第3章 第10節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む


तस्मात ॥१०॥


tasmaat ॥10॥
 
 
【それ故に】
 





    前回からの続き。


【ケルドンとマルキオン】
 
    使徒から継承して九代目のローマの司教であったヒュギノスの時代(在位136?~142?年)にローマにケルドンがやってきた。彼はシモン派から刺激を受けていてモーセの律法と預言者たちによって告知された神はキリストの父なる神ではない。一方は義なる神で認識されえるが、他方の神は知られざる善なる神であるというグノーシス的教説を説いた。
 そのケルドンの教派を受け継いで拡張したのがマルキオンであった。彼はヒッポリュトスによれば黒海沿岸ポントスの港町シノペの司教の息子であった。彼は元々は正統なキリスト教信仰を有していた。その教説は初めはパウロ主義を取り、正典を『ルカによる福音書』とパウロの手紙だけに限定していた。144年頃この急進的なパウロ主義をローマの長老に認めさせようとしたが、是認されなかった。それ以降彼の教えはますます偏向しグノーシス化する。彼は旧約の神を憚ることなく侮蔑した。エレイナイオスはその『異端反駁』で彼が『ルカによる福音書』やパウロの手紙を自分に都合のいい部分のみを使って教えを説いたと述べている。彼はキリストが十字架に架けられ復活するまでの間に地獄に降り、カインやソドムの町の者達を救ったが、アベルやエノクやノアは旧約の神を信じ、イエスを信じなかった為にそのまま地獄に留まったと語った。エイレナイオスは彼はイエスの名前を語るがそれは人々をおびき寄せる為の餌でしかなく、実際の教えはシモンの教えそのものであり、蛇の教えであると非難している。
 


 
【エンクラティス派】
 
 
    彼らは婚姻しないことと有魂のものを食べることを忌避する教えを説いた。またアダムの救いの可能性を否定した。エイレナイオスは、彼らは婚姻を誹謗することで太古にすえられた制度を蔑ろにし、神が男女の違いを設けられたことに異を唱えるものであると論難している。
 
 
【タティアノス】
 

    彼はマルキオンとサトルニノスの影響を受け、婚姻は頽落と淫行に他ならないと断じた。彼もまた幾らかの不可視のアイオーンを伴う神話を物語った。正統なキリスト教において婚姻は秘蹟であって不倫であるところの姦淫とは厳密に区別されている。そして寧ろそれは聖なる結び付きであるから称賛されるべき関係でもある。かかる点においてグノーシス主義は、良俗を破壊するという点でも異端なのである。こうして結婚に反対するものがいる一方で、パシリデースやカルポクラテスの影響を受けて相手構わずの乱交の奨励や多重結婚を導入する道徳的自由主義がその反対の極として現れたとエイレナイオスは歎いている。極度の禁欲主義と極度の性的放埒主義がグノーシス主義の特徴であるが、この両者はどちらも世界への反感や憎悪の現れの両端である。つまり結果として現れる姿が両極端で全く異なっているように見えても、心理学的に分析すれば、心情的には反世界的な態度において同一なのである。異性を取っ替え引っ替えのパパママコンプレックス的ドンファン主義の者も、同様にパパママコンプレックス的禁欲主義の者も、その隠された動機においては世界や自己及び他者への反感や憎悪がその根底に巣くっているのであり、あるいはその心は自己憐憫の情に基づく気色悪いナルチシズムの温床でもある。当然そういう者に関われば人は不幸になると言える。


【ヴァレンティノス派】
 
 
    ヴァレンティノスは、エジプト出身でヒュギヌスが司教の時代にローマにやって来て、後にローマ司教の地位を狙ったとされるキリスト教史上最大の異端思想家であり神学者である。しかし彼自身の言葉は僅かしか残っていない。しかし弟子のプトレマイオス、魔術師マルコスなどの教説をもとにヴァレンティノス派として集成されている。彼の教えをジャン・ダニエルが要約しているので引用する。
 

 
目に見えない父とその思念(エンノイア)の絶対的超越性。アイオーンによる充満(プレローマ)の産出。アイオーンの数は30で、その最後のものはソフィアと呼ばれる。ソフィアによる父の探索。父を捜し求めたい気持ちが下界の原理となるが、下界では霊的なものは幽閉されている。グノーシスをもたらす主が派遣され、グノーシスの力で霊的なものは救われる。(P236 ジャン・ダニエル著『キリスト教史Ⅰ』 上智大学中世思想研究所編訳・監修)
 


    弟子のプトレマイオスの教説では、三十のアイオーンの神統記が語られる。初めのアイオーンは、プロアルケー(原初)であり、彼と共にエンノイア(思考)があり、このカップルよりヌース(叡知)とアレーテイア(真理)が生じた。そしてこの四つがテトラクテュス(四つのもの)であり万物の根とされる。そして三十番目のアイオーンであるソフィア(知恵)が自分の伴侶であるテレートス(欲せられた者)に飽き足らず父であるプロアルケー(原初)を知りたいと欲した。しかしそのファザコン的願いは叶えられず、彼女は形相のないものという異形のものを産み出した。それはエンテューメーシス(思い)となって30のアイオーンよりなるプレローマ(充満)より締め出された。そしてこのような過ちを再びおかさないようにキリストと聖霊という一対が生み出された。そしてキリストがアイオーン達に語ったのが「シュジュギア(対)の本性とは生まれざる方を把握することに他ならず、彼らにはその「対」を知るることで十分なのだ」と言うことであり、聖霊は彼らに感謝と安息を導き入れたとされる。
 次にプレローマから締め出されたエンテューメーシスは別名をアカモートと呼ばれ、このアカモートからこの世とデーミウールゴスとに属する全ての心魂が由来することになる。またアカモートは、その苦悩であるパトスに由来する物質と、その改心であるエピストロペー(立ち返り)に由来する心魂的なもの、そして清められた後のものとして霊的なものを、様々な錯綜とした論理のうちに形成する。またデーミウールゴスは七つの天を形成した。そして人間が三種類のものとして形成された。滅びる存在としての物質だけの存在であるセト的な物質人間と、救われる存在であるカイン的な霊的人間、その中間に属するどちらにも傾くアベル的な心魂的人間。かくてグノーシスを備えた霊的な者、完全な知識を持たない心魂的な者、そして救われることなき物質的人間の三階級が成立することになる。しかしエイレナイオスが非難するようにこの霊的なグノーシス主義者は自分達が救われるという前提に立ってあらゆる不道徳な行為をなし、女性達に教えを授けると称しては近づき、誘惑して彼女らを実際に妊娠させたのだと言う。 
    次に魔術師マルコスは、綺麗に着飾った女や金持ちの女ばかりを狙い彼女らを魔術で誘惑して彼女らに様々な預言をさせたと言われる。彼は既にグノーシスを有する故にいかなる罪にも陥らないとして何事にも恐れを抱かなくなっていた。そして多くの女どもを欺いて堕落させ滅びに導いた。マルコスについて当時の正統派キリスト教の長老はかく詩でもって述べた。
 
 
マルコスよ、君は偶像を象り、不思議を解説する者、
占星術に通じて魔術を操る者、
そして君は人を惑わす教説をますます固め、
すでに惑わされてしまった者たちには奇跡を見せる、
いずれも背信の力がなせる業、
その指揮者はいつも君の父サタン。
君は天使アザゼルの力を借りてそれを為す、
彼にとって君は反神の業の先駆けなのだ。

(P76 『キリスト教教父著作集』 エイレナイオス著『異端反駁』 大貫隆訳 教文社)
 
 
 
 些か省略し過ぎのきらいはあるがヴァンレンティノス派においてその創造論と存在論と世界観そして救済論は、驚くべき錯綜と精緻な体系として形作られる。しかしそれは思弁の迷宮によって自己の本性の反キリスト的要素を隠匿する為の煙幕に過ぎない。「錯綜とした言葉であなたは私を惑わすようだ」とアルジュナはクリシュナ神に『バガヴァッド・ギーター』で、その理論の巧みさにクシャトリヤ(戦士階級)として苦言を呈したが、クリシュナ神の理論が徹頭徹尾、誠実をもとに微に入り細に渡り、弟子に愛情をもって丁寧に説明していただけに過ぎぬのとは対照的に、グノーシス主義は、錯綜とした言葉で知性を惑わし知性の鈍い人を篭絡する不実の手段を取ると言えよう。


【マンダ教】
 
 
   イラク領のチグリス・ユーフラテス下流域とイラン領のカールーン川流域に今でも現存する宗教。マンダはマンダ語で「知識」を表し、周囲の人々には「洗礼者たち」と呼ばれる。彼らは洗礼の水を「ヨルドナ(ヨルダン)」と呼ぶことは、パレスティナのヨルダン川流域で派生したキリストの師である洗礼者ヨハネも属したであろう洗礼者集団の流れを汲む証拠とされている。
 彼らの神学では「命」である「大いなる第一のマーナー(器)」が存在し、これからウトラ(富)と呼ばれる霊的存在が、そして光の世界を流れるヨルダン川が誕生するとされる。そしてそこからプレローマ(充満)と比較しうる一万の一万倍のシェキーナー(住居)が生まれた。しかし第一の「命」に次ぐ第二の「命」であるヨーシャミーンや第四の「命」であるプタヒルに動揺としての世界創造の欲望が生じた。そして第四の「命」であるプタヒルが世界を作り、そこに「闇」も生まれることになる。ここに光と闇のマーニー教的対立が見られる。マンダ教において闇の王は様々な怪物を創造するが、その中でも七つの惑星と黄道十二宮が重要な存在とされる。 
 
 
汝がこの地に在りし年々は、
「七人」が汝の敵なりき。
「七人」が汝の敵、
「十二人」が汝を迫害する者なりき。
 
 
(P28 大貫隆訳・著『グノーシス神話』 講談社学術文庫)
 
 
 
 ここでマンダ教徒は、占星術の知識を背景に我々人類が七つの惑星と黄道十二宮の奴隷であるという見地から七つの惑星と黄道十二宮への反感を表明する。惑星と黄道十二宮の人間への影響を知った人々は占星術を作り、星辰崇拝を発達させたが、これは裏を返せば我々が星回りの奴隷であるということを指す。正確無比な占星術における運命の指摘の正確さにゾッとさせられるものがある。例えば出生時間をもとに以下の者Aを門外漢ながらインド占星術で占うと、この者Aの人生はこのようになる。
 
 
木星期   0歳~11歳
土星期   11歳~30歳
水星期   30歳~47歳
ケートゥ期 47歳~54歳
金星期   54歳~74歳
太陽期   74歳~80歳
月期    80歳~90歳 
 



 これを読むと、この者Aのアートマンはちょっと頭がおかしいんじゃないかと思わせるものがある。この者Aは11歳から30歳までの本来楽しく華々しい青春の時期を土星期の影響で過ごすことを選択して生まれてきたようなのであるが、土星期とは試練の時期であり、言わば踏んだり蹴ったりの時期である。この者Aはその後、47歳までは学究的な水星期にとどまり、その後47歳から世俗を離れたケートゥ期を過ごすことになる。社会的な交際が活発化する金星期が54歳からともなれば、もうほとんどその年から社交的になってどうするのかという根本的な疑問が生じる。ここから推論しうるのはこの者Aはこの世界に修業か罪滅ぼしに来ていると考える他ない。そしてこの者Aとはお察しの通り筆者のことなのであるが、筆者はこのような人生区分を、インド占星術の区分として知る前から自分の人生区分として直感によって分かっていたのだから不思議である。筆者は14歳ぐらいの時に、自分は30歳までの時期にこのまま行けば発狂するか自殺するかいずれにせよ破滅するしかないという不吉な予感を抱いたのであった。そしてその30歳近辺で起こるであろう破局を乗り越える為に世界史上で頭がいいと思われる人間の書物から解決方法を手っ取り早く探すことにしたのであった。そこで筆者が打ち出した読書方針は、少なくとも100年以上、なるべく1000年以上歴史に残る本しか読まないというものであった。これでほとんど9割がたの本は読む必要がなくなるし、1000年以上歴史に残る本を書くぐらいの頭のいい奴らなら自己の破局を乗り越える知恵を有しているに違いないと14歳の筆者は推論したのであった。そして案の定30歳ぐらいで心情的な破局が訪れたのだったが、それを乗り越えた顛末については以前に語っておいたので省略する。その後、めでたく無事に死なずに水星期に入った筆者はサンスクリット、英語、ヒンディー語を次々とマスターしていくことになる。また水星期になった時点で自分の運命の流れが恐らく40代半ばで変わる確信を持っていたのであったが、次の流れは正直もう少し社交的で人間的なものになるであろうと甘い観測を抱いていた。しかしやんぬるかな!最近このインド占星術の運命の流れを読んで筆者は絶望した。今でさえ浮世離れしているのに40代半ばで、ケートゥ期に入りどうやらますます筆者は浮世離れしてしまうようなのである。これ以上浮世離れするとなるともはや考えうることはたった一つで「いきなり薮から棒に空中浮遊してしまうのではないかしら、自分がこ、こ、怖いわ」と今から心配している次第である。40代半ばからは勝手に空中浮遊するのを防止する為に足と手に10キロずつ重りでもつけていなくてはならないと考えると今からボードレールばりに「パリの憂鬱」であり、「東京のウンザリ」である。冗談はさておいて、このように出生時間から、星回りによってその者の運命の大枠はほぼ決まってしまうようなのである。ここからマンダ教徒やグノーシス主義者の惑星と黄道十二宮を構成する星辰への反感と憎悪も説明できるであろう。しかしながら霊学的には自分でその出生時間に合わせて選択し生まれてきたのだから、星辰に噛み付くのはお門違いではあるのだけれども。
 マンダ教に戻るが、第四の「命」であるプタヒルと「七」惑星と黄道「十二」宮によって作られた人間は肉体の中に囚われた捕虜である。そしてこの世界で光の川に続くヨルダンの水で洗礼を受けた魂は死後、「七」惑星と黄道「十二」宮の関門をくぐり抜けて光の世界に到達するというのが彼らの大まかな救済論である。



(筆者所有の1920年代くらいのRavi Varma Press発行のインドの九惑星と十二宮図のリトグラフ)


 我々はかくて大阪城の4階と5階に潜むグノーシス主義の強敵(おとも)達を難なく撃破したのであった。そして今や天守閣にピクニック気分で登って気づいたことがある。一体誰がラスボスだったのだろうということである。ヴァレンティノスは最大の異端思想家であっても、ラスボスというにはただの有象無象の党派的複合体でしかなかったことがばれてしまった。マンダ教はラスボスというにはあまりにおとなしくて善良過ぎる。それでいて天守閣はもぬけの殻である。拍子抜けとはこのことだ。天守閣にラスボスなんてゲームみたくは、いなかったんだね。あ~~めでたしめでたし\(^o^)/
 



 




 と平和裡にこれまでの長きに渡る善悪二元論のマーヤーを扱った記事を終わらせることもできたであろう。しかし抜刀部隊の隊長である善良な騙されやすい筆者の心に住む疑い深い「稲川淳二」精神がかく叫ぶのである。「おかしいぞ~、おかしいぞ~、何だかおかしいぞ~、天守閣に来たのにラスボスがいないなんておかしいぞ~」と。
 





 かくて筆者の健全なる理性が反駁する。「黙れ、淳二、ラスボスなんてゲームの世界だけだっつうの!」。淳二がさらに意味不明をまくし立てる。「分かったぞ、犯人は殺され男の奥さんの弟だがね!間違いなく多分!!」。筆者の理性は叫ぶ、「殺さた男の奥さんの弟って一体誰だよ!それにこっちは犯人じゃなくてラスボスの話をしているんだ!」


 
 心の稲川淳二がかくも五月蝿いので筆者の理性は淳二を黙らせる為にもこれまでを振り返ってみることにする。グノーシス主義を生み出した遠因は、ゾロアスター教の影響における二元論と終末論と救世主信仰が生み出したメシア運動の挫折から生じた空白に、ユダヤ人の周辺の抑圧された境界的人々が反動運動によって形成したものを因とする。そして旧約聖書の神が悪なるデーミウールゴスと見なされたのは、キリストの愛の神の福音に起因するものであった。そういう観点でいえば、キリストの誕生こそが、その悪しき似像(エイコン)である猿真似の俳優どもであるグノーシス主義者を生み出す結果になったのであった。そしてグノーシス運動は明白に反キリスト的な反感と憎悪の教えであり、キリストの愛の教えを偏向させるものであった。また、彼らは楽園の蛇や弟殺しのカインそしてキリストを裏切ったユダをグノーシスを有する救済者にしたてあげたのであった。かくて我々は矢継ぎ早に蛇を崇拝するオフィス派とカイン派と『ユダの福音書』、そしてパシリデースのモットーを思い出す「すべての者を知れ、しかし、お前のことを誰一人も知ってはならない」。それではワトスン君ならぬ、疑い深い淳二君、楽園の蛇とカインとユダに共通した関係者で、このグノーシス運動において名指しされることなき、すべての者を知る者は一体誰なのかね?
 



 「そうか!おぇぇぇぇ(吐き芸)、おぇぇぇぇぇ(吐き芸)、 分かったぞ、犯人は殺された男の奥さんの弟の親戚のそのまた知り合いの、名指しされえぬ友人のサタンである悪魔だがね(ドヤ顔)!!」。







    しかしそんな出来過ぎた話があるものだろうか、ともあれ淳二の推理にも一理ある。我々は霊的な観点から見た場合、オフィス派やカイン派がいてなぜサタン=ルシファー派がいないのかを疑問に思わざるを得ないのである。あまりにも分かりやすい安っぽい推理ではあるが、ここに我々はラスボスである隠されグノーシス運動の張本人として、嫌々ながらこの大阪城の天守閣にサタンないしルシファーを召喚せざるを得ないのである。


     二元論のマーヤーに取り憑かれたグノーシス主義がキリストの出現以降、驚くべき勢いで雨後のタケノコの如く派生したのは奇妙としかいいようがない。どうやら我々が霊的に目覚めようとする時に、どうしても我々の弱さや愚かしさという消極的観点では説明できない積極的な偏向の原因がそこにはあるようなのである。それは20世紀にも様々なスピリチュアル運動の中で一元論的なことを語りつつグノーシス主義的な二元論に導く動きとして現れている。何の実践もほとんど語らない神智学の教えやよいことずくめの臭いものには蓋をする式の反省なき前向き志向のスイーツ的スピリチュアリズムなど。これらはミスリードする挙示的ロゴスに満たされ教えであり、結局統合ではなく分離を生み出すのである。


 我々はさらに別の方面にも目を向ければ、世界を支配するイルミナティやフリーメーソンというような秘密結社の陰謀論に出くわす。しかし我々はこうした組織による陰謀論には懐疑的立場をとる。世界の金融資本がユダヤ人によって握られているのは事実であるが、彼らが積極的悪の意識を常時維持して悪事を働いていると考えるには、あまりにユダヤ人の財閥の血統に信を置きすぎである。所詮、財閥の構成員などは退屈な金持ちであり、そこに『悪霊』のスタヴローギンや大審問官的悪の精神の発現を期待するのはロマンチシズムを求め過ぎであろう。所詮彼らはヴァイシャ(商人)に過ぎぬのだ。彼らはこの点から言えば、システムの維持の為の消極的悪しか行っていないと考える方が現実的である。それはくだらない権力の保身主義の表れでしかない。しかしこうした浪漫主義的な路線に沿ってイルミナティであるとかフリーメーソンといった団体にパラノイア的な疑いを差し挟む正当な理由があるのも認めねばならない。


    筆者はそれをある一定の意識領域の次元に存在する意識の集合体に起因するという仮説を立てることにしたい。そして仮にそれを便宜的にイルミナティ意識と呼ぶことにする。これはルシファー意識とでも呼ぶべき二元論のマーヤーに人々を巻き込む知的な意識領域でもある。これをさらに象徴的にはピラミッド意識とも呼びたいところである。すなわち下から上を目指し、競争し、一番上を目指すという収奪的意識であり、そのトップに君臨するのはまやかしの知性である。疑いなく我々人類はこの数千年間このピラミッド意識に支配されてきた。


    それは謙遜ではなく、筆者が言うのも何だが傲慢を選択させ、愛ではなく嫉妬や反感や憎悪を煽り、協調ではなく競争の社会を形成する原因としての意識領域である。筆者のグルのハイダーカーン・ババは人類は一つのチームであり一致団結しなくてはならないと常々説いていたが、我々は一致団結してソーンバーリー・ババの言う集合的知性のプールを向上させなくてはならぬのである。それこそがこの輪廻からの解脱のクリア条件でもある。ダライ・ラマも唱えている菩薩の誓願を思い出して欲しいのだが、それはこういうものである「人類の最後の一人が解脱するまで私を解脱させないで下さい」。大将たる者が退却する時は、理想論的には最後の一兵まで退却するのを待った上で最後に退却すべきである。自分の都合が悪くなれば、すぐに身を隠し逃げ出すような卑怯者は人の上に立つ器ではない。そしてキリストは人類の罪を背負い、集合的知性のプールに魚座の時代における愛の教えを点したのであった。我々は本来一致団結して脱獄を決行すべきなのであるが、ピラミッド意識はこの牢獄の中で囚人同士の一致団結を阻止し、協力すべきところでつまらないいがみ合いをさせて問題をはぐらかすよう促し、その問題意識の焦点をずらすのである。これは上と下や善と悪の二元論のマーヤーのしからしむるところである。競争というものはある一定のレベルの低い段階ではプラスに働くがある一定レベル以上になれば、人を堕落させ袋小路に閉じ込めるものである。競争によって人類が進化したというのは程度の低いレベルでは真だが、レベルの高い段階では偽である。モーツァルトやゲーテは誰と競争し、生産的な創造の行為や瞑想において誰が誰と競争するというのであろうか。しかし今だに人々は競争の中で本来の目的からずれたどうでもいい幻想の目的を死に物狂いで追求しているのである。それは幻想のピラミッドの頂点を目指し生存競争を勝ち抜き華々しくも愚かしいピラミッドの頂点からのくだらない眺めを見ようとしてのことなのだ。その眺めを見ているAだとかBだとかCだとかの間抜けな老人どもの自惚れた痴呆面と愚劣で幼稚な言葉の群れを思い出せば、それが実にくだらないことだというのは多少の知性があれば理解できるものである。しかしそれがピラミッド意識ないしイルミナティ意識ないし二元論的マーヤーに惑わされた者には分からないのである。イルミナティ意識とはあらゆる人々の心に巣くっているのであり、それはマトリックスとしてどこにでもあるのである。そしてそのような悪を憎むことさえ二元論のマーヤーの罠なのである。
 


    かくて我が部隊は過去の蜘蛛の巣の張ったグノーシス主義を後ろ向きに研究しているように見せかけて、振り向きざまいきなり大阪城の天守閣から180メートルの弾丸ロングシュートを召喚したラスボスの守るゴールポストにざまあ見ろとばかりに叩き込んでやることに今や成功したわけである。


    グノーシス主義的な反キリストの教えとは、すなわち現代の全ての人々の心に巣喰うルシファー意識ないしピラミッド意識という二元論のマーヤーそのものなのであり、それこそ善と悪の此岸であるところのこの世界の悪を維持するシステムとして起動しているものなのである。


    あらゆる聖者はピラミッドを完成させる為に来るのでは断じてない、彼らはそのピラミッドを破壊し平等の境地であるサラ地にする為に来るのである。そしてこのピラミッド意識に使える者は総じて悪なのであり、異端なのである。彼らは自分たちは弱いだの自分は犠牲者だのと言い訳をしながら善人ぶって自分達の墓標である幻想でしかない幸福のピラミッドを今もせっせと作り続けている。それは本質的には人類への裏切りである。


    グノーシス主義は、歴史的には大天使ガブリエルの命を受けたムハンマドのイスラームの厳格な軍隊的一元論の鉄槌によってほとんど壊滅することになる。