第2章 第2節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む



देवस्य ॥२॥



devasya ॥2॥



【神の[1]】




[1]ここから属格が三語続くのだが、vaamadevaという神名を考慮に入れて、最初のdevasyaは、第1節のvaamaに係ると解釈する。devasya vaamaで「神の左側」という意味である。第1章のmahaadevasya dakSiNaamuurti(マハーデーヴァの右側の顕現)と対照的意味にとるのである。神の左側とは何かについては、スートラが後に説明してくれるであろうからここでは解説しない。


 今回はpashupati(獣主)の意義をより深く理解する為の考察に充てたいと思う。パシュパティとは獣達ないし畜獣達の主という意味であった。インダス文明のパシュパティ像には様々な動物達に取り囲まれた姿が描かれている。




   しかし印章をじっと見ていてもあまり判然としないので直接本人の説明をまず聞くことにする。引用は『マハー・シヴァ・プラーナ』の拙訳である。ブラフマー神の恩典によって天界・空界・地界に金銀鉄の三都を建設した悪魔達に悩まされた神々は、シヴァ神に相談をもちかける。そこでシヴァ神が、悪魔逹の三都を破壊する時に出したのが以下の声明である。





अथाह भगवान्रुद्रो देवानालोक्य शंकरः।।
पशूनामाधिपत्यं मे धद्ध्वं हन्मि ततोऽसुरान्।।

athaaha bhagavaanrudro devaanaalokya zaGkaraH
pazuunaamaadhipatyaM me daddhvaM hanmi tato'suraan

その時、主なるルドラ神であるシャンカラ(シヴァ神)は神々を見て言った。「畜獣達に君臨する者としての私へと〔自己を犠牲に〕捧げるならば、それにより〔私が〕アスラ達を殺す。


पृथक्पशुत्वं देवानां तथान्येषां सुरोत्तमाः।।
कल्पयित्वैव वध्यास्ते नान्यथा दैत्यसत्तमाः ।।

pRthak pazutvaM devaanaaM tathaa'nyeSaaM surottamaaH
kalpayitvaiva vadhyaaste naanyathaa daityasattamaaH

神々と他の者達を獣性において分かつのはこのようなことである。神々の最上者達よ。〔自己と獣とを高慢にも〕分別することによってこそ、他でもなく最上の悪魔達である彼らは殺されるべきなのである。」


सनत्कुमार उवाच ।।
इति श्रुत्वा वचस्तस्य देवदेवस्य धीमतः ।।
विषादमगमन्सर्वे पशुत्वं प्रतिशंकिताः ।।

sanatkumaara uvaaca
iti zrutvaa vacastasya devadevasya dhiimataH
viSaadamagamansarve pazutvaM pratizaGkitaaH

サナトクマーラは言った。
かかる神々の中の神のこの英知の言葉を聞き、全てのものが、落胆して動かぬまま〔自らも〕獣性を有することに不安を抱いた。


तेषां भावमथ ज्ञात्वा देवदेवोऽम्बिकापतिः ।।
विहस्य कृपया देवाञ्छंभुस्तानिदमब्रवीत् ।।

teSaaM bhaavamatha jJaatvaa devadevo'mbikaapatiH
vihasya kRpayaa devaaJchambhustaanidamabraviit

この時、彼らの心情を察して、アンビカーの夫である神々の中の神シャンブ(シヴァ神)は、
笑って、憐れみから、彼ら神々にこのように告げた。


शंभुरुवाच ।।
मा वोऽस्तु पशुभावेऽपि पातो विबुधसत्तमाः ।।
श्रूयतां पशुभावस्य विमोक्षः क्रियतां च सः ।। १७

zambhuruvaaca
maa vo'stu pazubhaave'pi paato vibudhasattamaaH
zruuyataaM pazubhaavasya vimokSaH kriyataaM ca saH

シャンブは言った。
しかるに〔貴卿は〕畜獣の状態へと落ちてはならない。最高の賢者達よ。
畜獣の状態からの解脱を聞け、そしてそれを実践せよ。


यौ वै पाशुपतं दिव्यं चरिष्यति स मोक्ष्यति ।।
पशुत्वादिति सत्यं वः प्रतिज्ञातं समाहिताः ।।

yo vai paazupataM divyaM cariSyati sa mokSyati
pazutvaaditi satyaM vaH pratijJaataM samaahitaaH

神聖なるパーシュパタ〔の誓戒〕をまさに行うであろう者は、獣性から解き放たれるであろうと、真実あなたがたに約束されたのである。傾注する者達よ。


ये चाप्यन्ये करिष्यंति व्रतं पाशुपतं मम ।।
मोक्ष्यंति ते न संदेहः पशुत्वात्सुरसत्तमाः ।।

ye caapyanye kariSyanti vrataM paazupataM mama
mokSyanti te na sandehaH pazutvaatsurasattamaaH

そして他の者達も、私のパーシュパタの誓戒を行うであろう。
彼らは、疑いなく、獣性から解放されるであろう。最上の神々よ。


नैष्ठिकं द्वादशाब्दं वा तदर्थं वर्षकत्रयम् ।।
शुश्रूषां कारयेद्यस्तु स पशुत्वाद्विमुच्यते ।।

naiSThikaM dvaadazaabdaM vaa tadardhaM varSkatrayam
zusruuSaaM kaarayedyastu sa pazutvaadvimucyate

継続して12年、或いはその半分、又は三年
〔それに〕服従するならば、彼は獣性から開放されるのである。


तस्मात्परमिदं दिव्यं चरिष्यथ सुरोत्तमाः ।।
पशुत्वान्मोक्ष्यथ तदा यूयमत्र न संशयः ।।

tasmaatparamidaM divyaM cariSyatha surottamaaH
pazutvaanmokSyatha tadaa yuuyamatra na saMzayaH

従って、〔貴卿らは〕最高に神的なこれ〔誓戒〕を行うであろう。最高の神々よ。貴卿らはその時、獣性より開放されるであろう。ここに疑いはない。


सनत्कुमार उवाच ।।
इत्याकर्ण्य वचस्तस्य महेशस्य परात्मनः ।।
तथेति चाब्रुवन्देवा हरिब्रह्मादयस्तथा ।।

sanatkumaara uvaaca
ityaakarNya vacastasya mahezasya paraatmanaH
tatheti caabruvandevaa haribrahmaadayastathaa

サナト・クマーラは言った。
以上の偉大な主であり、至高のアートマンである彼の言葉をこのように聞き、
沈黙者よ!そしてハリ神やブラフマー神を初めとする神々はこのように〔行ったのであった〕。


तस्माद्वै पशवस्सर्वे देवासुरवराः प्रभोः ।।
रुद्रः पशुपतिश्चैव पशुपाशविमोचकः ।।

tasmaadvai pazavaH sarve devaasuravaraaH prabhoH
rudraH pazupatizcaiva pazupaazavimocakaH

それ故にこそ、畜獣達とは、あらゆる最上の神々や悪魔達なのであり、
プラブでありルドラ神である獣主が畜獣達の軛を解放する者なのである。


तदा पक्षुपतीत्येतत्तस्य नाम महेशितुः ।।
प्रसिद्धमभवद्वध्वा सर्वलोकेषु शर्मदम् ।।

tadaa pazupatiityetattasya naama mahezituH
prasiddhamabhavad hyaddhaa sarvalokeSu zarmadam

この時、この「獣主」という名前がかの偉大な支配者に付けられたのであり、
実にあらゆる世界において成就と幸福を与えるの〔が彼なの〕であった。




 神々や悪魔も含めた全ての生類は、様々な幻想を抱いた獣であり、家畜であり、畜獣であるというのがまずここでは大前提となる。その上で神々と悪魔を分かつのは、分別心ということになる。つまり悪魔は驕り高ぶって自己を獣から解放された別格の存在なのだとまず錯覚する。古今東西の種々の悪魔を思い出してほしい。彼らは殆どが獣の姿をしていたり、半身が獣であったりするわけであるが、このことは彼らが自己を獣性から解放できていないことを表しているのである。人間もまたそうである。彼らは自己を獣とは別格である万物の霊長と分別心を起こし、動物を軽蔑する。その結果、彼らは無意識に自己の獣性の虜になるのである。あるものは唾棄すべき俗豚であり、あるものは卑劣なゲス狐であり、あるものは臆病な羊であり、あるものは世間から隔絶した危険極まる一匹狼である。あるものは猫のように自分勝手で、あるものは小犬よろしく権力者に媚びへつらい尻尾を振りまくる。彼らは自己の獣性からの隔絶という幻想を抱く為に無意識の獣的本性そのままに、自己を獣のような姿として呈するのである。かかる点に於いて、彼らは獣と一体化した悪魔と同類であり、その手下のようなものである。悪魔もこうした人々もシヴァ神から言えば、獣に対する主権者であるのではなく、獣性の奴隷なのである。それ故に、シヴァ神はあらゆる獣達と一体でありその主としてのパシュパティを認めて、驕り高ぶることなく自己を犠牲に捧げよと主張するわけである。自己の獣性を認めるもののみが、獣性からの解放を得るのであり、その方法がパーシュパタの誓戒であり、聖者や神々が獣性から脱却しているのも自己の獣性を認め、エゴイスティックな高慢さを捨てているからなのである。
 獣と自己を分離して見るものは無意識裡の獣性の深淵に絡みとられ足を掬われるのであり、そして逆に謙譲の心で自己と獣とを一体として見るものは、逆に獣性から解放を得るというこのアイロニックな逆説性こそが理解されなくてはならないわけである。

 これが即ちシヴァ神がパシュパティとしての神として礼拝されることの本質的意義である。



 次にこのようなパシュパティとしての神はインダス文明から続くインド特有の現象ではないので、その例を挙げる。


 ケルト人の神であるケルヌンノスがまずそれである。ケルト人は、古代ローマ人からはガリア人と言われていた今のフランス周辺に住む人々やブリテン島に住んでいたブリトン人などが挙げられる。カエサルの『ガリア戦記』はこのガリア人とゲルマーニー人との戦いの歴史である。古代のフランス人と言えばこのガリア人であり、古代のドイツ人であるゲルマーニー人と同等にローマ人から見れば野蛮の代名詞のようなものである。ケルト人の宗教についてまず、カエサルの『ガリア戦記』(近山金次訳、岩波文庫)より引用する。





僧侶はまず霊魂が不滅で死後はこれからあれへと移ることを教えようとする。(P198)





 次にスコットランドの哲学者デーヴィド・ヒュームの『英国史』からだいぶ前に何故か私が自分用に訳出ししておいたものからついでに引用する。彼は英国史を書いたのでブリトン人とのみ限定しているが、これはカエサルなどのガリア人の記述などをもとにまとめているのでケルト人全体に当てはまるものである。




 ブリトン人にとり宗教は統治の最も考慮されるべき箇所である。そして彼らの祭司であるドルイドは人々の間で大きな権威を所有していた。祭壇での祭祀の執行や全ての宗教的義務の指導に加え、彼らは若者の教育を主導した。彼らは軍役や租税を免除され、民事及び刑事にわたる裁判権を所有し、個人に関するのと同程度に集団の争議を決定し、また誰かが彼らの布告を認めず、それを拒否するならば、最も厳格な刑罰にさらされることとなった。……迷信の種類のうちでもドルイドのそれより恐ろしいものはない。聖職者の力をこの世において確立するための厳格な罰に加えて、彼らは魂の永遠の転生を教え込み、彼らの権威を臆病な信心家の恐怖心にまで広げる。彼らは暗い森や秘密の奥所で儀式を実践し、彼らの宗教に神秘性を付与するため、その教儀を授けるのに加入者のみとし、神聖を汚す卑俗なる検証に曝されることのないように書き物にそれを残すことを厳格に禁じた。彼らの間では人身御供が実行されていた。戦争の掠奪品は神に捧げられた。そして神に捧げられた奉献物を隠匿する者は、何人であれ厳しい拷問によって罰せられた。それらの宝物は木の中や森に保管され、彼らの宗教に対する畏怖が、それ以上にない護衛としてそれらを守った。


 このような宗教をもったケルト人の神の一柱であるケルヌンノスはインダス文明のパシュパティと余りにも酷似している。『ケルト神話の世界』(ヤン・ブレキリアン著、田中仁彦・山邑久仁子訳、中公文庫)より引用する。




ケルヌンノスはしばしば、自然の主としての威を誇るように動物の群れの中央にひとり座し、初秋の頃のまったき栄光に満ちた姿で描かれている。(P111)

グンデストルップの大釜には、鹿、数頭の牡牛とライオン、猪、小人が跨がった魚、そして常に登場する蛇など、彼がその上に君臨している動物達の姿を見ることができる。(P112)


 多くの人々がケルヌンノスとパシュパティの類似性を指摘している。




 続いて古代ギリシアの酒神ディオニュソスを見ていくことにする。ディオニュソスと言えば哲学者のニーチェが『悲劇の誕生』で空間的な表象を主とするアポロン的なものと、時間的な表象を主とするディオニュソス的なものという対立的な哲学的概念装置を構築して悲劇を始めとする芸術一般を分析してみせたことで有名である。


 そもそもギリシア演劇はプラトンの弟子でありアレクサンドロスの師匠であるアリストテレースの『詩学』によれば、ティオニュソス崇拝から発生したものと言われている。すなわち悲劇は「ディーテュラムボスの音頭取りから、喜劇はいまも多くのポリスの風習として残っている陽物崇拝歌(パリカ)から始まったのである」。ディーテュランボスはディオニュソス崇拝の合唱舞踏歌である※。


※アリストテレース『詩学』(松岡仁助・岡道男訳、岩波文庫)




 このようにギリシア悲劇はディオニュソス崇拝の舞踏と合唱から発展し、その陶酔の中で演劇として確立したのである。従って悲劇も喜劇ももとを正せば、ディオニュソスとバッコスに捧げられたものなのであり、それはアポロン的な静止的空間芸術とは、対蹠的なディニュソス的と呼ばれる動的時間芸術なのである。
 そしてそのギリシア悲劇四大作家の最後に位置するエウリピデスの『バッコスの信女』(松平千秋訳、ちくま文庫) からディオニュオスについての記述を引用する。




ああディオニュソス
君はいまいずこに在(おわ)す。
獣群がるニュサの森に
講を率いて霊杖(テュルソス)をふるいたもうや、
はたまコリキュアの峰のあたりか。
あるいはオリュンポスの山深く木立の奥にひそみたもうや、
そのむかしオルペウスが
竪琴(キタラ)を奏で、霊妙の調べによりて
樹々を動かし、獣らを寄せしところ(P481)


 西洋演劇の源であるギリシアの悲劇や喜劇が現代なら集団ヒステリーとでも称すべきものから発生したのは興味深い事実である。以下その例。



さて女たちはいつものきまった時刻になりますと、杖を振り振り、口を揃えてゼウスの御子をイアコスよ、プロミオスよと呼ばわりつつ、踊りはじめたのでございます。すると全山ことごとく、獣らまでが、ともに踊り狂い出し、動かずに止まっているものは一物とてもございません。
 やがてアガウエさまが、踊りながら私のいるすぐそばへ来られましたので、私は捕らえようと思い、隠れておりました場所から踊り出たところ、御母上は大声に「おおわが忠実な犬たちよ、この男どもは私を捕らえようとしているのだよ。さあ、手に持つ杖を武器に、私についておいで」と申されました。
 私どもは逃れて、からくも信女らに八つ裂きにされる憂き目を免れましたが、女たちは草を喰んでいる牛の群れに、素手のまま躍りかかってゆきました。一人が乳房豊かな牝牛の仔を、鳴き哮えるのも構わず、引き裂いて両の手にかざすかと思えば、また他の女らは、仔牛の体をバラバラに引き裂いております。殺された牛の胴や、蹄のさけた脚などが、あちこちに散らばり、また樅の木に懸って、垂れ下がっている血まみれの肉片もございます。一瞬前まで傲然と、怒りを角に表していた牡牛ですらが、女たちの無数の手にとられ、たちまち地上に屠られてしまいます。殿様がまばたきなさる間よりも早く、女たちはその肉をちぎってしまったのでございます。
 それから女たちは、まるで空飛ぶ鳥のように、ほとんど足が地にふれぬほどの疾さで山をかけ下り、アソポスの流れに沿うて、テーバイに豊かな穀物を実らせる麓の平地に向かいました。キタイロンの山裾の村、ヒュシアイとアリュトライとを、まるで敵のように襲って、手当たり次第めちゃくちゃに荒らして、家々から幼な子を掠めてまいります。子供のみか、奪った銅器鉄器のたぐいを肩に載せて運んでゆくのですが、紐で結えつけもせぬのに、一つとして地面に落ちることがありません。また髪の毛の上に火をかざしているのに、いっこうに火傷をするようにも見えません。村人たちも、信女らに荒されて腹を立て、武器をとって刃向かおうといたしましたが――殿様、このときまさに、見るも恐ろしいことが起こったのでございます。すなわち、村のものが槍で相手を突いても血が出ぬのに、女たちが振う杖は男たちを痛めつけて、とうとう村人たちは背を向けて逃げ去ったのでございます。これは何かの神のご加護と思うほかはありません。 
 さて女たちはもといた場所に引き返し、神様の湧せて下された泉で血を洗い落し、頬のあたりについたよごれは、蛇にきれいになめ取らせたのでございます。(P490)

 葡萄酒の神であるディオニュソスは演劇の神でもある。しかし以上のエウリピデスの文章の至る所に遺憾無く獣主としてのディオニュソスとの一体化が描かれているのは興味深いところであるが、このディオニュソスの信女の有様は獣性からの解放ではなく、それとの統合による法悦であり、ある種の変性意識によるシッディの発現の描写である。



 次に『ギリシア・ローマ神話辞典』(高津春繁著)より「ディオニューソス」の項を引用する。

バッコスともいう。本来トラーキア・マケドニアの宗教的な狂乱を伴う儀式を有する神であったらしく、それがギリシアに輸入され、女の熱狂的な崇拝を受けた。……女たちはこの神によって狂気のごとくになり、家を捨てて山野にさまよい、炬火やティルソスを振りまわしつつ乱舞し、野獣をとらえて、八つ裂きにして、生のままくらった。小アジアではディオニューソスは、自然の生産力の表象とも考えられ、豊饒神でもあった。彼自身、ときには牡牛、牡牛の角を有する者と呼ばれ、彼もその従者たるマイナスたちもともに鹿皮を身に纏った姿で想像されている。(P151)

 このようにディオニュソスは、牡牛の角を有する者と呼ばれ、信女達を動物を含めた自然との狂乱的宥和に導くのである。そして霊杖と鹿皮を身に纏い、動物達をも狂乱させる。女性が主に信者なのはその当時の女性の抑圧が大きかったからであろう。ディオニュソス的運動のうちに抑圧された女性であること、獣であること、群れとして動くこと※が一体となって集団ヒステリーを形成するのである。このような運動から舞踏合唱団であるディーテュラムボスが発生し、そしてそれが後にギリシア悲喜劇を産むことになったわけである。



※この点については今後、生成変化に関するドゥルーズ=ガダリへの言及で論じることになろう。





 次にエジプト神話のオシリスも有角の神として語られているので言及しておくことにする。





汝に敬礼。
おおオシリス、ヌートの子よ。
双角の主にして、アテフ冠高きもの。
九柱神の前にて、喜び(の中に)王冠与えられ給いしもの。
人にも神にも、
変容せしものにも死者にも、
アトゥムはかれへの畏敬の心を創りなし給えり。


「オシリス讃歌」より 『エジプト神話集成』(ちくま学芸文庫、杉勇、屋形禎亮訳、P438)



 またギリシア人のプルタルコスはオシリスとディオニュソスを同一の神と見做している。以下、『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』(柳沼重剛訳、岩波文庫)より引用する。




オシリスは王位に即くや直ちに、エジプト人を無力で獣のような生活から解放したそうです。つまり栽培して実りを得る道を示し、法を定め、神々を敬うことを教えたのです。のちにエジプト全土をくまなく巡って平定しましたが、身に寸鉄を帯びず、言葉の力、そしてあらゆる種類の歌と音楽によって大勢の人々を惹きつけて従えました。ですからオシリスは、ギリシア人から見るとディオニュオスだということになるのです。(P32)


 このようにオシリスもまたディオニュソス同様にワインの作り方をエジプト人に教えたと言われている。またその祭はギリシアのバッコス祭と類似していたようである。



クレア様、オシリスがディオニュソスと同じ神だということを誰があなた以上に知っていましょうか。……アピス(オシリスと結び付けられるプタハ神の化身である聖牛)の遺体を舟に載せて運ぶ時に、あれはバッコスの祭とほとんど違わないのですから。鹿の毛皮をまといます。テュルソスをかざします。口々に叫びます。そして激しく体を動かします。ちょうどディオニュソスの祭の恍惚に身を任せた人々のようにです。…エリスの女たちはディオニュソスに祈りつつ、「牛の脚もて、神よ、来たりませ」と呼びかけます。またアルゴスには、「牛から生まれたディオニュソス」という名のディオニュソスがおわします。(P69)


 またオシリスは月と関係付けられる。これはシヴァ神にも共通するものである。


その人々は、テュポン(セト)は太陽をめぐる世界に属し、オシリスは月を中心とする世界に属するのだと申します。(P79)


 そして最後にプルタルコスは、シヴァ神のパシュパティの宣言と同趣旨のことを述べている。


テュポン(セト)の霊がこういう動物たちに分け与えられている、……獣のような性質のものは悪しき半身の部分を生まれながら持っているのだということで、その悪しき霊をなだめ和らげるために、人々は動物たちを大切に扱い、さらには奉仕しているのでしょう※。(P127)



※訳注でこれはエジプトの犠牲獣観ではないと説明されている。プルタルコスがどこかで聞いた見解なのであろうか。





 ケルトのケルヌンノスとシヴァ神とディオニュソス神とオシリス神の特長をそれぞれ抜き出して見ると共通点が多いのが分かる。しかしここからこれらの神の源が一つであるとし、地域的伝播の歴史として考察しても無駄というものだ。むしろこの類似は、様々な神話の体系に於ける必要な項の共通性なのだと考える方がより合理的である。イギリスやエジプトやギリシアやインドで同じ太陽を見れば、どれほど文化的背景が異なろうと同じような記述に出くわすのは当然であり、神話という名の神殿を立てる際も必要な柱の数は、その構造上イギリスであれエジプトであれギリシアであれインドであれまた日本であれ、同一の重力が働く場所では同じである。我々はこれらの神々の類似から同一性を結論付けえぬにせよ、より精緻に分析するならばその種々様々な神話の構造における相同性を証明するのは、それほど困難ではないと推論するものである。しかしそれは私の任ではないので、これらの神々の類似の確認で今は満足することにする。