私は以前からずっと、思考の根幹は語彙力にあると言い続けています。
物を考えるには、言葉が必要。
その言葉が無ければ、抽象的な思考もままならない。
そして、言語は思考の牢獄であり、言語に縛られた思考しかできない。
身体の思考というものもあると私は思っていますが、ここでは脳の思考の話だけにします。
身体の思考についてはまだうまく言葉に出来ていないので、またいつか書きます。
さてさて、思考は言語に縛られます。
ところが、感情も言語に縛られているのでは?と最近考えるようになりました。
例えば、「嬉しい」という感情。
「嬉しい」以外にどうやって表現しますか?
心が躍る、心が温まるとか、いろいろあるとは思いますが
心が躍る=嬉しい
なのかというと、決してそんなことはありませんよね。
こんな風に考えてみると、「嬉しい」が何なのかはあまりよく分からなくなってきます。
それでも、我々は嬉しいと分かるし
ひとたびこれが「嬉しい」になると、もう「嬉しい」以外ではなくなり固定化されます。
他の感情にしたって同じで、その言葉を知って初めて、ここの中に沸き起こる「何か」に意味を得られる。
だから、知らない言葉の感情は私たちは感じることが出来ない。
ワクワクする
と感じていたとしても、「ワクワクする」を知らなければ、その感情は「嬉しい」に統合されているかもしれません。
だから、様々な書物に触れ、いろいろな感覚を自分の中にある「何か」と照らし合わせて
その感情を自分の物としていくことが必要なのかもしれません。
なんかうまくまとめられない…。
またそのうちちゃんと考えて言語化します(笑)