さかい利晶の杜 | Z ライフ

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こんばんは


前回の続きで、さかい利晶の杜 に行きました。



さかい利晶の杜(さかいりしょうのもり)とは、千利休(せんのりきゅう)さんと与謝野晶子(よさのあきこ)さんの記念館です。

まず最初に行ったのは、VR体験で昔の堺にタイムトリップします。
昔の堺のまちをVRで体験出来ます。

堺のまちは、摂津と和泉の国境でもある長尾街道が海に接するところを中心に発展し、鎌倉時代以降、堺の港は政治経済上、重要な地になっていました。
1400年代後半の応仁・文明の乱の影響で明(現在の中国)から帰国する遣明船が兵庫に代わり堺に着くようになって以降、堺が遣明船の発着港となり、国際貿易港として交易が盛んになりました。

1500年代に種子島に伝来した鉄砲は、間もなく堺に伝わり、鉄砲の生産が堺の大きな軍需産業ともなりました。
天下人の織田信長は、堺の経済力に目をつけ軍資金を課しました。その後代官を置いて直接支配し、堺は信長の庇護のもと、ますます発展するようになりました。



千利休(せんのりきゅう)記念館に入ります。

今井宗久をはじめとする当時の堺の商人たちは、豊かな財力をもとに茶の湯を楽しみました。彼らは市中の屋敷にあたかも山奥の庵(いおり)を思わせるような、わびた茶室をつくり、それらは市中の山居(さんきょ)と呼ばれました。


1500年代、大坂夏の陣以前の堺のまちは、基盤のようなまちではなく、道や濠の向きは様々でした。堺のまちを防衛するためにまちをぐるりと囲む環濠が造られ、西側は海、他の三方には深い濠があり、水が満ちていました。

利休の茶室 再現
堺 今市(いまいち)屋敷

利休の茶室 再現
京都 聚楽(じゅらく)屋敷

利休の料理、菓子の再現


さかい利晶の杜のすぐ近くに千利休の屋敷跡があります。

さかい利晶の杜の2階からも見えます。



千利休はここまで、



次は、与謝野晶子(よさのあきこ)記念館です。

与謝野晶子は、明治11(1878)年の12月に現在の「さかい利晶の杜」の近くにあった和菓子商「駿河屋」の三女として生まれました。
幼女の頃から家事を手伝いながら古典やトルストイなどの文学作品に親しんでいました。やがて晶子はここまで後に夫となる与謝野鉄幹(よさのてっかん)が創刊した文芸雑誌「明星」に次々と作品を発表するようになり、明治34(1901)年に上京後鉄幹と結婚します。
晶子の活動は詩歌にとどまらず、「源氏物語」の現代語訳や社会問題、教育問題に関わる評論など、その表現の幅を広げ、多くのメッセージを発信し続けます。


与謝野晶子

晶子の書斎





駿河屋
駿河屋があった場所は、今は道になってしまってますが、さかい利晶の杜の近くです。





最後に、与謝野晶子探訪マップがあったので見たんですが、
びっくり👀‼️
私の出身校が地図に載ってるんですよ。
文学碑があることになってるんですが、そんなのなかったはずなんです。
たぶん、私が卒業したあとに出来てるんだと思います。


さかい利晶の杜はこの辺で、  





ではでは