こんばんは!
日本平の次は、愛知県の岡崎市にある、岡崎城に来ました。
空堀
本丸周辺の縄張り
岡崎城は河岸段丘(かがんだんきゅう)の先端に本丸を配置し、段丘が地続きとなる本丸北側には深い空堀がつくられ、何重もの曲輪(くるわ)を造り出しています。二の丸から持仏堂曲輪(じぶつどうくるわ)に入り二重に折れ曲がった先の狭い通路には絶えず本丸からの横矢が掛かる仕組みになっています。
岡崎城の本丸周辺の厳重な守りは、戦国時代の松平清康(生没1511-1535年・徳川家康の祖父)の改修を引き継ぎ、家康が築いたものです。
本丸周辺の石垣
徳川家康が1590年に関東に移封するまでの岡崎城は、空堀と土塁を巧みに配置した堅固な「土造りの城」でした。家康の関東移封後に豊臣大名の田中吉政が城主(在城1590-1600年)になって以降、天守台や本丸周辺の堀や門に石垣が築かれていきます。江戸時代前期には譜代大名の本多氏によって長大な菅生川端石垣(すごうかわばたいしがき)が築かれるなど、城全体を石垣で築き上げる近世城郭へと発展していきました。現在も本丸周辺には多様な石垣の積み方や、 曲輪の形状に合わせた湾曲する特異な石垣を見ることができます。
石垣は最も古い段階には自然石をそのまま使用して積まれますが、次第に自然石を割った割石が使用されるようになります。さらに新しい時代には割石の形を整え、表面を平滑に加工した石材を使用する石垣へと発展していきます。また意匠を凝らした「みせる石垣」として、大きな鏡石(天守台石垣東・北面)や隙間なく積み上げられた切石積み(本丸大手門脇石垣)も見られます。
なお、石垣の石材にはほぼ全て花崗岩が使用されています。花崗岩は岡崎城に最も近いところでは、本丸から北東に約1kmの甲山(六供町)で産出するほか稲熊町の丘陵地でも豊富に産出します。
岡崎城の歴史
岡崎城の本丸は北東の甲山から延びる丘陵先端の「龍頭山(りゅうとうざん)」に立地します。菅生川に面した地形を利用し、15世紀中頃に西郷頼嗣(さいごうよりつぐ)がこの地に初めて砦を築いたのが岡崎城の始まりとされます。
16世紀前半には松平(徳川)氏の本拠となり、天文11年(1542)には城内で徳川家康が誕生します。家康は永禄3年(1560)から元亀元年(1570)に浜松城へ移転するまでの間、岡崎城を本拠としました。その後も天正18年(1590)に関東移封になるまで岡崎城は徳川氏の重要な城でした。
天正18年に豊臣大名の田中吉政が城主になると天守が建てられ、堀や土塁に石垣が築かれるなどの大規模な城郭整備が行われます。これを基盤に江戸時代にも城郭や城下町の整備が引き継がれ、17世紀中頃に岡崎城は完成をみます。
明治6年(1873)の廃城令により天守を含む建物が取壊しを受けますが、明治10年には城跡の一部が岡崎公園となります。昭和34年(1959)に天守が復興され、昭和37年には岡崎市指定史跡となりました。
岡崎城は城と城下町を堀や土塁で囲む「総構え」の城でした。総構えの堀を「総堀」といい、田中吉政が初めて造ったことから「田中堀」とも呼ばれます。総構えの範囲は東西約1.5km、南北約1.0kmにも及び、国内屈指の規模を誇る大城郭でした。総構え内には東海道が通り、屈曲の多さから「二十七曲り」とよばれ沿道に城下町が発展しました。
本丸北側に位置し、本丸と持仏堂曲輪を隔てる堀です。岡崎城の最初の築城者である西郷頼嗣(さいごうよりつぐ)の法名「清海入道」に因み名付けられました。
この後は、いよいよ岡崎城に入ります。
ではでは!