、限界によっても規定されるであろう。マルクス経済学において、資本の限界効率が徐々に逓減する場合に、それは労働者に皺寄せとなって現れる。そしてそれが階級対立を先鋭化させ、そののっぴきならない状態において革命が起こるというのが、マルクスの予想ないし期待であったが、実際の歴史においてはそうはならなかった。それというのもマルクスにおいて、新たに技術革新などによる新しいフロンティア(限界ないし辺境)の発生が考慮に入れられていなかったからだ。資本の限界効率は、発展の余白のない社会においては、全般的に低下するであろう。IT革命が90年代からその余白を作り、後にミラノヴィッチの『大不平等』で詳しく見るが、東南アジアや中国、インドを発展させる原動力となった。目下そうした新しい辺境を、先進諸国は、グリーンニューディール政策と称し、クリンエネルギーや、温室効果ガスの排出ゼロを目指す技術に期待を寄せているわけである(つまりここらへんの今後伸びる企業の株をいち早く買っておけと言うことである)。話は若干ずれたが、資本の限界効率が、投資の誘因となるのであり、そうした資本の収益率の改善や向上は、成長率(g)や技術革新に大局的には左右される。
 前述の資本の限界効率表は、新規投資のための貸付資金の需要の条件を定める。そして利子率は、資金が供給される条件を定める。ケインズの利子率の定義は、以下のものである。
 

利子率は貯蓄に対する報酬ではない。そうではなく、利子率は流動性をある一定期間手放すことに対する報酬である。(P231)
 
 
 ここで流動性は貨幣のことと見なしてよい。またその報酬が流動性プレミアムである。かくて流動性選好という概念が導入される。
 

流動性選好とは、利子率が与えられたときに大衆が保有しようと思う貨幣量を決めるところの潜在的な力ないしは関数的傾性のことである。(P233)

 
 つまり貨幣として財をもつことに対する選好度であり、デフレの時代においては、貨幣そのものが、バブルとなって価値を有するので流動性選好は高くなる。つまり物価が下がっているのであるから、貨幣を持っているだけで、貨幣の価値が高くなり、それを物に替えれば、物の価値はデフレによって下がるのだから損なのである。この辺りについては櫻川昌哉の『バブルの経済理論』(2021)が詳しく論じている。



 デフレにおいて、貨幣そのものがバブルとなっているので(バブルは不動産に限らない)、貨幣選好は著しく高いのである。ケインズは、流動性選好関数をL、利子率をr、貨幣量をMとするなら、
 
M=L(r)

として、貨幣量を利子率の関数として表すことができると述べる。
 つまり利子率が上がれば、人は手持ちの貨幣を手放そうとするので、市場に出回る貨幣量(M)は増える。逆に利子率が下がれば、人は手持ちの貨幣を手放す理由がなくなるので市場に出回る貨幣量は減少する。従って個人において流動性選好は、利子率の低下によって貨幣を手放さなくなり上昇する。
 ケインズは、貨幣保有の動機として、①個人の給与などの所得の受け取りと消費の間の橋渡しとしての所得動機、②企業における営業の費用と売上収入を受け取るまでの間の営業動機、③突然の出費に対応するための予備的動機、そして④タンス預金などに代表されるような投機動機を挙げる。デフレにおいては、物に投資をするよりも貨幣を保有していれば自然とその貨幣の価値が上がるのであるから、貨幣保有そのものが一種の投機となる。
 取引動機と予備的動機を満たす為に保有する現金量をM1とし、投機的動機を満たす為に保有する現金量をM2とする。この二つの現金量M1、M2にそれぞれの流動性関数L1、L2を対応させると、L1は所得水準Yに依存し、L2は現行利子率とその期待に依存する。従って
 
 M=M1+M2=L1(Y)+L2(r)
 
 ここで問題となるのは、①貨幣量(M)と所得(Y)そして利子率(r)との関係、②L1の形状を決めるもの。③L2の形状を決めるものである。
 
 貨幣量(M)の増加→利子率(r)低下→
投機的動機の為の現金M2の増加と利子率の低下による投資の増加による雇用量(N)の増加により所得(Y)が増加し、その増加した所得は、一部はM1に、一部はM2に吸収される。貨幣量の増加→利子率(r)の低下→投資の増加からの所得(Y)の増加、そしてこの一連の過程により景気の刺激を期待して行われているのが大雑把に言ってリフレ派の政策であったアベノミクスのゼロ金利政策の方向性である。しかし、利子率の低下は、投資誘因となる反面、流動性選好を高め家計の貯蓄や企業の内部留保といったM2におおかた吸収されて、消費の刺激へと繋がらずインフレ目標の達成を妨げる方向に動いているのが、畢竟、今の日本である。そもそも成長(g)への希望がなく、全てが未来の不安と暗い展望によって期待が形成される状況では、M1の増加、消費の刺激に繋がらないのであるから、アベノミクスは流動性選好を高めることと7000円代の株価を30000円代に押し上げるにとどまったのであった。
 
 ②Vを所得速度として、L1の形状を決めるのは、以下の数式となる。
 

L1(Y)=Y/V=M1
 
 
 ③L2の形状を決めるのものとして、ケインズは、利子率(r)の上昇がM2の減少となり、利子率の低下がM2の増加となって現れると述べる。利子率の上昇によって、M2を減少させて、貨幣を市場に出回らせて、インフレ圧を作り、デフレから抜け出ようとするのが新フィッシャー主義である。これについては、『バブルの経済理論』を下敷きにここで少し詳しく見ていく。
 新フィッシャー主義とは、現在のデフレを脱する為に、利上げ(金利を上げること)を主張する立場の人々のことを云う。そもそもケインズの理論においては、利下げによって、投資が拡大し、それにより雇用量が回復して、総需要が上がり、景気が回復するという論法が基本であった。しかし、低金利の水準が一定段階を超えた場合、それが消費性向を刺激することなく、消費のM1ではなく、M2(投機的現金)に回り、利下げの経済効果が消失する現象が起こる。これがいわゆるケインズの云う有名な「流動性の罠」である。日本において企業が、資金の内部留保を増加させ、家庭が貯金に資金を回しているという事実がまさに、この低金利が一定水準を超えた場合の、経済状態が流動性の罠に陥ったことを示している。こういう状況下で利下げでダメなら逆に利上げしてみてはどうかというのが大雑把に言えば、新フィッシャー主義である。しかし、そこにはきちんとした論理がある。その論理の前提となるのが、アメリカの経済学者アーヴィング・フィッシャー(1867~1947)のフィッシャー方程式である。



 もともとフィッシャー方程式とは、


名目金利=実質金利+期待インフレ率

名目金利とは、物価上昇率を加味しない利子率である。実質金利とは、名目利子率からインフレ率を除いた利子率である。
 伝統的には、人々が期待する期待インフレ率が、名目利子を決めると解釈し、これをフィッシャー効果と呼ぶ。しかし新フィッシャー主義は、逆に名目利子率が期待インフレ率に作用すると解釈する。
 例えば現在の名目利子率はゼロ金利政策によって0である。物価が下がっているデフレの状況では、実質利子率はプラスに転じているはずであり仮に2%とすると


0%(名目金利)=2%(実質金利)-2%(インフレ率)

 期待インフレ率は-2%であり、ゼロ金利政策は、デフレを助長するという結論に至る。もし実質利子率が2%ならば、期待インフレ率を2%にする為には、名目利子率は4%にならなければならないというのが新フィッシャー主義の考え方である。


2%=2%+0%(期待インフレ率)
4%=2%+2%(期待インフレ率)

 しかし金利を上げることで、期待インフレ率を上げることが本当にできるかとなると、ケインズの一般理論に反する部分もあるのでなかなかに信じ難いわけである。ゼロ金利政策から名目利子率をあげれば、まず国債の価格が下がり、利回りの良くなった国債に、市場の流動性選好による貨幣の投機的所有が暫時移行するはずである。国債に貨幣は吸収されて、貨幣現象としての貨幣のバブルであるデフレ現象は解消される。また利上げによって政府の利子の支払いは増加する。そこで中央銀行の貨幣の発行量が増えれば、貨幣現象としてのインフレが発生する。しかし、このような貨幣現象としてのデフレからインフレに移行した場合に、日本において景気が良くなるとは想像し難い。単純に貨幣への選好が、利回りの改善した国債への選好に取って代わっただけであるから。また利子率の上昇は、投資誘因においては、ケインズの理論に基づいてマイナスに働くことが明白である。つまりスタグフレーションの発生の可能性が考えられる。日銀が頑なに低金利政策を継続するのは、このスタグフレーションへの危惧であると考えられる。つまり需要や投資を刺激しない物価上昇としてのスタグフレーション。こう考えると新フィッシャー主義的、利上げによるインフレ誘導も、それほど希望が見えないということが分かる。しかしアベノミクス的低金利政策の継続も、ただただ流動性選好を高め、M2を積み上げる流動性の罠によるデフレを続けるのみなのは確かである。アベノミクスは、リフレ派と言われる人々の考え方をもとに進められた政策である。リフレ派とは、デフレーションとインフレーションの中間のデフレを抜け出たが、まだインフレーションには達していないという一番いい感じのリフレーション状態を目指そうとする金融政策である。しかしアベノミクスにおいてもデフレマインドの払拭はできず、期待インフレの醸成によるインフレ目標の2%は達成できず仕舞いであった。とは言え、現在コロナによる供給体制の劣化により、実体経済の現象としてインフレが現出している。しかしこれは消費性向の上昇による良いインフレではなく、悪いインフレであり、金融政策の成果によるところではない。そもそも金融政策自体が、クルマのマニュアルで言えば、5速とか6速などの馬力の少ないギアで動かなくなった車を動かそうとしているようなものなのである。停止している車を動かすには馬力の強い低速ギアを選択しなければならない。つまりリフレ派の現状の低金利政策も新フィッシャー主義的利上げ政策もどちらも馬力なきギアで停止した車を動かそうとしている点では、純理論的に愚劣であると論結できるわけである。なぜならM2に占める現金と国債の選好比率を変化させるのみであるから。つまりそれらはM1の増加には直結しないのである。かくてリフレ派も新フィッシャー主義も所詮、同断の袋小路に過ぎぬことが分かる
 利子率が実体経済に影響を及ぼすのは、利子率の変動による、企業における設備投資などの資本投下の条件を規定するからである。すなわち貨幣の利子率としての実質利子率が、資本の投資の利益よりも下回る限り、資本の投資はなされるが、それが等しくなる場合、もはやそれ以上の投資はなされない。


貨幣の実質利子率≧投資による利潤率


 しかしここで問題なのが、デフレの状態において、貨幣の利子率は、名目利子率がゼロであっても、物価の下落現象であるデフレが続く限り、+になるということである。家庭の貯金額の上昇(消費性向の減退)、企業の内部留保の上昇というM2の上昇は、低金利における流動性選好の罠にかかった状態であった。企業の投資率の減衰は、最終的に総需要の下落となって現れる。名目利子率をゼロ金利に抑えても、投資が進まず景気が回復しないのは、こうした仕組みによる。日本の現今のデフレ現象は、かくてケインズの一般理論でおおかた説明がつく。
 ケインズの一般理論において、その体系の独立変数は、消費性向(x)、資本の限界効率表(つまり産業資本の利潤率)、そして利子率(r)である。そして従属変数は、雇用量(N)と賃金単位で測った国民所得(Yw)である。大雑把に言ってケインズのシステムは以下の数式との睨めっこでしかない。

Φ(N)=x(N)+D2 

 言い換えれば

雇用量(N)の関数である総供給=雇用量の関数である消費性向(x)+投資額(D2)

投資額(D2)を決定するものとしては、資本の限界効率表(資本の利潤率)と利子率(r)である。

 また利子率は、

貨幣量(M)=M1+M2=L1(Y)+L2(r)

 政府の貨幣供給量(M)が利子率の水準をある程度決め、その利子率によって投資額(D2)が決定し、また他方でその利子率が家庭や企業のM2の増減を左右し、所得水準に依存するM1の量としての消費をも決定するのである。
 最後に我々はケインズのシステムにおける物価の決定に簡単に触れておこう。有効需要(D)は、産出量と価格に影響する。有効需要が増加しても、産出量が増えなければ、価格は上昇する。総需要が増加すれば、一部は雇用を増加させ、そして産出量の増加に繋がるが、一部は価格の上昇に導く。総需要が増加するにも関わらず、産出量が増えないという地点から先がインフレである。現在のコロナ禍における世界的なインフレ現象は、実体経済である供給体制がコロナの感染予防や感染のインパクトによって劣化し、その為に生じているものである。つまりそれは貨幣供給量の増加によって生じているものではない。
 ここまで駆け足でケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』を見てきたわけだが、ケインズの理論には限界があるのは明らかである。


 まずケインズの取り扱っているのが雇用の量(N)であって、雇用の質ではないことである。ケインズの理論において、目標となるのは完全雇用である。しかし完全雇用を目指そうとしても、消費性向によって、所得の全てが消費に回るわけではなく、一部が貯蓄に回る為に、完全雇用に至る前に体系の均衡水準に達してしまうので、それを補うのに政府による公共投資が求められるのであった。しかし、完全雇用の水準にたとえ達したとしても、雇用の質が不安定で劣下していれば、消費性向が高まることはない。賃金が安定して、未来に向かって上昇カーブを描くようなものでなければ、人の消費性向の低下は免れ得ない。ケインズの理論は雇用量を取り扱うが、雇用の質を取り扱わない以上、短期的な視点を脱し得ない。またそれは企業における資本の限界効率表を改善する技術革新や成長率に対する視点がない。成長の限界(辺境・余白)こそが資本投下の条件を決定する。ある程度成長をしきったような先進国の後期資本主義経済の体制下においては、言うまでもなく急激な成長は望み得ない。日本においてもIT革命以降、成長の余白がなくなりつつあることが、デフレ不況と相俟って、資本の限界効率表を悪化させ、人件費を抑える賃金上昇の抑止によって、からくも長くなだらかな下降線を維持しているのが現状である。成長率について論じるならばその提唱者であるシュンペーター(1883~1950)の『経済発展の理論』を論じるのが順番であるが、成長率(g)は詳しく論じる必要もないぐらい明白なもので割愛する。




 それは畢竟、技術革新による経済的な辺境(フロンティア)の発見に基づく。欧米ではそれがグリーンニューディールとして、温暖化対策などの技術に期待をかけられている(筆者は既に次にどこにその技術革新のフロンティアがあるかを突き止めている。それはグリーンニューディール政策をも包含する未曾有の地平である。しかしその地平を論じるのは遠隔透視論のところで予定しているので詳論を避ける)。ともかくケインズの体系において「雇用の質」と「成長率」の視点が欠けているところが、問題である。ケインズの一般論の結論は、完全雇用の水準に達する前に消費性向に基づく貯蓄行動によって減少した需要部分を、政府が乗数効果に基づく公共投資によって穴埋めしなくてはならないというものであった。ここから国民の消費性向の大小によってそれに均衡する政府の大小が決定することが分かるであろう。消費性向が旺盛な国民の下では政府は小さくてすむ。しかし消費性向が低い国民の下では大きな国家が必要である。つまり国家の大きさは、消費性向に依存するのである。とは言え消費性向を論じる上で、それは雇用量ばかりではなく、雇用の質も考慮にいれなくてはならない。雇用の質が劣化している場合に政府が企業に雇用の質を維持するよう強制できればこれに越したことはないが、それは資本主義の論理から言っても不可能であろう。するとケインズの方法論を雇用の質問題に応用すれば、雇用量を増加させ、完全雇用の水準近くまで上昇させる手段が公共投資であれば、雇用の質を高めることそのものを企業に全般的に委ねることが難しい以上、それを補填することこそが、戦略的な政府の経済政策ということになる。筆者が思うに消費性向の冷え込みは、将来への不安による。そしてそれを補填することができれば、それは国家の経済政策として経済への刺激対策となる。育児と老後、介護、この三つの不安が結局、消費性向を低下させるているのは明らかである。しかしヘリコプターマネーのようなものは、一時的な効果しかない。結局、かかった費用に対して政府が還付金として消費に回るように還元できるかというところが肝であると現在の筆者は考える。雇用の質の維持が不可能であるならば、その過半数以上が貧困化している中で、育児、老後、介護に対してより強い保障体制と未来は安心であるというメッセージが必要である。また子供も老人も要介護者も本人達は、還付されたものを有効に消費に回しえないというジレンマがあるので、そのサポート者である扶養家族である、育児をする夫婦、老人と同居する子供、介護者の家族への、費用をある一定額還付する還付金制度による消費性向の改善こそが恐らく景気回復を下支えする手段になると考える(しかしぶっちゃけこんなことは胡散臭いオカルティストの筆者が力こぶを作って力説することではない)。グローバリゼーションにおける乗数効果の怪しい中でMMT理論に基づいて公共投資を増加させても無駄である。しかし経済対策としては、子供、老人、要介護者の世話を焼く、現役世代の近親者への還付金制度の方が確実に実りあるだろう(それを貯金に回されたら元も子もないが)。
 前回の記事で我々は、MMTを理解し、通貨主権国家における赤字財政の必要性とその限界を理解した(はずである)。そして今回の記事では―恐らくヨーガなどのオカルティックな内容に興味があっても経済に疎い、スピリチュアリストの読者様におかれましては、この内容ついてきている人は皆無であろうが―ケインズの体系を通して、経済における肝要なる点は、消費者性向であり、それは雇用の量と雇用の質に依存するということ。繰り返しになるが金利政策におけるリフレ派や新フィッシャー主義の限界、それは高速ギアで車を発信させるようなものであること。つまり利子率(r)の調整による金融政策の限界。投資誘因である資本の限界効率は、最終的には成長率(g)に依存すること。資本主義体制において失業や雇用の質の劣化は、ある種必然であり、その限界を埋めるのが国家の役割であり、その国家の大きさを決定するのは、国民の消費性向であるということなどを我々は見てきた。現今の日本において、消費性向が低いのであるから、それに均衡する政府は、大きな政府である。乗数効果がグローバリゼーションの影響で低下している以上、旧来の公共投資の効果は薄い。また一時的なばらまきは効果が限定的であり、雇用の質の低下を補う政府の政策と、育児、老後、介護といった福祉政策の充実による貯蓄性向を下げる為の不安の解消、そして育児、介護を負担する当事者家庭の消費を促進する還付金制度の充実の必要性などをつらつらと述べてきた。根本的に成長率の基礎は、人口増加であるが、筆者は移民制度には反対である。とは言えオカルティストの筆者から言えば、それも他人事ではある。現在のオカルティストの筆者においては、『パーシュパタスートラ』の思想に顕著なより広範囲なカルマ論の経済学、カルマ資本主義の地平に目が向いている。遠隔透視が誰でもできるようになれば、勝義諦と世俗諦の間に第三の輪廻諦というものが認められるようになるであろう。結局、第三の輪廻諦の視点に立てば、吝嗇的な流動性選好による貨幣崇拝(拝金主義)と物神崇拝に基づく資本主義経済体制の根本的な見直しは不可避となる。つまり善悪のカルマの解消や消費、貯蓄といったカルマ資本主義的なものが、物質主義的な金勘定の経済学に優先するようになるのは必然なのである。かくて我々は21世紀から22世紀にかけて、賭けてもいいが、唯物論的資本主義の葬列を見ることになろう。
 
 


 
 参考文献
 
 
ケインズ 『雇用、利子および貨幣の一般理論』 間宮陽介訳 岩波書店
櫻川昌哉 『バブルの経済理論』 日本経済新聞出版
シュムペーター 『経済発展の理論』 塩野谷祐一 中山伊知郎 東畑精一訳 岩波書店