こんばんは!
前回の続きで宇治をぶらぶらしています。
宇治抹茶ソフトを頂きました。
宇治抹茶たこ焼きと宇治抹茶餃子もありました。どんな味やねん。
夢浮橋ひろば
「源氏物語」は11世紀初めころ作られた長編小説です。 作者は藤原彰子に仕えていた女房紫式部であると伝えられています。
物語は全部で54帖(巻)からなります。このうち最後の10帖は、光源氏の息子薫や孫の匂宮と宇治に住む三姉妹との実らぬ恋の物語で、特に「宇治十帖」と呼びます。
物語は全部で54帖(巻)からなります。このうち最後の10帖は、光源氏の息子薫や孫の匂宮と宇治に住む三姉妹との実らぬ恋の物語で、特に「宇治十帖」と呼びます。
「橋姫」ではじまり、「夢浮橋」でおわる「宇治十帖」には、朝霧にけむる宇治川の流れが不可欠でした。
「源氏物語」は実話ではありませんが、いつの頃からか、物語の舞台はここであってほしいという人々の思いによって、宇治川周辺に宇治十帖の古跡が作られました。いま古跡を訪ねることで、遠く王朝文学の世界をしのぶことができます。
紫式部像
紫式部は『源氏物語』54帖の作者として知られる女流文学者。ここ宇治川の畔一帯に華やかな貴族文化の花が開いた王朝時代に登場した才女とは知られていても、その生涯には謎が多く、生・没年さえ正確にはわかっていない。999年頃 藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結ばれたが、宣孝の死後は寡婦(かふ)生活の日を送り、『源氏物語』の執筆はこの頃から始められたらしい。
やがて今をときめく左大臣藤原道長から、一条天皇の中宮になった娘の彰子の女房として仕えるようにと召し出され、宮仕えの身となる。
『源氏物語』が当時の宮廷社会の実情をリアルに描写し、因果応報の人生観を有する人間性を追求した長編にまとめられているのは、紫式部自身の境遇によるものであろうと思われる。
紫式部には、女房として宮仕えをしていたころの生活を綴った『紫式部日記』(1008秋~1010春)や、歌人としての非凡な才能が知られる『紫式部集』があり、当時の公家のようすを伝える貴重な遺作となっている。
やがて今をときめく左大臣藤原道長から、一条天皇の中宮になった娘の彰子の女房として仕えるようにと召し出され、宮仕えの身となる。
『源氏物語』が当時の宮廷社会の実情をリアルに描写し、因果応報の人生観を有する人間性を追求した長編にまとめられているのは、紫式部自身の境遇によるものであろうと思われる。
紫式部には、女房として宮仕えをしていたころの生活を綴った『紫式部日記』(1008秋~1010春)や、歌人としての非凡な才能が知られる『紫式部集』があり、当時の公家のようすを伝える貴重な遺作となっている。
宇治橋
ここは、宇治橋の三の間と呼ばれ、豊臣秀吉が茶の湯の水を汲ませた場所と伝えられています。
こちらは、宇治川太閤堤跡(たいこうつつみあと)
太閤堤は、文禄3(1954)年、豊臣秀吉によって宇治川に築かれた堤防の総称です。
浜の茶園
この辺りは、上流からの砂がたまりやすく、中洲が発達していました。砂地は水はけがよく、茶園の適地となりました。
石積み護岸
使用されている石材は、宇治川太閤堤跡全てを通して頁岩(けつがん)粘板岩(ねんばんがん)であり、宇治川上流から採集されていたものと考えられます。
皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
日本書紀に「応神天皇の皇子で、兄である仁徳天皇との皇位を巡る葛藤から宇治で自殺した」と記されている、悲運の皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)のお墓です。
ではでは!