第3章 第11節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む

परेतवच्चरेत ॥११॥


pretavaccaret ॥11॥
 
 
【悪霊の如く[1]遊行すべきである[2]。】
 
 
 
[1]pretavacは、pretavatのcaretとの連声での変化である。pretaは「死者の霊、悪霊」という意味であり、vatは所属を表す接尾辞である。「悪霊のように」ということである。
[2]caretは、動詞car(行く、動く、歩く、遊行する)の三人称単数願望形、「遊行すべし」という意味である。 
 第二ステージに達した獣主派の修業者は、追い払らわれた悪しき者として、非難されつつ悪業を彼らに与え、善行を彼らより受け取り、悪霊のように遊行すべきとされる。彼は世間の人々から見れば蔑まれた悪しき存在としか映らない。これはシヴァ神を模倣しているとも言える。シヴァ神は、義父である聖仙ダクシャの前では墓場をさ迷う悪しき者、アルジュナの前では礼儀知らずの田舎っぺ大将キラータ(狩人)、アーディ・シャンカラ・チャーリヤの前では不可触賎民の姿で現れたのであった。全ての虐げられた者と共にあって、シヴァ神は高慢な者の鼻をへし折るのを常とする。
 
 前回の記事まで二元論のマーヤーについて集中して研究して疲れたので、今回は少しリフレッシュを兼ねてあまり深刻でない内容を取り扱いたいと思う。キリストについてこれまで触れる機会が多かったので、まことしやかにインドで語られる、キリストのインド来訪について見て行きたい。ヨーガーナンダは、その著書である『人間の永遠の探求』でかく語る。
 

イエスの教えが、ヨーガやヴェーダーンタの教義によく似ているということは、イエスが聖書に記されていない十二歳から三十歳までの間のうちの十五年間をインドで過ごし、そこで学んだ、というインドに遺された記録を裏書きしているように見えます。イエスは、自分が生まれたとき、自分に敬意を表すために訪ねてきた三人の東の国の賢者を答礼の目的で訪ねるためにインドへ旅に出かけました。(P285 ヨーガーナンダ『人間の永遠の探求』SRF会員訳? 森北出版)
 
 
 ヨーガーナンダはヨーガの達人であっても、大学者や全知のマスターというわけではないので、その言葉を簡単に鵜呑みにするわけにはいかないが、彼によれば、キリストは自分が生まれた時に東方からやってきた三博士の答礼を目的に、若い頃にインドに出かけたのだと言う。東方の三博士は、通俗的にはペルシアの学者であるメルキオール、インドの学者であるカスパール、バビロニアの学者であるバルタザールであると言われている。ヨーガーナンダの説を鵜呑みにすれば、キリストはこの三人の答礼を目的にバビロニア、ペルシア、インドを訪問したことになる。この三博士の訪問を『マタイによる福音書』から引用する。
 

 
イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。……彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
 

 もし仮にこの『マタイによる福音書』の内容が真実ならば、ただ星のお告げで好奇心から三博士がキリストを見に遠路はるばるやって来て、キリストを見終わったら満足してそのまま帰ったとは考えにくいであろう。彼らは大きくなったら自分達の下に学びに来なさいとか、或はキリストの成長を見守るという意味で大工のヨセフとマリアの夫婦と連絡が取れるようにしておいたぐらいに考えるべきであろう。キリストも当然、自分が生まれた時に祝福にやってきた東方の博士達のことを両親から語りきかせられて育ったことは想像に難くない。そしてその物語を聞くうちに幼な心に東方の三博士に会いに行こうという冒険心が芽生えもしたであろう。時代は違うとは言え、筆者でさえ16才で一人でインドに行ったのだから、キリストが16才でインドに向かうのも別に不思議ではない。しかし一般的な現代人の感覚として、今は飛行機があるから、金さえあればインドまで簡単に行けるが、キリストの時代にインドに行くことなど無理ゲーだろうと感じる読者も多かろう。しかし当時、1世紀の状況は決してそれが無理でないことを証している。紀元40~70年ぐらいの著述とされるギリシア人船乗りによる『エリュトゥラー海案内記』を引用する。
 
 
カナとアラビアのエウダイモンから、彼らは小さな舟を作り、湾岸沿いを航行したのだった。そして航海者のヒッパルスは、港の位置と海の状況を観察することによって、最初に大洋を真っ直ぐに進む方法を発見した。エテジアンの風(地中海の季節風)が吹くのと同じ時期に、インドの海岸には大洋から風が吹き寄せる。そしてこの南西の風を最初に横断航海を発見した彼の名からヒッパルスと呼んだ。『エリュトゥラー海案内記』 W.H.Schoff訳の第57節から部分的重訳
 

 
 ちょうど1世紀ぐらいにはギリシア人のヒッパルスによってエジプトから紅海を経由してアラビア半島から直線的に貿易風を使い、インドに向かう航路が発見され、インドとの貿易が非常に盛んとなった。アラビア半島から貿易風を使えば、舟でインドまで僅か2週間で行くことができたのである。その証拠に、例えば『ヨハネの福音書』でベタニアのマリヤがキリストの足に塗った高級なナルドの香油がヒマーラヤ産の甘松から取られたものであるというのが知られている。


過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。


    つまりイエスの時代にヒマーラヤ産の香油は高級なものであっても、ユダヤ人の一部の家庭に常備されていたのである。ナルドの香油がヒマーラヤからやって来ているのだから、キリストがヒマーラヤに行けない物理的制約はなかったのである。つまり本人に行く気さえあれば困難は伴っても道は開けていたのである。さらに時代は下り、キリストの12使徒の一人である疑い深いトマスは、インドに布教に出かけたという伝説が残されている。グノーシス主義的な新約聖書外典である『使徒ユダ・トマスの行伝』では、彼が復活したキリストの命でインドに嫌々布教に行かされることが書かれている。


 
 十二使徒が世界の国々を彼らの間で分割してそれぞれの割り当てられた地域に布教に出かけることがみんなで決められた。そして運悪くトマスにはインドが当たった。
 
「わたしは弱いので、これを果たす力がありません。また、わたしはヘブライ人です。どうしてわたしがインド人を教えることができるでしょうか」。ところで、彼がこのことを思いめぐらしていたときに、われらの主が夜の幻の中に彼に現われて、彼に言われた。「恐れるな、トマスよ。わたしの恵みがおまえと共にあるのだから」。しかし彼は、それに全く従おうとしなかった。彼は言う、「われらの主よ、あなたが遣わそうと思われるところに、わたしを遣わしてください。しかし、わたしはインドにだけは行きたくありません」(P276 荒井献編『新約聖書外典』 荒井献訳『使徒ユダ・トマス行伝』)
 
 
 インド行きを強要する自分のグルに徹底抗戦を誓うトマスであったが、インドのグンダファル王の命令で優れた大工を探しにやって来ていたハバンがそこに行き合わせたのが運の尽きであった。キリストは大工を探しているハバンに近づいていってこう述べる。
 
「わたしは大工の奴隷を持っています。これを売りたいのですが」(P276)
 
 裏切り者のユダによって銀貨三十枚で売られたことのある大工の息子であるキリストは、情け容赦なく弟子のトマスを自分の値より十枚ほど安く銀二十枚で、大工を探しに来たインド人のハバンに弟子の知らないところで売り付けてしまう。
 
「わたくし、ユダヤの村ベツレヘム出身、大工ヨセフの子イエスは、王グンダファルの商人ハバンに、わたくしの奴隷ユダ・トマスを売ったことを承認いたします」(P277)
 
 証文を手にしたハバンはイエスと共にトマスのもとに行って確認する。
 
「この方がおまえの主人か」。ユダが答えて言った。「はい、この方がわたしの主人です」。商人ハバンがユダに言った。「この方がおまえをわたしに即金で売ったのだ」(P277)
 


 トマスはキリストに銀二十枚で叩き売られてインドに行くわけだが、その行程こそが『エリュトゥラー海案内記』で述べられている海路そのものであり、そして順風であった為、難無く彼はインドに着く。彼はインドの北の王であるグンダファル王(コインから当時実在した王であることが知られている)に始まりインド中を布教して回るが、最後に南インドのマツダイ王によって死刑判決を受け殉教する。伝承として私も訪れたことがあるがチェンナイに殉教した聖トマスの墓がある。



(筆者撮影)

 このようにキリストの時代である1世紀において、インドはユダヤ人にとって遠い国ではあっても決して行けない国ではなかった。このことからもキリストの知られざる三十才までの青春時代にインドに行った可能性というのが決してありえないことではないと分かるであろう。かくて私のグルが述べていることもあながち出鱈目ではないと思われるのである。
 
 
ババジは最近の顕現で、キリストが十二才から三十才の間の頃(新約聖書が沈黙している時期)彼の教師の一人であったと数回話した。(P24 ラディシャム著『ババジ伝』はんだまり・向後嘉和訳 森北出版)
 

 
 上述の私のグルの証言からキリストがインドに来てハイダーカーン・ババからヨーガを学んだ可能性さえありうるのだと言うことが、証明は出来なくてとも蓋然性があると判断しうる。そしてアメリカの眠れる予言者エドガー・ケイシーもその信憑性を高める証言とはなりえぬにせよ、人間の集合的知性である「アカシック・レコード」を読むリーディングによってかく述べる。

 
13歳から16歳の間、イエスは「まずインドで、次にペルシア、エジプト」で教育を受けたのである。(P172-173 リチャード・ヘンリー・ドラモンド著『エドガー・ケイシーのキリストの秘密』光田秀訳) 
 

 我々は以上のことから物理的な可能性としてインド行きは全然不可能ではなく、彼が行こうとさえ思えばインドに行くこともできたし、ヨーガーナンダの言う東方の三博士の答礼を旅の動機とすれば、その蓋然性は結構高いのではなかろうかという結論に達するわけである。
 以上、我々はイエスの青春時代のインドの旅の可能性について見てきた。しかしイエスのインドの旅の可能性は青春時代の一回ばかりではないのである。彼は十字架の上で死を遂げ三日の後、甦ったとされるが、その後のキリストの消息について新約聖書は「天に挙げられた」というアセンション的な曖昧な表現のみに留まる。こうした所からムハンマドはイーサーは十字架にかけらてもおらず、死刑にされてもいなかったとクルアーンで述べるのである。かくてイスラームにおいてもキリストはアッラーの遣わした預言者の一人として尊崇されていたから様々な復活後のイーサーの消息がまことしやかに語られることになる。1413年に書かれたカシミールの歴史書『タフリク・イ・カシミール』で歴史家ムラー・ナディリは以下のようにその消息を伝えている。
 

ゴパダッタの統治時代に、ユズ・アサフが聖地からこの渓谷へとやってきて、彼は預言者であると告げた。…私はまた、この預言者は実際にはハズラット・イサで、神の御霊であり、彼がユズ・アサフを名乗っていたことをヒンズー教の本で読んでもいたが、真の知識は神とともにある。彼はこの渓谷でその人生を費やした。(P375 ホルガー・ケルステン著『イエス復活と東方への旅』佐藤充良訳より又引き たま出版)
 
 
    或は、西暦962年までイランのホラーサーンに住んでいた、歴史家であり指導者であったアル・サイド・ウス・サディクは『イクマール・ウッディーン』でかく述べる。
 
 
ユズ・アサフは多くの都を放浪した後、カシミールという国に辿り着いた。彼はその地を遠くまで広く旅して、そこに留まり、そこで一生を過ごした。彼は地上の肉体を捨て去る時に光に向かって昇っていった。(筆者による英語サイトからの重訳)
 
 
 こうして様々な書物にユズ・アサフという名の預言者がカシミールに住んでいて、彼こそがゴルゴダの丘での試練を乗り越えたキリストその人であるという伝承が、イスラームの間で語り継がれていくことになった。そしてこのようなイスラームにおけるイーサーこと復活後のイエス・キリストのカシミール生存説はインドのヒンドゥー教徒の18プラーナの一つである『バヴィシャ・プラーナ』に飛び火する。

 
 ヴィクラマディティヤ王の孫であるサリヴァハナ王は、異教徒(ムレッチャ)の国を打ち倒し強大な王国を築いた。彼はヒマトゥンガ(ヒマーラヤ)のフーナ人(フン族)の国で黄金に輝く白い服を着た男に出会った。


को भवानितितं प्राह स होवाच मुदन्वितः ।
ईशा पत्रं च मां विद्धि कुमारीगर्भ संभवम् ॥
 
ko bhavaaniti taM praaha sa hovaaca mudanvitah ।
iizaa putraM ca maam viddi kumaariigarbha saMbhavam ॥
 
あなた様はどなたですか?と彼に〔王は〕尋ねられた。彼はまさに喜びと共にお答えになった。
私は、クマーリーガルバ(処女の子宮)より生まれしイーシャー・プトラ(神の息子)であると知りなさい。


 彼は自分は異教徒の法を説く者で、世界が堕落したので自分が異教徒の国にやって来たこと、正しい行為とジャパによって人は浄化されること、瞑想をし、不動なる神に祈ることによって人は浄化されると説いた。そして彼は自らについて再びこのように言及する。


ईशमूर्तिर्हृदि प्राप्ता नित्यशुद्धा शिवङ्करी ।
ईशामसीह इति च मम नाम प्रतिष्ठम् ॥
 
iizamuurtirhRdi praaptaa nityazuddhaa zivaGkarii ।
iizaamasiiha iti ca mama naam pratiSThitam ॥
 
神より降りし御心において吉祥なる永遠の浄福を獲得した 
イーシャー・マシーハ(救世主イエス)と謂うのが私の有名な名前である。
 
 
 王はこのムレーチャの国にイーシャが滞在することを懇願しつつ、自国に戻り60年その王国を支配して世を去った。(『バヴィシャ・プラーナ』 パラティサルガパルヴァ 19章第17~34節より)
 
 一般的にヴィクラマディティヤ王は伝説の王であり紀元前56年から始まるヴィクラマ・サンバトという歴を作った王とされ、その王の孫であるサリヴァハナ王は、計算上、キリストの時代の人になる。ところで『バヴィシャ・プラーナ』は非常に問題のあるプラーナ文献でムハンマドに関することやイギリス領のカルカッタ(コルカタ)に関する予言の記述もあり後代の加筆の甚だしい書物とされる。しかし我々が着目すべきことはそこではなく後代の加筆であれ、サリヴァハナ王がキリストにフーナ人の国で出会ったという記述である。ここから推論しうるのは、『バヴィシャ・プラーナ』が後代に加筆された時に、恐らくイスラーム教徒の伝承及びカシミール地方の実地における伝承を下敷きにユズ・アサフ伝説を引き継いだということである。


 最後に筆者の個人的なユズ・アサフの墓のあるシュリーナガルのロザ・バル訪問の顛末記を載せておく。

 長い渋滞を抜けて乗り合いジープはシュリーナガルの町に着く。ジャンムー・カシミール州の夏の首都だけあって街中も交通は大混雑である。ダル湖から少し離れた場所でジープを降りたので少し歩く必要がある。焼け付くような地面の照り返しが眩しい大きな道路脇を歩む。ロンリープラネットの地図を頼りにようやくダル湖の近辺に辿りつく。右手には古い佇まいのバサールが見えるがまずはホテル探しである。ダル湖はキラキラと湖面に光が反射しているが、あまり水質は綺麗そうには見えない。対岸にはハウスボートが並んでいてシカラと呼ばれる舟がハウスボートとこちら側の道路沿いとを連絡して行き来していた。どこのホテルに泊まろうかと物色しているとガタイのいい、頑丈な顎をした男に話かけられる。「ホテルを探しているなら私のハウスボートはどうですか?300ルピーですよ」せっかくシュリーナガルまで来たことだしハウスボートに泊まるのも悪くないかなと思ったので、部屋を見せてくれと言うや、すぐさまシカラに乗せられる。ダル湖の緑色の水をシカラが切り裂くでもなく鈍い音を立てながら突き進む。後ろには目的地の一つでもあるシャンカラーチャーリヤ寺院が頂上に聳える丘が見える。顎の頑丈そうな男のハウスボートは持ち主に似てそれなりに巨大で頑丈そうだが、高級とは言い難い。湖の上に浮かんでいるようでもあり湖岸に座礁しているようでもある。案内された部屋は結構広く、ベッドも大きいのでもう面倒だからOKする。


    顎はしきりに今日の予定を聞いてくる。シャンカラーチャーリヤ寺院に行きたい旨を伝えると300ルピーでガイドしてやると無理強いしてくる。明日にはシュリーナガルをおさらばする予定であるから自力で知らない町をウロウロするより観光するならガイドを雇う方が効率がいいだろうと承諾する。そしてもう一つのシュリーナガル訪問の目的でもあるロザ・バルという所に行きたいと伝える。何だか気乗りしない風ではあったが、とりあえずまたシカラに乗せられる。そして道路側にたどり着いた自分はシャンカラーチャーリヤ丘に登る気満々でいると、頑丈なアゴ勇がオートリクシャーに乗っていくようしきりに勧めてくる。


    あんな丘ぐらいなんだ歩いても大丈夫だと言いたかったがここはぐっと我慢してガイドの頑丈なアゴ勇の言うことを聞いてオートリクシャーに乗ることにした。しかし頑丈なアゴ勇が声をかけたオートリクシャーの運転手が見るからにガラの悪そうな親父なのである。自分一人なら絶対に避けるような面構えである。人を見かけで判断してはいけないよということを教える為にこのような狂相の男を親切心で選んだのやもしれぬので何も言わず横で聞いていると、あの丘までは300ルピーだと吹っかけられている。頑丈なアゴ勇のガイド料と一緒である。「高い!負けさせろ」と頑丈なアゴ勇に指示を出すが頑丈な顎をしている割に気弱なのかガラの悪い狂相の運転手に押し切られてしまう。300ルピーぐらい「まあ、いいか、時間もないし」と思いそのまま乗った。自分と頑丈なアゴ勇を乗せたオートリクシャーは一路シャンカラチャーリヤ丘へと向かう。……中略……遠く丘の上から眺めるダル湖は青く美しかった。湖の上で生活する人々の舟が湖面を行き来していた。カシミールは昔一面が湖だったという。その名残がこのダル湖なのだ。ヨーガーナンダは訪れた土地の中でカシミールとソルトレイクシティーが最も美しいと『ヨギの自叙伝』に書いていたが、それが一転して今やカシミール問題によりこの地はテロや軍隊による弾圧で地獄と境を接する地となった。この点に於いてパレスチナとカシミールは似ている。別名をソロモンの丘というこの頂きの上で自分は全ての迫害を受けている人々のことを思う。太陽は中天で燃えていた。丘の清透な空気と芳しい微風が頬を撫でる。大地は美しい豊かな景観を形作っていた。この地に住む人々に平安が訪れるのはいつになるのだろうか。頑丈そうなアゴ勇も又、カシミールに住むムスリムとして様々な悩みや怒りを抱えているのかもしれないがそんな様子はこの頑丈な顎からは微塵も感じられない。彼はとりあえず次の観光スポットを案内したがっているようである。「もう行こうか」自分から切り出して寺院を後にする。運転手が逃げ出しもせず凶悪そうな顔をしておとなしく待っていた。「あんちゃん、次は何処に行くんだ」といったニュアンスの事を頑丈そうなアゴ勇にきいている。頑丈そうなアゴ勇が自分にお伺いを立てる。「ロザ・バルだ」自分は断固命令を下す。凶悪そうな親父がその言葉を聞いて嫌な顔をする。「ロザ・バルはダメだ」親父が言う。「ロザ・バルはやめた方がいいです」頑丈そうなアゴ勇も何とか自分の行き先を変えようと説得してくる。「ロザ・バルに行ってみたくてここに来たんだ」自分は子供のように断固主張するが、事情も知らないバカな外人が無茶を言うといった風に頑丈な顎と凶悪な顔がお互い目を見合わせる。「ロザ・バルは閉鎖されているからダメだ」、凶悪そうな親父も段々と断固とした口調で断り始める。どのくらいロザ・バルで押し問答をしたのだろうか仕方なく折れたのは自分であった。「分かった好きにしろ、どこでもお前らの行きたいところに連れていけばいいじゃないか」、半ば投げやり、半ば焼けのやんぱち状態である。頑丈そうなアゴ勇が機嫌を取ろうとして言う「シュリーナガルで最も有名なモスクに行きましょう」「ああ、そこに行け」とりあえず何でもいいから適当にどこでも好きな所に勝手に行けよと指示を出した。
 凶悪そうな親父のオートリクシャーはあっという間に丘を下り、シュリーナガルの猥雑な雑踏を駆け抜ける。どこもイスラームの街といった雰囲気である。ミナレットが見え、丸いドームが見える。ジャマー・マスジットが見える。シュリーナガルで最も古い回教寺院である。さすがに街一番のモスクというだけあって中は広大で中央には庭園があり建物は美しく、色々と案内されて最後に庭園の木の下で一休みした。「どうですか?素晴らしい場所でしょ?」さすがに頑丈なアゴ勇はムスリムだけあって自分の街のイスラーム建築には誇りがあると見え大変自慢げである。実際その通りである。質朴なシャンカラーチャリヤ寺院と比べれば、このイスラーム建築の木造の回教寺院は美的に遥かに優れている。暫しジャマー・マスジッドで楽園を夢見る憩いの時間を過ごす。やがて自分達はこの街一番のモスクを後にした。凶悪そうなオートリクシャーの運転手が眉間に皺を寄せて待っていた。ロンリープラネットの地図を見るとジャマー・マスジッドからロザ・バルまではすぐ近くのようである。もう二度と来る機会もないかもしれないので現地人に遠慮をしていてもしょうがないと心に決め、もう一度ダメ元でロザ・バルに行きたい旨を伝える。二人とも本当に乗り気ではない様子である。これ程主張しても嫌がるところを見ると本当にロザ・バルにはなんらかのタブーがあるようである。気合いと気合いのぶつかり合いとなる。しかし情けないことだが頑丈そうなアゴ勇の癖に呆気なく自分がアントニオ猪木ばりに気合い勝ちし、行けるところまで行ってみて、中に入れなくてもダメならそこで諦めるということで話がつく。凶悪そうな親父はウンザリしたような顔をしながら裏の路地を縫うようにオートリクシャーを乱暴に走らせる。あっけなくロザ・バルの建物が見えた。オートリクシャーから降りて頑丈なアゴ勇を引き連れてロザ・バルへの接近を試みる。ユズ・アサフの墓があるという建物の前で見張りのような男にいきなり頑丈なアゴ勇が怒鳴られた。何を言っているかは分からないが頑丈なアゴ勇がしきりに怒鳴られている。頑丈なアゴ勇の顎を叩き割られても困るのでこれはマズイと判断して退却指令を出す。外国人が近づくのがマズイのか、ムスリムの頑丈なアゴ勇が近づくのがマズイのか、あるいはその両方なのか全く分からないが、完全な門前払いである。緑の屋根をした建物の有様をしっかり目に焼き付けたが写真を撮るのもマズそうである、投石などされても困るのでそのままスゴスゴと退散する。


 かくて我々は悔恨を抱きつつ残された未練を断ち切るようにその場を足早に走り去ったのだった。我々は卑怯にも女々しく逃げ出したのだ、ひと夏の思い出から、あの美しいロザ・バルの潤んだ瞳から、そして叱り付け威嚇する路上のロザ・バルのオッサンからも。雑踏が流線となって世界に溶け去り行き、野良犬が吠え立てる。シヴァ神のマントラを心で唱える自分とアッラーの名を心で唱える頑丈なアゴ勇はもはや後ろを振り向きもしなかった。なぜなら我々には明日があり、緑のロザ・バルは過去のものであるからだ。全ては過ぎ去るのだ。今さら後ろを振り返って何になろう。自分は遠くひぐらしの鳴く声を聞きつつ食べ終わったスイカの皮の置かれた皿をアンニュイに眺めて、終わらない夏休みの宿題と共に最後の夏の午後を過ごす小学生ではもはやないし、頑丈なアゴ勇もまた夏のダル湖に飛び込み、白い雲を「美味しそうな綿菓子だ、全部僕のもんだ~い」と喚声をあげるあの無邪気な頃のアゴ勇ではないのだから。我々の夢見る時代は既に終わったのだ。我々には現実という名の凶悪な顔をした親父のオートリクシャーが待っているばかりだ。そしてこの後も我々一行はムハンマドのヒゲの安置されているモスクやムガル時代の有名な庭園などを狂暴なオートリクシャーのオッサンに乗せられて夕方まで愉快痛快に走り回ることになる。