無理なことは分かったうえでの話です。
実現不能だろ!とかいう批判はやめてください。
そんなことは分かったうえで書いています。
模索したいだけですので。
他言語を習得するとき、我々はどうしても母国語と対応させて覚えていきます。
けれども、私はこの方法がそもそも間違っているのでは?
と感じています。
アメリカに留学していたうちの卒業生が言っていたのですが
アメリカでエッセイを書くとき、はじめのうちは日本語を作ってから英語に変換していたそうです。
けれど、それでは遅いのである時から初めから英語で考えるようにしたと。
また、大学時代にアフリカ社会論という授業でこんな話を聞きました。
アフリカのナイジェリアでの話。
3人はイボ語、ヨルバ語、アカン語という三つの言語が話せる。
2人はイボ語、ヨルバ語が話せる。
1人はヨルバ語しか話せない。
というような子どもたちの集団が話をしている。
はじめのうちは、みんなヨルバ語で会話している。
ヨルバ語しか話せない子が、何かの事情で帰っていくと
イボ語で話し始める。
そして、アカン語だけが話せる子達だけになると、アカン語で話をする。
これが「はい、今からアカン語ね。」みたいなリセットが入ることなく、自然に切り替わっていくそうです。
そして、表現方法もその言語によった表現の仕方に切り替わるとか。
我々はどうしても変換してしまう。
けれども、その変換をするのがたぶん間違い。
使う言語によって、スイッチを切り替えるように、我々の脳もモードチェンジする。
上手く言えないのですが、そういう事なのではないかな?
と感じています。
使い言語の世界観や考え方をモードチェンジするような習得方法はないのでしょうか?
そのアフリカの子たちは、高い教育を受けているわけではなく、文字も書けないそうです。
だから、文字ではなく音声だけで言語を習得しているはずです。
我々は文字に依存してしまいますよね。
でも、赤ちゃんの頃は音声だけで言葉を覚えていきます。
ということは、文字に依存した覚え方も、きっと間違い。
深い思考や高度な内容の事柄は、文字を使った方がいいのだろうけれど
そうではないならば?
日常会話レベルでいいのなら?
たぶん、音声だけの方が有効です。
海外に行って、現地の人たちとのみ話をしていれば
自然にある程度使えるようになるといいますよね。
とすると、あえて文法的なこととかスペルなんかは無視して
ひたすらに音声だけで会話したりし続ける方が有効なんではないのかな?
と思います。
日常会話くらいがなんとなくわかってきてから文法やらスペルを身につける方が
自然な流れなのではないでしょうか?
と
こんなことを書きつつ、塾としてはどうすれば良いのか考え中。