第2章 第1節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む



वामः ॥१॥


vaamaH ॥1॥



【左側は[1]、】





[1]vaamaは、「美しい」や、「左側」という意味である。ここでは「左側」という意味である。我々は、『パーシュパタ・スートラム』第1章第9節で、mahaadevasya dakSiNaamuuriti(マハーデーヴァの右側の顕現)の言及について既に見てきた。ここではその対照である「左側」について述べられているのである。「左道」はサンスクリットではvaamamaargaと言われる。これに対して「右道」はdakSiNamaargaと言われる。右道と左道の対照的意味についても既に解説済みであるが、一応確認をしておけば、右道タントラは禁欲を主とする、意識操作と呼吸に基づく一般的なクンダリニー・ヨーガ系統の技法の総称であり、左道タントラは五摩字(肉・魚・酒・炒った穀物・性交)の作法に基づく、欲望を肯定した主に異性間の性的結合を利用してチャクラを活性化し、覚醒を目指す技法の総称である。







   左道タントラは、上記のように説明すればおどろおどろしい黒魔術的な邪道のように思えるが、一般的な普通人の世俗的生き方を極端化して表現したものに過ぎない。禁欲的と思われるヨーガや宗教的な文脈で左道タントラの技法を説明するから、それは邪道に見えるだけである。もし左道タントラの体系を得意顔に現今のアメリカ大統領に説明したならば、「なんだ、私が若い頃から最近までいつでもやってることじゃないか」と鼻で笑われる類のものでしかない。



   従って第1章の解説でも述べておいたが、禁欲的なヨーギンや聖者でなければ、全ての人々は意識的、無意識的を問わずヴァーマ・マールガ(左道)を生きているのであり、その崇拝者なのである。そのような一般的生き方を極端なまでにパフォーマンス化してデフォルメ化したのが五摩字儀礼を主とする左道タントラというわけである。従って左道タントラなどは、どれほどおどろおどろしかろうと陳腐でしかない。
 今回のvaama(左側)の語の意義をさらに明確化する為に、左側と右側の対立の構図と対照についてもう少し詳しく視野を広げて見ていくことにする。まずはインドのヨーガ的身体観における左と右の対照性をハタヨーガの教典である17世紀から18世紀頃に成立したと言われる「シヴァ・サンヒター」より引用する。翻訳は筆者の拙訳である。




 

इडानाम्नी तु या नाडी वाममार्गे व्यवस्थिता ॥
सुषुम्णायां समाश्लिष्य दक्षनासापुटे गतस ॥

iDaanaamnii tu yaa naaDii vaamamaarge vyavasthitaa ॥
suSumNaayaaM samaazliSya dakSanaasaapuTe gataa ॥

しかるにイダーという名のナーディー(気道)は左側の道に位置し、スシュムナーに合流して、右側の鼻孔へと行く。


पिङ्गला नाम या नाडी दक्षमार्गे व्यावस्थिता ॥
सुषुम्णा सा समाश्लिषय वामनासापुटे गता ॥

piGgalaa naama yaa naaDii dakSamaarge vyaavasthitaa ॥
suSumNaa saa samaazliSya vaamanaasaapuTe gataa ॥

ピンガラーという名のナーディー(気道)は右側に位置して、スシュムナーと合流し、左側の鼻孔へと行く。


इडापिङ्गलयोर्मध्ये सुषुम्णा या भवेत्खलु ॥
षट्स्थानेषु च षट्शक्तिं षट्पद्मं योगिनो विउुः ॥

iDaapiGgalayormadhye suSumNaa yaa bhavetkhalu
SaTsthaaneSu ca SaTzaktiM SaTpadmaM yogino viduH

イダーとピンガラーの中央にスシュムナーが確かにあって、
ヨーギン達は、その六つの場所にある六つのシャクティと一緒に六つの蓮華を知っている。





(この図はネットで拾ってきたものだが太陽と月の位置が反対である。しかしネット上に転がっている同一趣旨の図が全て右に太陽左に月を配し捻れを理解していないのは奇妙である。シヴァ神の図像では必ず月は右の額に描かれているというのに…)



 インドのヨーガ的身体観では、我々の身体の左部分にはイダー気道が通っていると言われる。そして右側にはピンガラー気道が通っているのである。そして中央にはスシュムナー気道が通り、そのスシュムナー気道には六つの蓮華であるチャクラが位置して、そこには神格としての六人のシャクティが宿っているというのが上記スートラの内容である。言ってみればこの六つの蓮華としてのチャクラの発達がその者の意識進化の程度を規定するのである。何度も解説しているが、六つのチャクラとは、尾てい骨の部分にはムーラーダーラ・チャクラ、仙骨部分にスワーディシュターナ・チャクラ、太陽神経叢が存する臍と水平の背骨の部分にマニプーラ・チャクラ、心臓が位置する辺りの背骨の部位にアナーハタ・チャクラ、喉の背骨部分にヴィシュッダ・チャクラ、眉間の裏側に、アージュナー・チャクラが配置される。そして第七のチャクラとして頭頂部にサハスラーラ・チャクラがある。そしてついでに六人のシャクティの名前を挙げるとムーラーダーラ・チャクラにダーキニー(डाकिनी)、スワーディシュターナ・チャクラにハーキニー(हाकिनी)、マニプーラ・チャクラにカーキニー(काकिनी)、アナーハタ・チャクラにラーキニー(लाकिनी)、ヴィシュッダ・チャクラにラーキニー(राकिनी)、アージュナー・チャクラにシャーキニー(शाकिनी)が対応する。
 話を三つのナーディーに戻すと、左側のイダー気道は陰陽で言えば陰、月のエネルギーで女性性のエネルギーを表し、右側のピンガラー気道は、陰陽で言えば陽、太陽のエネルギーである男性性のエネルギーの表現となる。しかしこの左側のイダー気道と右側のピンガラー気道は鼻孔部分で中央管のスシュムナー気道に合流し互いに直交して左側のイダー気道は鼻孔を経由して頭部の右側に、右側のピンガラー気道は鼻孔を経由して頭部の左側へと進むのである。両の鼻孔を経由して二つのナーディーは交差するわけである。
 ここで現代科学の身体観における右脳と左脳の機能的相違を思い出して欲しい。右脳は直感や図形処理、インスピレーションなどの芸術的な分野を司り、左脳は論理的かつ言語的な分野を司る。直截に言えば、左脳は男性的な論理性を代表し、右脳は女性的なインスピレーション及び芸術性を代表する。また左脳に脳出血が起きると右半身が麻痺し、右脳に脳出血が起きると左半身が麻痺することが知られている。
 このことからもヨーガのイダー・ピンガラー・スシュムナーの三気道説は、ヨーギンの適当な妄想ではなく現実的な状況と一致した、少なくとも経験的な事実に沿った見解であることが分かるのである。ここで読者は鼻孔の辺りでエネルギーの流れが左右反転しているということをとりあえず念頭においていただければよい。ここまで分かったことをもう一度確認すれば、左側(vaama)は月のエネルギーとしての女性的エネルギーが流れるものということである。それはやがて鼻孔を経由して右脳側に流れるのであった。

 続いて全く別の秘教教義の伝統に属するユダヤ思想のカバラに於ける「生命の樹」からインドの三気道説との構造的相同性を確認しておくこととする。ここから引用及び参考にしたのは『カバラ』(ロラン・ゲッチェル著、田中義廣訳、文庫クセジュ)である。



 カバラとは何か?13世紀スペインのカバリスト、メイル・サロモン・イブン・サフラは、カバラを以下のように定義する。



カバリストたちは十の<セフィロート>といくつかの戒律の根拠についての学を<カバラー>と名付けている。(P6)





 カバラは神と人間と世界に関するユダヤ教秘教の思想的伝統に沿った学である。そしてカバラーという言葉とユダヤの秘教教儀が結びついたのは、それほど古いわけではなく、12世紀南仏プロヴァンス地方の盲人イサアクの一派からであると言われる。この中世カバラは、紀元2世紀から6世紀頃の成立とされる『セーフェル・イェツィラー(形成の書)』から12世紀頃に編纂された『セーフェル・ハ=バヒル(バヒルの書)』の伝統を受けた盲人イサアク一派によって強固な体系に練り上げられた。その後13世紀に1世紀のシモン・バル・ヨハイのテクストをもとに、スペインのカバリスト、モーゼス・ベン・シュム・トゥ・デ・レオンが著したと考えられているカバラ思想の金字塔『ゾーハル(光輝の書)』が流布するに至る。ここまで私はただクセジュ文庫の『カバラ』の内容を軽く摘んで要約しただけだからあまりこの件に深追いするのは避ける。ともかくカバラーといえば、以下の「生命の樹」として構成されたセフィロートを瞑想的に思索することにあり、それにより神との合一を目指すのである。





10のセフィーロトについて以下に説明する。

①ケテル(kether)は隠された知性と呼ばれ、【王冠】という意味である。右脳と左脳を超えた神秘的知性である。
②コクマー(cochmah)は照明する知性、【知恵】という意味である。コクマーは能動的で論理的知性を代表する。言ってみれば左脳の領域である。
③ビナー(binah)は、聖別する知性と言われ、【理解】という意味である。これは受動的な知性であり、右脳的な領域を代表する。
④ケセド(chesed)は、測量する知性と呼ばれ、【慈悲】を意味する。これは感情における肯定的な領域である。
⑤ゲブラー(geburah)は、根本的知性と言われ、【峻厳】という意味である。これは感情における否定的な領域である。
⑥ティファレト(tiphereth)は、媒介的知性と言われ、【美】という意味である。感情における中和的領域である。
⑦ネツァク(netzach)は、隠秘たる知性と言われ、【勝利】という意味である。意志における能動的な領域である。
⑧ホド(hod)は、完全な知性と言われ、【栄光】という意味である。意志における受動的領域を代表する。
⑨イエソド(yesod)は純粋な知性と言われ、【基盤】を表す。意志の中和的面を代表する。
⑩マルクト(malchut)は、輝く知性と言われ、【王国】という意味である。これは我々の物質的世界を代表する。




 生命の樹を見て欲しい。コクマーからケセドを経由してネツァクに至る線を一般に慈悲の柱と呼ぶ。またビナーからゲブラーを経由してホドに至る線を一般に峻厳の柱と呼ぶ。またケテルからティファレトを経由してイエソドそしてマルクトに至る線を一般に均衡の柱と呼ぶ。
 生命の樹では右側に慈悲の柱が配置され、左側に峻厳の柱が配置される。そして慈悲の柱は能動の柱であり、峻厳の柱は受動の柱である。しかしここで注意してもらいたいのは生命の樹は瞑想の道具であるが、我々は生命の樹と向かい合っている状態なので、本来身体に生命の樹を投射する場合、左右は反転されなくてはならない。つまり右側に峻厳の柱が来て、左側に慈悲の柱がくるのである。そうすると自分の頭部左側にコクマーとしての能動的知性が配置され、自分の頭部の右側にビナーとしての受動的知性が配置される。そしてこれは右脳と左脳及びピンガラー・イダーの両気道と一致するのである。左側に【知恵】としてのコクマーが配置され、そこから捻れて右側に【峻厳】と【栄光】としてのゲブラーとホドが来るわけである。そして右側に【理解】としてのビナーが来て、そこから捩れて、左側に【慈悲】と【勝利】のケセドとネツァクが来るのである。つまり生命の樹を用いてピンガラー気道を解釈すれば、それは【知恵】【峻厳】【栄光】のラインであり、イダー気道は、【理解】【慈悲】【勝利】のラインということになる。つまりここでもピンガラー・イダー両気道の象徴的解釈と、【知恵】【峻厳】【栄光】のラインと【理解】【慈悲】【勝利】のラインの意義がほぼ等しい意義を有することが分かるのである。つまりユダヤ秘教のカバリストとインド秘教のヨーギンが見ている対象はほぼ同じものを見ているのだと解釈しうるわけである。同じものを異なった文化的な文脈で捉えたとしても、その構造的な相同性が観察されるのは当然の帰結というものであろう。

(生命の樹は図像や説明文だけでは理解はなかなか困難である。しっかり理解するにはじっくり焦らず自己の身体に10のセフィロートを投射して瞑想によって理解するしかない)


 こうして現代医学の身体における経験的知見とヨーギンの知見とカバリストの知見の構造的相同性が認識されたところでさらに追い打ちをかけるべく我が国の神話を例に取ることにしよう。我々日本人の祖先もまたこの構造を理解していたふしがあるのである。以下『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)より適宜要約し引用する。




 伊邪那伎命は妻の伊邪那美命がお産で亡くなったことを悲しんで黄泉の国に妻を訪問する。しかし伊邪那伎命は、伊邪那美命が自分の姿を見ないで欲しいと頼んだにも関わらず好奇心から妻の姿を覗いてしまう。するとそこには蛆虫のわいた変わり果てたゾンビ的妻の姿があった。



   伊邪那伎命はこれはビックリなんてこった大変驚いたわいとばかりに逃げ出す。伊邪那美命は恥をかかされたと怒って呪詛をかける。「愛しき我が汝夫の命、かく為ば、汝の國の人草、一日に千頭絞り殺さむ」伊邪那伎命はそれを聞いて「愛しき我が汝妹の命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋を立てむ」と啖呵をきって、ゾンビ妻から逃げ切って地上に戻った伊邪那伎命の行動と言葉が以下のものである。

伊邪那伎大神(いざなぎのおおかみ)詔(の)りたまひしく。「吾はいなしこめしこめき穢き國に到りてありけり。故、吾は御身の禊為(みそぎせ)む」とのりたまひて、筑紫の日向(ひゅうが)の橘の小門(おど)の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき。……ここに左の御目を洗ほたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神。次に右目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月読命。次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、建速須佐之男命。
 そして伊邪那伎大神は、天照大御神には高天の原を、月読命には夜の食國を、建速須佐之男命には海原を治めさせることにした。






 それではまずここで注目して欲しいのは伊邪那伎命が左の目を洗った時に太陽神である天照大御神が生まれ、右目を洗った時に月神である月読命が生まれ、鼻を洗った時に須佐之男命が産まれたということである。
 これだけ書けば察しはつくであろう。左の目とは当然ピンガラー気道の通るところであり、右目はイダー気道が通るところである。そして鼻はスシュムナー気道が通るところである。ピンガラー気道は陽の象徴である。そしてイダー気道は陰の象徴である。我々の先祖はなぜ左目に太陽神を配置して、右目に月神を、そして鼻に荒神である須佐之男命を配置していたのであろうか?またもう一つ日本神話には奇妙なところがある。太陽は陽の象徴であるから普通にいけば、男性神が配置されるべきであり、月は陰の象徴であるから女性神が配置されるべきである。しかるにここに不可思議なる捻れの現象が起きている。そこで解明のためカバラーの慈悲の柱を想起すると、慈悲の柱の上部にはコクマーが配置されるが、その真ん中にはケセドが配置されているのである。ケセドは【慈悲】という意味であった。太陽的なコクマーの下に女性的な【慈悲】が配置されているとするなら、それをカバリスト逹が慈悲の柱と表現するように女性として表象するのも尤もであろう。また峻厳の柱も、上部には月的な【理解】があり、その真ん中に【峻厳】のゲブラーが配置されているならば、それを男性神として表現するのも理に叶っているといえよう。私は『古事記』の作者が生命の樹を知っていたとか、日本人の祖先はユダヤ人だというようなトンデモ説を主張しようとは思わない。ただ『古事記』のもととなった日本神話の作者がイダー・ピンガラー・スシュムナーの三気道説やセフィロートに基づく生命の樹を考案したカバリストと同じ対象を認識していたであろうということを主張するに過ぎない。
 こうして第2第1節の「左側」としてのvaamaの意味が、読者をしてより深く理解しえるようになったであろうと期待するものである。それはイダー気道の通るところであり、女性的で月のエネルギーが流れているのであり、それは右側のピンガラー気道との関係性において把握されるべきものなのである。

 ちなみにここだけの話だが、伊邪那美命が日本神話において黄泉の国に幽閉されたのは、クンダリニーシャクティが尾てい骨部分に封印されていることに対応すると思われる。従ってケテル部分に伊邪那伎命を配し、コクマーである左側に天照大御神、中央に須佐之男命、ビナーである右側に月読命、そして下部に伊邪那美命を配すれば、日本的生命の樹が完成し、そこからカバラの生命の樹と同一構造の象徴図を復元することも可能となると思われるのである。





   最後に峻厳なる苦行の神シヴァ神(シヴァ神の異名にはソーマナータ(月主)というものがある)と慈悲遍き信愛の神である太陽神ヴィシュヌ神が一体となったこの図像を御覧頂きたい。ここまで私が述べたたわ言を完全に理解できた奇特な読者には、この図像が秘教教義学的論理において、非の打ち所なく完全に正しいものというのがお分かりになることだろう。