トヨタ産業技術記念館 自動車館③ | Z ライフ

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トヨタ産業技術記念館の続きです。

豊田喜一郎とは、


生誕から学生時代まで
豊田喜一郎は、1894年6月11日、静岡県敷知郡吉津村(現在の湖西市)で自動織機を発明した豊田佐吉の長男として誕生しました。この地方は機織りを副業とする農家が多く、綿業にゆかりが深い土地柄でした。
父佐吉の動力織機の発明はわが国の織布業の発展に大いに寄与したのでした。
佐吉は発明を通じてわが国の産業や生活に役立ちたいという信念を掲げ、国内外で多くの特許権を取得しました。幼少期を名古屋で過ごした喜一郎は、父の工場が遊び場となり、モノづくりを見ながら成長しました。この経験が、のちの彼のモノづくりの姿勢「現地現物主義」につながっていきます。

仙台の旧制第二高等学校から東京帝国大学工学部機械工学科に進学した喜一郎は、この時代に、自動車製造の夢の実現に協力してくれる生涯の友人たちを得ることになります。

日露戦争後の1908年、米国で量産車の先駆け「T型フォード」の生産が始まり、第一次世界大戦(1914~1919)の頃、わが国でも自動車工業の黎明期(れいめいき)を迎えようとしていました。

紡織機の研究開発へ 
喜一郎は、1920年に東京帝国大学を卒業し、豊田紡織(株)に入社します。父佐吉の事業に協力しながら、若きエンジニアとして紡績機械や織機の研究開発に取り組みます。翌年、初の欧米視察に出発し、英国・プラット社で紡績機械の製法などの研修を受けました。この時、彼は、欧米での自動車の普及ぶりに驚き、工業や「経済力の違いを思い知らされたのでした。

帰国後、関東大震災が発生し、復興の足として外国車が活躍しました。これを機に、フォード、GM社はわが国で生産を開始します。一方、喜一郎も加わり研究開発されていた画期的な「無停止杼換式豊田自動織機(G型)」が、1924年に完成しました。本格的な生産のため、1926年、(株)豊田自動織機製作所が設立され、喜一郎は常務取締役技師長に就任します。喜一郎は、最新型の電気炉や高度な工作機械を次々と導入し、生産ラインにもコンベアシステムを取り入れ、将来の自動車事業進出への布石も打っていったのです。当時の不況下でも「G型自動織機」の販売は好調でした。

自動車研究に着手
G型自動織機は海外でも評価が高く、1929年、喜一郎はプラット社との特許権交渉のため、2回目の欧米視察に出発します。その際、欧米の自動車事情や工場を精力的に見て回り、わが国の自動車工業の必要性を改めて実感するのでした。

1929年の世界恐慌は、日本の経済も底なしの不況に陥れました。翌年には佐吉が死去し、従業員の士気も下がっていました。
そこで喜一郎は、プラット社からの特許権譲渡代金の一部を発明関係者と関連企業の従業員に支払うことにしました。

喜一郎は先頭に立って研究を進め、ハイドラフト精紡機の開発に全力をあげました。これは同時に自動車製造への本格進出に備えた経営基盤の確立の過程でもありました。若い技術者たちを積極的に採用し、1930年、小型ガソリンエンジンの試作にも挑戦しました。「中京デトロイト化計画」など国産自動車工業確立の声が高まる中、喜一郎も自動車事業に着手します。学友たちの協力のもと、自動車の開発コンセプトを固めていった のです。

自動車事業参入への足がかり
1933年、喜一郎は自動車事業構想を社長の豊田利三郎に打ち明け、同年9月、自動車事業進出が正式に決定します。社内から人材を集め、メカニズムを学ぶために1933年型シボレーの分解調査を始めました。経験者を招聘し、一流学者らの協力も仰ぎました。材料を最も重視した喜一郎は、1934年、試作工場とともに、大学研究室に匹敵する材料試験室を設置します。さらに、高品質な自動車用特殊鋼を安定供給するために自ら製鋼所をつくり、その開発も進めました。

最も重要なエンジンはシボレーを参考にしましたが、精密な鋳造技術が必要なシリンダブロックは困難を極め、1935年、ようやく試作乗用車(A1型)が完成しました。ここで喜一郎は、国からの要請でG1型トラックの開発を先行し、販売にこぎつけます。しかし故障が多く、アフターサービスと品質改善の重要性を痛感します。改良を加えたAA型乗用車の生産を翌年から開始し、同年、(株)豊田自動織機製作所は、国から「自動車製造事業法」の許可会社に指定されました。











トヨダからトヨタへ
トヨダ車販売の本格化に伴い、宣伝効果を狙って新しいトヨダマークを一般募集した。
1936年10月に下記の理由によりトヨダの濁点を取り去り、トヨタマークが選ばれた。
・濁点がないほうが音も見た目もスッキリする。
・企業の公共性を考えると個人名から抜け出したものの方が良い
・トヨタは画数が八画で八は末広がりで縁起が良い


トヨタ自動車工業の設立と挙母工場の立ち上げ
自動車製造許可会社に指定され、喜一郎は新工場建設に向けて動き出します。フォードやシボレーに対抗するには月産2000台規模の工場が必要でした。愛知県挙母町(現在の豊田市)に用地を取得していましたが、工場建設は(株)豊田自動織機製作所の資金調達力を超えるため、自動車部を独立させ、1937年、トヨタ自動車工業(株)を設立しました。喜一郎は新会社の職能別専門化を進め、監査改良と研究を重視した経営体制を固め、一流学者や専門家を迎えました。1938年、自動車一貫生産の挙母工場が完成すると、提唱していた「ジャスト・イン・タイム」の在庫を持たない生産管理方式を試みます。喜一郎のモノづくりの夢は広がり、挙母工場の次は航空機研究室の建設に着手しました。次第に軍の許可がないと乗用車は作れなくなり、トラック中心の開発・生産という不本意な状況が続きました。喜一郎が社長に就任した1941年には自動車の価格も統制を受けます。1944年には軍需会社に指定され、経営権も奪われました。そして1945年、終戦の日を迎えました。



戦後の復興期における事業再建
戦後、喜一郎たちは事業の復興と再建に立ち上がります。自動車生産が禁止されても従業員の生活を守るため、まずは衣食住にかかわる新規事業を構想しました。しかし、GHQが復興に必要なトラック製造や台数限定で乗用車製造を許可すると、トラックや小型乗用車(SA型)の生産を開始します。
乗り心地を向上させた小型トラック(SB型)は市場で好評を博し、これら小型車の愛称は公募で「トヨペット」と命名されました。また、喜一郎の販売店を重視した経営姿勢は多くの賛同を得て、トヨタ販売店網の再編成が加速しました。しかし1949年実施の財政金融引締政策の影響は大きく、資金が底をつき、最大の経営危機に陥ります。喜一郎は自ら社長を辞任し、新経営陣へ引き継ぎました。ところが2か月後「朝鮮特需」 で業績は急速に回復したのです。やがて社長復帰が内定した矢先、1952年3月27日、喜一郎は57歳で急逝してしまいます。そして1955年、喜一郎の志を継承した者たちにより、本格的な国産乗用車「トヨペット・クラウン」が誕生しました。

発明は努力の賜(たまもの)である

G1型トラックの開発
乗用車の試作に取りかかっているさなか、政府から国策上の理由により トラック製造の要望があり、喜一郎は急遽トラックの先行生産を決意した。
1935年3月にフォードやシボレーのトラックを参考にして設計を開始。 エンジンは乗用車用A型エンジンを用い、間に合わない部品については、フォード、シボレーなどの市販の補給部品を利用し、同年8月に試作第1号が完成した。

発表会の開催
1935年11月21・22日の両日、「東京自動車ホテル芝浦ガレージ」でG1 型トラックの発表会を開催することになった。発表用の車両は、11月20日午前5時に刈谷を出発したが、途中でステアリングサードアームが折損する故障が発生したため、修理に時間が取られ、芝浦の会場には発表当日の 21日の午前4時に到着した。

販売開始
1935年12月8日、日の出モータース株式会社(現愛知トヨタ自動車株式 会社)が「国産トヨダ号」としてG1型トラックの発表会を開催し、ボデー付名古屋渡し価格3,200円で販売を開始した。日の出モータースは、同年11月にGM系自動車の販売権を返上し、豊田自動織機製作所製自動車の販売に転向したトヨタ販売店第1号である。


トヨタ産業技術記念館は、まだまだ続きます。


ではでは