いカシンです。これは、アタシ (50代・男) が、思い至ったことを書くブログです。
前回は「家族愛は後天的に学習できる」ということを書きました。その前には、手段が目的と一致しなくなってることが世の中にたくさんある。自己成就予言みたいになってることが多い。常識を疑うことが必要なんじゃないだろうか。といったことを書いてました。
「常識を疑う」は、以前書いた「~は嘘」シリーズの続きでもあります。
今回、これを書き始めたのは、とても「非常識」なことが書きたくなったから、そのまえふりです。
何が言いたいかというと。
「生んだ者、生ませた者の責任」についてです。
以前、「結婚したら、男は財産権を失う (夫の給料は妻が全部持ってく) くらいがちょうどいいんじゃないか」ということを書きました。
「やり逃げは許さない」ということでもあったんですが。
その後、いろいろ考えるに。
生まれた子供に落ち度はない。どの子供も等しく十分に育てられるべきだ、というところは多くの人に合意いただけると思います。
ところが、現実は、「子供を育てるのは生んだ親の責任」ということになっている。
そこに、生んだ親が子供を育てることができるかどうかは考慮されてない。
いや、考慮されてはいるんですけど、十分には考慮されてない。生きてれば誰でも子育てはできる前提になってて。その補助程度にしか社会的な子育ての仕組みは用意されてない。特に、子育ての意思のない者でも、強制すれば子育てはできる、が前提になってます。
- 子供は育てる必要がある → 生んだ親が、十分な子育てをしないといけない
だったはずが
- 十分な子育ては親の責任 → それでほんとうに十分かは、社会は感知しない
になってしまっている。
前に書いた、手段と目的が一致しなくなってる、手段が独り歩きして目的が達成できない事態になっていて。
「目的を達成するにはどうするか」まで戻って考える必要があるようにアタシには思えます。
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例えば、子育てのうち、教育に関しては。かなり社会的資源をあててます。
大人になるまでには教育が必要で、これには学校が必要、というのは常識になりました (たぶん、せいぜいこの200年くらいの間に)。
画一的な学校制度の問題が表面化した今でも、学校はいらない。全部家庭学習でいい、っていう人はあまりいません。子供の教育はそう簡単じゃない。専門家が関わる仕組みが必要だと多くの人は考えているはずです。
で、世の中の一生懸命、真剣に子育てをしている大勢の親たちに向かってこんなことを言うのは苦しいのですが。
「子育て」全般も、こんなに大切なことを素人の手探りにまかせちゃってていいんでしょうか。
- 子育ては生んだ親の責任 → 保育に欠ける子供は社会が援助する
じゃなくて
- 社会的な子育ての仕組みを用意する → 余裕のある親の子育てはオプション
が、子供を大切に育てるのに必要な順番なんじゃないでしょうか。
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現状では特に
- 生んだ親は責任を取らされるが、生ませた親の責任は軽い
- 社会的な子育ては歴史的にはあまりうまくいったためしがない
といったことも、考えに入れないといけないかとは思います。
つづく
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お読みくださりありがとうございます。