第4章 第18節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む




कुपथास्त्वन्ये ॥१८॥
 
 
kupathaastvanye ॥18॥
 
 
【そして、他は悪しき種々の道[1]である。】
 

[1]kupathaasは、悪しき道(kupatha)の複数形である。



 パーシュパタの軽蔑探求行こそが良い道であり、他は悪しき道であるということ。パーシュパタの教えを説く経典で、パーシュパタの教えより、さらによい教えがあるなどと言うはずがないわけだから、当然の宣言ではある。カルマを解消するのに人々から軽蔑を買うのが最短の道であるということ。それ故に人々に尊敬され愛されることより軽蔑されることの多い人生は、本人が望む望まざるに関わらず、最上の修業の道を歩んでいるのであり、その上で悪いカルマを重ねていなければ、猛烈なるカルマ論的借金返済道を突き進んでいるわけで、それは断じて歎かれるべきではない。ただそのカルマ論的借金返済道が一般人には霊的に隠されていて、数値化されえないので、「僕の人生、私の人生何なんだ!チキショー」となるわけである。




 これより筆者は、ついに以前より再三再四に渡り、予告しておいた中世インド宗教史及び中世ヨーガ史の研究を満を持して開展しようと思うのである。前回、中世インド宗教史と中世ヨーガ史の自分の研究ノートが、甚だ悪筆で何を書いているか2年もたてばさっぱり自分でも分からないと、歎異抄ばりに嘆いてみせたのであったが、しばらくして、何と最終的に綺麗にまとめた研究ノートが出てきて、それなりに間を空けずに、ブログの記事を書き進めることが出来そうなのは不幸中の幸い、幸い中の不幸である。それになにより、前々回の記事から、過去に遡って記事を無限遡及的に書き進めることができるようになったのは、嬉しいことである。そもそも、『パーシュパタ・スートラ』の未解説の節の残りは、あと40節ぐらいなので、それで字数制限があるとなると、どうしてもその字数制限にあわせて計画的に記事を書いていかなくてはならず、それはつまり最後の一手まで微に入り細に渡り展開を読み切って論究を進める必要があるということであり、それが筆者にプレッシャーとなって重くのしかかっていたのであった。しかし最早、字数を気にする必要はない。従って、とりあえずノートもあるし、途中で軌道修正や、内容を忘れているところを補填するのも自在であるから、月一ペースぐらいで、どんどん記事を書いていくことにする。というわけであるからして、早速、本題に入らず、前回の記事の補足から話しを始めることにしよう。

 筆者は、前回、筆者のクンダリニー覚醒の顛末を述べ、よってもって悟りと解脱の大まかな違いについて、プラトンの洞窟の比喩を向こうに回し、スロットの比喩を用いて解説したのであった。パチスロ初代北斗の拳でウン百万を溶かしたのも、かかる強力な比喩を手にする為だったと思えば、あれも有り難い修業だったのだ、全てが神の采配であったのだと、今となっては、北斗七星の化身ともいわれるサプタ・リシに感謝である。




    ところで、そうした内容の自分の文章を読み返していた時に、何故、この地球に我々が閉じ込められ、輪廻しているのか、その目的について、述べていないことに気付いたので、先ずはその辺りから論じようと思う。
 我々の地球の輪廻システムが、他の星の惑星における輪廻システムと異なっているということは、神秘主義界隈では一般に知られていることである。グルジェフは、月を維持する為に、人類に対し、大天使サカキという名の、ぶっちゃけエイリアンが、クンダバッファという装置を植え付けて、現実を転倒したものとして見させるようにして、進化のプロセスに強烈な障壁を作り、人類の生成するエネルギーを、月の維持の為に使っていると述べていた。つまりグルジェフ説では、クンダバッファの植え付けがなければ、他の惑星の三脳生物と同様にその霊的な進化のプロセスは、自然なものとなり、異状かつ無意味な輪廻の反復による、意識進化の阻害は避けられてあろうという推論が成り立つのである。とは言え、ツッコミどころは満載で、月が誕生したのは、生命が地上に誕生するずっと前である。月が誕生した時と生命誕生が同時期であれば、この仮説も成り立つが、そうではないのだから。月の維持の為に生命を作り、クンダバッファを植え付けたというのは、時間的な齟齬があるといわざるを得ない。



    また20世紀における対外離脱の達人であった米国のロバート・モンローは、この地球が、ルーシュという名の、苦悩や葛藤によって生じる最低品質のアドレナリン噴出に始まり、愛という最高品質のアドレナリンの噴出に終わる、エネルギーの採取の為に、エイリアンによって人工的な環境として作られたと述べている。またこうした地球の輪廻システムに敢えて、地球外の魂が参入し、その魂達が首尾よく地球の輪廻システムから卒業した暁には、他の惑星システムで進化した霊性と比較して、格段の質的に深化したパーソナリティが獲得されることが知られている為に、敢えて地球の輪廻システムに参入する者が少なくないということが述べられている。


    また多少、胡散臭い部分も多いが、ロズウェルで墜落したエイリアンの生き残りにインタビューしたと言われる『エイリアン・インタビュー』では、地球は、紀元前3万年に宇宙のアンタッチャブルの政治犯や思想犯の投棄場所兼刑務所として「旧帝国」と呼ばれるエイリアン集団によって利用されるようになったとされる。また彼等は記憶を喪失させるためのシステム基地を設立し、死ぬ度に魂はその電子監視基地のシステム網に捕捉され、毎度、記憶を失わせられると述べている。また西暦1135年~1230に太陽系における「旧帝国」の残党は、全てドメインという別のエイリアン集団によって掃討されたのだったが、それ以降も人類に対する記憶喪失電子網のシステムは残存したままになっていて、特にドメインというエイリアン集団も人間にそれ程強い利害関心があるわけではないので、その地球の輪廻システムの異状性は放置プレイされているというのが、その内容であった。なかなか良く出来た設定である。しかしインドに関する記述等を見ると、真相を知る本物のエイリアンが述べたというより、当時のアメリカのオカルティストのオリエンタリズム全開の無知で素人的なインドへのお手軽言及が見られ、げんなりする内容が含まれている(例:ヴェーダが紀元前700年頃にギリシア語に翻訳された等)。インドについては適当なことを書いても、その文章に適当に箔が付いてもバレんだろうと言う、アメリカ人オカルティストの甘さが滲み出ているのは玉に瑕である。


    次に2000年代初頭に海外のネットで拡散した、地球由来のレプティリアン(恐竜の子孫)のインタビューである『ラケルタ・ファイル』というのも地球年代史として興味深い。それによれば、人類は宇宙人の遺伝子操作で作られ、また彼らによら被催眠のスイッチを付けられている。その結果、人類は宇宙人を見ても催眠的な効果で識別できない者達がほとんどなのである。人類史においては、150万年前にアルデバラン星系のエロヒム(白色人種型)がやって来て、人類に遺伝子操作をした。それは人類を奴隷とする為であった。5000年前に地球種のレプティリアンとの間の戦争によりエロヒムは駆逐されたが、それ以降、人類に遺伝子操作をしたエロヒムは不在のままである。ラケルタなどの恐竜種の子孫であるレプティリアンは、地下で一部が生き残り、今も活動をしている。ラケルタ・ファイルの特徴としては、輪廻などの霊的なことに関する内容は皆無である。また宇宙人は様々に地球に来訪しているが基本的に人類に無関心であるとされる。それは人間が他の地球の生物種について思うぐらいのレベルである。つまりエイリアンのほとんどは人類に興味はなく、地下のレプティリアン種族も人類に強い利害関心はない。



 このように、ともかく人類は何かしらの遺伝子操作か、記憶喪失的に輪廻を繰り返す循環システムに捕捉されてか、或いはその両方の影響で、健全な生命の霊的な進化の過程から外れているというのが、この百年のオカルト的地球年代史の趣旨である。そこでともかく、どれも細かいツッコミどころがあるので、それらを一旦おいておいて推論により輪廻の目的を検討することにしよう。
    輪廻の目的は、選言命題的に「あるか、ないかのいずれかである」。我々が仮に、宇宙の単なる政治犯や思想犯であり、地球の輪廻システムは我々を収監する監獄であれば、地球にとどまる理由はなく、地球から脱出すること、すなわち輪廻から解脱することが先決問題となる。このように「地球輪廻システム=監獄説」によれば、地球に長くとどまることは全くナンセンスであり、時間の無駄であるという結論になり、従って輪廻の建設的な目標はなく、単に我々を閉じ込める為だけの目的ということになる。他方で「地球の輪廻システム=月の栄養生成工場説」や「地球の輪廻システム=宇宙に於ける様々なエイリアンの需要の為の麻薬的な薬物(ルーシュ)生成工場説」のいずれも、その目的は霊的な進化とは別の方向に置かれ、その為に地球の環境が特別調節されているということなのであった。これは輪廻の目的は、存在するが、それは輪廻する個人を利するものではなく、何らかのシステム維持や生産目的というある種の搾取を目的としているのであった。かかる搾取が主の目的だとしても、ロバート・モンローの「ルーシュ工場説」は、最高品質のルーシュを作成できる生命体になるという、個人的な目的もおまけ的に設定されている。しかし、この見方は若干ロバート・モンローという個人のバイアスがかったアメリカ人的な経営者の成果主義や結果論にその観点が毒されているのは否めない。クンダリニー覚醒し、シャーマン技法をもマスターした筆者は、次に筆者の到達した結論を述べようと思う。


    地球の輪廻システムの解釈において、ロバート・モンローの言っていることが多くの点で、最も真相に近いが、最高品質のルーシュ生成というのは結果であって、実際の輪廻システムへの参入の目的は、人格ないし霊格の完成にあると言いたい。なぜそう考えるのかと言うと、それはクンダリニー覚醒をしてみて実感できたことによる。クンダリニー覚醒者として有名なゴーピ・クリシュナが嘆いていた様に、クンダリニー覚醒をしても人格が変容することはなかったということこそが、つまりそれを如実に示唆していると言えよう。確認としてアドヴァイタ的観点で言うと我々はもともと「それ」であるのだから何も付け足しも差し引きも必要ない。即ちそれが所謂、梵我一如ということである。




    かくてクンダリニー覚醒とは、それを垣間見る手段となる。しかし、それならこの地上の生はただの夢であり、無意味であり、我々の人格というものは無に他ならない。別に筆者はそれでもいいのだが、そもそもクンダリニー覚醒とは技術であって、何ら人格的な向上をその要件としない。言わばどんな糞野郎修行者でも、信者に寄生し踏ん反り返っている豚野郎修行者でも、不倫しまくりで堕胎中絶強要のあるがままに静謐なる20世紀の哲人思想家でも、また二束三文の駄文を量産する覚者であっても誰でも十把一絡げに技術的に至りうるのが、クンダリニー覚醒なのである。そこに人格的要素は介入しないし、たとえ覚醒に至ってもフィードバック的に人格を向上させることもない。覚醒者=人格者というのは大衆の幻想である。では人格の向上はどこでできるかというと、天上で全てを思いのままに生み出せる状態では勿論できない。地獄の如き苦しみばかりのところでもできない。しかし実際にこの世界だと、つまりこの地球でカルマ解消のカルマ・ヨーガに取り組めば、どうやら否応なしに人格というものが向上するようなのである。この世界が監獄ならばただただ人格の向上抜きに技術論的観点からアルカトラズ島よろしく抜け出せば良いだけである。しかしそうではないのだ。ロバート・モンローは、ルーシュという結果論的観点から謎の化学物質の生産がその目的であると強調していたが、これも偏向がある。実際は人格の向上と形成こそが多くの外宇宙由来の魂がこの地上世界において目的にしていることなのである。そして覚醒などは、これは人格的な向上と、先後がどちらになっても構わないような副次的なクリア条件に過ぎない。そしてその上で、本来の目標は生命存在としてのより高い領域に人格向上と共にステップアップすること、これこそがクンダリニー覚醒した筆者がこの地上の輪廻システムに関する見解として辿りついた結論である。覚醒は技術論だから難しくはない。困難なのは人格形成であり、その向上である。これに近道はなく、グルのシャクティ・パットの一撃で終わるものではない。筆者のグルは、インドの伝統的な師の例に漏れず、『バガヴァッド・ギーター』でしつこく言われたカルマ・ヨーガの重要性を説いていた。筆者だって何も好き好んで生き甲斐搾取のような、ひと昔前のデフレ的な価値観に基づいた、廃れてしまうのも諾われるところの、無報酬のブログをせっせと他人に認められたいからというわけで書いているわけではないのである。そもそもサッドグルに出会うということは、もうそれ以上の権威によって自分が認められる必要がないということに他ならない。それは他人に認められたいという願望の終焉であり、その欲求の終了を意味する。というわけで不肖の弟子として不承不承で仕方なく、カルマ・ヨーガだと思ってご奉仕出血サービスでこれを書いているわけである。ただその結果、人格が改善されるどころか、馬鹿なことばかりを書いて人格が悪化しているのでないかということも甚だしく懸念されるわけではあるけれど。

(1900年代初頭のアルモーラーにおける筆者のグル)


 この地球の輪廻システムが、ある種の目的によって管理され調節(コンディショニング)されている可能性は、否定できないし、人類種が何らかの目的の為に、遺伝子操作されて、通常の宇宙に於ける4次元的な物質次元の知的生命体として異状な状態にある蓋然性もかなり高いと考えられる。しかし、こうした苛酷な無理ゲー的環境と偏向し能力的に制限された特殊な人類種であってこそ、その中に継続して生存した魂が、通常とは異なる環境故に、霊格において特別な深化と濃度を達成できるのも疑い得ない。その観点において覚醒というものは、必要であっても、元の魂としてのブラフマン的な特質を有するアートマンを思い出すに過ぎないから、自己自身を思い出す為に地球に生まれ、輪廻することを主要目的とするのはナンセンスと言わざるを得ない。繰り返しになるが地球輪廻システム=牢獄説であれば、覚醒だけを技術論的に追求すればよいわけだが、どうもそうではなさそうなのである。しかし実際に宇宙的政治犯や思想犯として来ている人達も存在するかもしれず、彼らはそれ故に解脱の追求中心の脱獄犯的発想が強いのかも知れない。彼等はある種のサイコパス的な性格のまま脱獄のみの追求に汲々として、サイコパス的霊性の探求家と言う性格を現すのだとも考えられる。一方、前述のかかる地球の無理ゲー的輪廻システムに意図的に参入した、向上心の強い人は、脱獄するだけでは意味がなくて、菩薩行やカルマ・ヨーガ的な利他行に邁進し、自らの霊格に慈悲の要素や、キリスト意識的なアガペー的なものの発達とその完成をもって、ようやくこの地上の輪廻システムより解脱していくのかもしれない。 
 翻って筆者個人のことではあるが、これは星の影響もあるし、今生でのカルマ論的課題などもあるが一概にこれと決定はできないにせよ、筆者は正直、解脱への強い欲求はない。なにせこの地上に輪廻した数は明らかに多い方なので、昔からこの地球にいる臭い。だからあまり宇宙とかに興味が湧かず、エイリアン問題への関心度も近年まで非常に低く、4、5年前までエイリアンが地球に来ていて、それが一部の人間以外秘密にされているなんて、全くナンセンスだと思っていたくらいである。しかしこれは旧態然たる20世紀脳を脱し、ある程度、冷静に状況証拠を積み上げ、推論すれば否定しようがない事実であると認めざるを得ない。それが分からん奴は、既知のもの以外何も取り込めない、推論能力皆無の地球の輪廻システムに瞞着されっぱなしのお子ちゃま脳としかいいようがない。話が多少ズレたが、筆者は子供の頃から古代世界とか、UMAだとか、恐竜だとかは大変に造詣が深かったのであり、余計な情報で恐縮であるが最近ではIVEだとか、ルセラだとか、ニュジだとか、韓国文化にも大変造詣が深い。 何が言いたいかと言うと、つまりあまりコズミックなものには郷愁が湧かないのであり、自分が昔宇宙人だった時のことなど悲しいことにほとんど覚えていないのだ。あらゆるものには原因があり、あれかこれかの選好は、過去世を探る上で、分かってしまえば、全てに理由があるものである。輪廻のメカニズムが分かっていない人には、なぜ自分がパプアニューギニアではなく、ジャマイカに興味があるかの理由だとか、UMAと宇宙人だと宇宙人にしか興味が湧かない理由などが、ただ漠然と何となく好きだとか、非常に曖昧な選好理由しか挙げられないわけであるが、それは全くもって自分のことが分かっていないに過ぎない。何で自分はアラビア語に心惹かれて、サンスクリットに興味が湧かないのか、それが何となき心という曖昧なものの不可解な傾きでしかないと考えて、納得できているなら、それは根本のところで論理性と推論能力の不在と心に対する関心の薄さと理解の皮相さをあげつらわないわけにはいかない。そして余計なことだが、とりあえずそこに教訓を兼ねて、未知なるものへの臆病さも付け加えておくことにする。ともかく筆者は、前述の通り、解脱への関心が薄く、そして古代を含めた地球の、特に人類の歴史に関する関心が強かった。それと同時に今でも唯一と言っていい、強迫観念に至るほどに絶対的にアッラーの御前であっても、譲れない一点がある。それは絶対的にこの世界の真実の実相を知りたいと言う欲求である。それは立花隆的な軽薄かつ博覧強記的な知的好奇心と言うものではない(立花隆氏のご冥福を謹んでお祈り致します)。そういう博学に関する傍観的執着心は筆者には皆無である。


    それは、もっと仇討ちの為に敵を執拗に付け狙うぐらいの、何となく暗い情念がそこに悔恨と共に渦巻いている類のものであった。これを書きながら、その情念の由来に関して自分があまりその出所を考えたことがなかったことに今、気付いた。そもそも絶対的にこの世界の真実の実相を知りたいという欲求に突き動かされて、その目的追求に人生の全てを捧げて汲々としてきたので、その動機の解明にまでは考えが及ばなかったのである。しかしほぼほぼ今や人類の生存構造の解明の目処が立ち過ぎるぐらい立って、謎不足になっているぐらいであるから、今の筆者には心に余裕が生じている。毒矢が刺さっているのに、それを抜かないで、毒矢の出所やその種類などを考える馬鹿がどこにいるんだとお叱りの声を挙げたのがお釈迦様であるが、毒矢の出所を確かめるのは、毒矢を抜いたものの心の余裕である。毒矢を抜いた後に、毒矢の出所を調査してもお釈迦様も流石に怒って張り手はしないと思われる。かんにんしてつかぁさいお釈迦様!

(コールカーター博物館のサールナート派のお釈迦様像。左手は拳骨で殴る用意万端を示しているとか、いないとか)

    シャーマン的天界飛翔技法を使ってその情念の出所まで遠隔透視能力を使って遡及して、よってもって解明するという単刀直入の手段もとれなくもないが、それだとカンニングしているようで、何か面白みに欠けるので、やはりここは知的に解明するか、想像力によって解明するか、人間らしく考察してみたいと考えるのは鬼の如き筆者の人情ではある。というわけでここから、何故筆者が絶対的にこの世界の真実の実相を知りたいと言う強烈な欲求の背後に、親の仇討ちにも似た暗い執拗な情念を伴うのか、長考したいと思う。故にしばし長考。

 長考十分後。

    筆者はこの地球のほぼピトリ(祖霊)に近いくらい古い魂なのは、だいぶ昔から感じていたことである。恐らく、筆者はそうした原生人類とも覚しき、猿か、それよりも古い恐竜的な存在者か、無数のアメーバ的なものと意識を接合させて生命の進化を促す為の霊的仕事に携わっていたか(これを書いて、そこまで古く生命に関わってないなと直感するが)、どれかであろうとお手軽に仮定してみる。というわけで恐竜時代くらいに筆者は外宇宙から遊びにやって来たピクニック客だったことにしよう。ここから物語りを始める。


    何かここは若い惑星だな、この恐竜って奴は、知的になんか進化しそうだな、これに少し幾世代か、乗り込んで、知的成長を促して、魂の器としての三脳生物に進化させて、この地球という惑星で少しキャンプでもするかなと軽い気持ちで筆者はこの地上に下生した。軽はずみで下生したが、恐竜どもは馬鹿だったので食うや喰われるやのサバイバルゲームに終始した。そうした間に恐竜の神経インパルスに接合するシンクロ率も上がるようになって、筆者の霊性の力が、乗り込んだお馬鹿な小型恐竜に流れて、乗り込んだ恐竜に知性の定着が見られるようになった。とは言え、サバイバルゲームであるから油断すると喰われた。喰われても今のように記憶が失われるわけではないので、また次の自分の子孫の恐竜に下生して、トライ&エラーを繰り返していった。数千年でほとんど知的進化の軌道に乗ったので、悦に浸ってキャンプ生活を満喫していたが、他の宇宙人どもが、物理空間から直接介入しだして、地球に巨大な隕石をぶつけてきた。かくて恐竜のほとんどは絶滅した。自分の成果である知的恐竜どもは少なからず生き残ったが、筆者はエイリアンどもにぶち切れていた。その一方で恐竜を滅ぼしたエイリアンが自分達と似た、哺乳類型の三脳生物の進化に取り組み始めた。また図々しくも奴らは、好奇心から生き残った知的小型恐竜にも乗り込んでくるようになった。筆者も興味が湧いたので哺乳類型に交換留学生ばりに乗り込んだり、また戻ってきて小型恐竜型に乗り込んだりしながら、地球でのキャンプ生活を満喫した。小型恐竜よりも哺乳類的猿の方が乗り心地が良かったし、飽きっぽかったので、途中から猿型への搭乗が9割以上を占めるようになった。そしてある日、それは起こった。外宇宙より大規模な物質的、霊的なエイリアン集団が大挙押し寄せて、何かとんでもない物質的、霊的なシステム網を組みだした。すると猿型生活に夢中になり雌猿を追っかけまわしたりしていたので、数日、霊的な生活に戻る瞑想を怠っていて結果、あっという間にシステムに自分も取り込まれてしまった。何かヤバいことが起きたことは分かったが、何がそんなにヤバいのかは分からなかった。霊的なものへの回復はできたが、雑念という名のノイズが入って来て瞑想すれば、すぐにニルヴィカルパ・サマーディに入れたものが、徐々に入れなくなり、入れる時間も短くなっていった。一年後新しく生まれてくる猿が以前の自分の記憶を覚えていない、記憶喪失で生まれてくることに気付いた。シャーマン技法で無理矢理、地球の輪廻システムから抜けて、外にいる傍観者的宇宙の旅人霊に尋ねたところ、地球はある強大な霊団に摂収され、それは宇宙法に違反するものでもなく、合法的であり、地球は彼等の管轄におかれ自由に行き来することはできなくなり、彼等に管理されているということをくどくどとしつこいぐらい説明された。何言ってんだコイツはと思ったが、地上に戻って、その話を思い起こして、これは大変ヤバいことになったと気付いた。俺達みんな閉じ込められちまったんだと誰かが叫んだ。んなことあるかいなと別の猿が叫んだ。子孫の子猿は記憶喪失で生まれてくる為に、しょうもないほどにアホだった。愕然とした。そのアホ猿は二年前に死んだ、非常に賢い長老と同じところにアザがあったから。寿命が尽き、次に生まれてくる時は記憶喪失で救い難いほどアホで、狂暴となる。俺もこうなるんだと思うと非常にムカついた。そもそも俺はこの地球に恐竜時代からいるんだぞ。先取特権しらないのか。あのアホ管理宇宙人は。また台なしどころか、これどうすんだ。なぜこうなった。俺もこんなアホで狂暴な猿になるんか。仲間達は次々、アホで狂暴な猿に生まれ変わった。過去の記憶を保持している最後の世代が筆者猿だった。子も孫も、みんな糞野郎だった。お前ら絶対許さんからな。勝手にこんなことしてくれて。絶対このシステム、抜け道見つけて抜けだしてやるし、その抜け道を見つけたら、秘密になんかしないで洗いざらいブチまけたるからそう思え。俺のこと舐めんじゃねぇぞ。絶対だ。絶対だからな。絶対、このシステムの全容を解明して、全部、システムの裏道まで洗いざらい公表したるから。そうしたらシステムなど無だ!かくて筆者は威勢よく死んだのであるが、その勢いはどこへやら、ついにこんなになるまで解明に手間取り、結局、自分のザコ野郎性を晒す結果となったのは自責の念に駆られるわけである。とは言え、これはシャーマン技法で直に見たわけでなく、勝手に捏造した勝手気儘な物語である。でもこれに近似した内容で筆者が閉じ込められてしまったのは、なかなかもってありそうでもある。読者がこれを読んでどう感じるかは、アナザースカイならぬあなた次第である。
 というわけでただの創作話を20分ぐらいで書いたわけだが、これはこれで効果がなきにしもあらずなのである。というのもこの物語を書くことで蟠っていた古い感情が実際に浄化されたと感じたから。実際の話のディティールが知りたければ、遠隔透視すればいいのであるが、それは億劫であるし、これで感情の浄化効果が得られたなら、それは等結果なのであるからして、大した問題ではない。これは過去世の浄化のジェネリック薬みたいなものである。つまり近似的な構造であればその効果が等しく現れるわけであるから、あまり細部にこだわる必要はない。遠隔透視の方法論は以前、その詳細と理論を述べてあるので、それが基本みんな出来る前提で述べている。それでも出来ないなどと述べるご仁は遠隔透視法を教わっているにも関わず、全然それをまともに受け取らず、やろうともしないある種の見えない縛りと制約を受けている人達と見なす。したがって、筆者だけが特権的にそれが出来て、皆さんはそれが出来ないんですね~というマウント・ポジションを筆者は取らないし、取りたいとも思わない。それと同時に過去世を直接見る方法は教えてあるんだから、今さら過去世があるとか、ないとか、あるかどうか証明しろなどと、20世紀脳全開の人々に向けて書くことはもはやないわけで、そのやり方を以前きっちり教えたんだから、自分で自分の過去世を見てくれば、それで輪廻の実在証明は済むはずのものである。輪廻があるだのないだの低レベルな話はとりあえず、3周遅れぐらいの話題であり、どうせそういう奴はバブル時代に踊ってたアホどもなんだと思って堪忍袋の緒を堅く結んで辛抱するわけではあるけれども、このブログの九割の読者がどうやら筆者より年上ということがアクセス履歴から確認できるので、令和のこの時代に似つかわしくないが、今回に限って、その辺りの輪廻問題に関して過去世を遠隔透視方法を介入させずに特定する方法をなんとなくサービスで書いておこうと思う。
 さっきのように理由が特定できない感情の線を辿り、自己の感情的な反応から、近似的な物語を想像力で補いながら形成し、それで古い感情を浄化するという内観テクニックを用いる方法を、とりあえずさっきの思いつきでジェネリック薬を例えとして持ち出したところ、我ながら良い比喩と思われるから、ジェネリック薬的に前世記憶を再現する方法として、「ジェネリック前世記憶」と今後呼ぶことにする。こうしたやり方もあるにはあるが、別の方法もある。輪廻を認めるということは、「全ての物事には理由がある」という前提を認めることに他ならない。前世を認めないということは、様々な感情や選好という不可解な暗い要素を曖昧なまま放置し、それに理由を認めないという、実際に知性のレベルで論理的と称しながら、全く論理的ではない不可解な感情部分がこの世界に存在するという、意味不明な前提を受け入れて、不可解な感情の論理に突き動かされているということでもある。そうした人々を、筆者の言う20世紀脳全開の、マーヤーに瞞着されっぱなしのアンシャン・レジーム的とんだ間抜け野郎と名付けうるであろう。真剣に生き、自分の感情とも真面目に取り組まないから、そんなことも分からないわけで、これは非常に困ったことである。それがいい年こいてそうなんだから、ホント情けない限りではある。ところで、「全ての物事には全てそれなりの理由がある」という命題を、知的な外野的反論を退けて堅持するならば、それだけでも、遠隔透視を使わず様々なことが見えてくるものなのである。
 その例を筆者の自慢にならない過去世を使って、論じてみたい。筆者はマルセル・プルーストの大著『失われた時を求めて』を、筑摩書房の井上究一郎訳で三回程、通読しているのであるが、それはつまり、何をかくそう筆者の前世がマルセル・プルーストだからである!!
    





    というのは冗談で、プルーストの「無意志的記憶」を話の発端に持ち出したいから述べたまでである。プルーストを読んだことがあるなら有名な「無意志的記憶」をご存知のことであろう。これは誰にもある体験なので、「あっこれはプルーストの「無意志的記憶」や!」とすぐに名指すことがでいる類のものである。これはプルーストの話ではこういうことであった。中年に差し掛かったプルーストが、ゲイっぽく、午後の陽射しの中で紅茶にマドレーヌを浸して食べようとして、マドレーヌをその薄紅色の唇に持っていったところ、口の中に広がるマドレーヌと紅茶の味と共に、子供の頃に同じようなことがあったのが、突然、無意志的に思い出されたのであった。それは今まで意志的に思い出されたことがないものであり、それは決して意志の力で思い出された時の色褪せた記憶のようなものではなくて、鮮やかな当時の気分や匂い、生の感覚がそのまま戻ってきたものであった。これは誰にでもある経験だろう。十年ぐらい聞いてなかった音楽をふとした瞬間に聴いた時とか、何かの食べ物を食べた時とか、何らかの風景を見た時とか、そういう時に突然、それは起こる。それは色褪せた平板な記憶でなく。鮮明な立体的な記憶であり、ある種、通常の夢と明晰夢の違いぐらいの差がある。これがまず有名な「無意志的記憶」であり、それは意志的に発動させられないという欠点があるが、それが発動した瞬間、人は生命的な高陽感を得る。



    今回は「無意志的記憶」の分析、研究が目的でないのでそのメカニズムについての詳細を論じようとは思わないが、筆者はこの「無意志的記憶」に類似したある体験を度々持つので、それを述べるのが、今の目的である。それを筆者は「金屏風的記憶体験」と呼ぶことにしたい。筆者は様々な物事と接する中でこの「金屏風的記憶体験」というものを有したことが度々ある。しかし、それは輪廻について理解するまで、分けの分からない不思議体験でしかなかった。それは自分が行ったこともない場所や行ったこともない時代について学ぶ時に起こりやすい。何か初めての事物に触れた瞬間、デジャヴュとは若干異なるが、目の前に金屏風的な目眩く何かが広がるのである。しかしその何かがキラキラ広がって、心のどこかに風か吹き過ぎるような感覚はあっても、それが具体的な映像体験を伴わないので、それが思い出としては機能しないのであった。それは何かが本来、映像として様々に金屏風的に展開するはずなのであったが、それが映像として具体化しないので、何となく、今何か豪華絢爛で立体的な金屏風的なものが広がっているけれども、それが何故かも、それが何かも分からないのであった。何かのドラマがそこに展開しているはずなのにそれが近視眼的な自分の視力では捉えられないのである。これが筆者の言う「金屏風的記憶体験」である。今になって思えば、この「金屏風的記憶体験」が発動した時というのは、過去世の自分と関わりの深いものに接した時に発動するもののようなのである。しかし、その記憶はアーラヤ識的な集合的無意識、すなわちシャーマン的な知覚の領野に保存されているので、それが開発されておらず、この時空間の四次元世界に直接知覚が限定され、今生の記憶のみしかアクセスできない人には、金屏風だけが拡がるような空回り感覚だけが鮮明に発動するのであった。
 あんまり気は進まないが、具体例を挙げよう。15才の筆者は高校受験を控えていた。しかし筆者は既に、絶対的にこの世界の真実の実相を知りたいという欲求が芽生え始めていたので、ただ漫然と親や教師に言われるだけで、この世界でのはかない成功者になる為だけのしょうもない課題に取り組むことに漆桶をぶち抜くが如き勢いで大疑団を起こしたのだった。完全ストライキ状態に入らんとする筆者の内面において、かかる親や教師の近視眼的な要求が否決されるのは火を見るよりも明らかであった。いやいやこんな言われてることだけやっていたんでは、自分が生まれてきた目的も答えも得られんだろうということが明白であったから。自分の目的追求こそが第一である。そこで筆者は県下で一番偏差値の高い学校に受験勉強一切せずに、受験することにした。受かれば儲けものだし、落ちれば一年浪人できるので、その間にありとあらゆる哲学書や思想書を読み漁ることができるだろうと考えたから。筆者は受験勉強そっちのけで、マルクスだのヘーゲル等を読んでいた。そして案の定落ちた。親は泣いた。筆者は馬鹿な演説を学校で行ったり、中二病全開で意気揚々と15才にして浪人生活という名の、真理探究の途に乗り出した。ただ家で本を読んでるだけでは申し訳ないので、新聞配達をすることにした。とは言え、さすがに新聞配達以外、家で引きこもっていると最初の意気揚々さは吹っ飛んで自信喪失してしまった。マルクス→ヘーゲルと辿って、結局、ヘーゲル哲学の源にカント哲学があるということが書かれてあるので、カントの『純粋理性批判』から読み出した。筆者がよくア・プリオリという言葉をこのブログで使うのは、その当時の影響である。あいつはア・プリオリ(先天的)に馬鹿だとか、あいつの言っていることは、ア・プリオリ(先験的)に意味不明だから、考えてもしょうがないだとか、それは篠田英雄訳カントの負の遺産である。家で引きこもりつつカントを読み、新聞配達で近所のひとから哀れみの目で見られて、それなりに辛かったが、カントの『純粋理性批判』だけが当時の孤独な筆者の友達だった。しかしとんでもないくらいにその書は最初から読んでも珍文漢文で分からなかった。国語能力だけはずば抜けて高かったわけであるが、全く何を言っているかさっぱり分からないというサンドイッチマン状態であった。



    というわけで、ノートに書き写すことにした。ところが分からないところ、大事そうなところを書き抜こうとしたら全部、分からないところであり、全部大事そうなので全部書き写す結果になった。後にも先にも書物を一冊全部書き写したのは、篠田英雄訳の『純粋理性批判』とサンスクリットを覚える為に同一箇所を三回以上書き写す結果になった岩波書店の辻直四郎の『サンスクリット文法』の二つである。ちなみに筆者は最近、辻文法を3回以上書き写すという写経的なやり方をしてよかったと思うのは、サンスクリットで分からないことが出ると、とりあえず分からなくても、その答えが辻文法のどこに書いてあるかが一瞬で分かるからである。辻直四郎の『サンスクリット文法』は筆者の熟知の庭である。この恩恵は大きい。バルトリハリを訳していて、それを如実に感じるわけである。話がズレたが、かくて全てを書き写せば、否応なくカントの言っていることが分かるようになるのは当然と言えば当然であった。今思えば15才の孤独な少年の友達が、カント一人というのは悲しい限りである。そんな折に、世界の名著でカントの巻を買って家で読んでみたところ、カントの活躍したケーニヒスべルクの当時の古地図が解説に載っていた。それを見た瞬間、筆者の眼前にあの金屏風が拡がっていったのだった。

世界の名著『カント』の実際の挿絵

   しかし15才の筆者にこの「金屏風的記憶体験」を反省的に検討するセンスはなかったから、何かこの地図見ていると心が温かくなるなあという感想と共に、たまにその地図目当てでその本を拡げること度々であった。他方で、筆者の西洋哲学の素養は全て翻訳書に依存しているが、唯一原書に謎の固執を見せる哲学者がいる。それがカントの独断のまどろみを覚ましたと言われるスコットランドの哲学者のデーヴィッド・ヒュームである。


    デーヴィッド・ヒュームだけは全て原書で読もうとするという謎の強迫観念があって、14歳の時に『Dialogues and  Natural History of Religion』を皮切りに長ずるに及んで大部のイングランド史まで全部揃えた。



    特にヒュームに関しては、何故原書にこだわるのかは特に気にしてなく、原因ということさえ考えることもなかった。とは言え、ヒュームにおいて「金屏風的記憶体験」はなかった。西洋哲学者でがっつり自信をもって解説できるのは、一番がカント、二番がマックス・シェーラー、3番がデーヴィッド・ヒュームである。筆者の哲学の根本部分は何を言ってもカント哲学である。カント哲学の『純粋理性批判』が読みこなせるようになったら他の哲学者の書物は、マックス・シェーラーを除き、別に難しいこともなくなった。そしていつしかそれらは漫画を漫然と読むのと同じ感覚になり果てて、漫画は13才ぐらいで読むのを卒業したので、筆者にとって唯一の息抜きが哲学書を読むことと言う一般人には理解不能な行動様式が生じたのであった。
 その後に筆者は、色々紆余曲折があって、グルに出会うことになる。グルのアーシュラムに滞在していた折りには、リトアニアから来ていた集団がいた。その中に一人、ハーモニウムを弾くおばちゃんがいたのだが、その時は、もうある程度、霊的な眼も開かれていたのだが、このおばちゃんって、俺、昔、絶対確実に兄弟姉妹だったことがあるわ、懐かしいわという感覚が生じたことがあった。しかし絶世の北欧美女とは違って、ただの北欧のおばちゃんなので、過去世では親しそうでも今生では他人ということでそんなに気にしないでいた。ちなみにさすがに自分のグルのアーシュラムだと霊統が一緒なので、そういう近しい人々にとんでもない確率で出会う。過去世の筆者の部下やら、姉やら妹やら。関係性まで特定できるのが確実に数人はいる。何かリトアニアなんか、別に興味なかったけど、何かあっちに俺って関係あったのかなあと漠然と考えることがあった。ここまでまとめると
 
①人生で最も孤独な気分でいた15才の頃の唯一の精神的な友は、カントだった。そして筆者の哲学的素養の盤石なる基礎はカント哲学である。
②カントの活躍したケーニヒスベルクの古地図を見ると「金屏風的記憶体験」が生じた。
③デーヴィッド・ヒュームだけは何故か原書で読みたがる。イングランド史まで購入する。
④自分の過去世の妹だと思われるおばちゃんは、リトアニアの人だった。ケーニヒスベルクはリトアニアとポーランドに挟まれたロシアの飛び地である。
 
 この①~④を綜合(総合ではなく綜合と言うのも篠田英雄訳『純粋理性批判』の影響である)すると、どうやら筆者は過去世で、リトアニア周辺にいたことがあって、それはどうやらケーニヒスベルクだったようなのである(上記以外にも細かいところで色々符合する無数の事例があるのだが)、ってことはやっぱり筆者はカントの生まれ代わりなんだな!と思うと、心の審査システムから否の反応が返ってくる。カントではなく、それでもケーニヒスベルクに住んでいたとなると、誰だろう。名もなきカントの取り巻き連かな。やっぱり違うのかなと考えていた時に筆者は一人の人物を知ることになる。そしてあああああいやああ、ガッカリや、これだわ、俺。まじかああ。そうか。全く俺としかいいようがない奴だわ。うわああああとなった。それがカントにデーヴィッド・ヒュームの哲学を紹介したヨハン・ゲオルク・ハーマンその人である。


    自分の過去とは黒歴史であることがほとんどなので、自分の過去世を特定した時の特徴として、腑に落ちる感覚と共に、ちょっと失望し、自我が縮小するのを感じるものである。まさしくハーマンの人生を研究すると、アカンやつやわ、マジで変わってないな俺は、ただのカントのお友達だった三流野郎じゃん。300年進歩ほとんどなしの人生やんとなる。また行動パターンが今と一緒過ぎてハーマンを知れば知るほどムカついてくるのである。「成長という観念をお前は持ち合わせていないのか!」と。とは言え、日本語のWIKIにさえ辛うじて載っているのだからそれなりに良しとしなくてはなるまい(今のWIKIは筆者が初めて見たときより内容が充実している)。自分の過去世が、ナポレオンでした。チンギス・ハンでしたというなら自慢にもなるが、何か顔出しした時のような恥ずかしい気分だから、本当は発表もなるたけしたくなかったのである。しかしカルマ・ヨーガとして輪廻の存在を証する為にここに記すことにする。でももしかしたら俺がハーマンやん。嫌々、私がハーマンの生まれ変わりよ、という人が現れるかもしれない。その時は喜んで筆者のハーマンとしての過去世をその人に譲り渡したいと思うのである。「いや、俺がハーマンだ」「アタシがハーマンよ」等と争う気はないし、寧ろ、お金を払ってでも譲り渡したいくらいではある!筆者の誰も知らない過去世に興味のある方はここからハーマンのwikipediaにお飛び下さい。

【お香のお話】
 
 
 ここで筆者は、とりあえず気分転換に軽い話としてお香のお話をしたいと思う。筆者はケミカルなお香は、直ぐに鼻がムズムズし出すのでダメである。またお香は、色々と香りが付くのであんまり好きではない。インド香はたいてい日本で手に入るものは全部臭過ぎてダメである。例えば、19歳の筆者がホワイトフィールドでめちゃくちゃガンくれてやったサティヤ・サーイーン・バーバーのナグチャンパなどは、二回ぐらい買ったが、毎回一本付けて、残りは全部ごみ箱行きとなるぐらいあれはダメである。筆者から言わせて頂ければあれは単なる悪臭製造機に過ぎない。




    そもそも、こういう安いインド香は、外に一歩出ればアンモニア臭やら獣臭などが街路に充満するインドであって初めて、毒をもって毒を制するならぬ、悪臭をもって悪臭を制する類いの効果を有するものである。日本のほぼ悪臭と無縁のお国柄では、ただただナグチャンパ香など悪臭でしかない。従ってインドの香は総じて筆者の中ではただただ臭い悪臭の源みたいな認識でしかなかった。しかしそんな筆者が前回インド行った時に、最後、インディラー・ガーンディー国際空港でルピーが若干残っていたのでお土産屋で何とはなしに、まだ当時生きていた母親と既に10代の頃に亡くなった父親への仏前に捧げるお土産として、ナグチャンパ香を買っていったのであった。するとどうだろう。何かこれまでのインド香のイメージを覆すようなそこはかとない良い上品の香りがするのである。それがこれである。


    母親の葬式の時も結局、この香を焚くことになったが、非常に香しいのである。それで仕舞いにはアマゾンでさらに何度か購入した。んで何が言いたいかと言うと、この香は何とオールド・デリーの老舗中の老舗のムガル皇帝御用達のお香屋さんのお香であることが判明したのであった。店舗名はグラーブ・シンフ・ジョーフリー・マール(gulab shingh johri mal)である。


    ムガル皇帝御用達と聞いてなぜ自分に合うのかよく分かった。つまりこれこそがガチのナグチャンパで、サイババのナグチャンパはぶっちゃけただの大量生産のまがい物の類いでしかないのである。残念ながらこのお店は直接日本に出荷していないので直接注文はできないが、特別にアマゾンでの購入方法を教えるので、ムガル皇帝御用達の創業200年以上の本物の上品なインド香を楽しみたい方は注文されると宜しかろうと思う。インド香の固定観念が覆されること必至である。逆に言えば、この香を知らずにインド香を語るのはトーシロでしかないわけだ。アマゾンのここでナグチャンパを購入できる。

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