第4章 第19節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む
 


अनेन विधिना रुद्रसमीपं गत्वा ॥१९॥

 
anena vidhinaa rudrasamiipaM gatvaa ॥19॥

 
 
【この儀軌[1]により、ルドラ神の下[2]へと行きて、】
 
 
[1]vidhi、パーシュパタの定められた軽蔑探求行などの規則。
[2]samiipaは、「近く」という意味であり、ルドラ神に伺侯するということである。
 
 
 
 これまで述べてきたようなパーシュパタの生活規則に従うことで、ルドラ神の下へ向かうということである。全てのカルマを清算して、この世界の輪廻という重力から解放され、ルドラ神の下へとパーシュパタの修業者は向かうことになる。人々から軽蔑され尽くすことが、この世界からの解放条件であれば、SNS全盛時代の昨今、世界的に人々は、愛され、尊敬され、親しまれることを至上命題としているわけで、つまり解放条件と反対に皆が進んでいるということになろう、南無。

 前回、前々回と筆者は、自己のクンダリニー覚醒体験を機縁とし、覚醒とこの地球の輪廻システムからの解脱、そしてこの地球の輪廻システムへの参入目的について述べた。人生の一般的かつ根本的な哲学的問題である、「我々はどこからやって来て、どこに向かい、そして私とは何者であり、世界とは何であるのか」ということに微に入り細とはいかぬまでも、大まかに解答を提示し得たと、ここに至って筆者は考える次第である。


    しかしそこに人生の根本問題を哲学的に解決し得たという自惚れは一切ない。というのも、大上段に振りかぶって、人生の根本問題に解決を与えようとして力んで書いていたわけではなくして、単に自分のクンダリニー覚醒体験を面白おかしく興に乗って書いていたら、それに付随して知らず知らずに人生の根本問題に解答を提示していることに、後で気づいたに過ぎぬからである。かくて筆者の哲学的かつスピリチュアルな探求の第一章はここに幕を閉じたと言っていいだろう。よく冗談で、「これは序章に過ぎない」という言葉を使うことがあるのだが、自分の人生で、第一章は幕を閉じたなどという台詞を決めたのは今回が初めてである。というわけでこれからのこのブログは、スピリチュアルな内容は背景に退いて、ただひたすらに歴史と地理を扱った「歴史・地理ブログ」に変貌することになる。速やかに、或いは言わずとも、ここからは地図アレルギーの方や歴史に興味のない方、スピリチュアルな方面に興味関心が特化された方々とはお別れである。それでなくとも読者の乏しいブログである。これからは益々、読者から愛想を尽かされること必定であろう。文章も悪意的かつ邪悪なまでに改行もなき長文で読みにくいのはご存知のことだと思う。それというのも筆者は、長文スミマセンとか書いている奴で、これまで長文だった試しを知らず、長文スミマセン勢は、本当の長文とか多分読んだことないんだろうなと考えて、お手本として、筆者の如き、俺様の書くことはこれしきの長文如きでは全然済みません勢として、今まで書いてきたわけである。つまり何を言いたいかと言いますと、長文大変スンマセンですが、ここからは「歴史・地理ブログ」なので、かかる歴史と地理のお時間に興味関心なき愚物どもは、痛棒を喰らわされる前に、即刻、当山より立ち去るが宜しかろうということである。かくて、
 


これまでこのブログをご愛顧頂き誠にありがとうござました。筆者先生の戦いはこれからも続きますが、スピリチュアル勢の方々の益々の発展・覚醒・ご増長を心よりお祈り申し上げ、ここにいささか簡単ではございますが惜別の辞とさせていただきます。久立珍重。

 

    インドの歴史・地理大好き勢の我々の前には、インド亜大陸という、オリエンタリズムの総本山のような曖昧模糊かつ奇妙奇天烈奇怪なるその姿態が、そのマーヤーのヴェール越しに垣間見えている。しかし、その風土性、その特異な時間性が、我々に一個の謎としてインドを呈示するのである。その上で、我々の研究の射程は、中世インドにある。その時代はインド史においても、古代インド史、近現代インド史などよりもさらにその謎々性が増すところである。そこで我々はまずとりあえず、中世インド史を考察する上で、常に帰り来るロールプレイングゲームの最初の街や城といった、時空を越えた旅の起点の街を決めることからこの探究を始めたいと思う。思い浮かぶところでは、やはりシヴァ神の聖都ヴァーラーナスィーであろうか、或いは、現在の首都、往時のインドラプラスタことディッリーにすべきであろうか。それともマトゥラー?或いは意表を突いてインド亜大陸の心臓部、ナーグプル?当然のことながら、このインド歴史・地理ブログは、シヴァ教の歴史を繙くことを第一の目的としているので、シヴァ教の歴史における中心地を起点にするのが筋であろう。つまりパーシュパタの開祖ラクリーシャが1世紀にそこを闊歩し、4世紀に詩聖カーリダーサがそこで詩想を練り、5世紀に文法学者のバルトリハリがそこで瞑想したかも知れず、6世紀に仏教僧パラマールタが産声をあげた現在のウッジャインことウッジャイニーこそが、常に我々のインドの起点の街ということになる。かくして今回の記事では最初に我等が起点の街ウッジャイニーを様々な文献を通して、眼前に彷彿とさせる如く、とりあえずその特徴を抑えておくのをその探求の嚆矢にしようと思う。そして後半では大乗仏教の起源を辿る為の最初の考察を進めるのが今回の記事の内容である。



 以前の記事で、イエス・キリストがインドに来たことがあったのではないかという伝説を考察する為に、1世紀の東西交流史の重要な証言である『エリュトゥラー海案内記』を引用したのを覚えている方もいるであろう。1世紀当時、紅海、ペルシア湾、インド洋が海の道を通して繋がっていて、エジプトからインドへの航路が確立し、貿易が行われていたのであり、イエスことジョシュアがインドに来るのも確立した航路を使えば、特に難しいことではなかった。それが実際に歴史上あったかはともかくとして、玄奘三蔵が国禁を破って、唐の国からヴァルダナ朝が勢力を有するインドに渡るよりかは、難易度が遥かに低かったのは確かである。そうした1世紀の東西交流史の証言である『エリュトゥラー海案内記』(村川堅太郎訳)に、我々のウッジャイニーが、ギリシア人航海士の目を通してその姿を現している。本文は短いので、全文、引用する。
 

 
この地方には、そしてそれは東の方であるが、オゼーネー(ウッジャイニー)と呼ばれる市があり、其処には以前王宮もあった。此処からこの土地の繁栄に役立つものや、また我々の商売に向く品物が総てバリュガザ(バリュカッチャー、ナルマダー川の河口の街、現バルーチ)へと運び下ろされる。即ち縞瑪瑙や瑪瑙やインド産上質綿布やモロキナや多量のありふれた綿布。またプロクライス(プシュカラヴァティー、ガンダーラー国の首都、善県城)を通じて運び下ろされたナルドス(マグダラのマリアが最後の晩餐の前にキリストの足に塗ったナルドの香油の原料)、即ちカスパピュラ(カーシャパプラ、カシミールか?)のやパロパニソス(現ヒンドゥークシュ山脈)のやカブールのやまた隣のスキュティアーを通って来たのや、それからコストス(クシュタ、香料、薬)やブデルラ(インド没薬)が此処を通じて上方の地方から海岸へと運ばれる。


(ウッジャインのドゥワールカーディーシュ・ゴーパール寺院  筆者撮影)

 このように北道(ウッタラパタ)経由でやって来た様々な品物が、南道(ダクシナパタ)の経由地であるウッジャイニーに一度集積されて、そこからナルマダー川の河口の現在のバルーチに運ばれて、海外へと輸出されていたのであった。当然ながら品物は往来するものなので、海外から様々なものが輸入されていた。
 

 
この商業地(バリュガザ)には、葡萄酒、それは主としてイタリアの、またラーオディケイアー(現シリアのラタキア)のやアラビアの、また銅や錫や鉛、珊瑚やクリュソリトン 本物の衣服と混紡のもの各種、種々の糸を織り混ぜた一ペーキュス幅の帯、ステュラックス、メリロートン(花冠や香油や薬の原料)、未精製のガラス石、サンダラケー、スティーミ(粉末が眼薬になる)、この地方の貨幣と有利に交換される金、銀デーナーリウス貨幣、高価でおなく量も少しばかりの香油が輸入される。王にはその頃には高価な銀器や音楽の心得のある少年や後宮のための美しい処女や優秀な葡萄酒や混ぜ物のない高価な衣服やすぐれた香油が運び込まれた。


 このようにヨーロッパや中東の奢侈品がエリュトゥラー海経由でインドに輸入されていたのであり、こうした輸入品もまたウッジャイニーに豊富に入ってきていたと考えられる。ウッジャイニーは当時交易の要衝であったことが以上の文章から伺える。当時のウッジャイニーは、サカ(塞)族が南下して建国した西クシャトラパ王国(35~415)の時代であった。知られている最初のクシャトラパはアビラカ(1世紀初頭)である。

(アビラカのコイン)

     彼の王朝は、クシャハラータ朝と呼ばれ、次代がブーマカ、その息子がナハパーナ(~70頃)であった。ナハパーナの義理の息子のウシャヴァダータは、ナーシクの仏教石窟寺院に莫大な布施をしたことで知られ、ウシャヴァダータのナーシク碑文にそのことが記されている。しかし最終的にサータヴァーハナ朝の英主ガウタミープトラ・シャータカルニ(~87)にクシャハラータ朝は敗北し、ウッジャイニーもサータヴァハナ朝の支配下に入る。

(ナハパーナのコイン)

    しかしナハパーナと縁戚のチャシタナ(78~130)がマハークシャトラパとなりバードラムカス朝を興し、息子のルドラダーマン(在位130~150)と共同統治を行い、勢いを盛り返す。ルドラダーマンは、自分の娘をサータヴァーハナ朝のガウタミープトラ・シャータカルニ(在位~87)の息子のヴァーシシティープトラ・シュリー・シャータカルニ(在位87~115)に嫁がせて、姻戚関係を結び、ついには対立したサータヴァーハナ朝を攻撃して、打ち破ることに成功する。簡単に言うと西クシャトラパとサータヴァーハナ朝の争いは、現マディヤ・プラデーシュの中央インド、マールワー地方とデカン高原に位置する現在のマハーラーシュトラ州の王権との争いであったわけであり、現代の代表的な宗教都市でイメージを代理すれば、それはウッジャインとナーシクの争いであった。

(ウッジャイン  筆者撮影)

(ナーシク  筆者撮影)

    このように紀元1世紀の交易で潤い、巨万の富を集積する西クシャトラパの総督が治める頃のウッジャイニーに一人の奇怪な人物が徒歩でやって来たと考えられている。その人こそがパーシュパタの開祖ラクリーシャである。以前、筆者が翻訳し記事にしたものから再掲する。


मनुष्यरूपी भगवान्ब्राह्माणकायमास्थाय कायावतरणेऽवतीर्णेति । तथा पद्भ्यामुज्जयिनीं प्राप्तः ।

人の姿のバガヴァット(神)は、ブラーフマナの身体に化生して、カーヤーヴァタラナに下降したと云う、かくして徒歩でウッジャイニーに来たのである。『パーシュパタ・スートラ   カウンディニヤ註』より


(エローラ石窟寺院のラクリーシャ  筆者撮影)

 その頃、北西インドでは、中国の歴史書で云う大月氏、クシャーナ族のクシャーナ朝がその帝国の版図を広げようとしていた。ウッジャイニーを中心とするマールワー地方では、サカ(塞)族のクシャトラパがその北からのクシャーナ族の圧迫によって南化し、その勢力を広げていった。その当時のウッジャイニーは、上記の如く東西交流の交易の中継地かつ、富の集積地であり、インド有数の都市であった。そうしたあらゆる欲望の渦巻く大都市に、塗灰したラクリーシャは灼熱の大地を徒歩でカーヤーヴァタラナからやって来たのである。そこには既にマハーカーラ寺院の原型となる聖地が存在していたはずである。『パーシュパタ・スートラ』でも、リンガに捧げられた花環のお下がりで身を飾り、聖域に住むことが規定されている。ラクリーシャを引き付けたのは、ウッジャインの聖性、聖域であったはずである。4世紀のカーリダーサは、マハーカーラ寺院付きの巫女をヴェーシャー(遊女)と呼んでいた。このようなヴェーシャーが寺院付きでその存在を許されるためには、その教義は、ラクリーシャのパーシュパタの清教徒的な禁欲主義よりもっと寛容なものでなければならない。パーシュパタは、文法学者のパタンジャリが、シヴァ・バーガヴァタと呼んだ一般的なシヴァ崇拝者とは一線を画する。それはある種、一般的なシヴァ教崇拝に一石を投じる当時の宗教改革的な運動であったと想像される。かくて、甍を争う大都市にラクリーシャが現れて、現代のハイラーカーン・バーバーや、ニーブ・カラウリー・バーバー、ソームバーリー・バーバーなどが見せた奇跡と同じようなマーヤー劇をそこに展開したと考えられる。その時代は、イスラエルの地でキリストが現れた時代でもあり、大乗仏教が登場した時代でもあった。『パーシュパタ・スートラ』の第一章は、唯物論的な現代人の視点では荒唐無稽な奇跡の羅列である。遠隔透視、三世を見通す全知、望む姿をとり、あらゆる場所に出現することなど。こうした奇跡を顕示しながら、ウッジャイニーのブラーフマナの子弟達を集め、そこからパーシュパタと呼ばれるアティ・マールガの流れが大都市ウッジャイニーより生じたのであった。
    禁欲主義者のパーシュパタの本拠地となったウッジャイニーは、また別の面から言えば依然として享楽の街でああり続けた。そしてかかる都市の相貌をその美と共に不朽のものとした4世紀の詩聖はウッジャイニー出身の王をかく歌う。



長い腕を持ち、幅広い胸を持ち、すんなりと丸い腰を所有する、かのアヴァンティの支配者は、トヴァストリによって砥石の旋回輪に当てがわれて後、その努力に共に磨かれた太陽のように見えました。(32)
 
マハーカーラが住居である月の冠を持つものから程遠くない所に住んでいる彼は、最愛なる妻らと共に暗闇の二週間においてさえも、月光の日暮れを楽しみます。(34)
 
栽培樹のような腿を所有するもの(女)よ、シプラー河の漣(さざなみ)からのそよ風によって揺られた庭園の並木の中で、この若い大地の統治者と共に戯れ遊ぶために、貴方の心の欲求がありますように。(35)
 
カーリダーサ著『ラグフヴァンシャ』 野部了衆訳

(ウッジャインのカーラ・バイラヴァ寺院近郊  筆者撮影)

    1世紀から4世紀にかけて、ウッジャインの支配者は主に前述のサカ(塞)族であった。しかしその勢力が衰え始めるとマールワー族が台頭して、4世紀から6世紀にかけて、マールワーの統治者として現れる。それがアウリカラー朝(4世紀~550)である。アウリカラー朝の時代は、グプタ朝の版図拡大の時期であり、アウリカラーの王は、グプタ王朝に臣従し、西クシャトラパへの共同戦線の中で王権を確立していったと考えられる。アウリカラー朝の首都は、ダシャプラこと現在のマディヤ・プラデーシュ州のマンダサウルであり、そこはグプタ朝の第二首都となるウッジャインから約150キロの距離である。


    その王統は、マンダサウルに本拠を有する第一王家のヴァルマン家が①ジャヤヴァルマン(在位~380年頃)②シンハヴァルマン(在位~400)③ナラヴァルマン(在位circa400~417)④ヴィシュヴァヴァルマン(circa431)⑤バンドゥヴァルマン(circa436)⑥プラバーカラヴァルマン(467)と続くが、プラバーカラヴァルマンを最後に王権は、マンダサウルのリースタルで1983年に発見されたリースタル碑文に記載されているリースタルに本拠を有するヴァルダナ王家に移る。ヴァルダナ家の系譜は①ドラパヴァルダナ(400~)②ジャヤヴァルダナ③アジタヴァルダナ④聖学(シュルタ)と寂静(ヴィヴィクタ)に心を向け、有徳有力、顕名のヴィビシャーナヴァルダナ⑤ラージャヴァルダナ⑥プラカーシャダルマン(~520)と続く。西クシャトラパ朝が、マールワー族のアウリカラー朝と共同するグプタ朝によって駆逐され、ウッジャイニーはグプタ朝の第二首都となる。一般にカーリダーサはチャンドラグプタⅡ世の宮廷詩人とされている。グプタ朝支配のウッジャイニーの様子は、カーリダーサの詩集『雲の使者』(木村秀雄訳)に見ることができる。



北方に向かって居る卿(おんみ)には道は遠廻るといへども、ウッジャイニーの白亜の宮殿の階上を楽しむのをさけるなよ、かしこでは、都の女らの瞳が雷光の索く筋のきらめきにおののきて眼の縁を震はせるのをたのしまなければ、汝は騙されることになるから。(27)
 

ウダヤナの物語をよく知れる村里の古老の居るアヴァンティに到り着いてのち、汝は往けよ、善行の果報の尽きがてとなりし時に、地上に降りきたりし天人らの残余功徳によってもたらされし天界の輝く一角に似し隆盛に館邸の多き、さきに告げし都ヴィシャーラに。(30)

(ウッジャイン  筆者撮影)


(チャンドラグプタⅡ世のコイン)

    『雲の使者』のダンダカーラニヤのラーマギリに流罪となったヤクシャスは、流れ行く雲に向かってウッジャイニーの都の壮麗なる白亜の宮殿の階上に登り、ウッジャイニーの都女達の美しい瞳の縁の雷におののき震えるのを楽しむために遠回りでも行けと勧めるのであった。上空から地上を眺めれば、天界から堕天した天人達の残余の功徳によって建てられた殷賑、隆盛を極めるチャンドラグプタⅡ世のグプタ帝国の第二の首都であるウッジャイニーの広大な軒並みの連続が足元に見えるだろうと。続けて、カーリダーサは、


かしこでは、朝明けごとに、サーラサ鳥らの欲情の酔ひに甘く声さだかならぬ高鳴く音をシプラー河の風は伝へつつ、咲きしカマラの花の香に親しみ会ひて聲たち、身にはここちよくして、女らのくながひによる疲れをとりやる、あたかも最愛の男が求めたるためにやさしく媚び言ふがごとくに。(31)
 
格子窓より発ちくる髪を結ひ粧く香料の気によって躯は肥り、家飼孔雀より友の愛情をもって舞を贈ものとして与へられて、汝は旅路の疲れをやれよ、かの(都)の艶美しき女らの足に彩きし色赤きが跡をつけし、花にかぐはわしき宮殿の輝やきをながめつつ。(32)


(バルトリハリ洞窟からのシプラー川の眺望 筆者撮影)

(シプラー川  筆者撮影)

    帝城の北西を流れるシプラー河は、朝焼けの中で、サーラサ鳥の欲情の甘い高鳴る声を響かせつつ、そよ風は帝都の夜の交情の残り火に戯れるが如く、満都をカマラの花の香で馥郁と芳す。そして朝日は花々の咲き誇る宮殿を光明で照らすのである。当時のシプラー河のガートでは、全身に塗灰したパーシュパタの徒がある者は轟然と空を見上げ、ある者は俯きながらマントラを低誦しながら歩むのが見えただろう。それは欲情を刺激する女達を見ぬ為でもある。カーリダーサは次に、当時のマハーカーラ寺院に目を向ける。

 
主の首の輝きを持って居るが故に、ガナたちの敬ひをもって仰ぎ見られながら、チャンディーの主神なる三界の師主の神聖なる住居に汝は往けよ、そのみ園はクヴァラヤの花粉の香をもち、水遊びにうつつなる若き女らの水浴によっていとも馨れるガンダヴァティーの風によって吹かれる。(33)
 
水持つ者よ、やがての時に、マハーカーラに到り着きても、日輪が視界を越え去るまでは汝は待つべきである、三叉戟持つ者への夕刻の供養の太鼓を殊勝に勤めるとき、やや声たかくここちよき雷鳴のなべての果報を汝は得るであらう。(34)
 
かしこでは、足をふむにつれて腰の飾り帯はチロチロと鳴り、宝石の光彩をちりばめし柄のあるチャーマラを艶やかに扇いで手の疲れし宮守女(ヴェーシャー)らは爪跡にここちよき雨の初の玉水を汝より得て、蜜作蜂の列のごとくに長き横目を汝に放つ。(35)
 
そののちに、新たなるジャパーの花のごとくに赤き夕べの光を着け、腕なる高き樹の森に輪をなしてまとひつきて、舞踏の始まるときの獣主(パシュパティ)が血ぬれし象の皮を欲するのを鎮め去れよ、おののきが鎮静されて眼を動かさずバヴァニーがみとめてくるる崇信をもって。(36)


(マハーカーラ・ジョーティルリンガ寺院  筆者撮影)

    今も昔もウッジャインの街の中心にはマハーカーラの厳かなる天祀が鎮座する。筆者も何度かその広大な十二のジョーテイル・リンガの一つである寺院に参拝しているが、そこに参拝しようとするカーリダーサ時代の女達は、クヴァラヤの香を纏いながらガンダヴァティーの川で沐浴を行い、そこをゆったりと午後の物憂い日差しに輝く川の風が吹きすぎてゆくのであった。夕刻の祈りが、マハーカーラの寺院で始まろうとするや、雷鳴が太鼓の如く鳴り響く。またヴェーシャー(遊女でもある巫女)が宝石の散りばめたチェーマラで扇ぐ手を休める。雲は雷鳴を轟かせて、パシュパティが象の皮を被り舞踏するかの如く、雨脚と共に、ウッジャインの壮麗際だかなるグプタ朝の第二の首都を雨で濡らす。続けてカーリダーサは、


かしこでは、夜を、針のみが刺しぬきうる暗黒によって視界を礙へらるる大通りのへを愛する男の家に往く女らがために、試金石のへの黄金の筋のごとくにきらめく雷光によって、路を明らせ示せよ、雨水で轟音をたてるなよ、恐じるから。(37)
 
その夜は、某所かの家鳩の熟睡する邸宅の屋上に、長き閃光に疲れたる稲妻なる妻と共に過ごしてのち、太陽の昇る時、残る旅路をさらにまた卿は越えゆかねばならない、友どものために目的をなすことを約したる者らはげにも遅れない。(38)
 
その頃は、あざむかれし女らの涙を愛人の男らが鎮めやらねばならない、それで、汝は太陽の道を早く去れよ、彼もまた、ナリニーの花の顔より露の涙をのごひはらふのに帰ってくるので、汝が光を手をさへぎるときは、いとどにも怒るであらうに。(38)



    マハーカーラの夜が来ると、一帯は歓楽、官能の闇が雨の匂いと共に立ち込めて、愛する男のもとへと行く女達を怖じけづかせぬように、雨はやまねばならぬのであった。帝都の家鳩の憩うどこか一軒の屋根の上で、稲妻を轟かせながら停雲となって、四界を間歇的な光で照らしながら、ヤクシャスの使者である雲は眠る。かくて朝と共に太陽の道を、雲は遠い絶巓のヒマーラヤを目指し先を急ぐのである。

(ゴームクの眺望  筆者撮影)

 ここで煌びやかなウッジャイニーから一旦目を転じて、今後、インドの地理的な把握に役に立つかもしれないので、カーリダーサの『雲の使者』に登場する土地を地理的に確認しておきたい。



1)ラーマギリ。ジャナカの娘(ラーマの妃シータのこと)の浄めの沐浴によって神聖となり水のある、樹樹の蔭うるみふかきラーマギリと言われる。一般的にはナーグプルのラムテークであろうと言われるが、次のアームラクータとの位置関係の描写から云うとラーマギリは、パラシュラーマが隠棲したという伝説の残るマヘーンドラギリ山からやや西方のアウディシャー州コーラプト県の辺りであろうと筆者は考える。大まかに云うと、ラーマギリは、ラーマが十二年の放浪生活を送ったダンダカ・アラニヤ(ダンダカの森)のどこかであり、それは広大な地域になる。その中で、次のアームクータ山は、ラーマギリの北西にあるとカーリダーサは述べている。因みにラームテークからだと、アームラクータ山は、北東なのでカーリダーサの描写と矛盾する。



2)アームラークータ山。現アマルカンタク。ここがナルマダー川の源流であり、聖地である。筆者が次にインドに行く機会があれば、ここには必ず行ってみたいと考えている。
3)ダシャールナの国の都ヴィデシャー。近くに有名なサーンチー・ストゥーパがある。
4)ウッジャイニー。
5)デーヴァギリ。スカンダ神の聖地。詳細不明。ウッジャンの西を流れるガンビーラー川とさらに西を流れるチャンバル川の間のどこかの丘か山であるが、Google earthで観てもそれらしき丘陵を確認できず。
6)ダシャプラ。現マンダサウル。当時のアウリカラー朝の都。
7)ブラフマーヴァルタ国。クルクシェートラ。
8)カナカラ。ハリドワール付近。
9)ヒマーラヤ。
10)カイラーサ山。
 

 『雲の使者』のルートは、ヴィンディヤ山脈の南側の東部から、ナルマダー河の源流のアマルカンタクに到り、そこから西行してウッジャイニーに到り、さらに北上してクルクシェートラに行き、そこから東行してヒマーラヤの玄関口ハリドワールに行き、ヒマーラヤの奥地に進んで、カイラース山に至るというのがそのルートである。


 次に時代はチャンドラグプタの時代から約50年後くらいの人と目されるバルトリハリの時代に移行する。バルトリハリの年代については、問題があって、まず7世紀の中国人僧侶義浄の『南海寄帰内法伝』に、彼は、『ヴィジュナプティマートラー・シッディ(成唯識論)』の著者ダルマパーラ(護法、530~561)と同時代の人であり、亡くなったのは『南海寄帰内法伝』の記述時点から40年前(647頃)と述べている。義浄によれば、「バルトリハリの(名声の)響きは、五天(竺の全土)を振るわせ、徳も八極に流れている」と述べられ、「勝法を希って出家したものの。纏染に恋しては、便ち俗となってしまう。斯の往復は七を数えた」と云われ、その名声はインド全土に広がっていたが、聖と俗を行き来すること7度の優柔不断さを発揮したのであった。しかし、この年代には問題があって、バルトリハリが既にディグナーガ(陳那、480~540)に知られていたことから、この義浄の年代が正確ではないと言われている。因みに玄奘三蔵の『大唐西域記』には、ディグナーガが、現在のアーンドラ・プラデーシュ州の第二の大都市ヴィジャヤワーダーから北東に70キロの当時のヴィシュヌクンディナ朝時代の首都ヴェーンギーの近くの離れ山で因明論を書いたことと、デカン高原の有名なアジャンターの石窟寺院にしばしば滞在していたことが述べられている。玄奘はおおよそディグナーガの死去後、100年の人であるから、それなりにこの玄奘の証言には信憑性があると考えられる。ディグナーガは犢子部で出家したと言われる。犢子部は、初めコーシャンビー(現ウッタル・プラデーシュ州カウシャーンビー県)の比丘達の間で生まれ、後に法上・賢胄・正量・密林山の四部に分かれた。賢胄はナーシク、法上はジュンナール(プネーとナーシクの中間辺り)、密林山部は、静谷正雄によればヴィンディヤー山脈付近とされる。正量部は、ウッジャイニーを中心とするマールワー地方に広まっていた。このように犢子部系は、大まかにプラヤーグラージ付近のガンガーから西の領域にマールワーを経由して、デカン高原へと広がっていたのであった。ディグナーガがしばしばアジャンターに滞在したというのも、こうした縁故関係による可能性も考えられよう。正量部の中心地であったマールワー地方は、アジャンターとも近いので、バリトリハリの著作は、ナーランダー僧院経由でディグナーガに伝わったと考えるのが一般であるが、マールワー地方からデカン高原のルートで、出家初期のディグナーガに伝わった可能性も考えられる。ディグナーガは、ナーランダー僧院の有相唯識の流れに位置づけられるが、アジャンター石窟寺院やヴェンギーと言ったヴィンディヤー山脈の南とも関係付けられるので、彼の活躍の場は、この三点を結ぶ地域を行き来して形成されたものと見做すべきであろう。

(ディグナーガ三角形)

(玄奘によればディグナーガがしばしば滞在したアジャンター石窟寺院  筆者撮影)

 バルトリハリは、ディグナーガより一世代上に当たると想定されるので、450年~510年ぐらいの人と見なしうる。このバルトリハリの年代から云うと義浄のバルトリハリの死去年の記述の、40年前という記述は、安直に140年前ぐらいに訂正されなくてはならないだろう。しかしバルトリハリが、義浄の言う通りダルマパーラ(530~561)と同時代人とすれば、もう少し長生きで約460年~約540年ぐらいに余裕を持った設定にしておいた方がよいかもしれない。
 次にバルトリハリの活躍の場であるが、これは明白な記述がほとんどない。伝説ではバルトリハリはウッジャインの王として登場するが、これは伝説の域を出ないと一般的に考えられている。しかし火のないところに煙りは立たないという考えを援用すれば、どうもアヴァンティ、マールワー地方周辺で活躍した可能性が考えられるので、その線で検討していくことにしたい。まず中村元の『ことばの形而上学』に『ヴァーキヤパディーヤ』にいつ附せられたか不明の奥書として以下の記述があるとして註に述べられている。

इति महावैयाकरण महाकवि महायोगि महाराजावन्तीश्वर
श्री भर्तृहरिविरचितं वाक्यपदीयम्

マハーヴァイヤーカラナ(偉大な文法家)・マハーカヴィ(偉大な詩人)・マハーヨーギ(偉大なヨーギン)・マハーラージャ(偉大な王)・アヴァンティーシュヴァラ(アヴァンティの支配者)・シュリー・バルトリハリが書いたと云われる『ヴァーキヤ・パディーヤ』。
 
 
 ある時代において、バルトリハリは以上の肩書を持つ人と信じられていたのである。『ヴァーキヤ・パディーヤ』を読めば、偉大な文法家であり、恐らく偉大なヨーギンであったことは確認できる。偉大な詩人であったかは、義浄がバルトリハリの詩としてその詩を『南海帰寄内法伝』に引用していることから、現存のバルトリハリの詩集がバルトリハリのものか、筆者は全く研究していないので、安易に断言はできないが、バルトリハリ死去150年後の異国の仏法僧に既にバルトリハリが詩人であったことが認知されているので、偉大な詩人であったのも確かであろう。すると残りは、マハーラージャであり、アヴァンティの支配者であったかということになる。結論から申し上げると、筆者の苦虫を噛み締めたような感想しか出てこない探究の果てに、どうやらバルトリハリは、アウリカラー朝のヴァルダナ王家のヴィビーシャナヴァルダナ王(460~480)である可能性が否定しがたく浮上してきたのである。余りにも探究結果が出来過ぎているし、そんなにうまくいくはずないだろう、と何度も考えたのだが、どうもその可能性が少なからず高いのである。この結論が無理矢理の筆者のこじつけかは、これから述べるところで読者諸賢の判断を仰ぐより他ない。
 実際のバルトリハリが王であったか否かを考える上で、伝説や説話上のバルトリハリの人物像との区別は重要である。確認として、伝説・説話において、バルトリハリは王であったと信じられており、これまた同じく伝説のヴィクラマ・アーディティヤ王の兄と見做されている。ヴィクラマ・アーディティヤ王は、もとは紀元前にサカ族を破ったウッジャインの王がモデルであるとされる。しかしその後、同名の称号をグプタ朝のチャンドラグプタⅡなども、モデルにあやかる為にか、ヴィクラマ・アーディティヤを名乗り始めてさらに混同が進み、伝説化はますます進行する。また物語の『ヴェーターラパンチャヴィンシャティカー(屍鬼二十五話)』の幾つかの諸本では、主人公となっている。


    物語の中では弟のヴィクラマ・アーディティヤ王が様々な王の複合的な要素を取り込み、王としてのイメージが肥大化し理想化された人物と見做されているように、バルトリハリの人物像も、ナート派では九人のナートのグルの一人とされ、伝説、説話の語り手と聴衆に、ナート派のバルトリハリと文法家のバルトリハリがどのくらい混合され、ごっちゃとなり、或いは区別されていたかは、不明であるが、ヴィクラマ・アーディティヤ王同様に理想化され肥大化した複合的な人物としてのバルトリハリ像が存在するのは事実である。その中で、前述の奥書のバルトリハリの記述は、半分以上が既述の如く正確であったから、残りの大王(マハーラージャ)であり、アヴァンティの支配者であるというのも、やや可能性として事実を反映していることが予想されるわけである。
 次に最近バルトリハリの翻訳をコツコツと行っている筆者の視点から、バルトリハリの人間性に迫りたい。まずバルトリハリの特徴として、そのスポータ説などに代表されるように、物事をその示差性よりも、示共性から捉える特性が窺える。人が物事を捉える上で、その差異により着目するのか、共通性により着目するのかは、二つの着眼点におけるタイプ的相違と言ってよい。AとBに若干の差異があり、多くの共通性がある時に、若干の差異に着目して、だからAとBは違うものであると捉えるか、より多くの共通性からAとBは大まかに言って限りなく等しいと考えるかは、その人の思考の型による。日常的なレベルでは前者は、鋭敏だが、細かい奴と言われるだろうし、後者は、大雑把な奴と見做されるだろう。バルトリハリは、文法学者としては非常に細やかで区別に鋭敏だが、形而上学的な視点からは、ヴェーダーンタ的な観点によって後者となる。彼は、畢竟、全てはスポータとしてのシャブダ(語)であり、ブラフマンに帰するという観点に立っていた。ここから文法学的な箇所の微に入り細に渡る細やかさとは、裏腹に、形而上学的観点における『ヴァーキヤ・パディーヤ』の、ひいてはバルトリハリの「おおらかさ」が見られるのである。また、様々な学派や議論が対立するようなところで、Aという見方もあれば、Bという見方もあるというように、ある種、二律背反的な議論においては、一方にあまり偏ることもなく、不偏不党的な中立的とも取れる態度が散見される。こうした態度は、筆者には摩崖法勅におけるアショーカ王の態度と共通するものが感じられるのである。
 
〔宗派の〕本質の増進は多様であるが、その根本はこれ、すなわち不適当な機会に、自己の宗派を称楊し、他の宗派を非難することなからしめ、それぞれの機会に、温和ならしめるための、言葉の抑制である。『アショーカ王碑文』塚本啓祥訳
 
 
 これは大王の前でやれA派は最高でB派は劣る、いやいやB派こそ最高でA派は愚劣である等と無意味な議論を繰り返して、争ったりしないで、言葉を抑制し、大王や人民を困らせるなというアショーカ王の法勅である。これは議論に参加している議論好きな人間の視点ではなく、それを裁定しなくてはならない上位の審判者、判定者としての立場をよく表している。バルトリハリにもこういう判定者的な視点が導入されていて、いくら議論しても無駄であるという主旨の発言がよく見られる。こうした物事の捉え方の相対主義的態度には、ジャイナ教のナラ説の影響を見ることもできるだろう。彼が、ジャイナ教のウマースヴァーティの『タットヴァールタ・スートラ』を知っていたのは事実である。ジャイナ教は、物事のダルマは、様々な面があって一様に決定できないという相対主義的、不定主義的立場を取る。ウマースヴァーティは、「実在の理解はプラマーナとナヤによる」(宇野智行訳)と述べている。事物を一面的に捉えることがナヤである。ジャイナ教において様々なナヤによって事物の認識は相対的に捉えられるとするのである。バルトリハリの認識論における、推論や言説に対する解釈は、ナヤ的な捉え方と類似する。このような相対主義的な物の見方が、バルトリハリに強弁的な態度を排除させる。本来であれば、ある派閥に加わって、その自派の正統性を強調し、他派が劣ることを証明しつつ、インドの論壇に華々しくデビューして、自らの名を高めてやろうというのが、通常一般の学者の態度であろう。したがってそうした人は力こぶを作り、自己の正統性を強調し、他者の間違いを批判し、論破しようと必死になるものである。それに成功すれば名声が待っているわけであるから。しかしバルトリハリにはそういう才気走ったある種、議論に汲々とする論破王的態度があまりない。どこまでも相対主義的であり、審判的である。王様は、当然どちらかに組すれば、一方に恨まれる危険もあるし、公平性が保たれないから、どうしてもアショーカ王の法勅的な態度を思想的に取らざるを得ない。そのような王者的な態度が、バルトリハリの論考には見られる。議論によって自らの名前をインド中に鳴り響かせてやろうという必死さが他の論者に比して少なく、バルトリハリにおいて、「おおらかさ」、「鷹揚さ」が観察され、それらが「公平な審判官」的態度として現れているのである。ここから推測できるバルトリハリの人物像は、非常に頭は良かったが、育ちがいいのか、あまり論敵を叩き潰して名を成そうという論破厨のような成り上がり者的態度の不足である。ここに筆者はバルトリハリの「王者」的気風を見る。かくてこれは今風にいえば、筆者の感想に過ぎないわけだが、バルトリハリは、文法学者としては鋭敏で緻密だが、形而上学者としては鷹揚で、他派に対する態度には、寛容な育ちの良さが出ていると思われるのである。人としての印象としてのバルトリハリは、卑しさがなく性格的に王様っぽいのである。しかしこれも印象に過ぎないから、ここからバルトリハリは王様であったという結論にはならないだろう。