白看採集帳

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日々何気なく利用する道路に、ときどき古い標識が残っていたりします。
このブログでは「白看(しろかん)」と呼ばれる昭和25年から46年まで制定・設置されていた行き先を示す標識(「案内標識」)を中心に、道路上の特異点をぼちぼちとご紹介していきます。

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20080413鹿児島県鹿児島市にて採集

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◯105変「生見駅」(単柱式・両面表示)

◯設置されている道路
国道226号線(指宿枕崎線生見駅前)

◯概要
汚い白看だ。記憶によるとこの何日か前に桜島が噴火して、大量の灰が降ったんだった。
ただ汚さはそれとして、この白看の作り自体は新しいもの。
裏面もこのサイズの白看の古いタイプの「キ」型ではなく、「二」型です。
ただ真性105でなくて、105の変種なのは、矢印の「羽根」がないことと、「駅」の英語表記が
「STN.」でなく「STATION」になっているところです。参考までに真性105を下に貼っておきましょう。
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◯考察
こちら鹿児島市内方面を向いて
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こちらは指宿方面を向いて
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設置されている国道226号線は1953(昭和28)年5月に二級国道226号枕崎指宿鹿児島線として制定。1993(平成5)年に起点が加世田市(現南さつま市)になった以外は大きな変更もなく居間に至っています。また生見駅は1934(昭和9)年12月に指宿枕崎線の開業により開設されました。

この白看自体はいつ頃設置されたものでしょうか。国土変遷アーカイブで何かわかるでしょうか。
・1972(昭和47)年5月の写真(流石に地形も道路もほとんど変わっていないので判別不可能でした。)
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・場所はこちら

20120617福島県鮫川村にて採集
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◯103-B「赤坂東野/勿来」(オーバーハング式・鋼管柱吊り下げ・2点支持)

◯設置されている道路
国道289号旧道×福島県道242号赤坂東野塙線

◯概要
白看の撮影も一般の行楽と同様、天気がよければそれにこしたことはないのですが、
この日は大雨の中の撮影となりました。
福島県南東部、鮫川村にあるこちらの白看。福島県のオーバーハング式の白看はテーパーポールのやつはほとんどなくて、鋼管柱のものばかりのような気がします。以前ご紹介した矢祭町の元白看や、猪苗代の「R49白看」や、先日ようやく撮影してきた会津若松強清水の白看(下の写真)だって、鋼管柱です。地域的な規則性があるのでしょうか。
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この白看の盤面自体は完全に錆が回っていて、「茶看」と化しています。ただ、背面の口型の補強材を止めるビスは銀色に輝いており、この標識がしっかり管理されていることを表しています。
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◯考察
設置されている国道289号線は新潟市といわき市を結ぶ国道で、1970(昭和45年)4月に制定。いわき市は1966(昭和41)年10月に出来たので、もし国道制定後の設置だとしたら、下段の方面表示は「いわき」になっていたかもしれません。が、いわき市はあまりにも広く、おそらく市政施行後も「勿来」の表記は使われていたのでしょう。また上段の「赤坂東野」は県道242号を経て至る鮫川村の中心街の大字名になります。

では設置はいつごろでしょうか国土変遷アーカイブで見てみましょう。ってあらら…1970年と1975年の写真しかない。。

・1975(昭和50年)11月(今の線形とほとんど同じ。国道289号はすでに旧道化しており、赤坂東野へ至る県道は旧道から分かれ、バイパスと交差し、北へ向かう。)
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・1970(昭和45年)10月(国道制定直後。勿来方面のみバイパスが完成している。)
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ということで、おそらく勿来方面の新道完成した、おそらくは国道制定前後にこの白看は設置されたものと思われます。

・現在の姿はこちら
20120827京都府京都市左京区にて撮影
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◯103-B変「平安神宮/黒谷」(単柱式)

◯設置されている道路
京都市道187号鹿ヶ谷嵐山線(丸太町通)×京都市道(岡崎通)

◯概要
平安神宮の近くにある“一風変わった”白看。
一目見てわかるように目的地までのキロ程がないところが特徴なのですが…

裏面はこちら、前回ご紹介した徳島県星越峠の白看のように
補強材なしの鉄板一枚ものです。これもかなり古いものかもしれません。
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ちなみに「平安神宮」は平安遷都1100年を記念して、1895(明治28)年に第50代桓武天皇を最新として創建された神社です。一方「黒谷」は英語表記が「KURODANI TEMPLE」となっていますが、こちらは金戒光明寺のこと。通称寺名を「くろ谷さん」と予備、知恩院と並ぶ浄土宗の大本山とのこと。お寺のURLも「 kurodani.jp 」である。

◯考察
そしてこの白看をじっくり観察していると、支柱にあるレリーフを発見しました。
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これは一体何でしょうか。
現場ではよくわからなかったのですが、帰宅して写真をよく見るとほどなくして
こんな字が浮かび上がりました。
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そしてgoogle先生にLIONS international と打ち込んでみると…
(まぁ、この時点で気づくべきなのですが。)
こういう結果が出ました。がおー
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そうです。ライオンズクラブのシンボルですね。
なんでも1920年以来使われているものとか。
観光客の多い京都のこと、その利便性を図るために地元のライオンズクラブが
当時の標準規格だったデザインを流用して作ったものではないでしょうか。


国土変遷アーカイブではこんな感じ。1975(昭和50)年1月の周辺の様子です。
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・場所はこちら
20120812徳島県美波町にて撮影
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◯104「徳島/福井」(単柱式)

◯設置されている道路
国道55号線旧道(星越峠・旧日和佐町側)

◯概要
未舗装(簡易舗装)の旧峠にひっそり設置されている白看。特筆すべきはこちら。
・「徳島」の「徳」のフォント。旧字体の「德」になっています。
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・また裏面も大変珍しいものでした。
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なんと補強材なしの一面の鉄板。このサイズの白看の裏面のほとんどが二条の補強材が入っている中、これはもしかして白看として非常に古いタイプのものかも知れません。他に私が知っている例は町田市井の花の白看しかありません。

また、峠にはこの白看と同じ鉄製のポールが二本ありました。市町村境を示す101だったのかもしれません。

◯考察
この白看が設置されているのは国道55号線の旧道。標高210mの星越峠。
1953(昭和28)年5月、二級国道194号「高知徳島線」と制定。10年後、1963(昭和38)年4月、一級国道55号に昇格という歴史を持つ。また現道の星越峠は1971年(昭和46)3月に改良がなされ、全長230mの星越トンネルで抜けるようになった。

また、目的地にある「福井」は、阿南市南部にある町名。行政区域としては1955(昭和30)年3月まで那賀郡福井村だった。その後周辺町村と合併し、橘町へ、そして1958(昭和33)年5月に富岡町と合併し、市制施行、阿南市が発足した。

というわけで、この白看が設置された当時は「阿南」という地名はこの世に存在しなかったのかもしれません。もし福井村存在時だったらこの白看の設置は昭和30年以前のものかもしれません。

最後に国土変遷アーカイブを見ておきましょう。

・1963(昭和38年)5月(55号に昇格したばかり。星越峠への道がはっきりわかる)
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・1976(昭和51)年11月(既にバイパスが完成。旧道は木の陰に隠れているところも多くなっている)
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◯場所はこちら


◯全景はこちら
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※ちなみに星越峠の阿南市側はKDDIのアンテナがあるため、普通車でも進入可能。しかし峠の前後は道幅が狭くなっており、通り抜けはかなり難しいと思われます。

◯おまけ
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阿南市側には206「右つづら折りあり」が両面あわせになって存在しています。
20070910福岡県うきは市にて撮影(201208消滅確認
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◯103-B「久留米/杷木」(オーバーハング式・テーパーポール吊り下げ・2点支持)

◯設置されている道路
旧国道210号線(現福岡県道106号朝田日田線)×福岡県道52号八女香春線

◯概要
この白看も「昔の自分を悔やむ」物件。いつか再撮影すればいいや(実家からも近いし…)と思っていたら、いつの間にか撤去されていました。2007年当時の自分は、まだそれほど白看に執着していなかったため、写真も1枚しか撮っていません。

さて、後悔の念を連ねても仕方がないので、写真から考察することにします。何と言っても特徴は白看らしい“誤記”です。下段の地名「杷木」は「はき」と読むのですが、アルファベット表記が「HAGI」になっています。心配になって調べてみましたが、明治22年4月の村制以降、読みは「はき」のようです。白看のアルファベットには誤記されてるものがいくつか見られるのですが、当時はそれほど誰もがアルファベットの表記を出来るということはなかったのでしょうか。

また杷木の「杷」の字の木偏も特徴的なタイポグラフィーです。

◯考察
ポイントはこの白看が210号線の旧道に設置されてある、というところです。
現在の「浮羽庁舎前」交差点から日田側の浮羽町山北(出光のガソリンスタンドがあるところ)までは、現道よりも幾分か南を旧道は走っています。少なくとも新道への切り替え以前に白看は設置されているはずです。
また国道210号は1953(昭和28)年5月に二級国道210号久留米別府線として指定され、1965(昭和40)年4月に一般国道210号線となっています。

それでは、国土変遷アーカイブで新道切り替えの時期を考察してみましょう。

・1976(昭和51)年9月(交差道路の様子は現在とほとんど変わらない)
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・1967(昭和42)年4月(上記写真の10年ほど前。交差道路の様子はほとんど変化がない)
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・1965(昭和40)年6月(一般国道になった頃。2年後の写真と比べると新道の沿道に家屋などがあまり見られない。写真の画質が悪いが、やけに新道が白っぽいのは工事中だからかもしれない。)
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・1962年(昭和38)11月(新道は存在しない。)
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☆というわけで、この白看が設置されたのは国道制定後の1953(昭和28)年から新道開通前の1965(昭和40)年頃の間と推測されます。

設置されていた場所はこちら↓


◯1枚しかない引きの写真はこちら(街灯が重なるように設置されていた:もしかして夜間の照明の代わりにしていたのかもしれない)
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20120614神奈川県藤沢市にて撮影
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◯種類
103-C「横浜」(オーバーハング式・テーパーポール吊り下げ・2点支持)

◯設置されている道路
神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線(湘南新道)

◯概要
今回は神奈川県藤沢市、藤沢警察署の目の前にある白看のご紹介です。
現道に設置された103-Cのテーパーポール吊り下げタイプです。
よく見ると「横浜」の「浜」の字が独特のタイポグラフィーで白看らしさを感じさせます。
背面はこちら↓
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大型白看の背面に特徴的な「口型」の梁材です。
またよく見ると…

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「藤 土 105-(C)」と表記のシールが貼ってあります。
「藤土」は「藤沢土木事務所」、105-Cはこの標識の種別番号です。
この記事のタイトルは103-Cなのに、何故105-Cという表記がなされているかは、案内標識全体の歴史に関わるお話しになります。
昭和35年12月の「道路標識区画線及び道路標示に関する命令」(旧道路標識令)の制定時のコードは103-Cだったのですが、昭和38年7月の第3回改正(高速道路に関する標識の追加)の際、103は「(高速道路の)入口の方向」を示す標識に割り当てられ、旧103-Cは105-Cに変更になりました。詳しくはこちらをご覧下さい。

ちなみにこの白看は支柱に管理票が貼られてあり、しっかり神奈川県によって管理されているようです。
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◯考察
前述の通り、標識コードが105-Cであるために昭和38年7月以降に設置されたのは確かなようです。
またこの神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線は1961(昭和36)年5月で、この白看が設置されている場所を含む、藤沢橋交差点~浜見山交差点の開通をもって県道制定されています。

◯全景はこちら
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国土変遷アーカイブ
・1961(昭和36)年8月(白看のある県道は3ヶ月前に開通したばかり)
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・1963(昭和38)年6月(R134の松波方面に抜ける交差道路が工事中)
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・1964(昭和39)年7月(交差道路はほぼ完成している=白看設置もやはりこの頃か?また、藤沢警察署は現在の場所に、この年の4月に移転している)
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・場所はこちら




20080617島根県益田市にて撮影

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◯種類
101「益田市」102「島根県」(複柱式)

◯設置されている道路
国道191号線旧道「仏峠」

◯概要
ここは島根県益田市と山口県萩市の県境、仏峠というところです。
車道側の盤面がかなりへこんだり曲がったりしています。往来激しかった頃、トラックにでもぶつけられたのでしょう。
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一般的に設置者を示す都道府県名の表示は、複柱式なら片方のポールに貼られてあるのが普通ですが、今回の物件は両方にあるのが特徴です。右側のポール「島根県」と書かれた上部にも
何か貼られていた痕跡がありますが、当時は白看の写真をしつこく撮るようなことはしなかったため、現時点ではよくわかりません。管理票みたいなものが付いていたのでしょうか。
また盤面が広く、フォントがはっきりとした丸ゴシックなので、設置は白看末期なのではないかと思われます。

◯考察
設置されている道路は山口県下関市と広島県広島市を結ぶ国道191号線。
1953(昭和28)年5月に二級国道191号下関益田線として制定。1970(昭和45)年4月に益田市から広島市の区間が国道昇格しています。
現在、この白看が立つ仏峠の区間は、1974(昭和49)年に竣工した田万川トンネルにて
バイパスされています。
なお、萩市側は現行標識です。それは2005(平成17)年3月に近隣の1市1町4村と合併し、
新設の萩市となったからです。合併以前はどうだったのでしょうか。

国土変遷アーカイブ
・1964(昭和39)年(仏峠の道がはっきり見える)
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・1976(昭和51)年(田万川トンネル開通後。周囲の林の成長か、仏峠の旧道は見え辛くなっている)
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・場所はこちら


◯全景はこちら(車道の幅の狭隘さに注目)
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20070726鹿児島県さつま町にて撮影

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◯種類
103-B「さつま市街(宮之城?)/紫尾」(オーバーハング式/テーパーポール吊り下げ/2点支持)

◯設置されている道路
鹿児島県道397号鶴田定之段線

◯概要
山中の片道一車線の道路に不釣り合いなテーパーポール吊り下げのこの白看。
写真でも分かる通り、上部は木の葉っぱで覆われており状態は非常に良好。
ちなみに裏面の梁材は「口型」です(写真は撮っていないけれど)。
白さが際立っています。ただ、残念なのは上段の表示が「さつま市街」に修正されているところ。
おそらく修正前は「宮之城」だったと思われます。宮之城町は周辺の薩摩町、鶴田町と対等合併し、
2005(平成17)年3月に発足しました。ただ取り付け直すのではなく、白看を修正し、
使用してくれていることだけでも感謝したいところです。
ちなみに下段の「紫尾」は「しび」と読み、旧宮之城町北部の地区名。
温泉があり、秋には温泉に付けて柿の渋みを取る「あおし柿」が有名です。

◯考察
この白看がある場所のすぐ北側にあるさつま町と出水市の境には紫尾峠という
標高495mの峠があります。現在は1974(昭和49)年に竣工した紫尾トンネルで貫いていますが、
それまではこの白看がある鹿児島県道397号鶴田定之段線が旧国道328号線でした。
国道328号線はもと主要地方道鹿児島水俣線で、1970(昭和45)年4月に国道に昇格。

現在、この白看の表示に従えば、「さつま市街」方面は現在町道(=旧国道328号線)、
「紫尾」方面が県道397号です。鹿児島県道397号線は、1958(昭和33)年11月に路線認定
(鶴田紫尾線として)、1979(昭和54)年4月に区間変更されていますので、
このタイミングで紫尾峠の区間は県道に降格したものと思われます。トンネルの完成と
時差がありますが、おそらくこの区間の改良がすべて完成したタイミングに合わせたのでしょう。


国土変遷アーカイブ
・1968(昭和43)年(双方の道ともにぐねぐね)
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・1973(昭和48)年(国道328号線制定後。ぐねぐねの解消のために紫尾トンネルを含むバイパスを建設中)
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◯場所はこちら


◯全景はこちら(中途半端な写真しかない…)
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20120513東京都羽村市・福生市境にて撮影

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◯種類
101「羽村町」(単柱式)

◯設置されている道路
東京都道29号立川青梅線(奥多摩街道)

◯概要
白看オブ白看。真っ白です。文字と枠の部分の青色の塗料はすっかりはげ落ち、
あぶり出しのように「羽村町 HAMURA T.」という文字が見えます。
裏面は平リブ2本の「二型」です。下側のリブには東京都の管理シールが貼られています。
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またポール自体にも「東京都」の表示があります。
ポールの材質からしても前回紹介した「箕面市」より新しそうです。
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◯考察
さて、この白看、特筆すべきは「旧市町村名のまま残存している」ことです。
旧羽村町は1956(昭和31)年10月に西多摩郡西多摩村が町政を施行して発足、
1991(平成3年)11月に市制施行して現在の羽村市になりました。
ということは、市制の時点では新型の標識はなく、市制後に切り替えが行われたものと思われます。
ちなみに現状はこちら。新型と旧型の白看が仲良く並んでいます。
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それではなぜ「羽村町」の旧型標識が残ることになったのでしょうか。
…と書いてはみたのですが、あくまで推測の域を出ませんし、事実はわかりません。

前述の通り、市制まではここには新型の「羽村町」の案内標識は設置されず、もっぱら
この白看がその任を背負っていたはずです。僕の記憶でも平成の初め頃まではかなり多くの
白看が残っていたような気がします。そして市制施行した後も、東京都の管理下にあったがゆえに
見逃され?撤去を免れたのではないでしょうか。
いずれにせよ、市制がごく最近だったことが残置の理由の一つのような気がします。
ちなみに福生市側は現行標識で、こちらは1970(昭和45年)7月に市制施行しています。

◯全景はこちら↓
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◯場所はこちら↓