第4章 第17節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む


सत्पथः ॥१७॥



satpathaH ॥17॥



【正しい道であり[1]、】


[1]satpathaはsatとpathaの複合語である。意味の解釈において正しい人々の道(依主釈)なのか、正しい道(持業釈)なのか、それは筆者のあずかり知らぬところではある。

 軽蔑探求をしつつ遊行することこそが正しい道であり、最上の道であるということ。人々の愛や尊敬を求めて生きることは精神的な乞食であり、それはダルマに悖る卑賎な生き方である。とは言え、実際の悪業を行って人々の憎しみや軽蔑を買うのは、当然悪しきカルマを蓄積するわけであるから無論ダメである。悪しきカルマを蓄積することなく、人々に軽蔑されるというのは、一本足(エーカパド)で立つ踊るシヴァ神の如き絶妙なバランス感覚が必要となるであろう。というわけで、どうかどうかこのブログの一番下のいいねボタンを、必ずこれを読んだら、励みになりますので絶対絶対絶対、押して下さいね!!あと六波羅蜜の筆頭であるクラウドファンディングという名のお布施もお願いしますね!!

 
 ブログの更新が滞ってから早いもので一年半もの年月が、悠久なるガンガーの流れの如く経ってしまいました。筆者のブログの稀有なる読者諸氏におかれましては、筆者がコロナかワクチンの影響で死んだものと合掌された方もいらっしゃるのではないでしょうか?豈図らんや、憎まれっ子世に憚るとはこのことで、筆者は相変わらず死にもせで秋寝の果てよ旅の暮れと洒落こんで、ハバナ産の太い葉巻を世間様に憚ることもなく、鳥辺野の煙りもかくやとばかりに燻らせることもなく、アイコスをあだし野の露もかくやとばかりに吹かしまくることもなく、萎靡因循にただ我が生とその天下泰平の惰眠を、一人暮らしでテンション上がりまくりの大学一年生がケンタッキーフライドチキンを6ピースいっき食いするかのように、貪るばかりなのでありました。つまり無駄に元気ということです。とほほほ。まさかワクチンも打たずコロナにもかからず、何事もなかったかのようにこのパンデミックを乗り越えられるとは、神様仏様アッラー様ヤハウェー様アフラマズダー様インドラ様そして皆々様に感謝であります。ここまでがとりあえずいつもながらの内容のないご無沙汰のご挨拶となります。ここからは一年半のご無沙汰の言い訳でございます。そもそも思い返せば一年半前、筆者は中世インドの宗教史及び中世ヨーガ史の研究の前段階として、現代資本主義の研究と現代ヨーガ史論そして遠隔透視論並びにシャーマン的天界飛翔技法論そして宇宙人実在説に、テオドール・イリオン=ほら吹き野郎論など多岐に渡る、必要か必要でないかも今となっては判断のつきかねる、『それから』ならぬ夏目漱石作『道草』を喰って力尽きたのでありました。燃え尽き症候群とは他ならぬ一年半前の筆者のことでありましょう。そもそも筆者は中世インドの宗教史や中世ヨーガ史の血も滲むような研究を自己のノートに書き付けた果てに、大方の見通しを立てた上で、止せばいいのに勿体振って道草をし始め、ケインズだのピケティだのくだらない現代資本主義の研究やらエイリアンだの、クリヤー・ヨーガだの、コールカーター・ヨーガだの、アウンダー・ヨーガだの、なんじゃいそりゃというテーマにとんでもない集中をした挙げ句、予備研究を完成させることに血眼となり、本研究が頭から全部ぶっ飛んで消えてしまうという事態に陥ったのでありました。自分の中世インド宗教史及び中世ヨーガ史の研究ノートを開いてみても、甚だ悪筆で、なおかつノート作りの時点で脳内にまとめられている内容が主で、ノートに記している内容は備忘録程度の従でしかないわけで、読み返してみても、その自分のノートの解読の方が、文献の再解読より困難という有様なのでありました。つまり一から文献を再度読み込みし直す作業が必要であるということが、一年半前に判明したのでありました。鉄は熱いうちに打て、インドは円高のうちに行け、考えるな感じろ、自衛隊よ嚇灼とした日輪の如く決起せよと言ったのは、三島由紀夫御大でありましょうや?つまりインドの中世宗教史及び中世ヨーガ史も、頭からその研究内容がぶっ飛ぶ前に、自分のノートが解読不能になる前に完遂せよとは、1年半前の自分に言ってやりたい名言ではあります。かくて茫然自失の体たらくの筆者はうつ病を発症するどころか、破れかぶれの自暴自棄となり、一億総火の玉だ、玉砕だとばかりに一念発起し、僅か40日でうっかりクンダリニー覚醒してしまったのでありました。かくて


【世代間憎悪に燃える氷河期世代の筆者が、うっかりクンダリニー覚醒し、全身一億総火の玉の如くなった話】
 
 





 
 これまでの筆者が、口が酸っぱくなるぐらいクンダリニー覚醒が重要だとこのブログで再三再四強調してきたことを読者諸賢は覚えていらっしゃることだろう。とは言え、筆者は特に差し迫ってクンダリニー覚醒してやろうだとか、クンダリニー覚醒するまで帰れま10だとか、そういう切迫感を以て取り組んでいたわけではなかった。読者は筆者が遠隔透視技法をマスターし、そこからの発展形であるシャーマンの天界飛翔技法をマスターした顛末をご存知のことと思う。それはまず文献的な研究があって、その上で満を持してその技法の習得に取り組んだのであった。筆者の研究スタイルは、がっぷり四つに組み、がっつり大地にクラウドファンディングするつもりで、まずは文献研究に取り組むというのが基本である。かくて古今東西の事例などを豊富に収集し、しっかりとその全体の見通しが立った時点でようやく技法の再構成のための研究に取り組むというものである。従って今回のクンダリニー覚醒についても順番としては、中世インド宗教史及び中世ヨーガ史におけるタントラ技法を含むクンダリニー覚醒の理論と実践、大規模な事例などを収集し、その全体像を把捉した上で、よってもってその実現に取り組むというのが筆者の予定であった。しかしその予定調和的な筆者の牧歌的な人生プログラムは、一人の憎きバブル世代のジジイの出現で完全に狂ってしまったのだった。




 去年の11月頃の筆者は、何気なくアメーバブログのアプリを開いて、アメーバブログは、本当に終わってんな、オススメには闘病ブログか、介護ブログしか出てこないと、ブログ文化の高齢化が進展する状況を自分のことを棚に上げつつ、慨歎しながら眺めていた(口が悪くてすみません。困難な状況にある全てのブログ主様に幸いあれかし)。すると年の頃は60過ぎの退職したオッサンがこれまでの平凡な人生の中で、人知れず起きたクンダリニー覚醒の経験を淡々と語るブログを偶然にも発見してしまったのであった。内容は一目瞭然であり、過去に武術家を目指していた筆者の武術家のカンが鞘走る。「むむむ、こ、こやつ、でで出来るな!」。それと同時に筆者の阿頼耶識に潜在する集合的無意識からの世代間憎悪の炎が燃えあがったのであった。「まさかこんなバブル世代のジジイが、この俺様に一言の断りもなく普通にクンダリニー覚醒してるとは、ぐぬぬぬぬ」。口惜しくてハンカチーフを噛んだのは言うまでもない(横山たかし氏の冥福をお祈り致します)。例えば、だいだい色の服をこれみよがしに着ていたり、俺はスワーミーだ!俺はここに存在しないのだ!俺はブラフマンだ!とか、声高に宣っている御仁であれば、クンダリニー覚醒してる発言をしても、百歩譲って我慢できなくもない。しかし家庭人、社会人としてまっとうな人生を淡々と生き、誰にも知られることなき野に咲くたんぽぽの如き、その慎ましやかな歩みを粛々と続けつつ、自慢するわけでもなければ、宣伝するわけでもなく、また偉そうに教師然とするわけでもない様子で、ただただ自己の現在の境地に満足し知足していることが、バブルジジイのそのブログの内容から窺い知れるのであった。とは言え、氷河期世代から見れば世代間憎悪の対象である大将首が団塊世代なら、バブル世代はその小生意気な手下みたいなものである。故に上記の称賛されるべき美徳の数々は筆者の中で全部マイナス処理され、完全にゼロ化されてしまったのは、アーラヤ識のマーヤーのなせる業であってみれば致し方ないとも言えよう。かくて筆者曰く「団塊は絶許だが、それに準ずるバブル世代のこんな平々凡々なじじいが、まさかクンダリニー覚醒しているなんて、こんな口惜しきことがあろうか。こんなバブルジジイがクンダリニー覚醒できたなら、氷河期世代のこの俺様がクンダリニー覚醒できないはずがなかろうが!!」「ゴームクばりの氷河期の意地に賭けて、俺は一億総火の玉となってクンダリニー覚醒してみせる!!」

ガンジス川の源のゴームク(筆者撮影)

 こうして一人でアメーバのアプリを見ながら力んだり凄んだりして、内心のお喋りに明け暮れていた筆者は、これまでのオカルト技法をマスターした際の経緯を思い出すのであった。筆者が幽体離脱をマスターしたのは幼稚園からの幼なじみのE先生が幽体離脱の体験談を語るのを聞いて、こんな昔、原っぱで頬っぺた真っ赤にしておにぎりを美味しそうに頬張っていた小賢しき幼稚園児野郎が幽体離脱できて、この俺様が幽体離脱できないはずがないという対抗心を燃やしてのことであった。また遠隔透視をマスターしたのは、エモリー大学のただの平々凡々な政治学者であったコートリー・ブラウンがひょんなことから、アメリカのDIA(国防情報局)のスターゲート計画に携わっていた人物から手ほどきを受けて遠隔透視技法をマスターしたことを、その著書で知り、こんなオカルティストでもなんでもないただのくだらない三流政治学者に遠隔透視が出来て、十代の頃から無駄にシュタイナーの『いかに超感覚世界の認識を獲得するか』を読み込んでいたこの俺様ができないはずはないという確信をもったからなのであった。そして二度あることはやっぱり三度あるものである。去年の11月の筆者は、バブル世代のジジイにクンダリニー覚醒できるなら氷河期世代の俺様ならもっとクンダリニー覚醒できるはずという信念を生じさせたのであった。かくて筆者は独りごつ「順番は逆になってしまったが、もうシヴァ教だの、トリカだの、マントラ・ピータだの、マンダラ・ピータだの言ってる場合ではない。とりあえずがっつりの文献研究はクンダリニー覚醒してからでも遅くはあるまい。やるしかないな。俺の手札はロイヤルストレートフラッシュだって狙えるレベルだ。俺は満身一億総火の玉となって、クンダリーの300年の泰平の眠りを覚ます黒船のペルリ提督ばりの大砲主義で、全身是一億総ヒロポンレベルとなって、クンダリーを覚醒させてみせる!」と力んだのであった。かくて筆者は自らを如何にクンダリニー覚醒させるか、その作戦を練り始めたのであった。


 筆者には漠然とこれならイケるであろうという模糊たるクンダリニー覚醒の見取り図があった。筆者がこれまで読んできたヨーガ文献の中で要を得て簡潔、それでいて詳細において群を抜くのが、以前筆者が訳だししておいて『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』であると目星が付いていた。これは余計なゴテゴテの装飾もなく、スマートな内容かつ要点において舌足らずでもないという所が、本当にできる奴の実践用のマニュアルであると感じられて、これこそが俺のヨーガの教科書に相応しいであろうと思われたのであった。だから今回筆者がクンダリニー覚醒するなら、『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』の既定路線に沿うのが宜しかろうと考えたのは至極当然であった。こうして筆者の苦闘の跡が窺える筆者の抜粋や要約を何の解説もなしにコピペする。
 
 
 
肛門より指二本上方、性器より指二本下方にシキスターナ(火所がある)。
 
カンダスターナ(指四本分)はムーラーダーラより指九本上方でその中央に臍がある。
 
ムーラーダーラとトリコーナのシキ・スターナは別である。つまり会陰とムーラーダーラは別。
 
カンダ・スターナから二本指下方にクンダリーがある。クンダリースターナ。
 
臍より数えれば四本指下、スワディスターナの位置。
 
ムーラーダーラにプラーナが侵入するのは春分、頭頂部にプラーナが来るのが秋分。
 
ピンガラーからクンダリースターナにプラーナが入るのが日食、イダーからクンダリースターナに入るのが月食である。
 
ここでのプラナヴァとはプラーナーヤーマとオームの音を呼気(a)停息(u)吸気(m)と組み合わせものである。
 
会陰シーヴァニーを圧する。性器の先端から風を引き寄せる。 
 
ムーラーダーラの中央にプラナヴァによって固定されたビンドゥを凝念する。
 
火の神(シキスターナ?)がクンダリーを変成し、風に乗ってスシュムナーを進む。
 
ここで言うビンドゥとは何か?
 
ビンドゥ・ナーダ
 
 
 ここまでが筆者の当時の要点の抜粋である。筆者にとって謎だったのは、プラーナーヤーマを伴うプラナヴァ(聖音オーム)によってビンドゥを固定し、それをムーラーダーラに凝念するというところのビンドゥとは何か、シキスターナ(火所=会陰)とカンダ・スターナとその指三本下に位置するクンダリー・スターナとムーラーダーラ・チャクラ(尾てい骨)の機能的関係性とそれぞれの用法とがどうなっているのかというところであった。こうしたことを疑問に思いながら、これまでのクリヤー・ヨーガの技法体系とナーローの六法のチャンダーリーの火の技法体系とを参照にしつつトライ&エラーを繰り返していった。最初、1~2週間でクンダリニー覚醒できるだろうと甘い見通しを立てていたが、全然その効果はなかった。筆者は以前から瞑想するとシキ・スターナからムーラーダーラにかけて、振動(スパンダ)が発生するので、それを活かすことが重要だと感じながらも、それをどうやっても活かしきれないまま一ヶ月が過ぎ去ったのであった。子供の時分なら一ヶ月で効果がなければ諦めて放り出していたであろうが、トライ&エラーをする時の試行錯誤の方法と心構えだけは、武術修業で身につけていたので落胆することはなかった。ある効果を求めてその効果が思うように出ない場合、単に蓄積的な量の問題なのか、何かが根本的に欠け、間違っているのかなどの質の問題なのか、両面から考える必要がある。そして今回は登場する要素が複数あり、その組み合わせも無数である。これはキーロックのパスワードを特定するぐらいの組み合わせ的な難易度に、さらに時間軸による変化も考慮に入れなくてはならない。これは料理みたいなもので、水溶き片栗粉をいつ入れるか、オリーブオイルにニンニクの香付けするタイミングなど、知っているものなら常識だが、全部その工程が無知な状態で、麻婆豆腐やペペロンチーノを作るようなものである。空間的要素と時間的なタイミングの要素を考慮に入れれば、その正解はほとんどタール砂漠で駱駝に乗って猛ダッシュしながら、針の穴に糸を通すぐらいのレベルと言っていい。つまり謎解きは困難を極めたのであった。しかしバブル世代の平々凡々の小癪な爺さんだって出来たんだから(この場合過去世の修業の要素は加味しないでおく。あと名誉のために一応付け加えておけば、実際のこの方はバブル時代にも踊ってはいなかったと思います)という考えだけが筆者を勇気づけたのであった。


初めてのインド一人旅で駱駝を連れて意気揚々な十六歳のタール砂漠における筆者、ジャイサルメールにて(駱駝使い撮影)



    クンダリニー覚醒を目指して40日が過ぎようとしていた。筆者は万策尽きかけていた。12月の寒風が、クリスマスの到来の近いことを告げていた。雪が夜半の空から降り下っていた。静寂の中で全てが固く眠りについていた。クンダリニーのとぐろを巻く蛇は、冬眠の夢の中で春の花吹雪を夢見ていたのだったが、それが筆者には見えないのであった。遠くより一台の車が夜の道を物寂しく走るのが分かった。電気の消えた部屋の壁がケーダールナートの雪壁を思わせ、隔絶した冷たい月影の中でそれを浮かび上がらせていた。部屋の電気をつけて隅の、殆ど読むことのない幾冊もの本が無造作に積んであるところから一冊の本が仲間外れの如く床に落ちているのが目に止まった。『秘法!超能力仙道入門』と書いてあった。学研ムーブックスの一冊で、高藤聡一郎という一世を風靡した仙道家の定価700円の大衆向けの書物であり、ずっと昔にブックオフで二束三文で売っていたのを買っておいたものだった。しかしパラパラめくったきりでそのままほっぽり置いていたものでもあった。「はてさてこんなものが。高藤聡一郎の本じゃん。全然読んでねぇよな。買ったのは5、6年前かな。流石に仙人になりたいとは全然思わないんで真面目に読んでなかったな」。筆者はその書を手にとりパラパラめくってみた。武息のやり方が載っていた。筆者が昔簡単にググって出てきた方法とやり方が違っていることが、一挙にゲシュタルト的な啓示となって脳に飛び込んできた。「俺は生まれてこの方、色々な呼吸法を試したが、自分がこれまでやったことのない呼吸法があるなんて、すげぇ盲点だな。武息によって小周天を回すと書いてるな。えぇまさかこの呼吸法で小周天ができるようになる!?」



 今でもネットでざっとググってみると武息とは逆腹式呼吸法で息を吸うときに腹を凹ませ、息を吐くときに腹を含ませるもので、息を吸うときに肛門を占めるとある。しかし高藤聡一郎の『秘法!超能力仙道入門』では武息とは息を吸う時にス、ス、スと一回の吸気の時に何度かに分けて徐々に肛門を締めながら短く吸うのを繰り返し、そして停息する。次に同じように息を吐くときも、何度かに分けて、吐き出すという風にそのやり方が書いてあってネット情報とは違っていた。筆者はヨーガの書で一回の呼吸を短く分割させるという方法が書いてあるのを見たことがない(見落としているだけかもしれぬが)。そしてこの呼吸法と共に生じた熱感や振動を小周天の経路に沿って回せばいいと書いてある。この時、背中の督脈ルートを昇るのが、進陽火と呼ばれ、吸気の分割回数を多くし、吸気の時に上昇させるのである。さらに身体前面の任脈ルートの時は、退陰符と呼び、呼気の分割回数を多くし、呼気の時に下降させる。また口元に来たときは唾液を嚥下して気を下げるのである。とりあえず夜寝る前にやってみた。今まで瞑想するとすぐに発生する基底部の振動を言われるがまま、高藤聡一郎流の武息を用いて督脈ルートに沿って上昇させようと意念を使ってみると、ゆっくりその振動が背中を上昇する。あれよあれよいう間に頭頂部が振動し始める。ここで頭上の冷気を取り入れて、短く分割した呼気と共に下降させ、唾液を飲み込むとすっと胸ぐらいまで振動が下降した。そこから徐々に下げていく。するとスタート地点の基底部に振動が戻ってきた。「はっ!?俺、まさか中学生ぐらいから名前は知っていた小周天、こんなに簡単にできちゃった!?」。筆者は半信半疑ながら結果的に基底の振動が小周天のルートを辿って一周した事実を反芻する。「なんだか余りににも呆気なさ過ぎるが、クンダリニー覚醒目指してたが、どうやら小周天はできるようになったらしいぞ」。こうして筆者は、何度か小周天を繰り返し、その日は就寝した。それから真面目になって高藤聡一郎の本を研究し始めた。するとこの小周天で練り上がった気を背骨の中に通すと、ゴーピ・クリシュナが体験したクンダリニーの上昇経験が得られるということが分かり、また高藤聡一郎自体がゴーピ・クリシュナ同様に背骨を気が上昇するクンダリニー経験をしていることが分かった。ヨーガ教典より仙道書の方が、それも学研ムーブックスの方が効き目があるのはどうなのよと思ったが、この方法で背骨に気が侵入するチャンスを狙う。炎として振動を視覚化したり、花開く蓮華として視覚化したり、それを複合したり、色々やった。そしてそれは小周天ができるようになって僅か数日後に起こったのである。

    寒がりの筆者が、電気毛布を敷いた布団の上にそのまま直に座るのもなんだかなと思って、何か尻に敷こうと、そこら辺にある丁度良い本を探していると、岩波文庫の岩本裕訳の『法華経』が目に入る。罰当たりかなとは思ったが罰当たりな筆者はこういう時だけ唯物論者となって、これはただの紙の集合体に過ぎないと判断し、尻に敷く。なれたように小周天を繰り返し、その後、振動を呼吸に合わせたり、炎として視覚化したり、頭の頭頂部からビンドゥが滴り落ちるのを視覚化したり色々と試行錯誤を繰り返す。ここでトリガーになる何か、視覚化と呼吸法を組み合わせたものを試したのは覚えているが、それ以降の経験が衝撃的過ぎてトリガーとなった視覚化と呼吸法が何だったのか未だに思い出せないのだが、突如、尾てい骨あたりが意識の中で鮮明化したのを覚えている。今まで遠いうっすらとした身体感覚の中で尾てい骨周辺を意識していたのが急に身近に感じられた。トリガーとなったちょっとした呼吸法と視覚化の組み合わせを繰り返す。そしてそれは突如起こったのである。いきなり尾てい骨の辺りから「バチコーン」と音がした。目の前が白熱電球でもついたかのように、これから正義の話でもするのかしらんとハーバード白熱教室化した。これまでの36度くらいの体感から急激に42度の高熱が出た人のような体感に変わって、みるみる何かとんでもないヤバイのが、尾てい骨から昇ってきた。何か「バチコーン」言うて昇ってきやがったという瞬間的な想念と共に生物として危険本能が猛烈な警笛を鳴らしだした。それは「緊急事態発生・緊急事態発生」という意味であった。筆者はこの時、刹那的にこう考えた。「こういうヤバい時に人はたいてい母ちゃ~んとか、お母さ~んとか叫ぶんだろうな~、でも俺の死んだ母親はクンダリニー覚醒なんか当然したことないし、こういう時に母ちゃ~んなんて叫んでも何の意味もないだろうし、うちの死んだ母親が助けてくれるはずもない。どうすれば良かろう。てか俺のグルはハイラーカーン・バーバーだ。その道の完全なる専門家やん。ババジ、ヤバいっす、クンダリニーがバチコーン言うて昇ってきてます。どうしましょう。ババジー」。「普通に分かるだろう」みたいな簡単な返信が返ってきた。「そうだ、イダー気道を活性化させて冷涼な気で中和するんだった」。『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』でイダー気道からスシュムナーや、ピンガラー気道に気を流す基本はマスターしていたので、早速イダー気道活性化を試す。あっという間にクンダリニーの暴力的な上昇が収まる。高熱と白熱の感覚が一瞬で消える。「ヤバい、俺もしかして鎮火するの早過ぎたか?もう少し危険な状況で持ちこたえた方が良かったか?」。そんな後悔にも似た考えが浮かぶ。それと同時にブラフマランドラにすっかり穴が空いたような感覚が生じ、息を吸うとブラフマランドラから背骨にプラーナが侵入してくるのが分かる。何だか背骨で呼吸しているみたいである。特に体調が悪いという感覚はなかったので、その日はクンダリニー覚醒の興奮覚めやらぬまま寝た。次の日は仕事が休みで異常はなかったが、二日後に仕事に行こうとすると、とんでもなく自分の体力が消耗し、普段のように身体に力が入らず頑張れないことに気づいた。普段霊的なエネルギーだの雰囲気とかに鈍感だったが何だか敏感になってしまった。それと同時に人から、特に近くの女性からエネルギーが自分に流入してくるのが分かった。なるほど、陰陽の気はこうして様々な人と無意識に交換交流しあい、女性の気と男性の気が無意識に流入流出し様々に混じりあっているということが体感的に分かった。それと同時にタントラとはこの延長線上にあることが自ずと理解された。かくて小周天の渦巻きの如き気の流れを生じさせられれば、気を外に出したり、吸収したり簡単に出来ることが分かり、そして男女陰陽の気はプラスとマイナスのように強力な力で結合するように出来ているわけであるから、自ずと気の交流がほとんど何の努力もなしに出来るようになるのである。
    クンダリニー覚醒してから数日後、瞑想中にクンダリニーがまた上昇し、そのまま意識が体外に頭頂部から抜け出てて、地球の圏内を抜けどんどん上昇していった。そのクンダリニーの上昇気流に乗って意識は銀河系を超え、ビッグバンに達し、そして幽界や霊界を超え、やがて「絶対」的な中心に達した。もしシャーマンの天界飛翔技法をマスターしてなかったら、この経験に仰天したことだろう。しかし自分は、クンダリニー覚醒して「絶対」に達した経験とシャーマンの天界飛翔技法を使って意志の力で上昇して普段瞑想中にいつもやってる「絶対」を体験するのとが、殆ど一緒であることに気づいて、その時、別の意味で驚いた。それはクンダリニーの上昇気流的エネルギーに他力的に乗っかって、「絶対」に達するのと、意志の力でちょっと面倒臭い感覚を伴って達するのとの違いでしかなかった。しかし他力的なクンダリニー覚醒による「絶対」への到達は、自分の努力感がない分、圧倒的に客観的な感じがし、自力的なシャーマン的天界飛翔技法での「絶対」への到達は、主観的な自己欺瞞や自己暗示ではないかという一抹の疑いが伴うのであった。遠隔透視の達人と化した幼稚園からの幼なじみであるE先生は、この面倒臭いような疲労感を伴う遠隔透視を嫌がって積極的にしたがらないし、自己暗示の可能性への疑いが今でも根強い。筆者が40日でクンダリニー覚醒した顛末は以上のような内容である。筆者の今回の正直な感想は「クンダリニー覚醒って都市伝説じゃなかったんだなあ」というあれだけクンダリニーが重要だと力説していた張本人でありながら全く呑気なものであった。かくて筆者はクンダリニー覚醒の何たるかの一端を知り、思いがけず性的ヨーガの実践を経ることなく性的ヨーガの方法とその論理を理解してしまったのであった。結局、エネルギーを作り出すのに男女両性のエネルギーを混合するのが手っ取り早いし、楽である。しかしそれは例えば、ダースベーダーやジェダイがいつもパートナーがいないとフォースを発生させられないようなものであるから、あまり格好のよいものではない。多少禁欲し努力すればエネルギーは自家発電で生み出せるのである。その労力が省けて、その上、楽しいかもしれないが、性的ヨーガは確実にカルマ論的負債を伴う。あとタントラによるエネルギーの生成は、自然の摂理であって、それほど努力や特別な方法もなく自然に起こるものであるから、筆者が以前に想像し邪推していたような不自然なものでもなければ、それほど特殊な邪道というほどのものではない。ハイラーカーン・バーバーはタントラは、道の途中にある誘惑であると語っていたが、まさにその通りで道に入れば、自ずからやろうと思えば自然にできる類のものである。しかしやる必要はない。
    人生の予定表よりも早くクンダリニー覚醒経験と、梵我一如的体験、そしてタントラ・ヨーガの本質的な理論的根拠を理解してしまった筆者は、結果、自分の研究の楽しみを奪われた状態に陥ってしまったのであった。クンダリニー覚醒したことのない状態で、様々なアーガマやタントラ文献から、クンダリニーの朧げな存在を指し示す目印(リンガ)を見つけて、想像し推論し、その理論を作り出すという目標が、クンダリニー覚醒体験を経た筆者には蛇足的な取ってつけたようものになり果て、タントラ・ヨーガについてもシャクティ派やカウラ派の文献等から、その有り様を想像し推論し理論を構築するということが殆ど不要になってしまったのだった。本質論的にその論理が分かってしまえば、全てのタントラ文献は大仰さで、ゴテゴテとした装飾や意匠に満ちていて、言うほど大したことなくて、最初の初動のクンダリニーの発火を一人でするか、性的ヨーガで二人でするかの違いに過ぎない。つまり一人で火をつけられない人用の苦肉の策であり、スカイダイビングを先生と一緒にするようなものでしかないのである。またそれはシャクティパットとしても現れるわけで、ラーマクリシュナがヴィヴェーカーナンダに一触れした時の逸話もタントラ的なエネルギー注入による覚醒の方法を取ったに過ぎない。こうして筆者の中世インド宗教史と中世ヨーガ史の研究のモチベーションは、クンダリニー覚醒とタントラの論理的把握に成功した結果、だだ下がってしまったのである。梯子を使って壁を超え、舟を使って対岸に渡った人が、今さら梯子や舟を研究する必要があろうかというわけである。とは言え、その後一ヶ月ぐらいで頭頂部のブラフマランドラに穴が空いた感覚は消え、元の木阿弥のごとく、スシュムナーはまた詰まってしまった。そしてそれ以降、小周天は出来てもクンダリニーの上昇体験は起こらなくなった。そしてようやく最近になってボチボチまた自己のクンダリニー体験とタントラの論理を把握し咀嚼した上でインド中世宗教史と中世ヨーガ史への研究のモチベーションが復活したのであった。アーガマ聖典やタントラの作者でどれだけの人間がクンダリニーが覚醒する体験を経たのか、また現代の学者でどれほどの人が筆者と同じ体験を経たのかを考えれば、筆者の経験の圧倒的有利性が分かったから。筆者のように「バチコーン」体験があるかないかは研究者としては大きな違いではないだろうか。
 ここまでが筆者の個人的なクンダリニー覚醒体験である。これよりやっつけで筆者のクンダリニー覚醒体験をまとめて、それを他の複数の人々のクンダリニー覚醒体験と比較してみようと思う。筆者のクンダリニー覚醒体験を箇条書にまとめよう。
 
①小周天ができるようになって、会陰付近で瞑想時に発生していた振動(スパンダ)を督脈から任脈にかけて回せるようになった。そのトリガーは本来の武息の認識であった。
 
②小周天ができるようになって気ないしプラーナらしき振動を増幅させられるようになった。
 
③残念ながら具体的にクンダリニー覚醒のトリガーとなったちょっとした方法を覚えていないのだが、何らかのの炎や蓮華、ビンドゥとしての点などを視覚化するのと呼吸法を一致させた結果、呼吸と共に、尾てい骨あたりの意識が明るくなり、意識にフォーカスされたようになり、それが数分で発生した。
 
④「バチコーン」という尾てい骨から鳴り響く音と共に凄まじいエネルギーがおそらく尾てい骨から背骨に侵入し上昇した。
 
⑤いきなり目の前が白熱したようになった。
 
⑥体感温度が36度から42度くらいの高熱を出したかのように上昇した。
 
⑦みるみるエネルギーが背骨を通して上がってきて、本能的な生命の危険を感じた。
 
⑧ひよって多分上昇5秒後くらいにイダー気道を活性化させて直ぐさま鎮火させてしまった。
 
⑨全てが元通りになったが、頭頂部の百会部分に何か穴か空いて盛り上がったような体感が生じ、頭頂部に熱感が何日間か残った。呼吸すると自ずから吸気の時に頭頂部からプラーナが尾てい骨目掛けて入り、呼気と共に外に出るという体感が続いた。
 
⑩病み上がりのようにエネルギーの枯渇を感じると共に、他人のエネルギーに敏感になり、特に近くにいる女性からエネルギーが流入してくるような感覚があった。エネルギーへの敏感さが1~2週間以上続いた。
 
⑪その後、瞑想した時にクンダリニーが再度上昇し、そのエネルギーに乗って、地球→太陽系→銀河系→複数の宇宙→幽界→霊界→絶対と意識が他力的に上昇した。
 
⑫その後、瞑想とかも一切しないようになり、頭頂部の穴が閉じて、元の木阿弥に戻った。エネルギーへの敏感さも全くなくなった。
 
 
 ①と②に於ける武息と小周天は、クンダリニー覚醒において優れて実践的な方法である。正直、ヨーガの方法だけで背骨にエネルギーを流入させうるだけの量と質のプラーナを下腹部に生成するのは、無理ゲーである。小周天でぐるぐる身体に気を回して比喩的な意味でだが、遠心力をつけてエネルギーを増幅させなければ現代人の身体感覚と器用さのレベルではクンダリニー覚醒は無理ではないかと筆者は考える。つまりヨーガより仙道をやった方がクンダリニー覚醒は近道である。しかし仙道は卑俗な思想や超能力=シッディに目がくらみ、俗物的中華根性に毒されているので、より高い精神性による堕落からの防御という点ではヨーガの方が優れている。③において小周天からどういうトリガーによって背骨にプラーナが侵入したのか、だいたい大まかに覚えているが現在において再度のプラーナを尾てい骨に侵入させる再現が取れないので目下再検討と研究中であり、ここに報告できないのが残念である。
 ④~⑨までは、筆者のクンダリニー覚醒体験の羅列であるが、もし何の予備知識もないまま有名なセレブもやってるからとかいう理由で、「ワタシもマインドフルネスだ!」とか言って瞑想して、これが発生したら人はさぞ驚くだろうと思う。繰り返しにはなるが筆者がE先生にクンダリニー覚醒した顛末を面白おかしく報告した会話を、警告の意味を兼ねて無駄に再現する。「マジ、バチコーン言うて、いきなりグワァアアってもう何やわけわからんのが、ドゥワアアア上がって来て、目の前はこれから正義の話でもされるやないかーいと言わんばかりの白熱教室になってもうて、お先真っ白の白熱状態やし、それで体感温度がいきなり36度から42度まで上がって全身一億総火の玉状態でこれは人体発火現象するんやないかい言うてマジヤバ状態で、その間僅か数秒っすわ。それでバチコーン言うたやん。もう何かスッゴいのグワアアアァ上がって来てもうてるから、おかああちゃあーんってこういう時、人は叫ぶんやろうなってふと考えて、でもうちのオカン死んでるし、クンダリニーとか素人やし、おかあああちゃーん言うても助けられるわけないやんなんて冷静に考えて、あっそうや、うちのグルはその道のプロやった、もうババジに頼むしかないって思うて、もうグワアアアア来てもうてるし、BACHIKO--N言うてもうアカンなって、ババジーどうしましょう?って言うたら、どうするかお前は分かっているって返ってきて、あっそうやった言うて、それでイダー気道活性化させればいいんやってなって、それでイダー気道から冷たい気をスシュムナー管に入れたら、あっという間にバチコーン言うてグワアアア来てたのがなくなってしもうたんや」「マジで身近な人でクンダリニー覚醒する人いるなんてビックリだわ。それに日常会話でバチコーン使う人初めて見たわ。ぎゃはははは」「ぎゃははははは」。みたいな会話が成立するくらいの生命のエマージェンシーレベルマックス状態であった。⑪の体験は、これまでこういう体験をしたことがない人が体験したらクンダリニーすごいとなるだろうが、一筋縄でいかない筆者はこの経験で、これまで筆者が行っていたシャンカラの『ウパデーシャ・サーハスリー』に記載のあるパリサンキヤーナ瞑想をサーンキヤ哲学に適用した瞑想方法で意識のフォカースを徐々に高次のものに合わせていくことで、より高い意識状態に達するやり方が間違っていなかったということが再確認できた。サーンキヤ瞑想やシャーマンの天界飛翔技法で「ブラフマン」に達するやり方とクンダリニー覚醒による他力的なブラフマンへの到達が程度の違いでしかなくて、「これ俺がいつもやってる瞑想と基本一緒じゃん」という何ともクンダリニー覚醒に有り難みを感じていない面白くない感想が出てしまったのであった。
 それでは筆者と同様の体験をした人々の体験談を取り上げていこう。以前の記事でも取り上げた有名なカシミールのゴーピクリシュナの場合。
 
 
深く深く定に沈む。突然、尾てい骨の先端、結跏趺坐をしている身体が下に敷いた毛布にふれるところで奇妙な感覚が走った。……蓮華のイメージが鮮やかに浮かんでくると〔当時の彼はは頭頂部に蓮華をイメージする瞑想をしていた〕、またその感覚が起こった。……心臓の動悸は激しくなった。精神を集中するのがますます難しくなってきた。……今度こそ注意を散らすまいとしているとその感覚はだんだん上昇してくるようであった。自分がゆれているような感じがしてきた。しかし、あくまで蓮華の像から心を離すまいと努めた。すると突然、滝が落ちてくるような轟音とともに、一条の光の流れが脊髄を伝わって脳天にまで達するのを感じた。……光はますます輝きをまし、音もだんだん大きくなった。身体がゆれたとたん、自分が光の輪に包まれて、肉体の外にぬけでた感じがした。……私は一点の意識となり、広々とした光の海の中にひたっていた。……意識の知覚対象である肉体が遠くにどんどんひきさがっていって、ついに全くそれが消え去ってしまった。点にしかすぎない肉体を包みこむ大きな意識の輪が私であった。そして筆舌につくせない歓喜と至福の明るい海に没入していた。
 


 筆者がバチコーン体験と名付けたものをゴーピ・クリシュナはここで控え目に滝が落ちてくるような轟音と表現している。筆者はあまりにも早くひよってイダー気道を活性化させて鎮火させてしまったので、体外に飛び出て「絶対」の領域に達する体験を別の日に経験している。また歓喜と至福の明るい海に没入したかと言うと、普段の瞑想でもこの領域に最終的に意識をフォーカスしていたのでクンダリニー・シャクティによっての体験と普段の意識的な天空飛翔的シャーマン技法による「絶対」への到達は程度の差の門題だったので、歓喜と至福に浸るよりも、「これ俺が瞑想で普段やっているものの強烈バージョンという程度の差しかないな。基本は一緒だな」という有り難みのない感想になってしまった。結局この体験の程度や質の差は身体からの意識の切り離しのレベルの違いだと考えられる。というわけで大まかな点では、筆者とゴーピ・クリシュナの体験は、類似的であると言えよう。次に高藤聡一郎のクンダリニー体験を引用する。

    著者は小周天ができるようになってから小薬づくりにアタックしたのだが、なかなかうまくいかず、行がストップしてしまった。これを打開しようと、大周天に挑戦してみたところ、1回でできてしまった。その時の感じは今でも覚えているが、背骨のところをゴーッという感覚が突き抜け、頭のてっぺんにものすごい衝撃がかかった。思わず体が浮き上がりそうになったほどある。……そこまではよかったが、あとが大変だった。……頭の中をワーンといった音が駆けめぐり、霧でもかかったようなボーッとした感じになってしまった。……頭のてっぺんが裂けて、ひとつのリズムで閉じたり開いたりするのである。……呼吸にそって頭頂が閉じたり開いたりという感じは、それから1年ぐらい続いたことを覚えている。   (P219)
 


 これが高藤聡一郎のクンダリニー覚醒の体験談である、筆者の体験とほとんど類似であり、この頭頂部の梵孔が呼吸に沿って開閉する体感は筆者の場合一ヶ月ぐらいで終わった。
    続いて日本人のダンテス・ダイジの『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』から見ていこう。筆者は正直、ダンテス・ダイジは好きになれない。なぜならそのおおかたを占める下手くそな素人的ポエムが邪魔過ぎるからである。彼はパイロット・バーバー系統のクリヤー・ヨーガを学んでクンダリニー覚醒をしたと言われている。
 
 クンダリニーとは、サハスララ・チャクラ(以下原文ママ)からムラダーラ・チャクラまでに直結したスシュームナーそれ自身なのである。それから私は、頭のてっぺから肉体を離脱した。そして、一直線に金色の光線となって六つの次元を通過した。……私は、全てを見た。それは、私の最初にして最後の個別性であった。さて、私であるところの一つながりの光線は、第七番目の究極の中心光明へと連なっていた。私、その第七番目、つまり中心太陽の只中に突入した。(以下、ニルヴァーナは鼻毛だみたいなビート・ジェネレーション的なしょうもない稚拙な詩的表現が続くので割愛)  (P72)
 



 
 筆者が高校生ぐらいの時に立ち読みでこの書を読んで、彼の文章と以下の図を見て、こいつはアタオカの法螺吹き野郎だなと睨んで、とりあえず購入を控えたわけだが、彼の経験はゴーピ・クリシュナの経験とも一致しているし、筆者もクンダリニー覚醒体験して、「絶対」領域への突入体験(ダンテス・ダイジ的に言えば第七番目の中心太陽への突入)をして、「これがダンテス・ダイジの言ってたやつだな」と苦笑したわけであるから、彼の言っていることも、この図も体験者から言えばこの通りなのである。彼はほら吹きのアタオカではなかったわけである。


 ゴーピ・クリシュナはクンダリニー覚醒をしても人格は変容しなかったと慨歎していたし、ダンテス・ダイジは謎のガス自殺を遂げたと言われている。また筆者のこのおちゃらけたこれまでの文章を読んで頂ければ分かる通り、クンダリニー覚醒は、それによって人格変容が起こり、聖者を生み出す魔法ではないということがお分かりになることだろう。もし筆者がコテコテの唯物論者で、まったく宗教やスピリチュアルやオカルトに興味のない人間であれば、この経験を通して一切価値の価値転換が起こり、精神的に目覚めたと言えるかもしれないが、ぶっちゃけ目覚めとは体験前後の落差でしかないのである。例えば、卑近な例で言えば、インドに行って価値観が変わると一般的に言われていたことがあるが、インド如きに行ったぐらいで世界観が転覆したり、反転したり、崩壊したりしてしまうような「お前のもともとの価値観は一体どんなひょろひょろモヤシだったのか」と言いたくなるのと同じで、正直、クンダリニー覚醒して世界観が転覆したり、反転したり、崩壊したりするとしたら、それはもともとの価値観が錬成不足であり、世界そのものの構造の研究不足と言わざるを得ない。クンダリニー覚醒の第一歩に過ぎない体験ではあるが、筆者にはある程度、クンダリニー覚醒の範囲と限界が理解できたので、この体験をもとに、覚醒体験、いわゆる悟りと解脱について、これから述べてみようと思う。
    悟りとは簡単に言うと、自分が何者であり、世界はいかなる仕組みになっていて、自分の問題は何かということ分かり、その解決が分かった状態を言う。そして解脱とは、自分の問題状態から抜け出ることを言う。ここで問題なのは、この問題状態である。今流行のアドヴァイタ的発想だと、問題などなかったのだと言うことに気づいて、そこからスピリチュアル稼業に邁進して、お金を集めるというのがその定石ルートである。しかしそれは筆者から言えば分かっていないと言わざるを得ない。筆者は自分が「絶対領域」と異ならないと言うことを理解しているが、筆者の低次の諸々の領域部分は、この地球の輪廻システムに嵌まりこんでいて、その輪廻システムのバランスの崩れた高利システムによって負のカルマを蓄積させて、この地球の輪廻システムから抜け出せなくなっているという問題に気づいている。常にラマナ・マハルシのように真我に没入して(もともと彼にカルマ的負債が我々のように存在しているかも疑わしいが)、負のカルマを蓄積する行為に一切興味がなく、行わないというのであれば、ありのままで問題ないが、負のカルマを蓄積するような心理的要因や行動習慣を維持したまま、あるがままなら、低次元の部分においては、その人は悟っていないと言わざるを得ない。したがって彼、彼女はある種の覚醒体験はあっても解脱の方向からは遠いのである。ちなみに筆者はシャーマン的な能力を駆使して、恐らく地球の輪廻システムの管理者であるヤマ神、見た目は明らかにオシリス神であったが、東洋人の目でオシリス神を見ると、ああこれは閻魔大王の姿で表現されるのが肯われると思われる存在者に尋ねたことがある。




「自分は、輪廻から解脱できるんでしょうか?」「お前はいつも私の目の前を通って、この地球の輪廻の領域の外に抜け出ているではないか」。つまり筆者はどうやら閻魔様の回答から言えば、地球の輪廻システムから抜け出る通行手形を保有しているようなのである。となればである、それでも筆者がこの地上に転生し今後もとどまるとしたら仏教教学的には菩薩の立場にあることになり、ダライ・ラマと同格という論理的に困った結論に陥らざるを得なくなるのである。南無三!!シャーマン・ジョークはさておき、話を戻すと、
 思い返せば筆者は最近になるまで正直、悟りとか覚醒が何であるのか、あんまり厳密に考えたことがなかった。お釈迦様が菩提樹の下で悟った内容が悟りであるとか、ラマナ・マハルシは間違いなく覚醒しているであろう聖者であるとか、歴史上の人物で誰が覚醒しているかは間違いないところを列挙することができるが、ではどういう内容が悟りといい、どういう内容が解脱(モークシャ)なのか、感覚的に直感的には理解した気になってはいてもあまり厳密に定義しようとは思わなかったのであった。それというのも悟って初めて悟りの内容が分かるのであって、悟っているとまかり間違っても断言する自信のない自分がいくら推論や傍証で述べても詮なきことと考えたからであった。しかし、世の中に跋扈するアドヴァイタ的な覚者などが跳梁する昨今の情勢を踏まえて、一度その点をクンダリニー覚醒した記念に自分なりに述べてみるのも一興であろうと思うのである。筆者は悟りの内容を考えるきっかけになったのは、クンダリニー覚醒後の取り留めもない読書体験による。クンダリニー覚醒以前から筆者は津田真一の『反密教学』という書物を購入してあまり真剣に通読することもなくパラパラめくって広い読みしつつ積ん読していたのであったが、ある時、華厳経への興味から、『反密教学』にも華厳経に関して述べていた章があったなあと読み返していた。そこで『怖駭経』にこそお釈迦様の悟りの内容が書いているという記述に出くわしたのであった。津田氏の『反密教学』の論旨をまとめたり紹介したりする機会は今後に回すとして、つまりお釈迦様の悟りとはガヤーの菩提樹の下でお釈迦様が瞑想し、自分の過去世を最初から最後まで順繰り思い出し(宿命通)、そしてそのどれが間違いの根だったのかを反省したことと、その他の生命達がどういう失敗を全体的に繰り返しているかを理解したこと(天眼通)に基づき、後年、十二縁起に纏められた「無明」こそが、この輪廻から抜け出せない根本原因であることを悟り、その根本原因をなくす為に、編み出したのが八正道であり、その原因が分かったことにより覚醒し、その結果、輪廻からの解脱の方法が理解され、全ての原因を取り除いた結果、ほぼほぼ解脱して、後は涅槃に達するだけという段階に至ったというものがそのあらましである。ここで悟りとは、自分の過去世の全ての想起に基づく反省とその他の生命の失敗例の研究による原因究明とその原因の除去方法の発見ということになり、解脱とはこの輪廻からの脱出ということになる。従って厳密には悟りと解脱はイコールではないのである。世界の構造と自己が何かを理解すれば即クリアというわけではない。しかし今のお手軽アドヴァイタ的観点で言うと、悟り即解脱的な発想で、頓悟によって後は信者を集めてお説法して人生切り抜けられればいいやというのが、だいたいのルートなのである。そもそもこの考えが生じていること自体、世界の構造が理解できていないということが明白であり、俗流アドヴァイタどもが悟りの一端にしか触れていないということは疑いの余地がない。いやいや悟ればずっと昔から自分の探してたものは、そもそもここにもともとあったんだとか、或いは私はないのだから、後は真我に浸っていればよいみたいなことでクリアーした気になっているわけだが、認識において厳しいことを言って恐縮であるが、それは能年玲奈ばりのあまちゃんと言わざるを得ない。そもそも悟って真我に浸って信者を集めて集金するわ、車は買うわ、家を建てるわ、信者にかしづかれるわ、若い信者のカワイイ、カッコイイのが来れば手を出してみるわ、内容二束三文の一頁に文字が100文字程度しかない書物を量産し、地球資源の枯渇に甚大な影響を及ぼすわで、もう一方のカルマ論的な観点から何も見えていないのは、かかる覚者方におかれましては明々白々なのである。筆者のグルであるハイラーカーン・バーバーは、ヨーギンの無呼吸サマーディに達しているもののみがカルマの影響を受けないと述べている。しかしこれは少し付け加えが必要で、無呼吸サマーディに達している間だけは、カルマの影響を受けないということで、それ以外の時はカルマの影響を受けるのであるから、起きている時も寝ている時もシヴァ・マントラ唱えなさいという凡人では無理ゲーの注文をしているわけである。


    つまり無呼吸サマーディに一度達した人でも、それ以外の活動時間はカルマの影響を受けるのであり、それは睡眠時間でも例外ではない。つまりそれほどまでにこの世界の輪廻システムにおけるカルマの影響は、マトリックスのように全てに浸透しているのである。そもそもカルマとはカルマンであり、それはカーラ・シャクティ(時の力)に基づき無活動のシヴァの状態でもなければ、あらゆるものが否応なくシャクティのマーヤー・システムに絡め取られているわけで、それはパシュ・パーシャ(獣索)であり、あらゆる細胞の隅々まで浸透し、我々を縛り付けているのである。ゴールの場所を理解したのが悟りであって、ゴールに達するのが解脱である。そして身体の層が幾つもあるわけで、段階的なゴールがある。それは今後、詳しく述べるが、差し当たってこの地球の輪廻システムから解脱するのが最初の関門であり、最大の難関なのである。なぜなら地球の輪廻システムは、他の惑星の宇宙人達もびっくり仰天な、高難易度設定で、お釈迦様が「一切皆苦」、聖書では「原罪」と表現された、ゲームバランスがとんでもなく崩れた無理ゲー仕様に設計されているからである。そこを突破するのが我々の差しあたっての解脱である。これを筆者は「地球の輪廻システムからの解脱」と呼ぶことにする。この地球の輪廻システムによって発動しているマーヤーは他の世界のマーヤーシステムよりも堅固かつ強力であり、詐欺師めいていて、多少悟ったものでも簡単にカルマの借金地獄に沈める類のものである。この地球のマーヤー・システムの高難易度問題は、まず死ぬと全ての記憶が抹消されるということと、性的な快感と結合したあらゆる体験がとんでもなく中毒的であるということ。そして最初に原罪と呼ぶべきカルマにおけるペナルティ的なマイナスからスタートさせられるということである。そうしたことを適当にしか理解していないので、アドヴァイタ的お気楽覚者は、俺は真我や!私は無我よ!ワシはクンダリニー覚醒して絶対と合一したのじゃ!僕は無呼吸サマーディに達した全米ヨガ協会認定アライアンス取得者かつ全日本ヨーガ協会永世絶対十段だ!とか宣って飛び跳ねるのである。南無三宝!アッラーは全てを知り給う。呪われた異教徒どもに災いあれかし!である。ゴールするには頭がゴール地点に達しただけではダメで、全部尻から足まで全てゴールして初めてゴールなのである。悟りとは単に頭や鼻がちょっとゴールのテープに達しただけであり、そこから全身ゴールしなくては解脱としてゴールではないのである。そして恐るべきことに頭や鼻がゴールに達した人間を、マーヤー・システムは、見逃すことなく、そこから30メートル後ろにいきなり巻き戻す荒業を見せることがしばしばである。これはあくまで比喩であるが、お釈迦様の八正道を見れば分かるが、それは死ぬまでとんでもない地球のあらゆるところに張り巡らされたマーヤー・システムに対抗して、とんでもなく緻密にデザインされたがんじがらめの行動原理を伴うものであった。悟ってもそこで減点行動を取ればカルマのペナルティが課されるのである。お釈迦様は本当にマジでこの地球の輪廻システムがヤバいことになっているのを分かっていたのである。つまり完全試合でゼロ点に抑えなくては特別ルールが発動してこの世界で負ける、マジ鬼ゲーであるということに。お釈迦様の如き、とんでもないチート級のお兄さんをして「一切皆苦」といわしめたこの地球の輪廻システムの恐ろしさを人は理解していないのである。良いことをすれば良い結果を得られ、悪いことをすれば悪い結果を得る。これが等価交換的な因果応報ルールであるが、それなら良いことだけをして悪いことをしなければ、良い結果のみをドル箱の山として積めるだろうと考えるのが人情である。当然チート級のお釈迦様なら、そんなことおちゃのこさいさいであろう。しかし過去世を順繰り反省した際に、お釈迦様はとんでもないこの世界の詐術師めいたインチキ賭博師のやり方に気づいたのである。それが「一切皆苦」である。結果的に絶対に負けるようなほとんど詐欺に近いシステムであり、どうやら因果応報ルールはあってもこの交換レート、等価じゃないぞと。つまり必ず負けるようにゲームバランスが崩れていて、その交換レートは非等価的なものであり、全体(グロス)でみるといつも完全に負けるのである。「これ等価じゃないじゃん、めちゃ詐欺じゃん。鬼ゲーつうか、無理ゲーやん。毎回、勝った気になってたけど最終的に俺負けてるやん。どういうことなんだよこれ!ざけろよ!!」。つまりこれがお釈迦様が菩提樹で悟った時の感情的な内容の現代語への翻訳である。「仏の仏眼で設定6の台に必ず座ってたけど、設定6で最終マイナス収支ならこれ勝てないやつじゃん」というわけである。実際スロットで勝つ唯一の戦法はスロットを打たない。回さないという一択しかないのである。このスロット店の秘密を理解するのが悟りであり、そのまま朝9時から夜10時の退店までスロットを回さずに頑張る、これが八正道であり、スロット店から夜十時に一回も回さずに退店する。これがいわば解脱なのである。
 
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